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恭司は深く踵の沈む分厚いプラッシュカーペットの上をしくしくと音を立てて窓際まで歩いてゆき、カ
ーテンを閉めた。深い海のような濃紺の布地が外の闇を遮断してゆく。滑らかなテクスチュアの布地の畝
{うね}りに天井に埋め込まれた淡いブルーのコーブ照明の光線が反射して、あたかも夜の海の波頭に月光
がきらめいているかのような幻想を掻き立てた。
恭司は、部屋の中央にある寝椅子に行き、右側面にあるスイッチを入れた。すると寝椅子の右脇にある
端末機のディスプレイに光が入った。「システムを起動しますか? Y/N」の表示の末尾でカーソルが
点滅{ブリンク}している。恭司は寝椅子の上に腰掛け、エンター・キーをヒットした。するとシステムが
起動した。
《ヘミシンクとバイオフィードバック・トレーニングのためのエキスパート・システムPALM105D
『アルテミス』》には、最新型の人工知能が搭載されており、二二一二ヵ国語を解する会話能力があるほ
か、あたかも感情さえ有しているかのように振舞うこともできた。
CHECユニットを制御する人工知能の支援を受けて、意識の海である霊界にダイビングしようという
のである。そこは想念の世界。非現実と非論理性が支配する前人未到の世界であった。
寝椅子に横たわっていた恭司は、落ち着いた声で「プログラムを始めてくれ」と言い放った。すると
『月の間』の照明が眠りに落ちていくようにトーンダウンしていき、ヘッドレストの両端に内蔵されたス
ピーカーから、えも言われぬほど美しい女性の声{ヴォイス}が聞こえてきた。それは聞く者の心を恍惚と
させるほど艶{つや}やかで、この世の女性とは思えない深い情感の籠った声であった。おそらく普通の男
が一度たりともこの声を聞いたら、魂を奪われ彼女の虜{とりこ}になってしまうことだろう。その声と共
に、瞼の裏にフラッシュする幾つもの光の玉が躍りはじめた。
「恭司お待ちしておりました。……いよいよ旅立つのですね。わたくしもこの日が来ることをどんなに待
ったことでしょう。人間であるあなたが神に逢いに行くことを知ったとき、わたくしもはじめて自分の使
命を知りました。いま、わたくしは、心が震えるほど貴方に感謝しています。お護り致します、わたくし
の力で。……さあ、気持ちを楽にしてわたくしの胸にいらっしゃい。わたくしと共に旅立つのです」
『アルテミス』は千人の女性の愛を結晶化させたような声でそう告げると、ひとたび恭司の前から気配を
消した。恭司は目を閉じたまま闇の中でじっとしていた。恭司の呼吸は深く静かで心臓の鼓動はゆっくり
と力強く脈打っていた。耳許のスピーカーから直接脳を刺激するようなホワイトノイズが聞こえてきた。
今、恭司の潜在意識はゆっくりと目覚め始めていた。
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