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演技が始まった。緊迫した一瞬の静寂。僅かな静止のあと、霊感に満ちたティンパニーの音と共に豊か
な表現力で彼女の長くたおやかな腕が、さっと伸び、凶悪な魔女に豹変する。飛び跳ねるようにして滑り
出し、『火の鳥』のダイナミックで原始的な調べに乗り、速さを増してゆく。巧みなバックワード・クロ
スロールでスピードに乗り、コーナーを回ると、序盤早々、鮮烈なトリプル・アクセルを跳び切って観衆
の度肝を抜いた。自信を深め、つづくトリプル・トウループからのコンビネーション・ジャンプも成功さ
せる。順調な滑り出しだ。
そのあとも彼女はぐんぐんと集中力を高めてゆき、スピードと高さのあるクォリティの高いジャンプを
次々と成功させた。技と技の繋ぎの要素も入念で、手の表情はまるで火の精が乗り移っているかのよう。
つづくスピンのパートでは、情念の炎のような表現力豊かなレイバック・スピンを披露し、ポジショニン
グの正確さと回転の速さをアピールした。芸術性と高い運動能力とが高次元で調和していた。
『火の鳥』は炎の微睡{まどろみ}の中から蘇り、自信に満ち溢れた表情で、また舞い立つ。彼女の高々と
栄光に満ちたスパイラル・シークエンスが美しい滑走図形を描く。ダイナミックな三連続のバタフライ・
ジャンプからのフライング・シット・スピン。躍動感のある複雑なサーペンタイン・ステップ。もっと速
く! もっと華麗に!
観衆は固唾を呑み、彼女の世界に陶酔していた。その日最後のジャンプ要素であるルッツを跳ぶための
アプローチに入ってゆく。観衆の誰もが彼女の優勝を信じた次の瞬間だった。
タイミングが合わず、軸が歪んだ状態で降りてきた彼女は、着氷に失敗し、無理な体勢で踏ん張ろうと
したため、右足首を強く捻って転倒してしまった。完成された芸術作品が氷上に砕け散った瞬間だった。
恭司は血の気が引いた。『あの降り方ではもう駄目だ……』
彼女はそれでも起き上がって演技を続けようとした。だがよろめいて足首を押さえ、苦痛に顔を歪め、
ついに立ち上がれなかった。
そのときすでに彼女はわかっていたに違いない。この怪我で来月の世界選手権には、自分はもう出場で
きないということを……。
彼女はその日のためにどれほど練習したことだろう。晴れ舞台に立つ日の自分を夢見て、来る日も、来
る日も、毎日厳しい練習に耐えたに違いない。その研鑽が一瞬にして崩れ去るなんて。
フェンスを越えて駆け寄ったコーチが、彼女の肩にウインドブレイカーを着せ、抱きかかえたとき彼女
は泣いていた。気持ちが伝わってくる。『お願い、私を見ないで! ライトを消して! 誰か私を早く別
の部屋に連れて行ってちょうだい!』
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