ゆうやけ・こやけ

求めているのは、雨上がりの夕焼けあとにやってくる青空です。

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『瀬戸内海物語』 12

  第二章

(その5)
 同じ年の夏の終わり、九月に入って間もないある日、弟から父が交通事故にあったとの知らせがあった。その電話はたまたま私の部屋にいたサヤカが受け、サヤカから私の仕事先に電話があった。弟とサヤカは面識があった。出張で上京した折、谷川岳に登りたいという弟をサヤカとふたりで案内した。私たちはすでに何度か登っていた。弟は私とサヤカの仲について直接訊くようなことはなかったが、私の仕事部屋にサヤカの存在を匂わす日常生活用具があることからも、それとなく察していたろう。命に別条はないというものの、私は取るものをとりあえず折からの台風上陸前の予報を耳に慌ただしく帰省した。幸いにも父の傷は浅く、駅からすぐに見舞った病院で、父は頭に包帯を巻いた状態でベッドで眠っていた。起こそうとする弟を制し、父が目覚めるのを待った。雨と風は収まりつつあったが、病院の窓から珍しく遠くの海に白波が立っているのが見てとれた。瀬戸内海がこれほど荒れるということは台風でも来ない限りなかった。
「おお、きとったんか。申しわけなかったのう」
 久々に聞く父の声だった。
「大丈夫なんか。びっくりしたよ。もうあまり車には乗らないようにせんといけんよ」
「いまはあんまり乗っとらんで。じゃが、ちょっと乗ってみようと出たところで追突されてなあ。フロントに頭を突っ込んでしもうたが」
 父の車は軽自動車だった。追突した車は四トントラックだったという。それだけに衝撃が大きかったのかもしれない。スピードが出ていなかったぶん、軽症ですんだ。父とはその後、わずかばかり話した。このころの私と父にはほとんど会話らしい会話はなかった。年を経てもなお、そこにはまだこだわりがあった。私はいったん実家に帰り、明日の朝、あらためて見舞うことにした。病室を出ようとする父が私に声をかけた。
「久しぶりに帰ったんじゃ。本家に寄っておばあさんに線香をあげんといけんでぇ」
「ああ、そうするよ」
 脳裏に思わず、フサの顔が浮かんだ。フサは紛うことなく父の母だが、私にもそうだと父に言ってやりたい気がした。そのフサのやさしいその顔が、もういい加減にせんといかんよと、私にほほ笑んでいる。
 夕刻の病院を出ると風はほとんどやんでいた。台風は去りつつあるのか、夕焼けに染まる瀬戸内の海の白波がかなり収まりつつあった。それにしても父の怪我が思ったよりも軽かったことに安堵した。私は海に向けて思いっきり両手を広げ、大きく息を吸った。
 この年の夏の始まり、私はサヤカの生まれ故郷近く、東北の太平洋岸をサヤカと旅したばかりだった。帰省したサヤカと仙台空港で待ち合わせ、バスで海岸に向かい、そこから相馬、いわきへと海岸辺りのホテルに一泊ずつしながら夏の海岸線をバスを乗り換えながら南下した。夏の太平洋は予想に反して凪いでいた。それでもホテルでは潮の遠鳴りが聞こえ、行く先々で瀬戸内の海とは違う潮の香りを嗅ぐこともできた。
 私が初めて太平洋を眼にしたのは高校の修学旅行のときだ。山陽線の夜行列車で、私たちはとりあえず富士吉田を目指した。夜が明けた頃には、列車は太平洋岸を走っていた。列車の窓から見た広大な太平洋の波頭に私たちは一応に眼をみはった。瀬戸内海とは違う茫漠たる海にたじろぎさえもした。富士吉田からバスで富士五湖をめぐり、横浜に出たが、富士周辺の高台から見た太平洋は一見瀬戸内海と変わらないように見えた。だが、大学入学後に訪れた房総の海、サヤカとともに旅をした東北の太平洋岸の波浪は幾度となく私の胸を揺するに余りあるものだった。空撮などで見る瀬戸内海は確かに箱庭然としている。TV番組などでは「瀬戸内海の島々」といった類のコメントで紹介されることの多い海だが、私の育った町から見える島は遙か見渡しても四島ぐらいしかなかった。ところが、一歩近隣の山に登り、眼下に瀬戸を望めば、その数は一挙に倍増する。だがその海も、私が育ったころの海ではない。この海もまた、ひどく汚染されつつあった。私が好んだのは、朝の瀬戸内海、正確にいえば、陽が昇った直後の海面で、その光景には眼を見張るものがあった。黎明から三十分ほどたったころだろうか。海は一挙に白金色に染まる。見る場所の高低で幾分時間のずれはあろうが、富士山でのご来光がまずほんのりと富士の山肌を照らし、そして一挙に山全体を黄金色で包むように、瀬戸内の海もまた、一挙に白金色に染まるのだ。以前父が、私を近隣の島での磯釣りに連れて行ってくれたことがあった。まだ小学生のころのことだ。朝の暗いうちに出かけ、目的の島に着いたときにちょうど朝陽が登り始めたときだった。岸壁に降り立ったちょうどそのとき、船着き場で、「おおう」と父や他の釣り客がいっせいに声を上げた。まさにそのときがその瞬間だった。まるで神が口から勢いよく海全体に小判を吹きつけるかのように、数秒もたたないうちに海はほんの数分間、白金色に染まった。海沿いの町に住んでいても、朝早く漁に出る漁師でもなければ、その瞬間を目にすることはなかなかない。太陽の位置と海面との微妙な角度がマッチして生み出されるわずかな時間内での光景だった。私とて以来、ほんの数回の出会いでしかない。
 かつての海には、もうひとつのドラマがあった。夏の夜、潮が満ちた海岸線に大量の海ホタルが押し寄せる。海岸辺りの外灯がそれほど豊富ではなかった時期、海ホタルの群れが海岸線を蛍光塗料で縁どったように青白色に犇めくことがあった。熱を発するわけはないと知っていても、海ホタルを両手で掬った手を慌てて開いた。掌は海水の冷たさを感じているのに、手の中で青白色の光を放つ海ホタルが犇めき合い、思わず手が焼けるように錯覚したものだ。海水をこぼしてもなお、掌には幾匹かの海ホタルが付着し、暗い海にかざした手はしばし輝き続けながら、海水に滴り落ちて光を失った。さらに今一度、合わせた手の中いっぱいに海ホタルを掬い上げる。二度めは掬った手の中で狂乱乱舞するかなりの光をじっくり観察できた。春から夏にかけて海温の上昇時に瀬戸の海の波打ち際に、大量の海ホタルが漂流する様はだれもが何度となく眼にした海の風物詩だった。海ホタルはプランクトンのようなものだと思うが、月齢による支配を受けているといわれ、どちらかといえば、満潮時に多く見られていたような気がする。それがあまり見られなくなったのはいつの頃からだったろうか。近隣の半島に、日本を代表する製鉄会社が工場を建設し、稼働したころからなのか。父が「あの精錬所ができてから、海温が二度も上がったそうじゃな、そのうち、海の生き物も変わってくるかもしれんでぇ」と、近所の誰かと話していた記憶がある。もちろんそれにどのような科学的データが裏づけされていたのか私にはわからない。が、掬った手を思わず開いてしまうほど犇めいていた海ホタルがいつとはなしに消えてしまったのは確かなことだ。幼児の頃、家の前がすぐに海だったことから、フサに「夜は海に、近づいてはいけんで。海坊主がな、長い手を出してお前を海に引きずり込んでしまうけぇなあ」とよく脅された。終戦直後のこと、海外線に今のような照明も少なく、海辺はことのほか暗かった。月明かりのない夜で海が凪ぎ、潮が満ちていれば、岸辺と海の境がなくなるような場所も多々あった。実際、海坊主に引きずり込まれたかのように、幼子が夜の海に落ち、翌朝、溺死体で見つかるというようなことがしばしばあった。フサは夜の帳が落ちると、一切の私の外出を禁止していた。近所の幼な友達の家に行くことさえ、双方の親の誘導がない限りかたく禁止していた。もちろん、そのことは、近隣の幼な友達の家とて同じだった。だから、この海ホタルの記憶は幼少時にはない。かなり大きくなってからの記憶でしかない。高校にはバスで通っていた。部活動で帰りが遅くなり、夜半に降り立ったバス停は海のすぐそばだった。道路際まで潮が満ち、海ホタルが海外線を青白く染めているのを見ると、私は必ずといっていいくらい海ホタルを掬い上げては海に離すことを繰り返した。何の意味もない、何も考えることもない、それでいてそうせざるを得ない私の静かな海の儀式だった。海ホタルは無理でも、明日の朝、白金色の海が見えるだろうか。
 バス停から私が生まれた家はほんの一足だった。ときにはそのままフサを訪ね、フサにすすめられるまま夕食をともにして家に帰ることもしばしばあった。その家が眼に入ってきた。昔とは何一つ変わらない懐かしい家だった。むろん、そこに現実のフサがいるわけはなかった。

 翌日、早目に病院により、再度父を見舞った。昨日よりもだいぶ元気で、ベッドの上で相部屋の誰からともなく談笑していた。これならもう大丈夫だろう。
「帰るんか。すまんかったのう。お前も忙しいじゃろうに。ありがとう。みんなは元気にしとるか。帰ったら、子供たちによろしゅうにな。おじいちゃんが会いたいからはようおいでと言っとったと言うといて。これ、おじいちゃんから子供たちへの小遣いじゃ」
 父はそう言って、お年玉袋をふたつ出した。
「すみません。いただきます」
「もっとぎょうさんやりたいが、おじいちゃんもこのところは貧乏でな。これでかんべんじゃ」と笑った。
「わかった。ありがとう」と私は頭を下げた。
 あとで袋を覗いてみると。弟に準備させたらしい新札の一万円札が一枚ずつ入っていた。父を見舞うことは妻に伝えていた。東京に帰ったら子供たちに送るしかなかった。父は私の家庭の事情は知らない。新しい母もよほどの用事でもない限り、私の家に電話などすることもなかった。もっとも用事があれば、私の仕事先に電話をしてきた。それとなく私の事情を弟から聴いており、妻に遠慮があったのか、大抵の用事はそれですんだ。(第3章につづく)

*本稿は『ちば文学』第12号(2014年1月末日発行)に掲載されたものに加筆・訂正を加えたものです。現在も連載中ですが、転載を同意してくださった「ちば文学会」に感謝します。

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えっと、初めてブログに書き込みさせて貰いますヾ(´▽`*;)
迷ったんですけど、どうしてもありがとうを伝えたくて書き込みしましたo(^∀^*)o

スポーツとかでもそうですが、ブログも小説みたいに書き手のセンスが問われるんだなって。
同じようにブログを書いてる者としては刺激的でもあり、実力の差を知ってちょっとがっかりしたり笑(*#′∀`艸)

でも純粋に一読者として楽しくブログを拝見させた貰いましたし、あっというまにファンの一人になってました(о´▽`о)

自分のブログでもないのにちょっと書くか迷ったことがあるんです。
というのもちょっと抱え込んでる悩みがあって。
私の悩みにどんなことを、ゆうやけ・こやけさんなら言ってくれるんだろうって率直に知りたい気持ちです。

koikaren@i.softbank.jp

時間がある時でもちろん構わないので、もしよかったら連絡を貰えませんか。

2015/2/23(月) 午前 6:15 [ kik*q*qwpg*r ]

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ブログ巡り中です★
早速、幾つかページを見せてもらいました♪
文字の選び方が凄く私は好きになっちゃいました(*^_^*)
家族との写メや日々の事メインなのですが、遊びに来て下さいネ♪

2015/4/21(火) 午前 4:59 [ ゆうこ ]

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このところ、投げやりな日々が続き、おまけに大病して昨年夏より暮れまで入院していました。そんなこんなで、投稿があることも気づかず、本日、新規投稿して、あなたからのメッセージの接しました。光栄です。ありがとうございました。これからは注意して見ますので、よろしくお願いします。(ゆうやけ・こやけ)

2015/4/29(水) 午後 3:10 ゆうやけ・こやけ

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大病して昨年夏より暮れまで入院していました。そのためゆうこさんからの投稿があることも気づかず、本日、新規投稿して、やっとあなたからのメッセージの接しました。ありがとうございました。これから、よろしくお願いします。

2015/4/29(水) 午後 3:13 ゆうやけ・こやけ


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