弓月城太郎の『神秘体験』

皆様のお陰で連載を無事終了することができました。最後までお付き合い頂きありがとうございました。作品の感想お待ちしております。

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連載31回目

 恭司は自分に話しかけてくれる人たちの愛情に浸ってとても幸福だった。

 しかしそれでも恭司の世界には何かが欠けていた。

 それは父親というものの存在感だった。

 父だけはけっして話しかけてくれなかった。母が話してくれるお伽噺の主人公には決まって父親という

存在がいるのに、自分にはそれがいなかった。恭司には父親という存在のイメージがどうしても湧いてこ

なかった。

 しかしある日母が神に祈りを捧げているときに、天啓のように突然恭司の脳裏にそのイメージが刻み込

まれた。それは母が神のことを「天のお父様」と呼んでいるのを聞いたときのことだった。恭司にはそれ

が太陽のようなイメージで伝わってきた。それはとても大きくて暖かく、すべてを包み込む光のような存

在だった。母が神のことを「お父様」と呼ぶたびに、ぞくぞくするような感覚が首筋を昇ってくる。じら

じらと微かに光を放ち、様々に形状を変え、爆発するピーコックグリーンの太陽のフレア。

 その太陽はちょうど視線の高さにあり、太陽から吹く帯電微粒子の風が前額部から後頭部のあたりを吹

き抜けてゆく。とても爽快で、すべての感覚が研ぎ澄まされてゆくのがわかる。全身の細胞が活性化さ

れ、胸の奥底から不思議な力が湧き上がってくる。精神の揺らぎが止まる瞬間、突如としてオレンジ色の

温かい光に包まれ、世界が一変する。軽く、希薄となり、顎を上に打ち揚げられ、意識の海原へと浮かび

上がる。

 そのとき恭司は悟った。その太陽のような存在が『神』で、太陽が放射する熱が『神の愛』であり、光

が『真理』であることを! 私は私を照らす光の中にあってこそ、はじめて『真理』を悟ることができ、

私の心に奔流のように流れ込む『神の愛』を体恤{たいじゅつ}することによってのみ、私の内に命がある

ことを!

 これが恭司のはじめての『神との邂逅{かいこう}』であった。神こそは自分の真{まこと}の父であるこ

とを知った。恭司は母の胎内にあるときすでに神との邂逅を果たしていたのである。

 恭司はいま母の祈りを聞いている。言葉にならぬ無言の祈りであったが、恭司には母の心情を感じ取る

ことができた。それはイエスを身籠ったときのマリアが神に捧げた祈りに匹敵する敬虔な祈りであった。

しかし母は畏{おそ}れていた。何を畏れているのか。何が母をこれほどまでに怯えさせるのか。母の畏れ

ている気持ちが臍{へそ}の緒を通して伝わってくる。

 母の畏れ、戸惑い、迷い、恭司はその正体を知りたいと願った。

連載30回目

 ひらひらと 舞いながら

  ゆきの聖霊たちが 舞い降りてきます

   ゆきは神さまの愛のよう

  ほら、あなたのてのひらで

   ゆきは きれいにとけていきます

    ちょっぴり つめたいけれど

     でも とっても きれい

 しんしんと 音もなく

  ゆきは わたしたちの上に降りてきます

   神さまの愛が 降るように

    いつもゆきのように

     きれいな心でいたいですね

 神さま どうか いつも 

  私の心の中心に いてください

   あのゆきのように 

    いつもきれいな心で いられますように 

連載29回目

         *

 恭司は暖かい温もりの中で微睡{まどろ}んでいた。すでに映像は消え失{う}せ、温もりだけがからだを

取り巻いていた。トシューン、トシューンと、規則正しい音が聞こえる。心臓の音だろうか。その音がず

っと聞こえ、その音の向こうから微かにクラシック音楽が聞こえてくる。いま流れているのはビバルディ

の『四季』だ。『四季』はいつも春の情景までで、『夏』を迎える前に別の曲に移る。『調和の幻想』第

六番、第九番。幾何学的均整のとれたあの美しきパッヘルベルの『カノン』。アルビノーニの『アダージ

ョ』。音楽史上最高に美しいヨハン・セバスチアン・バッハの『G線上のアリア』。『ブランデンブルグ

協奏曲』。魂を昇華する荘厳な教会音楽『主よ、人の望みの喜びよ』。『クリスマス協奏曲』……モーツ

ァルトやハイドンの明るく軽やかな楽曲――。

 恭司は音楽の洪水の中で育った。いや音楽だけではなかった。母は恭司が生まれる以前からよく話しか

けてくれた。今日あったこと、感じたこと、外の風景、神様のこと、聖書の中の物語や世界の民話、お伽

噺{とぎばなし}など何でも話して聞かせてくれた。母が描写する外の世界はとても美しく、光に満ちた世

界だった。恭司は光とはどのようなものなのかまだ知らなかったが、母が話してくれるときに伝わってく

る感情からそれを理解することができた。恭司は母の胎内にいた頃から外の世界に憧れていた。

 いまも母が恭司に話しかけている。

「坊や。私はあなたが男の子だということを知っているのよ。私はあなたが元気に育って立派な男性に成

長する日を夢見ているの。きっとあなたは世の中に光を投げ掛ける人になると、私はそう信じているの。

 坊や、いまお外は雪が降っているの。雪は神様が降らせてくださるのよ。雪ってとても綺麗なのよ。白

くって、冷たくって、太陽の光に当たるときらきら輝くのよ。でも掌に載せると融けてしまうの。雪は聖

霊のように清らかで、空から舞いながら降ってくるのよ」

連載28回目

           *

 そのとき再び恭司の意識に異変が生じた。恭司の見ていた映像に別のシーンが割り込む――。

 それは産婦人科の手術室の中の光景だった。しかし出産のシーンではないようだ。様々な器具が並べて

ある手術室の真中に手術台があり、その上に横たわっている母の姿があった。母は大きく脚を拡げた格好

で横たわっており、その部分を覗き込むようにして青緑色の手術衣を着た外国人の医師が、ピペットのよ

うなガラス製の器具を母の大きく拡げた脚の間に挿入していた。

            *

 映像が元に戻る――。

「恭司君のロールシャッハ・テストの結果は概ね良好なものでした。私の所見では、恭司君は感受性が繊

細で知的能力も高く、長期にわたる複雑で持続的な活動を企画し、他人に賞賛されるような困難なことを

やり遂げようと努力していく心的エネルギーをすでにこの年齢で発達させ獲得していると言えます。特に

彼の場合には高い心的エネルギーが特徴で、抜群の自己統制力とあわせて繊細な感受性と高い知的能力を

強化する形で現れています。社会的適応という点からは、繊細な感受性の割には適応能力が高いと言えま

す。まことに恵まれた資質をお持ちだと言えるでしょう。

 しかし幾つか気になる点もあります。

 ひとつには自分の能力を誇示したいという衝動と、そのことによって他人の気持ちを傷つけたくないと

いう周囲への配慮との間に強い葛藤を生じている点です。ただ、このお子さんの場合には、自己顕示欲と

いうよりは、むしろ自己の能力の顕現によって得られる満足が自己に帰するものではなく、信仰的色彩を

帯びているという点に特徴があるようです。

 しかしそれを周囲の人間が必ずしも好意的に受け止めるとは限らないわけで、そのために葛藤が生じて

いるのです。

 第二の点は、これは非常に申し上げにくいことなのですが、恭司君が父親に対して疎外感を感じている

ことです。これについて何か心当たりがございませんか」

 恭司が聞いたのはここまでだった。

連載27回目

 それから何日かして、またおじさんが家にやって来た。おじさんは父さんの大学時代の先生なのだそう

だ。

 父さんは応接間でおじさんと話をしていた。恭司はそのときドアの外の廊下で積み木遊びをしていたの

で、偶然大人たちの話を聞いてしまった。

「今お渡ししたのが恭司君のテストの結果です。内容をご覧になればお分かりになるかと思いますが、恭

司君のIQはウェクスラー幼児用知能検査の指標で、行動性IQが二一〇、言語性IQが二四〇で、総合

では二二五という奇跡的に高いスコアが出ています。世界を例にとってみれば、まれにそのようなケース

が過去に幾度か報告された記録が残っていますが、私が手がけた事例ではこのようなケースは初めてで

す。ただ年齢がまだ二歳八ヵ月と幼いですし、IQ自体は変動するものですから、今後の育て方次第で変

わってゆくものと思われます。

 それよりも私が心配なのは、周りのお子さんとの調和です。IQが高いこと自体は一般的には好ましい

傾向だと思われがちですが、弊害もあるのです。日本の教育制度では米国のような飛び級はありません

し、同年齢の子供たちの間で孤立してしまう恐れがあります。その点を十分に配慮してあげる必要がある

でしょう」

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