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周囲の壁がすべて壁画で飾られている点のほか、『月の間』にはいくつか変わった特徴があった。壁の
大部分は薄いベールで覆われており、それにブルーやピンクの間接照明が当てられていて、幻想的で落ち
着いた雰囲気を醸し出していた。家具や調度はなく、ただ大きなシュロ系の観葉植物の鉢が壁際に置いて
あるのみだった。他に装飾と呼べるものは、楕円形に縁取られた天井画と北側の壁の隅に設けられたニッ
チくらいのものであった。ニッチには以前は香炉が置いてあったが、煙りすぎるという理由から、今は
『至聖所』の方に移されていた。また天井には、バチカンのシスティーナ礼拝堂にあるミケランジェロの
『アダムの創造』のフレスコ画の複製品{レプリカ}が描き込まれていた。大地に横たわったアダムは右肘
を突き左手を前方に伸ばして神を求めていたが、その姿勢には真剣さはなく左の腕は力なくだらりとして
いた。それとは対照的に神の方は空中から身を前に乗り出し、懸命にアダムの左手を掴もうとしていた。
彼を助け起こそうというのだろうか。身を捩{よじ}るようにして神の手はアダムの手を求めていた。指先
が触れ合っているように見えるが、目を凝らしてよく見ると神とアダムの指先の間には僅か一センチほど
の隙間がある。そこに描かれているアダムはエデンの園のアダムではなく、人類を代表する者、あるいは
人類そのものの姿であるように恭司には思えた。どんなに科学が進歩しようと、神と人との間には常に埋
められない隙間があるからである。最後の一センチを埋めるものは信仰なのだと恭司は思っていた。
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