かわちのはむちゃん

古墳、遺跡、横穴式石室に迫りたいです。無理をせずボチボチと。

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1月6日2時41分配信 産経新聞


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中国の年号を示す「中平」の2文字が金象眼された大刀(東京国立博物館提供)(写真:産経新聞)

 刀身に施された象眼が、純金だったことが判明した東大寺山古墳(奈良県天理市)出土の大刀(たち)。研究者は「女王卑弥呼が、黄金の文字が輝く大刀を誇示することで倭国統一を確かなものにしたのかもしれない」と推測し、調査成果に目を見張る。昭和36年の発見から半世紀近くたち、最新の科学の目は、1センチに満たない小さな文字に秘められた古代の日中関係を浮かび上がらせた。

 

 大刀は、銘文冒頭に記された「中平」の年号から、中国の後漢王朝が西暦184〜189年に作ったとの説が有力。中国の歴史書「魏志倭人伝」などによると、日本で170〜180年ごろ、「倭国大乱」があり、卑弥呼の擁立で戦乱が終結した時期とほぼ合致する。

 東大寺山古墳を発掘調査した金関恕(ひろし)・大阪府立弥生文化博物館長(考古学)は「女王になったばかりの卑弥呼が中国に使者を送り、金象眼大刀を譲り受けたのではないか」とみる。

 金関氏はさらに、景初3(239)年、中国の皇帝が卑弥呼の使者に対し「五尺の大刀二本、銅鏡百枚などを与える。持ち帰って汝(なんじ)の国中に示せ」と伝えたとする魏志倭人伝の記述に着目。東大寺山古墳の大刀の年号と半世紀ほどずれているものの、中国の権威の象徴であることは変わりないとし、「当時の倭国では相当の権力者でも本物の金を目にすることはなかったはず。中国の権威を帯びた金色の銘文の大刀をかざすことで、各地域の王を統治しようとしたのではないか」と推測する。

 また和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)も「銘文が純金なのは、中国王朝が倭国を重視していた証しとも考えられる」と指摘。4世紀中ごろに築造された東大寺山古墳に副葬されていた点については「卑弥呼の時代以来、大和政権中枢に権力の象徴として保管されていたが、政権が安定し、中国の権威に頼らなくても統治できるようになったため、東大寺山古墳の被葬者に与えられたのではないか」と話す。

 東大寺山古墳には大量の武器が副葬されていたことから、武将の墓との説が有力。金象眼大刀の副葬について金関、和田両氏は、日本書紀などに将軍として登場し、この古墳一帯に拠点を置いたという大豪族・ワニ氏の武勲をたたえて与えられたとの見解で一致する。

 この大刀については、日本製との説もあるが、村上隆・京都国立博物館保存修理指導室長は「日本での純金製品の製造は、7世紀後半の飛鳥池遺跡(奈良県明日香村)で確認されている程度。3世紀は純金にするほどの精錬技術はなかったと考えられ、大刀は中国製の可能性が高まった」と述べた。

    ◇

 東大寺山古墳の大刀は6月6日まで、東京国立博物館で展示されている。

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12月25日15時1分配信 毎日新聞

 ◇謎多い、国家の形成 国の事業で本格調査を
 普段は静かな桜井市の田んぼの一角に11月、全国から約1万1300人が詰めかけた。女王・卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)と同時代の大型建物跡が見つかった纒向(まきむく)遺跡の現地説明会。ぬかるんだ発掘現場にベビーカーを押してやってくる家族連れ、革靴を泥だらけにしながら説明に聞き入るスーツ姿の男性……。調査を担当した同市教委の橋本輝彦主査は「考古学ファンだけでなく、多くの人に関心を持ってもらえた」と喜ぶ。
 邪馬台国の最有力候補地とされる同遺跡。大型建物跡は推定で南北19・2メートル、東西12・4メートル。「一帯が卑弥呼の『宮室』(宮殿)の可能性がある」との専門家の指摘もあり、邪馬台国大和説に弾みがついた。
 この南約3・4キロ、初期ヤマト政権の大王墓の可能性が高い前方後円墳・桜井茶臼山古墳(全長約200メートル、3世紀末〜4世紀初め)では、古代中国で不老長寿の薬とされ、金よりも貴重とされた赤色顔料「水銀朱」が石室全面に塗られていたことが分かった。
 これらがある奈良盆地東南部(桜井、天理両市)は、初期ヤマト政権誕生の地とされ、大王墓の可能性のある全長200〜300メートルの前方後円墳が6基もある。邪馬台国の所在地論争は結論を見ないが、遅くとも3世紀後半には、この地域に強大な権力が成立し、国家としての礎が築かれたことは、大方の研究者が認める。
 しかし、この地域の歴史はなじみが薄い。6世紀以降、宮殿や寺院が多く建てられた飛鳥や、来年遷都1300年を迎える平城京に比べて知名度は低く、訪れる人も少ない。
 理由は、よく分かっていないからだ。纒向遺跡の発掘面積は全体の5%に過ぎない。見つかった大型建物は3世紀中ごろに廃絶され、後の王の宮殿は分かっておらず、卑弥呼の墓もはっきりしない。桜井茶臼山古墳も、絶大な権力を持った被葬者は誰か分からず、その宮殿も見つかっていない。さらに6基のうち4基は宮内庁の陵墓・参考地に指定されており、発掘調査されたのは2基だけだ。
 この地域は、県立橿原考古学研究所や桜井、天理市教委などが調査しているが、本格的に日本の始まりを探るならば、国の専門機関を設けた方がいいのではないか。この地域を中心に国家が形成されたことは間違いなく、調査によって得られる成果は大きいはずだ。国の事業として取り組む価値はあるだろう。【高島博之】


12月25日15時1分配信 毎日新聞

 ◇謎多い、国家の形成 国の事業で本格調査を
 普段は静かな桜井市の田んぼの一角に11月、全国から約1万1300人が詰めかけた。女王・卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)と同時代の大型建物跡が見つかった纒向(まきむく)遺跡の現地説明会。ぬかるんだ発掘現場にベビーカーを押してやってくる家族連れ、革靴を泥だらけにしながら説明に聞き入るスーツ姿の男性……。調査を担当した同市教委の橋本輝彦主査は「考古学ファンだけでなく、多くの人に関心を持ってもらえた」と喜ぶ。
 邪馬台国の最有力候補地とされる同遺跡。大型建物跡は推定で南北19・2メートル、東西12・4メートル。「一帯が卑弥呼の『宮室』(宮殿)の可能性がある」との専門家の指摘もあり、邪馬台国大和説に弾みがついた。
 この南約3・4キロ、初期ヤマト政権の大王墓の可能性が高い前方後円墳・桜井茶臼山古墳(全長約200メートル、3世紀末〜4世紀初め)では、古代中国で不老長寿の薬とされ、金よりも貴重とされた赤色顔料「水銀朱」が石室全面に塗られていたことが分かった。
 これらがある奈良盆地東南部(桜井、天理両市)は、初期ヤマト政権誕生の地とされ、大王墓の可能性のある全長200〜300メートルの前方後円墳が6基もある。邪馬台国の所在地論争は結論を見ないが、遅くとも3世紀後半には、この地域に強大な権力が成立し、国家としての礎が築かれたことは、大方の研究者が認める。
 しかし、この地域の歴史はなじみが薄い。6世紀以降、宮殿や寺院が多く建てられた飛鳥や、来年遷都1300年を迎える平城京に比べて知名度は低く、訪れる人も少ない。
 理由は、よく分かっていないからだ。纒向遺跡の発掘面積は全体の5%に過ぎない。見つかった大型建物は3世紀中ごろに廃絶され、後の王の宮殿は分かっておらず、卑弥呼の墓もはっきりしない。桜井茶臼山古墳も、絶大な権力を持った被葬者は誰か分からず、その宮殿も見つかっていない。さらに6基のうち4基は宮内庁の陵墓・参考地に指定されており、発掘調査されたのは2基だけだ。
 この地域は、県立橿原考古学研究所や桜井、天理市教委などが調査しているが、本格的に日本の始まりを探るならば、国の専門機関を設けた方がいいのではないか。この地域を中心に国家が形成されたことは間違いなく、調査によって得られる成果は大きいはずだ。国の事業として取り組む価値はあるだろう。【高島博之】

12月21日3時30分配信 産経新聞


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発掘調査によって5世紀後半の築造と判明した堂ノ後古墳=奈良県桜井市(小畑三秋撮影)(写真:産経新聞)

 地中レーダー探査によって国内最古の3世紀前半の前方後円墳とされていた奈良県桜井市の堂ノ後(どうのうしろ)古墳について、市教委が実際に発掘したところ、出土土器などから5世紀後半の築造だったことが20日、分かった。同古墳の近くには、卑弥呼の墓との説もある箸墓(はしはか)古墳があり、邪馬台国との関連が注目されていたが、200年以上新しいことが確実となった。ただし、この地域は、大和政権が大阪・河内地域に移った5世紀の実態が不明で、邪馬台国時代以降の空白期を解明する上で貴重な資料になりそうだ。

 

 堂ノ後古墳は、墳丘が田畑などによって大幅に掘削されて築造当初の形をとどめておらず、直径35メートルの円墳と考えられてきた。

 地中レーダー探査は平成17年、天理大学の考古学専攻の学生らが実施し、墳丘を取り囲む周濠(しゅうごう)の存在を確認。観測データを詳しく分析したところ、土の質の異なる部分が見つかったことなどから、堂ノ後古墳の周濠は、約20メートル東にあるホケノ山古墳(3世紀中ごろ、全長約80メートル)が築造される際に、一部が壊されたり埋められたりした可能性のあることが判明した。

 その結果、堂ノ後古墳は、最古の前方後円墳ともいわれるホケノ山古墳より古いと推測された。

 地中レーダー探査ではさらに、現在は確認できない前方部が存在することも突き止め、全長60メートル以上の最古の前方後円墳と推定され、学界の注目を集めた。

 市教委が今年夏、墳丘の一部を発掘調査したところ、長さ約2メートル分の前方部の一部や周濠が見つかり、さらに南側に延びることが判明。地中レーダー探査が正しいことを実証した。さらに、葺(ふ)き石も出土した。

 築造時期については、須恵器と呼ばれる土器や円筒埴輪(はにわ)、鶏形埴輪などが見つかり、いずれも5世紀後半のものだったことから、堂ノ後古墳は、ホケノ山古墳より200年以上新しいことが分かった。

 これによって、最古の前方後円墳は、ホケノ山古墳をはじめ、約1キロ北西にある纒向(まきむく)石塚古墳などに絞られることになった。

 今回の発掘成果について、天理大学の桑原久男教授(考古学)は「地中レーダー探査では前方部の有無など平面の形は明確に把握することはできたが、古墳の新旧については、判断が難しいのかもしれない」と指摘。桜井市教委担当者は「地中レーダー探査のデータがあったからこそ、前方部の存在を予想して発掘調査ができた。探査の重要性が変わることはない」としている。

12月4日15時21分配信 産経新聞

 宮内庁は4日、「小奈辺陵墓参考地」として管理する奈良市法華寺町の前方後円墳・コナベ古墳(5世紀前半ごろ)の発掘調査現場を報道陣に公開した。午後には研究者らに公開する。

  [フォト]コナベ古墳の調査現場を公開 江戸時代「元正天皇陵」扱い

 コナベ古墳は平城宮跡の北東に位置。佐紀盾列古墳群のうち東群の1基で全長約204メートル。江戸時代には一時、元正天皇陵とされたが、被葬者は不明。

 これまでの調査では18カ所を発掘。14カ所で葺石(ふきいし)が確認され、下層にこぶし大、上層に人間の頭ほどの大きさの石を使用していることが分かった。また、家形埴輪(はにわ)などの形象埴輪や円筒埴輪列が出土。中近世の鉢なども見つかった。

 墳丘の発掘調査は、すそ部の護岸工事に伴い、遺構や遺物の残存状況を確認して工法を検討するのが目的。宮内庁書陵部が11月上旬〜今月下旬の予定で実施している

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11月27日21時58分配信 産経新聞

 奈良県橿原市の藤原京(694〜710年)跡調査地で、大極殿を囲んだ回廊の遺構が約50メートルにわたって出土し、奈良文化財研究所が27日、発表した。回廊造営の資材を運搬したとみられる溝跡もそばで見つかり、研究所は「回廊の規模や構造が確認でき、造営工事の過程も見えてきた」としている。

 大極殿を囲む回廊は、東西約115メートル、南北約155メートルの方形だったと推定されており、調査はその東南角で実施。南面回廊約40メートル、東面回廊約10メートルの礎石の柱列跡を確認した。南面、東面とも幅は約8.4メートルで、回廊の中央を壁で区切った「複廊(ふくろう)」だったとみられる。

 一方、溝跡は幅3〜5メートル、深さ70センチ以上あり、長さ約17メートル分を確認。過去に見つかっている宮殿造営のための大規模運河跡とつながっていた。南面回廊跡の約3メートル南側に平行して掘られており、回廊工事の終了とともに埋め戻されたらしい。

 溝跡の底からは工事中に廃棄したとみられる木くずや“不良品”の瓦が出土。溝跡と回廊跡の間からは、足場を組み立てた痕跡と考えられる多数の小さな柱穴跡も見つかった。

 現地説明会は29日午後1時半から。小雨決行。
写真は産経新聞より


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