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平安時代中期。京の粟田口三条のほとりに。三条に住んだので、名を三条小鍛冶宗近とい った。
ある日、この小鍛冶に後一条天皇(1016)から「守り刀を打て」との勅命がくだった。 小鍛冶、ことの重大さにいったんは辞退したが、ついに引き受けた。そしてその日から、 近くのお稲荷さんに立派な名刀が生まれるようにと一生一代の大仕事の大成えお折願した 満願に近い日だった。気高い若者が宗近の住まいをふらりと訪れた。 「立派な刀打ちになりたい。ぜひ私を合槌(あいづち)に使っていただけは住まいか」 しかるべき合槌を望んでいた宗近、即座に若者の申しでを受けると、いよいよ刀打ちに励 んだ。若者は大層じょうずに合槌を打った。やがて二人は見事な刀を打ち上げた。 「お前の合槌で見事な刀が打てた。ところで刀の名前を何と付けようかのう」 「小狐丸(こぎつねまる)とつけてはいかがでしょう。ぜひにお願いします」 若者は、こういうと、ふいとその姿を消してしまった。 お稲荷さんのキツネが刀打ちに化けてきたのであった。 左京区の三条通神宮道を東へ約五十メートル。来た北側に面して小さい赤い鳥居が目につ く赤い堀をたどって行くと、民家に囲まれ奥まった場所に神狐を祀る合槌稲荷があり。 「三日月宗近」は天下五剣と云われるほどの名刀で、今は国宝となり名刀小狐丸と共に有 名また祇園祭の長刀鉾の鉾頭に据えられる長刀も、宗近が娘の病気平癒を感謝して奉納さ れたものだと云われています。 神狐(しんこ)が合槌を打って名刀小狐丸を打ち上げたこの伝説は、能や、歌舞伎にも謡曲 「小鍛冶」舞踊に取り入れられ、舞台を飾っている。上演の際には、関係者は必ずこの合槌 稲荷に参拝する。 天下五剣 童子切安綱=源頼光__足利将軍家__豊臣秀吉__徳川家康__秀忠 __松平光長{東京国立博物館所蔵 国宝 太刀} 鬼丸国綱=北条時頼__新田義貞__足利尊氏__織田信長___豊臣秀吉__本阿弥 光徳__明治天皇{ 皇室御物 太刀} 三日月宗近=徳川家__{東京国立博物館所蔵 国宝 太刀} 大典太・光世作=足利家__秀吉__前田家 {前田育徳会(石川県立美術館) 国宝 太刀} 数珠丸恒次・古備前恒次作=日蓮上人 {兵庫県尼崎市本興寺所蔵 重要文化財 太刀} |
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粟田口には、鎌倉時代まで多くの刀匠(とうしょう)が住んでいたといわれる、三条通をはさんだ向かいに立つ粟田神社の境内には、三条小鍛冶宗近が住んでいた跡に建てられた鍛治神社がある |
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長保元年(999)11月7日、定子は第一皇子・敦康親王を産み落としますが、道長は愛娘・彰子の入内を 強行、更に翌年2月25日、彰子を中宮、定子を皇后とする前 代未聞の一帝二后の藤原家のこの世の春 この院内の小堂に、彰子に仕えた和泉式部が住んでいた、彼女は庭の一本の梅を大層愛情をそそいだ 和泉式部に付いては方つていましが、越前守大江雅致の娘。 はじめ和泉守橘道貞と結婚し、夫の官名 により和泉式部と呼ばれました一女少式部内侍(死亡)までもうけましたが。その後、道貞と別れて 冷泉天皇の皇子兄弟為尊親王、敦道親王と恋愛し、そのときの情熱的な恋愛体験を物語ったのが 『和泉式部集』『和泉式部日記』などです。両親王が亡くなった後、藤原道長の娘、一条天皇中宮彰子 に仕えました。その中で藤原道長の家司である藤原保昌と再婚、愛に生き、恋に生涯を終えた女性と 申しましょうか、平安期の女流歌人の第一人者で、歌もそれはそれは、燃えるような恋の歌がほとん どした。
この式部 が愛した梅が、寺の移転、時代の移り変わりをえて、謡曲「東北」の物語とともに、いまも ここに植えつがれているのです。 和泉式部がなくなって、何年かのちのことで御座いましようか・・・・・・・・・・・・ 諸国行脚の、一人の旅の僧が、たどりついたのが、東北院。僧が見事に咲いた梅を観ていると、女性 が現れ和泉式部が植えた「軒端の梅」と謂れを語り、我は梅の主と花の中に消えます。 僧は法華経を唱えていると、和泉式部が美しい姿で現れ昔の物語を話し舞を舞います。やがて別れを 告げて方丈に消え、僧は目覚めると梅の香が漂っていたという。 |
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当時、京都御所(法成寺)の北東側一帯に位置した ことから、「東北院」と呼ばれた、鴨川の氾濫(はんらん)などにより一条小川(上京区)に移築再建されたが更に中世の兵火によって幾度も類焼し、元禄五年(1692年)現在の地に移され、左京区、吉田・神楽岡(かぐらおか)の東側にある東北院にも、「軒端の梅」と呼ばれる古木の白梅が、ひっそりと一重の小さな花を、ほころばせ始め今日この頃鄙びた素朴な寺世阿弥の作と伝えられる謡曲「軒端の梅」は繁華は何処どこへやら冷たい風に花びらを散らしていた。 |
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伊東は醒ヶ井木津屋橋の近藤の妾宅に招かれ、ほろ酔い加減で帰る夜道を隊士に斬られた この場所で刺殺しされた。「伊東甲子太郎が、瀕死の重傷を負いながら、新撰組の追っ手から逃れてきて、本光寺の門前に有った門派石にもたれかかって、『王事に尽くさんが為に投げ出した命なれど、もはや命運尽きたるは残念至極。 新選賊!』と、言って絶命した。 慶応三年(1867)十一月十八日・享年32歳又三日前に坂本竜馬(32歳)が近江屋で刺客に襲われ絶命この知らせを聞いた伊藤一派は、直ちに駆け付けたが、待ち伏 せしていた新撰組数十名の隊士に襲われ、三名が斬られた・・・世にこれを「油小路七条の変 」新選組が京を去る一ヶ月 半前の出来事。 |
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