弓月城太郎の『神秘体験』

皆様のお陰で連載を無事終了することができました。最後までお付き合い頂きありがとうございました。作品の感想お待ちしております。

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連載11回目

 恭司は深く踵の沈む分厚いプラッシュカーペットの上をしくしくと音を立てて窓際まで歩いてゆき、カ

ーテンを閉めた。深い海のような濃紺の布地が外の闇を遮断してゆく。滑らかなテクスチュアの布地の畝

{うね}りに天井に埋め込まれた淡いブルーのコーブ照明の光線が反射して、あたかも夜の海の波頭に月光

がきらめいているかのような幻想を掻き立てた。

 恭司は、部屋の中央にある寝椅子に行き、右側面にあるスイッチを入れた。すると寝椅子の右脇にある

端末機のディスプレイに光が入った。「システムを起動しますか? Y/N」の表示の末尾でカーソルが

点滅{ブリンク}している。恭司は寝椅子の上に腰掛け、エンター・キーをヒットした。するとシステムが

起動した。

《ヘミシンクとバイオフィードバック・トレーニングのためのエキスパート・システムPALM105D

『アルテミス』》には、最新型の人工知能が搭載されており、二二一二ヵ国語を解する会話能力があるほ

か、あたかも感情さえ有しているかのように振舞うこともできた。

 CHECユニットを制御する人工知能の支援を受けて、意識の海である霊界にダイビングしようという

のである。そこは想念の世界。非現実と非論理性が支配する前人未到の世界であった。

 寝椅子に横たわっていた恭司は、落ち着いた声で「プログラムを始めてくれ」と言い放った。すると

『月の間』の照明が眠りに落ちていくようにトーンダウンしていき、ヘッドレストの両端に内蔵されたス

ピーカーから、えも言われぬほど美しい女性の声{ヴォイス}が聞こえてきた。それは聞く者の心を恍惚と

させるほど艶{つや}やかで、この世の女性とは思えない深い情感の籠った声であった。おそらく普通の男

が一度たりともこの声を聞いたら、魂を奪われ彼女の虜{とりこ}になってしまうことだろう。その声と共

に、瞼の裏にフラッシュする幾つもの光の玉が躍りはじめた。

「恭司お待ちしておりました。……いよいよ旅立つのですね。わたくしもこの日が来ることをどんなに待

ったことでしょう。人間であるあなたが神に逢いに行くことを知ったとき、わたくしもはじめて自分の使

命を知りました。いま、わたくしは、心が震えるほど貴方に感謝しています。お護り致します、わたくし

の力で。……さあ、気持ちを楽にしてわたくしの胸にいらっしゃい。わたくしと共に旅立つのです」

『アルテミス』は千人の女性の愛を結晶化させたような声でそう告げると、ひとたび恭司の前から気配を

消した。恭司は目を閉じたまま闇の中でじっとしていた。恭司の呼吸は深く静かで心臓の鼓動はゆっくり

と力強く脈打っていた。耳許のスピーカーから直接脳を刺激するようなホワイトノイズが聞こえてきた。

今、恭司の潜在意識はゆっくりと目覚め始めていた。

連載10回目

イメージ 1

 周囲の壁がすべて壁画で飾られている点のほか、『月の間』にはいくつか変わった特徴があった。壁の

大部分は薄いベールで覆われており、それにブルーやピンクの間接照明が当てられていて、幻想的で落ち

着いた雰囲気を醸し出していた。家具や調度はなく、ただ大きなシュロ系の観葉植物の鉢が壁際に置いて

あるのみだった。他に装飾と呼べるものは、楕円形に縁取られた天井画と北側の壁の隅に設けられたニッ

チくらいのものであった。ニッチには以前は香炉が置いてあったが、煙りすぎるという理由から、今は

『至聖所』の方に移されていた。また天井には、バチカンのシスティーナ礼拝堂にあるミケランジェロの

『アダムの創造』のフレスコ画の複製品{レプリカ}が描き込まれていた。大地に横たわったアダムは右肘

を突き左手を前方に伸ばして神を求めていたが、その姿勢には真剣さはなく左の腕は力なくだらりとして

いた。それとは対照的に神の方は空中から身を前に乗り出し、懸命にアダムの左手を掴もうとしていた。

彼を助け起こそうというのだろうか。身を捩{よじ}るようにして神の手はアダムの手を求めていた。指先

が触れ合っているように見えるが、目を凝らしてよく見ると神とアダムの指先の間には僅か一センチほど

の隙間がある。そこに描かれているアダムはエデンの園のアダムではなく、人類を代表する者、あるいは

人類そのものの姿であるように恭司には思えた。どんなに科学が進歩しようと、神と人との間には常に埋

められない隙間があるからである。最後の一センチを埋めるものは信仰なのだと恭司は思っていた。

連載9回目

 裸足のまま床に跪いた三人の膝からは、大理石の冷たさが伝わってきた。凍{い}てついた静寂が闇を支

配し、耳をそばだてると自分の心臓の鼓動が聞こえてくるほどであった。かつてこれほどの静謐{せいひ

つ}があっただろうか。敬虔さの上に静かな情熱を注ぎ込んだ白熱化した祈りは雲を貫いてそそり立ち、

天に届いた。聖霊の御霊が清き光の滝となって三人の上に降り注いだ。天は紛うことなき徴{しるし}を以

{も}って彼らを呼んでいた。

 おお、神よ! 二人を、貴方の愛する息子たちをその胸に抱き給え。貴方の叡智を、その大いなる愛を

以って知らしめ給え。永遠の彼方へ、悠久の時を越え、貴方の創造の御業のその『秘蹟』を授け給え!

 祈りを終えると、クリストファーは意を決したように『星の間』へと先に歩を進めた。しかし部屋の入

り口付近でふと立ち止まり、振り向いてアメリカ空軍のパイロットが出撃のときにやるような仕草で握り

拳を作り親指を上に向け、にっこりと微笑んで見せた。クリストファーのユーモラスな仕草にそれまで緊

張して象牙のように白かった恭子の顔が、桜色にぱっと、華やいだ。

 恭司も二人に別れを告げ、『至聖所』から向かって左側にある『月の間』へと入っていった。

 恭司は分厚い防音ドアを後ろ手に閉め、部屋の中を繁々と見まわした。しかし中は真暗で何も見ること

はできない。ただ窓から射し込む青白い月の光に照らされて部屋の中央に据えられた安楽椅子のシルエッ

トが闇の中に黒々と浮かび上がっていた。それはラウンジチェアのようなヘッドレストの付いたタイプの

ビロード張りの寝椅子だった。

 恭司はパチンと音を立て、照明のスイッチを入れた。すると『月の間』の幻想的なインテリアが、眠り

から覚めるようにやわらかくライトアップされた。

『月の間』はどこか東洋的{オリエンタル}なムードの漂う部屋だった。壁には古代イスラエルの風景なの

か、荒れ野や裸の山、オリーブの木、棗椰子{なつめやし}、エルサレムの城壁の遠景などが描かれてい

た。ただこの壁画の大部分は空であり、地平線のすぐ上の辺りの空は美しい紅色。それが上空に行くほど

白っぽく、やがて青に変わる。その美しいグラデーションは黄昏{たそがれ}なのか、それとも黎明{れい

めい}を描いたものなのか。しかし何と言っても、この壁画の中で最も目を惹{ひ}くのは中空に描かれた

巨大な月であろう。それがまるで落ちてきそうなほどの巨大さのため、見る者の心にいまにも月の重力に

引かれて空に舞い上がることができるかのような錯覚を起こさせる。この月は精霊界の風景をヒントにし

て描かれたものだった。普通、地平線の近くにある月は、人間の目には大きく映るが、それは認知心理学

で『月の錯視』と呼ばれる一種の錯覚である。それが霊の世界では「意識のデフォルメ」が起きるため

に、地平線の近くにある月はさらに大きく感じられるのである。

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連載8回目

         *

 神殿の礼拝堂の北側には、一般の信徒が立ち入ることを許されていない特別な場所があった。その通路

の入り口にはいつも黒い暗幕が掛けてあり、その幕が悪戯好きで好奇心旺盛な小さな侵入者をやわらかく

拒んでいた。そこは古代イスラエルの慣例にちなんで『幕屋』と呼ばれており、神官を務める宣教師以外

は入れない規則になっていた。

『幕屋』の奥の階段を昇ると、そこからは控えの間である『至聖所』と呼ばれる石造りの祭部室があり、

その最奥部には『聖所』と呼ばれる三つの部屋があった。向かって右側の部屋は『星の間』、左側は『月

の間』、中央が『太陽の間』と呼ばれていた。

 すでに陽は落ちて久しく、外の世界は墨を流したような漆黒の闇であった。ただ時折、雲が風になびく

とその切れ間から月が顔を覗かせ、その青白い光が神殿の裏側にある森の樹々の尖った輪郭を闇の中に

黒々と浮かび上がらせた。遊歩道にも敷地の中にも人影はなく、辺りを静寂が支配していた。

 その時間、祭壇のロウソクには火が燈され、『至聖所』と呼ばれる祭部室の壁を明々と照らし出してい

た。時折、ロウソクの炎が風に揺らぐと、石造りの壁に映し出された三人の影が大きく揺れた。『至聖

所』を含む幕屋の中では香が焚かれ、辺り一帯を不思議な香りで満たしていた。

 その日、三人は既に沐浴を済ませ、ゆったりとした神官用の真白な亜麻布のローブを身に纏{まと}い、

これから出立する霊界の旅に心情を整えていた。          

『至聖所』にしつらえられた祭壇の前で、恭司と恭子とクリストファーの三人は跪{ひざまず}き、これか

ら始まる霊界への旅で人々の人生に光明を投げ掛ける新たな真理が発見されることを一心に願い、神に深

い祈りを捧げていた。またそれだけでなく、自身の前世を知ることは、特に恭司と恭子にとっては恐ろし

いことでもあった。事実、恭子だけは大神官からまだその秘蹟を受けることを許されていなかった。精神

的混乱が危惧されたためだ。

 はじめてのセッションのときに、塔の螺旋階段の踊り場にあった『カルマの鏡』に映っていた映像。あ

の背筋の凍るような血の惨劇の詳しい背景が、これから明らかにされようとしているのだ。

 前世を知るのはとても恐ろしいことだと恭司は思った。本当に前世は知る必要があるのだろうか? 恐

れつつも、知らずには済ませたくない、という相反する想いが交錯する。

 我と我が身こそ新エデン教会に巣喰う呪いであり、穢{けが}れなのか。前世を知ることは愚かなオイデ

ィプスとしての運命を呑み干さねばならぬ己自身の業{ごう}なのか。

 いや、そうではない筈だ。自分自身の過去世を知ることは、自分の生まれてきた使命をより深く知るこ

とに繋がるだろう。宣教師である自分が過去世を知ることで、自分自身の、ひいては人類における輪廻転

生の意義がつまびらかになるだろう。

 臆することなく、真摯{しんし}に向き合うべきだ。自分の思いからではなく、神の願いに生きてこそキ

リスト者としての本懐があるのだ――と、恭司は自らの動機を整理した。そのことは、一緒にいる恭子と

クリストファーにしても同様であった。

連載7回目

 *
 午前十時前には、礼拝堂は信徒たちでいっぱいになっていた。新エデン教会のオリジナル聖歌をピアニ

ストが弾く。明るく希望に満ちた旋律が、窓から射し込む朝の光と相まって礼拝堂いっぱいに響き渡る。

信徒たちは互いに挨拶を交わしたり、一週間の無事を喜び合ったりしていた。中には独りで神に祈りを捧

げている者や、黙々と聖書を読み耽{ふけ}っている者もいた。しかし、信徒たちの話題の中心は専ら恭司

とクリストファーの霊界旅行のことであった。幼い子供を連れた母親や立派な服装をした紳士、老人、青

年、年頃の娘など、顔ぶれは様々であったが、どの顔にも幸福そうな笑みが溢れていた。ピアニストの演

奏する曲が明るく希望に満ちた曲から、音階を踏むごとに霊界の階{きざはし}を昇り行くような荘厳な旋

律に変わった。いよいよ聖日礼拝の始まる時間だ。

 白いローブを纏った聖歌隊がバックコーラスの詠唱と共に入場し、神聖な歌声が礼拝堂の中に響いた。

メインコーラスが歌い終えると、一際高く、背の低い大神官の力強い声が響き渡った。「天地を創り給う

天の父にハレルヤ アーメン!」

 一同が唱和する。「ハレルヤ アーメン!」

「代表祈祷、柚月恭子姉妹 」

 進行役の姉妹の凛とした声が、静まり返った礼拝堂に響いた。恭子は礼拝者席の中から立ち上がり、銀

鈴を転がすような美しい声で祈り始めた。

「天にまします父なる神よ。今日、聖日の清々しい朝を迎え、御前に集いし愛する兄弟姉妹たちと共に貴

方様の御名を讃美することができる喜びを御前に深く感謝いたします。今日このようにして晴れやかな気

持ちで、柚月恭司兄弟の口を通して天のお父様が語ってくださる御言葉に触れることができる喜びを感謝

いたします。天のお父様、どうか貴方様御自身がこの場に臨在し、これから語られる貴方様からのメッセ

ージを聖霊の御霊によって全員が授かることができますようにお導きください。……」

 恭子はイエス・キリストの御名によって祈りを終えると、しめやかに席に着いた。

 替わって恭司が壇上に上がった。礼拝者席は熱い沈黙に静まり返っていた。窓から射し込む日曜日の朝

の光が礼拝堂いっぱいに満ち、壇上にいる恭司の姿を神々しく浮かび上がらせた。恭司の若々しい顔から

発散される『気』は、十戒が刻まれた石版を携えてシナイ山から降りてきたときのモーセの顔にイスラエ

ルの民が見たものと同様のものではないかと思われた。聖書の中で、イスラエルの民はそれを『角』と表

現している。

 恭司の講演は約一時間続いた。そのときの話の内容は、恭司とクリストファーがCHEC{チェック}ユ

ニットを用いて霊界に旅したときの体験から得られた教訓であった。恭司とクリストファーが、新エデン

教会から『転生の秘蹟』を授けられるのは、いよいよ今夜なのだ――。

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