弓月城太郎の『神秘体験』

皆様のお陰で連載を無事終了することができました。最後までお付き合い頂きありがとうございました。作品の感想お待ちしております。

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連載16回目

 演技が始まった。緊迫した一瞬の静寂。僅かな静止のあと、霊感に満ちたティンパニーの音と共に豊か

な表現力で彼女の長くたおやかな腕が、さっと伸び、凶悪な魔女に豹変する。飛び跳ねるようにして滑り

出し、『火の鳥』のダイナミックで原始的な調べに乗り、速さを増してゆく。巧みなバックワード・クロ

スロールでスピードに乗り、コーナーを回ると、序盤早々、鮮烈なトリプル・アクセルを跳び切って観衆

の度肝を抜いた。自信を深め、つづくトリプル・トウループからのコンビネーション・ジャンプも成功さ

せる。順調な滑り出しだ。

 そのあとも彼女はぐんぐんと集中力を高めてゆき、スピードと高さのあるクォリティの高いジャンプを

次々と成功させた。技と技の繋ぎの要素も入念で、手の表情はまるで火の精が乗り移っているかのよう。

つづくスピンのパートでは、情念の炎のような表現力豊かなレイバック・スピンを披露し、ポジショニン

グの正確さと回転の速さをアピールした。芸術性と高い運動能力とが高次元で調和していた。

『火の鳥』は炎の微睡{まどろみ}の中から蘇り、自信に満ち溢れた表情で、また舞い立つ。彼女の高々と

栄光に満ちたスパイラル・シークエンスが美しい滑走図形を描く。ダイナミックな三連続のバタフライ・

ジャンプからのフライング・シット・スピン。躍動感のある複雑なサーペンタイン・ステップ。もっと速

く! もっと華麗に!

 観衆は固唾を呑み、彼女の世界に陶酔していた。その日最後のジャンプ要素であるルッツを跳ぶための

アプローチに入ってゆく。観衆の誰もが彼女の優勝を信じた次の瞬間だった。

 タイミングが合わず、軸が歪んだ状態で降りてきた彼女は、着氷に失敗し、無理な体勢で踏ん張ろうと

したため、右足首を強く捻って転倒してしまった。完成された芸術作品が氷上に砕け散った瞬間だった。

 恭司は血の気が引いた。『あの降り方ではもう駄目だ……』

 彼女はそれでも起き上がって演技を続けようとした。だがよろめいて足首を押さえ、苦痛に顔を歪め、

ついに立ち上がれなかった。

 そのときすでに彼女はわかっていたに違いない。この怪我で来月の世界選手権には、自分はもう出場で

きないということを……。

 彼女はその日のためにどれほど練習したことだろう。晴れ舞台に立つ日の自分を夢見て、来る日も、来

る日も、毎日厳しい練習に耐えたに違いない。その研鑽が一瞬にして崩れ去るなんて。

 フェンスを越えて駆け寄ったコーチが、彼女の肩にウインドブレイカーを着せ、抱きかかえたとき彼女

は泣いていた。気持ちが伝わってくる。『お願い、私を見ないで! ライトを消して! 誰か私を早く別

の部屋に連れて行ってちょうだい!』

連載15回目



 雪の降る夜のオフィス街。街路樹には無数のホワイト・イルミネーションが灯り、大きな氷の彫像に反

射して、きらきらと輝いている。足早に家路を急ぐサラリーマンやOLの姿に混じって、若いカップルや

観光に訪れた家族連れが通りを行き交い、街はこの上なく賑っていた。

 あれは恭子と二人で、新エデン教会主催のイベント「音楽とフィギュアスケートの祭典」に参加した十

七歳のときのこと。札幌の街は「雪祭り」の真最中だった。会場の控室で知り合ったひとりの少年の夢を

叶えるため、イベントが終わったあとの誰もいないスケートリンクで恭子と一緒に滑った夜のこと。

 観客が去り、がらんとしたスケートリンクには、その静けさとは裏腹に、先ほどまでその場所で演技し

ていた選手たちの残像と余韻が残されていた。

 その最後の演技は、恭司と恭子の所属するスケート教室の卒業生であり、先輩に当たる、森田明美選手

が演じた《ストラヴィンスキーの『火の鳥』のテーマ》だった。森田選手はその時点で女子シングル優勝

候補の一番手だった――目映いばかりのスポットライトに照らされて、彼女の艶やかな緋色のコスチュー

ムに施された金色の刺繍がきらきらと輝いている。

連載14回目

 *

 暗いトンネルの中を生暖かい上昇気流に乗って、恭司の意識は上昇してゆく。金属を削るような、ブゥ

ゥゥ……ン、という耳障りな音が聞こえる。台風の目のような竜巻の中心を身を揉むようにして、上へ、

上へと向かって上昇し続ける。耳障りな音は鳴り止まない。長い長いトンネルを、猛烈なスピードで上昇

する。もう何百メートルも昇っただろう。突然光が現れる。いや、違う。光の中に自分が現れたのだ。目

映{まばゆ}い光が身を包み込み、深い安堵感に包まれる。辺り一面バラ色の雲。

 どこからか詠唱が聞こえてくる。誰が歌っているのだろう? 女性の声のようだ。とても艶{つや}のあ

る女性の声。心の襞{ひだ}にしっとりと染み込んでくるような麗しい声。恍惚とする……。――いつかど

こかで聞いたような。だが思い出せない。古い思い出をやさしく揺さぶるような声。温かな母の胸に包ま

れてゆくような安堵感。それにしてもこの安らぎは何だろう。胸の中に広がりゆくこの深い安らぎは……

これは『愛』なのか? そうこれが『真実の愛』。

『アルテミス』が歌っているのだろうか? それとも恭子? ……私は今どこにいるのだ? ここはどこ

だ?

 すると恭司の意識にある情景が浮かび上がった――。

連載13回目

「軽い……」すべての束縛から解き放たれた恭司の意識は、しばし虚空を彷徨{さまよ}っていた。

 そのとき遠くから、遥か遠くの方から海鳴りが聞こえてくる。ゴォッッ……、という音が恭司を悩ませ

る。何度も、何度も、繰り返し、その音は次第に近づいてくる。想像が恐怖を掻き立てる。逃れたいと思

う。しかしそれは確実に迫ってくる。――その刹那{せつな}、加速度を感じる。からだが揺れ、攫{さら}

われてゆく。意識が上方へと向かい、下降する。やがて時空の畝{うね}りは振幅を増し、恐怖を感じるほ

どの高みへと運ばれてゆく。

 そこで恭司が見たものはさらに慄然とする光景であった。戦慄を感じるほどの広大な海。暗く、不気味

で、底知れぬほど深く、荒れ狂っていた。低く垂れ込めた黒雲は信じ難いほどの速さで乱れ動き、蜷局

{とぐろ}を巻く黒雲の中を稲妻が駆け巡った。雷鳴は耳を聾{ろう}さんばかりの轟音{ごうおん}となって

波間に谺{こだま}し、数匹の巨大な翼竜が餌を求めて飛び回っていた。

 そのうちの一匹が、自分の方向に向かって飛んでくる。捕食されることを覚悟した瞬間、一転して下に

向かう加速度を感じる。見下ろすと、それよりもさらに恐ろしい海嶺の谷間が見渡せた。そこには奇怪な

身の毛もよだつ巨大な海の生物がのたうっていた。青銅の鱗をもつ竜のような姿。聖書に出てくる海の怪

物リヴァイアサンだ! そこに向かう運命を避けようとするが、恭司のからだは間違いなくそこに向かっ

て下降している。波の壁は眼前に高く聳え立ち、さらに高くなって恭司の上に覆い被さろうとしていた。

神に助けを乞うべきか? これは幻覚などではない。これは現実{リアル}だ! 恭司の耳に水の中の音が

聞こえた。

連載12回目

 *

 恭司の瞼の裏で光が舞いはじめた。『光が見える……光が舞っている……蛍なのか?』

 軽く閉じられた瞼の裏で恭司は光の動きを追っていた。光はひらひらと恭司の周りを飛びながら鱗粉の

ような光の粒子を振り撒いていた。やがてどこからかまた別の光が現れ、恭司が追っていた光の動きに加

わり戯れ始めた。ひらひらと蝶のように暗がりの中を舞うふたつの目映{まばゆ}い光は、互いを追いつ

つ、追いついては離れ、離れてはまた追った。さらにそこにまた別の光が加わった。光の蝶は気がつくと

数え切れないほどの数になっていた。輪舞{ロンド}を舞う蝶たちが振り撒いていく光の微粒子は、さらさ

らと音もなくガラスの粉のように降り注ぎ、闇はあたかも黒いビロードを背景にダイヤモンドダストを振

り撒{ま}いたかのようになった。果てしなく続く光の舞は嫋{たお}やかで優雅なブラウン運動から、次第

に速度を増し、さらに速度を増して光の条{すじ}となった。無数の光の条が宙に描かれて渦をなし、意識

の周りを取り巻いてゆく。光の条は次から次へと闇を払拭し、重なり合っては明るさを増し、次第に白熱

化してゆく。だが何も見えない。そこは耐え切れないほどの光り輝く白い闇であった。シィィ……ン、と

いう無数の泡沫が弾けるような音が脳の聴覚野を刺激する。脳の虚血状態が引き起こす立ち眩みのような

感覚の中で恭司の意識は薄れていく。己の生き物としての生存本能が無意識のうちに最後の抵抗を試み

る。しかし抗うことはできない。恐怖を感じる暇{いとま}もなく意識は黒く反転し、やがて『無』が恭司

の意識を支配した。

 しかし『無』の中に再び意識が蘇る。もはや光はなく、また闇もなく、音もなく、匂いもなく、からだ

に触れるものの存在もなく、弛{たゆ}むことなく己が魂を下界に引き続けて止{や}まなかったあの忌まわ

しい重力も感じなかった。ただ『自意識』だけがそこに存在した。

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