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古墳、遺跡、横穴式石室に迫りたいです。無理をせずボチボチと。

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10月14日7時56分配信 産経新聞

 大阪府河内長野市天野町の天野山金剛寺の多宝塔(重要文化財)内部に描かれた壁画が11月1〜3日、初めて一般公開される。約300〜400年前に描かれたもので、同市教委の担当者は「極彩色の仏画が、これほど美しい状態で残っているのは珍しい」としている。

 金剛寺は奈良時代に聖武天皇の勅命を受けた行基によって開かれ、多宝塔は平安時代に建てられたとされる。内部の板壁や柱、扉などには十二天像や飛天像、飛龍像、菩薩像などが描かれている。

 これらの仏画は慶長11(1606)年と元禄13(1700)年に描かれたとみられ、現在も鮮やかな彩色が残っている。今年度から9年間かけ、多宝塔や金堂などを修理するにあたり、その文化遺産としての価値を理解してもらうため、初の一般公開が決まった。

 3日間で計100人限定の公開で、見学するには今月18日までに往復はがきでの事前申し込みが必要(多数抽選)。特別拝観料3千円(入山料込み)。問い合わせは金剛寺((電)0721・52・2046)。 .

10月10日15時0分配信 毎日新聞

 羽曳野市教委は、4世紀後期の前方後円墳「庭鳥塚(にわとりづか)古墳」(同市東阪田)から05年に出土した鉄製品1点が、その後の調査で短冊形の鋸(のこぎり)と分かった、と発表した。同時期の鋸の出土は全国22例目、府内4例目で、南河内地域では初。府立近つ飛鳥博物館(河南町)の秋季企画展「河内平和の集落と古墳 謎の4世紀を探る」(10日〜12月13日)で初公開する。
 市教委社会教育課によると、鋸は全長24・5センチ、幅2・9センチ、厚さ0・22センチ。出土当初は鉄剣の一部としていたが、今夏の再点検で、他に出土した鉄製品の破片と接合できることが分かったという。歯の部分は腐食が激しくレントゲンでも確認できなかったが、両端に柄の痕跡とみられる木質部が残り、他の同時期の出土例との比較から鋸と判断した。
 同古墳では、木棺内から三角縁神獣鏡1点のほか、棺外から大量の鉄・銅の鏃(やじり)なども出た。同課は「今回の発見で、想定される被葬者の人物像の裏付けが進んだ」としている。【武井澄人】

10月10日朝刊

去年、たずねていったところ。ブルーシートで覆われて見れませんでした、今度、訪れたいです。

困った顔

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 大王墓級の墳長208メートルを誇る前方後円墳、大阪府藤井寺市の津堂城山(つどうしろやま)古墳(4世紀後半)の墳丘で、こぶし大の石を敷き詰めた「葺(ふ)き石」が良好な状態で確認されたと同市教委が1日、発表した。古墳は陵墓参考地と国史跡に二重指定されており、墳丘本体の発掘は約100年ぶり。研究者は「なぞに包まれた巨大古墳を解明するうえで貴重な資料。陵墓調査・公開への前進にもつながる」と注目している。

 陵墓や陵墓参考地を含む古墳本体が、宮内庁以外によって調査されるのは極めてまれ。今回、後円部墳頂の陵墓参考地部分を囲むフェンスの基礎部が土砂崩れで露出し、石棺のある竪穴式石槨(せっかく)(石囲い)が崩壊する恐れがあるため、復旧工事を前に市教委が墳丘すそ部までの長さ50メートル、幅2メートルを発掘調査した。

 その結果、河原石をびっしりと敷いた1段目斜面(長さ9メートル)の葺き石が出土。続く長さ6メートルの平面に並ぶ埴輪(はにわ)3基や、2段目斜面(長さ6メートル)の葺き石も確認された。市教委は「初期の大王墓墳丘がどんな規格で築造されたかを推定できるデータが得られた。墳丘上部はえぐられているが、1、2段目の形などからみて、これまで3段とされてきた墳丘が4段だった可能性もある」としている。

 津堂城山古墳は、大阪平野に群集する大型古墳の中で最も早く築造されたとされる。室町時代、山城に利用されて墳丘の形が大きく崩れ、王権の象徴とされる巨大な前方後円墳でありながら、明治初期の陵墓治定から外された。1912年に後円部の墳頂が掘り起こされ、国内最大級の長持(ながもち)形石棺が出土している。

 白石太一郎・同府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は「200メートル超の大王墓級の古墳本体に発掘の手が入った意義は大きい。他の陵墓発掘に宮内庁がどう対応するのか注目したい」と話す。奈良県立橿原考古学研究所の今尾文昭・総括研究員は「画期的な調査。宮内庁と文化財行政側は立場が違うが、しっかり保存したいという目的は同じはず。宮内庁と地元行政が互いに活用できる調査データを共有する関係を築くきっかけになれば」と期待を込める。

 現地説明会は、3日午前10時〜午後4時(随時説明)。問い合わせは市教委文化財保護課(072・939・1417)へ。(大脇和明)

10月2日16時2分配信 毎日新聞

 御所市教委は1日、京奈和自動車道建設に伴う同市玉手地区の発掘調査で、県内最古級の弥生時代前期(約2500年前)の水田跡が見つかったと発表した。農作業をした弥生人の足跡も確認。同市教委は「稲作が奈良盆地に伝わって間もない時期の、水田の実態を知る貴重な資料になる」としている。
 JR玉手駅北側の約6800平方メートルを4月から調査。縄文時代晩期(約2800年前)〜古墳時代前期(約1700年前)の遺構が7層にわたって確認された。
 弥生時代前期の水田跡は、高さ最大15センチのあぜで、縦3・5〜5・5メートル、横1・5メートル程度に細長く区画されていた。緩い斜面になっており、棚田のように斜面に作られたとみられる。水田内を巡る用水路や川から水を引く際の堰(せき)のほか、水田に深く足を沈めてできた弥生人の足跡も無数に見つかった。
 北約2キロの萩之本遺跡(橿原市川西町)でも同時期の水田跡が見つかっており、同市教委は「一帯が大規模な稲作地帯だった可能性がある」としている。
 このほか、縄文時代晩期の土器の棺おけ「土器棺墓」1基、古墳時代前期の建物跡2棟も見つかった。現地説明会は4日午後1時から。駐車場はなく、玉手駅から徒歩3分。小雨決行。【高島博之】

10月2日朝刊

9月16日15時1分配信 毎日新聞

 ◇築造時から堤を造る計画
 邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼の威信を示すかのように、大規模な二重周濠(しゅうごう)に取り囲まれていたことが確定的となった桜井市箸中の「箸墓(はしはか)古墳」(3世紀後半、全長280メートル)。7世紀まで全国で築造され続けた前方後円墳の原型とされ、調査した同市教委は「前方後円墳の周濠の発展過程を考える上で重要な成果」としている。
 同古墳を造るため、周囲では大量の土が取られた。しかし内濠の堤は、元々の地盤をあえて取り残し、その上にさらに土を盛って造られていた。同市教委は「墳丘築造時から堤を造ることを計画し、作業が進められた」とみている。
 また、墳丘から約70メートル離れた外濠の堤跡では、約11メートル幅の盛り土が見つかった。墳丘を造る土を掘り出した後、きれいに整形していたとみられる。
 初期の前方後円墳は、手間を省くために山の尾根などを利用して築造されることが多い。しかし、箸墓古墳は平地に巨大な墳丘を築いており、土木作業量は膨大なものだったことがうかがえる。日本書記は「昼は人が造り、夜は神が造った。山から墓に至るまで人々が手渡しで石を運んだ」と、大工事ぶりを伝えている。
 古墳時代が専門の白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長は「大規模な周濠は、視覚的にも古墳を大きく見せる効果も考え、墳丘の築造時から計画的に造られた可能性がある」と話している。【高島博之】

また、桜井市に行かなくては・・・・・。


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