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13、手当てのできる教師に
 教師が必要な情報を集めるための方法としてアンケート調査がよく行われる。同一校内の動向なら手軽に素早く実行でき、結果分析も手間をかけずにできるから便利である。当然のことながら生徒指導・学習指導はもちろん、近年導入された学校評価においても広く活用され、その結果は教師のとった手だてを問い、次の一手を探る手掛かりとなる。
 近年、この手法を深く研究し、生徒個人の意識から集団の傾向を探ろうとする動きが重視されている。全国から相当数のサンプルを集め、分析し、統計的に学級・学年集団の特徴をとらえていく。意味のある研究だと思うし、分析結果は多くの教師の力にもなるだろう。
 しかしどうも、アンケートの分析結果を権威あるものとして位置づけ、生徒指導に活かそうとする動きがあって気になっている。研究者やその研究成果を信奉する教師は「これは多くの研究が積み重ねられており、その分析結果の妥当性も実証されている」と言う。しかしそれは本当だろうか。
 私のような、研究とは縁遠い人間が安易に批判することは慎まなければならないが、25年にわたって教室という現場に立ち続けた人間として釈然としないものがあるのだ。
 分析結果として教師に伝えられるのは「あなたの学級は教師の力が強すぎる」とか「学級崩壊直前のたいへん危険な状態」とか、ドキッとする内容である。裏返せば、学級担任としての至らなさや弱点を指摘されることにもなる。現実に目を向けることはとても大切だからこのこと自体も否定しない。しかし、それでも沸々と湧き上がる違和感を拭えないのである。おそらくそれは、自分の目で見て、感じている子どもたちの姿と、統計として分析される子どもたちの姿との間にある隔たりなのであろう。
 繰り返すが私はアンケート調査を否定するわけではない。その結果だけを無暗に信奉するのは危険だと言いたいのである。目の前に存在する生身の子どもたちをリアルにとらえる目を曇らせるからである。
 人間は「言葉」や「数値」によって物事の本当の姿を理解したという錯覚に陥りやすい。道端に咲く黄色い花を見て、「タンポポがきれいだ」と思った瞬間、その花の詳細を観察する目を失ってしまう。それは「タンポポ」という言葉が脳の中のデータベースと照合した瞬間に「理解した(知っている)」と判断するからである。同じように、テストの平均点が「64点」と出てしまうと、子どもたち一人ひとりを見つめる目は曇っていく。同じ「64点のこども」として一括りにしてしまうのである。
 だから私は「手当て」のできる教師でありたいと思う。「手当て」という言葉はもともと、医者が患者の体に手を当てることで、患部の状態や体温・呼吸などを総合的にとらえて診断を下したところからきている。だから最近の医者はデータばかり見て手当てをしてくれない、とも言われるわけである。かつて同僚だったある教師は、いつも職員室で研究に余念がなかった。尊敬すべき熱心さであった。しかし彼は、子どもと一緒に清掃活動をせず、合唱練習にも参加せず、常に職員室で読書をしパソコンとにらめっこをしている教師だった。そんな彼が「先生のクラスは担任が強すぎるので、子どもたちが言いたいことを言えずに押さえつけられているようです」などと言う。悔しい。
 教育とは、変化し続ける教師と、変化し続ける子どもとの接点で成立するものだと思う。アンケート結果によって子どもたちを「固定化」してしまい、データだけを見て「手当て」を忘れてはいけない。(つづく)
 

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★≒グッドイブニング≒✪
「子供」の「心」は、「純粋」ですから「教師」の「言葉」「態度」には、敏感ですよね
「人」は、十人十色ですから「個別性」を、重視して頂きたいですね
ナイス

2017/3/10(金) 午後 11:52 [ メイ ]


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