ゆうやけ・こやけ

求めているのは、雨上がりの夕焼けあとにやってくる青空です。

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『駆けいでるとき』(10)

          10

 真冬の陰鬱な朝をほとんど眠れないまま貴男は迎える。まだ明けてはいなかったが、風のない、暖かな朝だった。性器だけが異常なほど勃起していた。寝汗をかいたのか、湿ったままのシーツから抜け出す気力をなくしたまま、貴男は屹立したままの性器を手にしていた。頭をかすめるのは、昨日、何もなすこともなく逃げ帰るしかなかった村でのことだった。オレの体で、いま動きうるものはこいつだけだ。貴男は己のいきり立つ性器をさらに握りしめながら、自分たちを拒絶し続ける村を呪った。すぐかたわらにナオミが額に汗を浮かべたまま眠っている。父親を手伝い、夜半過ぎても竹細工作りに精を出していたせいか、まだ深い寝息を立てている。囲炉裏にはまだそのときの残り火が赤い炎を立てていた。おかげで、冬の朝とはいえ、家全体に温もりが残っている。襖一つ向こうにはヨネ、そして老父がやはり眠り込んでいる。二人の寝息もまた、深い最中にあった。貴男はそのまま横になっていることに耐えられず、まるで何かに追いたてられるようにして起きた。それにナオミが反応し、しばし目覚めた様子だったが、トイレだという貴男のささやきに安堵したのか、すぐさま再び深い眠りに落ちた。貴男は音を立てないようにして身支度を整えて家を出た。温かなせいか、あたりは冬によくある薄靄に包まれている。

 貴男は社地と村を交互に眺めることのできる斜面に立った。性器はまだ勃起していた。貴男はそこで、己の性器を社地に向け、まるで社地を汚すかのように長い時間をかけて自涜し、放尿した。貴男は眼を凝らして社地を見た。番小屋のような建物には明かりが灯り、人影が見えた。貴男の足はごく自然に社地に向いた。一度、はっきりとその正体を探ってみたかった。陽が差すにはまだ間があったが、朝はすっかり明けていた。貴男が村人に悟られないように木立の中を抜けて社地についたときには、焼け落ちた松明が燻っている番小屋には誰もいなかった。それでも、木立の影から貴男は周りの様子を探る。付近に誰もいないことを確かめると、貴男は社地の側面から社地の裏手にあたる斜面を登った。そこから番小屋にいたと見える二人の村人が、村への坂を下って行くのが眺められた。交替がやってくるまでには少し余裕があるだろう。もし早目にやってきても、ここからならわかる。貴男は社地を見降すことのできる場所に移動した。黒いアスファルト道路と社地は短い隧道で結ばれている。その隧道の上から、貴男は延々と続く道路を見降す。完成したばかりと思える黒いアスファルト道路上には足跡一つなかった。

 ナオミの話では、工事のために仕方なくつけられた足跡は舗装が完成した箇所から次々と洗らわれたという。それは女たちの仕事で、女たちは道路に上がる前にまず足を洗い、近くを流れる小川から運んできた水をかけながら道路上にできた汚れを洗い流す作業を続けているということだった。ナオミもかつて、最初の頃はその作業に加わっていた。しかし、弟の一件でその役から排除された。明け方目覚める前に見た夢、それはこれだったと貴男は思った。黒く、露に濡れたアスファルト道路を誰かが駆けていた。それはナオミではなかったろうか。あるいはそれはヨネだったのか。すでに夢の記憶は薄らいでいた。ただ、女たちが素足でこの道路を確かに駆けていた。ナオミに聞いたその光景が脳裏のどこかに残っていたのだろうか。今朝、貴男はそんな夢を見ていた。その今朝の夢がヒタヒタという足音を伴って貴男の脳裡に再び浮かぶ。そして、確かにオレが叫んでいた。「ナオミ、駆けろ、駆け抜けろ!」と。ヒタヒタという足音は夢の中でいつしか、追っ手の足音となっていた。駆けているのは貴男自身ともなり、ナオミともなった。追っ手はすぐそばまで迫っていた。貴男は再び叫んでいた。「ナオミ、駆けろ、駆け抜けろ!」。

 社地はやはり同じようにアスファルトを埋めた石垣で囲まれている。工事はほとんど完成しているように思われた。あとは運動場のように広い社地を囲む鉄柵が一部分、末完成のまま残されているだけだった。社地の中央部に、ほぼ正方形に盛座が造作されている。恐らくそこに社が建てられるのだろう。この社地にふさわしい建物は間もなくここに出現する。それは鋼鉄の柱に支えられた黒色の屋根を持つものに違いない。その巨大な社の棟上の日、仮に造られた屋根の下ではこの社地の上に第一歩を記すことになる不確かな人物への儀式が挙行される……。それはいったいどんな人物なのか。貴男はふと、その社地を汚すことを想定し、思わず額の汗を拭った。それと同時に、その不確かな人物に、突然、畏怖した。間もなく陽光が山闇から現われようとしている。この村にふさわしい気怠るいままの陽光が……。貴男は腕を伸ばして支えにしていた細い木を押し倒そうとした。木の根は強く、そう簡単には倒れそうもなかったが、それでも周りの土が斜面を転がり、社地の上にわずかの汚点をつけた。だが、それは社地の広さに比べ、あまりにかすかなシミでしかない。貴男は足元の石を蹴った。その石は社地で跳び跳ねながら砕け、かなりの汚点をつくった。これはこれで大騒ぎになるかもしれない。そう思いながらも、それを見ているうちに貴男の先ほどの畏怖感はすでに消失していた。

 しかし、これだけの汚点が一体何になろう。貴男は自分の犯した小さな反抗をむしろ嫌悪した。小心者の己れにできたわずかの反抗。これはすぐ洗い流されるだろうし、村人には偶然起こった産物としか捉えられないかもしれない。そして、社地の成立には何の意味もなしえない。貴男は徒労を感じながら、そこに坐りこんだ。それ以上の土壌を、社地に落とすことにはまだ勇気が足りなかった。それでももう一度、貴男はすぐそばにあった石を蹴り落した。しかし、石は社地の手前の木に遮られてその根元でとまった。さらにもう一石を蹴り落そうとしたとき、貴男は誰かに視つめられている気配を感じた。しかし、周囲には誰もいない。村のほうを眺めると、交替のための見張りがやってきている。もう少し気づかずにいたら、あるいは貴男は視つかっていただろう。貴男は慌てて斜面の木立の中に移動した。そこから村人の動向を貴男は視つめる。しかし、見張りの二人は社地までくることもなく、そのまま番小屋の中に入った。貴男は彼らが汚れた社地を見つけたときどんな驚動を示すのかを確かめたかった。貴男は彼らが小屋から出てくるのをしばらく待ったが、なかなか出てきそうもなかった。貴男は番小屋に投げつけようとして小石を手にした。それを投げようとしたとき、再び自分を見つめる人の眼を感じた。貴男は一瞬、ナオミの弟を追いつめた村人への脅威を感じた。

 風で揺れる木々の音以外に、人の動くような音も聞こえた。ほかにも見張りがいたのか……。貴男は動揺しながら斜面を登った。そうしながら何度も背後に恐怖を感じた。いまにも何人かの村人が襲いかかってくるかのように錯覚された。貴男はまるで銃口を視つめながらその引き金が引かれるのを待つ死刑因のような気持ちだった。見えない相手が現われるのを貴男は歩きながら待った。貴男は歩き続けた。相手はなかなか襲いかかってきそうもなかったが、自分のあとを誰かがつけていることはもはや間違いなかった。そして相手が一人であることを貴男はその足音から察した。貴男は駆けた。相手がそれに動じたのを確かめてすぐ振り返った。なんと、そこにはヨネがいた。「ヨネさん」。それは確かにヨネだった。ヨネは視つけられたことに彼女なりに狼狽しながら貴男を怯えた顔で見た。ここまでついてきたもののどうすればよいのか教えてほしい、という感じだった。ヨネは家からずっとオレをつけていたのだろうか。思いがけない相手に、貴男は安堵する一方で、ヨネのそうした行動をいぶかった。貴男はヨネのそばに近寄った。叱られると思ったのか、ヨネはうつむいたまま、眼だけを貴男を向ける。そして、足元の雑草を引きちぎるとそれを口に入れては吹き出す。それはヨネが、どうしていいのかわからないときによく見せる仕種だった。その度にヨネの顔は頭髪の中に隠れた。

 まるであどけない少女のような仕種に貴男はほっと一息ついた。服装と頭髪が黒ければ、少女以外に思いようもないだろう。一人の少女が山の斜面に立っている。もし、他に誰かがみてもそう思うだろう、ヨネはまだ少女なのだ。ふと、貴男はそんな感傷に浸った。だが、それはすぐ否定されてしまった。ヨネが俯くたびに胸がはだけ、そのふくらみが、乳首までが覗いた。それは初めての光景ではなかった。ヨネが不用意に見せるごく普通の光景だった。貴男の眼に、それが今朝は妙に生々しかった。もはや決して美しい肌ではない。それはすでに老いを忍ばせ、浅黒く、乾燥していた。そんな中にも、かつての豊満な肉体が感じとられる。村人の何人がこの肌を知っているのだろうか。彼らは何の躊躇いもなくこの体にさわり、そして犯したのだ。あまり多くの感情を持たずして生れてきたヨネが、その快感を覚えたとき、彼らは自分の性器を剥き出しにするヨネを相手にしなくなったに違いない。こうして風を静かに受けているヨネを視ていると、かつてヨネの身に起こったことは容易に想像できない出来事のように思えた。それにしても、ヨネはナオミによく似ている。

 叱られないことを察してか、ヨネの表情は先ほどとは違っている。そして、その眼に期待が浮かんでいる。ヨネはオレを求めているのだろうか。それに、もしヨネが家からずっとオレをつけていたのなら、オレが手淫する様をどこかで見ていたに違いない。ヨネはそれを見て、何を思っただろうか。貴男は自分のよこしまな考えがそれ以上ヨネに向けられることを自ら否定して頭を振った。それを見て、ヨネが再び動揺した顔を見せた。貴男はすこし語気を強めてヨネに家に帰るようにいった。そしてそれ以上ヨネに構わずに再び斜面を歩き始めた。ヨネは相変わらずあとをつけてきた。貴男は家に帰るふうを装って一度家に向かう道に引き返し、そこでヨネを撒いた。木立の影からヨネが自分を捜しながら家のほうへ帰って行くのを確かめて、貴男は再び社地の裏側に向かった。見張りの村人はまだ小屋にいる様子だった。社地の汚点にはまた気づいている様子もなかった。貴男は眼覚めはじめたらしい村の中心部にある村の支配者の住家を眼にした。社殿風のその建物は堂々とした構えで、全体が金属質でできているような印象を受ける。尾根伝いにその位置を確認すると、貴勇は再び斜面を登り、尾根に沿ってその家を目差した。(つづく)

■『駆けいでるとき』は15回前後の連載予定です。

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貴雄が何の未練と興味があって村に執着しているのでしょうか。美しくないヨネはいまだに村の男達から陵辱されているかもしれない。そして、仲介役のナオミは、貴雄と何を目指そうとしているのか。また明日来ます。ゲスブコメありがとうございます。書きたいのかそうじゃないのかわからず、キーボードの前で呆としてばかりの昨今です。だから「読者」としてまた来ますね。

2007/1/10(水) 午後 3:04 [ ]

人間て鬱屈とした思いに駆られると社会の決まりの一線をたやすく越えていくものなのでしょうか。とても怖くても、許されないことでも。

2007/1/13(土) 午前 6:41 eterena

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うおおぅい、なんてことをするの、この子は!と思いながら、拝読させていただきました。いかに貴雄がまともで村人が異常であっても、村の掟を破ることはナオミたちへの危険に繋がるものであって、度々貴雄を殴ってやりたい衝動に駆られながらも、これ以上悪いことが起きなければいいなぁ、思うばかりです。なんだか私の目には、村人たちが幽霊のような恐ろしい存在に見えてきました。続きもどぎまぎしながらお待ちいたします。

2007/1/13(土) 午後 11:14 [ - ]

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asuさん、これは短編なのですべてを書き込めないのですが、必ずしも人生に恵まれていなかった貴男にとって、ナオミの家族はあるいは人生を賭してもいい「家族」だと思ってみてください。ナオミ家族もまた、貴男とあまり違わない人生観を持っている、そんな結びつきを書いてみたかったのです。

2007/1/14(日) 午前 0:49 ゆうやけ・こやけ

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saiio3さん、世の中には、私たちの想像を超えた事件がいともたやすく引き起こされ、その結果に毎日のように驚愕しています。人って、何らかの一線(個人差はもちろんあると思いますが)を超えたとき、善悪ともに容易にもとのケモノに戻ることもあるのだと日々感じております。必ずしも回答にはなっていないかもしれませんが、私は人として、ときには良心的な思いで刹那な感情を持った人間でありたいと願っています。

2007/1/14(日) 午前 1:00 ゆうやけ・こやけ

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エテナさん、いつもありがとう。村の掟は、社会のルールです。それを破ろうとするときにはそれなりの理由が必要でしょう。そしてこの社会は同時に、掟を破ることで変革された社会でもあるわけです。偉そうなことを言いましたが、そうした思いを作品に反映させること、これはまた難しいですね。

2007/1/14(日) 午前 1:08 ゆうやけ・こやけ


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