弓月城太郎の『神秘体験』

皆様のお陰で連載を無事終了することができました。最後までお付き合い頂きありがとうございました。作品の感想お待ちしております。

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連載21回目

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 恭司は歌った。立ち上がり、両手を拡げ、空を仰いで歌った。緑萌ゆ草原の香りを、生きる喜びと共に

胸いっぱいに吸い込み、神の栄光を心の限り、想いの限り讃美した。そのとき溢れるほどの喜びに恭司の

胸は満たされ、輝ける世界は恭司の歌に応えてまわりだした。打ち震う感動の泉が、深甚と胸の奥底から

湧き上がり、ささくれ立つ波のように全身へと波紋を拡げてゆく……。その漣{さざなみ}は大地に立つ恭

司の足から草原へと伝わり、草を、木を、森を、そして森の湖を震わせ、白い残雪を戴いた山々に谺{こ

だま}した。

「世界が歌っていた、私と共に! 世界が輝いていた、私の人生のように!」 

 屹立と臨む峰々のように恭司の理想は高く、恭司が仰ぎ見た蒼穹{あおぞら}のように未来は光輝に満ち

ていた。科学の真理を追い求める恭司の心は清く、銀色に輝く純白の雪よりもなお白く、恭司の精神は澄

明で、遠い谷川のせせらぎを聴くことも、さわさわと鳴るシラカバの木が自分に何を囁{ささや}いている

のかを聞きわけることもできた。野に咲くひとひらの花に神の愛を見出し、そこに集い戯れる蜜蜂の生態

に自然の不思議を感じた。

「おお! 神よ! 感謝いたします。あなたの夢をかき抱き、あなたの息吹を呼吸することを。あなたの

胸にまどろみ、私はそこから空へと舞い立とう。草原を渡りゆく緑の風に乗って、たゆけき空の彼方、神

のいます無辺の境地へと」

連載20回目

 いままで昇ってきた緩やかな斜面を振り返ると、そこからは雄大な景色が一望できた。ゆるやかな起伏

をみせる明るい緑の丘々が遥か遠方まで連なり、さらに遠くの方には、白い残雪を戴いた北アルプスの稜

線が、青空との境界にくっきりと銀色の線を描いて輝いていた。鏡のように澄んだ湖は、明るい空の色を

映し出し、山の麓にはカラマツの森が広がりシラカバの林へと繋がる。遠くに臨む林の木立の中には、あ

ちこちに点在する旅館や別荘が微かに見えた。草原を渡るやさしい春風がかぐわしい若草の香りを運び、

恭子の可愛らしくお下げに結った髪を揺らしている。いつもは黒髪に見える恭子の髪がのどかな春の陽射

しに透けて、栗毛色に照り映えている。恭子が微笑み、歌いだす。



 風にゆらめく金色{こんじき}の木漏れ日よ 我は歩みだす光の中を

 小鳥らの歌うしあわせの歌 我も口ずさむ、その歌に合わせて

 梢を渡る青嵐{せいらん}のように 駆け抜ける聖霊の息吹

 満つる想いは果てしなく 神よ我と共にいまし給へ



 恭子が歌った歌は、新エデン教会の聖歌二十一番だった。歌が終わりに差し掛かると、母さんがハミン

グをはじめた。次は恭司が歌う。



 いのち輝く緑の沃野よ 我は駆け出す喜び急ぎて

 谷を渡る風のさやけさ 我も渡らん、その風に乗って

 呼び交わす谺{こだま}のように 響き合う聖霊の歌声

 湧き立つ力は神のため 神よ我が想いを受けとめ給え

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連載19回目

 *

 恭司は昔のことを想い出していた。楽しかった過去の情景が、押しとどめることのできぬ、滔々と流れ

る大河のように意識のスクリーンの上を流れてゆく。

 あれは自分と恭子と母の三人で、霧ヶ峰高原へピクニックに出掛けたときのことだった――。

 春の陽光が降り注ぐ緑の丘を、三人で歌を歌いながら登ってゆく。

 あの頃は、うちの隣の神学校でペテロという名の大きな犬を飼っていた。ピクニックに行くというの

で、牧師先生がペテロを貸してくれた。草原に着くと、ペテロは嬉しそうに飛び跳ねながら、自分たちの

周りを駆け回った。まだ子犬なのにとても大きい。よくなついていた。

 恭子は途中でお花畑を見つけ、ペテロと一緒に駆けていった。

「おおい! あんまり遠くに行くと迷子になっちゃうぞう」

 恭子がお転婆なので気が気ではない。

「ねえ、私たちも行ってみましょうよ」

 母さんが楽しそうに誘う。行ってみると、小高い丘の頂上に出た。そこには敷き詰められたようにレン

ゲの花が一面に咲き乱れていた。結局、そこで休憩することになった。

 恭司がペテロを片側に座らせ抱きかかえると、ペテロは「くうん」と甘えるように鼻を鳴らした。ペテ

ロのふさふさした毛が腕の皮膚を撫で、その奥に息づいている温もりが伝わってきた。

連載18回目

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 観客のいないスケートリンクは静かだった。いま恭司は、恭子と共にガーネット・ブラウンのデコレー

ション・ライトの中にいる。二人の曲は七年前のあの日と同じ『ある愛の詩』。恭子の真直ぐなまなざし

が見つめている。雑念を払い、ポーズをとる。永遠とも思われる凍りついた一瞬の静寂――。

 音楽が始まる。哀愁を帯びたピアノの旋律に自らの想いを重ね、漲{みなぎ}る腕で、全身で表現する。

指先にまで神経を行き届かせ溢れんばかりの情感をそこに込める。――枯葉の舞い落ちるボストンの秋。

恭子と別れて暮らしていた七年間の歳月の想いが、洪水のように堰{せき}を切り胸に押し寄せる。まだ幼

き恭司は使命を感じ、十歳の秋にアメリカに留学した。時の流れに負けじと、生きることを急ぐかのよう

に。その期間、二人を結び付けていたのは、家族としての絆、信仰と、フィギュアスケートへの想いだっ

た。

 いま恭子は自分と共にいる。スパイラル・シークエンスで恭子との距離を保ち、張り裂けんばかりの想

いで心を通わせる。二人で手を繋ぎ、バックワード・クロスロールでコーナーを回る。ツイスト・リフ

ト。スロウ・ジャンプ!

 子供の頃からずっと一緒に滑ってきた恭子の動きは、からだが忘れていなかった。ひとつひとつの技、

彼女の息づかい、小さなクセまでも。かつて別れたときのレベルまで戻すのに三ヵ月もかからなかった。

もし二人が成長していなければもっと早かっただろう。

 曲がクライマックスにさしかかり、ドラマチックな盛り上がりを見せる。精神が高揚し、胸の高鳴りを

全身から発散し、二人でサイド・バイ・サイドのトリプル・トウループを跳ぶ! 恭子のからだを高々と

リフトし神の栄光を表現する。この瞬間の命の輝きを! 迸{ほとばし}る情熱を!

 ステップ・シークエンス。デス・スパイラル。最後はペア・スピンから、求め合うようにして抱き合

い、静かに元のポーズへと戻り、深々とした余韻を残して演技を終了した。てのひらから恭子の弾んだ息

づかいが伝わってきた……。

連載17回目

 *

 転倒し、怪我をした森田明美選手は、ドクターの診断によると右足首の腫れと痛みがひどく重度の捻挫

であるため、病院での精密検査が必要だった。三月に行なわれる世界選手権に出場することは、ほぼ絶望

的な状態だった。

 彼女の小学校三年生になる弟も心を痛めている様子だった。が、控室に会いに行ったときには、すでに

落ち着きを取り戻していた。

「お姉ちゃん。世界選手権出られるかなあ?」

「今回は無理みたいね……」

 彼女は世界選手権に出られなくなったことで深く傷つき、痛々しいほどに落ち込んでいた。新エデン教

会が主催したイベントに出場したばかりに……。言葉をかけようにも、探す言葉が見当たらない。ただ邪

魔にならぬように彼女の傍らにいてあげたかった。

「私たち、お邪魔でなかったら、病院まで送るわ」

 恭子が心配そうに眉を顰める。

 恭司も森田選手を病院まで送り、頃合いを見て今夜は帰ろうと思ったが、森田選手に断られた。試合が

終わったあとで自分たちの演技を彼女の弟に見せる約束をしていたからだ。弟思いの姉、姉思いの弟だっ

た。

「私のことはいいから、弟にあなたたちの演技を見せてやって欲しいの」

 少年は恭子と恭司のファンだった。姉の晴れ姿を見るために、恭子と恭司の演技を見るために、少ない

お小遣いをこつこつと貯め、このイベントの日を長い間楽しみにしていたのだった。小学校が退けてか

ら、羽田から飛行機に乗りひとりで千歳に着たが、イベントの開始時刻には間に合わず、インターミッシ

ョンの時間に行なわれた恭子と恭司のエキシビション・プログラム『ある愛の詩』を見ることもできなか

った。少年が握り締めていたシワくちゃになったチケットの半券がくやしさを物語っていた。

 恭司と恭子は彼の姉の分まで精一杯の演技をすると約束した。

「わかった。君のために、今ここが世界選手権のつもりで演技しよう」

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