ゆうやけ・こやけ

求めているのは、雨上がりの夕焼けあとにやってくる青空です。

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『瀬戸内海物語』 20

   第六章
 
 父が逝って五年ほどたった梅雨が開ける前の六月下旬、義母が老衰のために死んだ。弟だけが父と義母の両方の死を静かに看取ったことになる。結果的に、弟は両親の介護にも明け暮れた。そればかりか、二つの葬儀、それにつづく何年かおきにやってくる幾多の法事など、私に苦言を発することなくすべてを仕切ってくれた。弟には、弟なりに気持ちがあっただろうが、私には何もいわなかった。これもまた、私の立場を知ったうえでのことだったのだろうか。私は弟とそうしたことを話したことはなかったが、弟には本当にすまないという思いだった。
 父の葬儀につづいて義母の葬儀の前日、父の葬儀のときと同じように、子供たちの家族を含め、私は家族全員とともに帰省した。その折、私の長男のたっての願いで、私たちは家族全員で私が生まれ、祖母・フサの手を煩わしていた幼児期に過ごした本家を訪ねた。私たちは仏壇のある部屋に案内された。カメラを手に、鴨居に並んだ数々の肖像写真やそれぞれの屋内を親父のルーツがここかといいながら、長男は肖像写真を始め、家の各所をカメラに収めた。仏壇のある部屋は私の母が伏せっていた部屋だった。祖父の肝いりで造られた築山風の庭も、それに面したこの部屋も当時とはあまり変わっていない。変わったといえば、母が生きていた時代には南方で戦死した父の弟である伯父の写真が部屋の鴨居に掲げられていただけだったが、いまはそれに加えて、フサと祖父、父の兄夫婦の肖像写真が鴨居にぐるりと掲げられていた。
 そんな私たちを何の遜色もない笑顔で迎えてくれ、しばし相手をしてくれたのは、いまはこの家の当主となった最年長の従弟の妻の「お姉さん」だった。私たちはこの人のことをずっと前から「お姉さん」と呼んでいた。お姉さんは、私がまだ中学生だった頃に従弟と結婚していた。彼女は終始にこやかに私たち家族を歓待してくれた。彼女が従弟と結婚してから、折にふれ、私のことは当然、相当詳しく聴いていただろう。彼女はまるで、自分がそこにいたように、鴨居のフサの写真を時折見上げながら、私とフサの関係を私の家族に丁寧に説明してくれた。私は子どもたちには単に母が早く亡くなり、いまの祖母は義理に当たるという程度のことしか話していなかったが、子どもたち家族はフサの写真を見上げながら、お姉さんの具体的な話にいたく感動した面持ちで耳を傾けていた。長男と次男はまだ父が健在の折、妻とともに何度か帰省に同行していたから、父や義母のことはよく覚えていた。しかし、お姉さんから聴く私にまつわる話の多くは、二人の子どもとその家族にとっては初めて聞く話ばかりだった。
 その翌日、義母の葬儀を終えた私たち家族は街の前に浮かぶ島を訪ねた。息子たちはお盆や祭事の際に私や妻とともに何度か帰省し、この島での海水浴での思い出も多かった。島に渡るのは初めての小さな孫たちも、初めて乗った島への渡船や目前にした海岸に幼い歓声をあげた。海水浴シーズン前の、まだ人気のない島の海岸だったが、普段の暮らしには海も山もない都会育ちの孫たちにとって、そこは別世界だったに違いない。私はそんな孫たちを見ていて、ふと、祖母が夢見たという島での花見のことを思い出した。海岸でもようされるその夢の中には、幼い私も母もいた。その夢の中の一コマは、きっとこんな風景だったんだろうなと、私は幼い孫たちを見ながら、そっとフサの持っていたやさしさを思い出していた。
 島から街が見渡せる丘に登った。そこからは街の大半が見渡せ、私が幼児期を過ごした家も展望できた。街は梅雨の合間のぼんやりとした薄い靄に包まれていた。
 そんなとき、そのころ持ち始めていたポケットの携帯電話が鳴った。サヤカからだった。サヤカはいつ帰るのかを聞き、すぐに電話を切った。「どなたから?」と、妻が私を見た。「仕事先からだ」と私はいいながら、電話器をポケットに戻した。そして同時に、すでに深いつき合いを始めて数年になるサヤカのことを思った。サヤカはことあるごとに、瀬戸内海に連れて行ってくれるよう、私に哀願していた。私が変装してでもいいから、自分を連れて行くように、何度も私に頼んだ。そんなサヤカの顔がなかなか私の脳裏から消えなかった。
 義母の葬儀を終えた私は、二日ほど多摩近郊の自宅で過ごしたのち、東京の仕事部屋に戻った。仕事場に戻ってから一週間ほど後、私はようやく約束の仕事を終えた。そのことを電話で確認したサヤカが顔を見せた。いつもなら、チャイムを鳴らすなり、自分でドアを開けて入ってくるのに、その日は私がドアを開けるまで、ドアの前にたたずんでいた。「どうした? 入ってくればいいのに」私は、思わずそういった。「誰かがいるかもしれないから」とサヤカはいった。「いつもそんなことはなく入ってくるのに」と、私は私の視線を避けるようにして応えたサヤカを見た。明らかに、いつもとは違っている。その夜、サヤカは夜の床で不機嫌なままった。私には直接には思い当たる節がなく、ただただ機嫌が直るのを待つしかなかった。
「田舎はどうだった。お葬式は無事すんだ?」
 サヤカはかたくなな表情のままでいった。「ああ」と応えながら、そうかと、思った。私が家族をあげて帰省したことに、サヤカはある種の苛立ちを示しているのだ。たとえそれが義母の葬式であろうが、私が子供の家族を含めて瀬戸内海沿いの街に帰省したという事実は、サヤカに相当のプレッシャーを与えていたのだろう。彼女の頭には、私と家族の団欒の様がよぎっていただろうことは紛れもない事実だった。そのことに直接、強い不満や怒りをぶつけてきたわけではないが、どこかにその事実がくすぶっていると見えて、私の顔をまともに見ないし、極端に言葉数も少なく、態度もよそよそしかった。サヤカの気持ちは痛いほどわかっていた。私の求めにも積極的に応じる気配はなく、一時間ほどすると用事があるからとそそくさと帰っていった。そんなことはこれまでになかった。サヤカとつき合い始めたのは、昭和天皇が亡くなったことを知らせてくれた少し前からからだ。すでに五年ほどが経過していた。
 そのサヤカから、翌日になって電話があった。「昨日はごめんなさい。生理で体調が思わしくなかったの。少しイライラしていたの……」。私は「そうか」とだけ答えた。ほかに彼女にかけてやれる言葉を持たなかった。少しの沈黙が流れた。「ねえ、お願いがあるの」とサヤカがいった。「ん?」と私は次の言葉を待った。「私を瀬戸内海に連れて行ってくれないのなら、私をお山に連れてってよ」サヤカはその当時の流行語になっていた『私をスキーに連れてって』の調子に合わせるようにそういった。私は瀬戸内海にという言葉には触れず、「山に……?」とだけ答えた。「そうよ、お山よ。ただし低いところはいや。三千メートル級の山がいいわ。うんと高いところへ登って、気分をすっきりさせたいのよ」「そうかわかったよ。どこがいいか、調べておくよ。間もなく夏山シーズンも始まるし」「絶対よ。来週にでも有休をとるから……」。
 私はちらっとカレンダーを見た。来週までにはもう三日ほどしかない。実はもう一つ、やらなければならない仕事があった。だが、仕事を理由に先に延ばせば、サヤカが何をいい出すかわからない。先方には、義母の葬儀にかこつけて締め切りを四、五日ほど伸ばしてもらうしかない。多分可能だろう。「どうしたの。明日中に決めておいてよ。明日行くからね」「ああ、わかった。明日までに決めておくよ」「じゃあね。絶対よ」サヤカは努めて明るくそういうと電話を切った。私は大きく息を継いだ。「じゃあね。絶対よ」というサヤカの声は、いつものサヤカの口調に戻っていた。これでサヤカのご機嫌が直ればそれにこしたことはない。私はしばらく電話機を眺めたままだった。

 サヤカとのつき合いが始まってしばらくたったとき、部屋の鴨居にピン止めしていた槍ヶ岳の写真について聞かれた。登ったときの写真と答えたのが始まりだった。当時の私は春先から低山、夏に向けて徐々に高山を目指す近隣の山岳同好会に所属していた。山岳同好会についてあれこれ話すうちに、「私もどこかの山に連れてってよ」とサヤカ。「そうか。登ってみるか」とうなずいたのがきっかけとなった。最初に登ったのは神奈川県箱根の金時山だった。標高は一、二一三メートルで、童話「金太郎」の舞台となった山だ。この山は歩く時間が短く、登るに連れていたるところから富士山の展望が楽しめる。
 その日、箱根仙石の国道一三八号線にある金時山登山道入り口でバスを降り、金太郎のモデルになった坂田公時が祭神として祀られているという金時神社向かった。この神社から登山道への道がつづいている。歩き出してすぐに、神社の境内に入った。境内では四、五人の男たちが落ち葉の焚き火を囲んで談笑していた。あたりに焼芋を焼いているらしい香ばしい匂いが漂っていた。そのそばを通りすがりに、サヤカが「ああ、いい匂い」と思わず声を出した。するとその輪の一人が、「いい匂いでしょう。食べていかんかね。どうぞ、どうぞ」とその輪の中に私たちを招いた。私たちがその輪に入ると、声をかけた男はさっそく、焚火の中を探り、器用な手つきで一本の焼芋を探り当て、丁寧に軍手で灰を払ってから半分に分け、「大きい方が奥さんだな」と、私たちに差し出した。「ありがとう。おいしそうね」とサヤカは奥さんと呼ばれたことがよほどうれしいのか、満面に笑みを湛えて、男に礼をいった。「ご夫婦で山登りとは羨ましい。この芋で精をつければ、どんどんと登れること請け合いだぁね」男も嬉しそうにそう応じた。
「私のこと、奥さんだって。そう見えるのね」とよほどうれしかったのか、サヤカは再び歩き始めるとそういって私の顔を見た。私はそれに頷いただけで、サヤカの前に出、歩行を速めた。途中、金時宿り石と呼ばれる大岩の前を通過し、公時神社分岐からさらに進むと、三、四十分ほどで金時山山頂へ到着した。
 頂上には熊に跨る金太郎のかなり大きな絵のプレートがあった。その金太郎の顔に穴が開き、その中に顔を差し込んで記念写真が撮れた。ファインダーの中でサヤカがそこに顔を出し、笑っていた。サヤカは多少小太りで、金太郎に似てなくもない。私は熊に跨ったサヤカを金太郎に見立てながらシャッターを押した。その撮影用の台から降りてすぐサヤカがいった。
「笑っていたでしょう?」「いいや」私は即座に答えた。が、笑い顔は隠せなかった。サヤカは後ろを振り返った。「わかったわ。私が本物の金太郎に見えたということなのね」「とんでもない。かわいいなあと思っただけだよ」「嘘つき!」サヤカはそういってほおをふくらませた。「ごめん、ごめん。そういうつもりではなかったんだ」「絶対そうよ、嘘つき」サヤカはさらにそういいながらも、今度は自分も笑った。そんなこともあったが、その日は無事に登山を終えた。サヤカはその 一日だけで、それなりに山登りの楽しさを知ったようだ。それを機に、私たちは多くの山に登った。たいていは奥多摩や丹沢山塊の低山だったが、サヤカと登った山で一番高い山は上越の谷川岳だった。上京してきた弟が登りたいといい、サヤカに話すと「喜んで」と即座に同行することを承知した。谷川岳の標高は一、九六三メートルである。ハイキング気分ではそう簡単に登れる山ではない。が、サヤカはここでも健脚ぶりを発揮し、私に負けず、黙々と歩いた。サヤカにとってはそれが高い山への初めての挑戦だった。
 今度のサヤカの要望に応えて、私は雄大な雪渓を踏みしめて登る白馬岳を選んだ。三〇〇〇メートルには少々足りないが、それ級の白馬岳は彼女にとっては谷川岳以来の高山への体験になる。私たちの久々の山行が決まった。

 白馬村に一泊した翌日、白馬岳への大雪渓を登りきったところで霧雨になった。汗なのか、雨のせいなのか、私の呼びかけで振り返ったサヤカの顔が濡れている。むろん私もそうだったろう。霧雨のせいで、あたりの展望は途絶えてしまった。幸いにも頂上小屋まではあと少し。ここからは落石や滑落の心配もない。ただ一つ、「寒くはないか」と私はサヤカを気遣った。「熱いくらい。大丈夫だよ。それよりも早く山小屋まで行きましょう」サヤカは頭を振りながらいった。そのサヤカの襟元から、ほんの少し湯気が立った。このまま突っ立っていると、からだは急速に冷える。私は「急ごう」とサヤカを促した。サヤカも自ら歩を早めた。
 頂上小屋は多くの登山客で満杯だった。こうした小屋には風呂の設備はないことを知ったサヤカは盛んに自分の汗の匂いを気にした。これに山小屋ではありがちな、満杯の客のため、寝るときは一つの布団に二人が寝ると説明を受けたせいだ。「汗臭いのはお互い様だよ。それに二人連れだから、見ず知らずの他人と一緒に寝なくて済んだんだ。それだけでもよかったろう。それに山の空気は乾燥しているから、そんなに汗の匂いはしないものだ」と私はサヤカに話した。
 翌朝は好天に恵まれ、私たちは初夏の白馬の稜線を辿りながら、大池を目差した。大池までは天候に恵まれ、稜線からの景観を楽しみつつ軽快に足を進めたが、大池を目前にしてスコールがやってきた。幸いなことに雨が降り始めたとき、私たちは避難小屋のすぐそばを歩いていた。避難小屋は突然の雨で満員となったが、おかげで雨をやり過ごすことができた。短い間の雨だったが、それだけで足場は滑りやすく、大池からの下りは難渋を極めた。
「まるで神様が選んでここにいろんな石を積み重ねたようね。どうしてここにだけこんなに岩が集まったのだろう」とサヤカは足元に気をつけながら、周りを見回した。サヤカのいう通りだった。私は何度か同じ道を歩いたことがあるが、いつもは晴天で、岩場は乾いていた。しかし、その日は違う。足場はまだ濡れたままだった。簡単に石から石へ飛ぶということはできない。二人ともあまり身長があるほうではない。それだけに歩幅が短く、足場が濡れているだけに大変だった。岩から岩へ、慎重に歩を進めた。それでも、途中で何度か休憩を取りながら、まだかまだかという思いで、何とか平地にたどりついた。
 ここまで来るのにずいぶん時間をかけてしまった。やれやれという思いでなだらかになった山道を急いだ。その途中、サヤカがぬかるんだ地面に足を滑らせ、転んだ。慌てて駆け寄った私はさやかを抱き起こした。振り返って「ありがとう」というサヤカの顔を見て私は「あっ」と声を出した。サヤカの額を一筋の血が流れたからだ。彼女が転んだ場所を確認すると、ちょうど転んだ頭の先にちょっとした岩石が露出している。どうやら転んだときに頭をそこにぶつけたらしい。
「頭から血が出ているよ。痛くはないか」
「ちょっと痛いわ。でも、それほどでもないよ」
私はポケットティシュを出し、サヤカの額を拭った「ちょっと傷口を見せて」私はサヤカの頭を覗き込んだ。頭頂部に一筋の血痕が浮いている。私はそこも拭い、「とにかく急ごう。白馬村の診療所へ行こう。今からなら、まだ間に合うかも知れない」といった。
 私ではないが、かつての登山で同じようなことがあり、同じ診療所を仲間とともに訪れたことがあった。幸いにも、診療所の開いている時間に間に合った。傷口を消毒し、包帯で覆ってもらい、それがずれないようにと医療用のネットを被ったサヤカが医療室から出てきた。私は一瞬、「えっ」という思いでサヤカを見た。
「大丈夫よ。念のためよ。傷口を守るためよ。今夜だけ、このままの状態にしておくようにとのことよ」。「そうか、よかった」私は軽傷で済んだことに胸をなぜ降ろした。

 翌日、白馬村で一泊した私たちは白馬駅から松本に向かい、そこで特急に乗換えて新宿に向かう帰路についた。一時間ほどして列車が立川駅に停車するというアナウンスが車内に流れた。私はぼんやりと車窓を流れる風景を見ていた。サヤカがポツリといった。「立川からだと、うちは近いの」私は通り過ぎる車窓に目を向けたまま、「そうだね」とうなずいた。
「うちに寄って行かなくてもいいの」
「どうして?」
「だって、近いからそうしたらと思っただけよ」
「そうか」
 私はそう応え、サヤカの顔を見た。サヤカはまた、私たちの帰省について何事かを心に描いたのかもしれない。私は再び眼を車外に向けた。ほどなく列車は立川駅に到着した。サヤカはもう何もいわなかった。
 列車は再び走り出した。私は車外に目を凝らしたままでいた。一五分ほど走れば、ほんの一瞬だが自宅が見える。やがてそのマンションが見えた。三階のその部屋のベランダには、洗濯物に混じってふとんが乾されていた。一見、何事もない多摩丘陵のどかな光景だった。私はサヤカに家のことはいわなかった。立川駅を出て以来、気まずい沈黙が流れていた。私はそれを避けるようにして瞼を閉じた。
 列車は定刻通り、新宿駅に到着した。私たちはそこで別れ、私は水道橋に、サヤカは代々木へと最寄り駅への電車に乗りかえる。私は別れ際にサヤカにいった。「仕事がたまっている。一週間ほど会えないけど、終わったら電話する」「わかったわ。ごめんね。仕事があったのに」サヤカはそういいながら、私の眼をじっと見た。その別れ際にサヤカがいった。「ねえ、あなた、私、間もなく三十になるわ」そういった後、サヤカはじっと私を見つめ、大きく息を継いでから「どうもありがとう。楽しかったわ。それじゃあ、行くね」と眼を伏せ、そのまま足早に去った。私はその眼が気になったが、それ以上考えることはやめて自分の乗る電車のホームを目指した。
 山から帰って、私は三日間ほど仕事に没頭した。その間、私からサヤカに電話したことはなかったし、サヤカからの連絡もなかった。仕事を終え、仕事先の出版社にファックスしているところに妻から電話があり、相談があるから、二、三日うちに帰ってきてほしいという連絡があった。私は明日にも帰ると返答し、電話を切った。
 自宅に向かう前日、サヤカに連絡をしようとして私は一瞬、躊躇した。が、それをいわないまま留守にすれば、かえって彼女を傷つけることになろう。山から帰るときのことが気になったが、私はありのままの理由を伝えた。私の連絡を彼女はあっさりと承知した。このとき私は気づかなかったが、サヤカには私の妻がなぜ私の帰宅を促したのか、わかっていたはずだった。私がそのことに思いつくはずもなく、声にはいつもの明るさがないことにだけをいぶかった。私は今夜会えないかと聞いた。
「やめてよ。明日奥さんところに帰るんでしょ」
 そういわれて、私には返す言葉がなかった。サヤカはつづけた。
「私にそんなことで気を使わないでよ。いいから、奥さんの相談に乗ってあげて。それにね、私、今夜は会社で会議があり、そのあと飲み会があるの」
「そうか、それなら仕方ないな。用事が終わり次第、すぐに帰ってくるよ」
「私のことで、そんなことやめてよ。ちゃんと、奥さんの相談に乗ってあげてよ。いらない気を使わないで。じゃあ、いま仕事中だから電話を切るね」
 電話はすぐに切れた。何かおかしいと私は感じた。が、これまでと同じように、自宅に帰るというとサヤカが気分を悪くしただろうが、今回もいつもと同様に、一過性のものとしてとらえていた。
翌日のお昼過ぎ、私は予定どおり帰宅した。家には妻と私だけだった。たまたま妻はキッチンにいた。私はそばの食卓に腰を下ろし、妻にウィスキーの水割りを頼んだ。「お昼からお酒ですか?」といいつつも、妻は私の前にウィスキーを水で割ったグラスを置いた。酒は喉に気持ちよく流れた。二杯目を頼んだときだった。妻はいきなり洗っていた茶碗を流しに投げつけた。そして、叫ぶようにしていった。
「そんなつまらなそうに飲むんだったら、ここではなく、向こうで飲んだらいかがですか。せっかく帰って来ても、そんな顔をしたままでは、こちらのほうまで息苦しくなってしまいます。どうぞ向こうへお帰りください」」
 私は驚いて妻の顔を見た。妻が先ほどから何とはなしに苛立っていたのはわかっていた。彼女が初めて口にした「向こう」だった。さらに「そんなにいやなら、サヤカさんのところで呑んではいかがですか」と、いきなりサヤカという名を口に出した。驚いた私は内心の動揺を抑えながら妻を見た。妻は二杯目の水割りを私の前に置き、テーブルの対面に座った。
「一昨晩遅く、サヤカさんという方から電話がありました」
 私はグラスを手にしたまま、妻の目を避け、グラスに目を落としたままだった。
「最初は、あなたのことで電話させてもらったということでした。とても丁寧で、落ち着いた話しぶりでした。本当ならお会いしたいが、自分にはそこまでの勇気はないので失礼は十分承知しているが、電話したことを許してほしということでした簡単な自己紹介と、あなたとの関係を話し、要するに私にあなたと別れてほしいということでした……」
「それで君は?」
「できません、とお断りしました。たとえ別れて暮らしていようと、私は妻です。あの人は子どもたちの父親です。どうぞ、よろしければ一緒にお暮らしください。ただし、どんなことがあっても私は絶対に別れませんから、とお話ししました。電話は一方的に切れて、それからはかかってきません。あの人が私に電話したこと、お聴きになりましたか」
 私は頭を振った。
「そうだろうと思いました。すぐにこのことをお話ししようとあなたにずっと電話していたのですが、まるっきり出る気配がありませんでした。サヤカさんとあなたがどのような関係であろうと、子どもたちのためにも私はあなたと別れる気はありません。サヤカさんには申しわけありませんが、私は決して別れませんから」
妻はそこで沈黙した。私の反応を確かめているのだろう。私は黙ったままだった。
ちょうど一カ月ほど前、サヤカが私と一緒になりたいと口にした。サヤカは珍しく執拗に私との結婚を迫った。もしかしてそれが契機となり、妻に電話したのかもしれない。
 再び妻が口を開いた。
「もう何年前になるかしら。あなたが唐突に、私と別れてくれないか、いったことがありますね」
 私は黙ったままだった。むろんそのときの相手はサヤカだった。ずっと前のこと、サヤカとつき合い始めて一年ほどたったころだった。あのとき私がそのことを切り出すと、妻は「えっ!」という顔をして私を見た。私はいった。
「もう一年ほどつき合っている人がいる。その人と一緒になりたいんだ」
「そういう人がいるらしいということはわかっていました。その人のどこがいいのですか? 若い人なんでしょうね」
「いや、若いからということではない。彼女といると、楽しいんだ」
 私はのちに、楽しいといったことを後悔した。妻はすかさずこういった。
「楽しい? 楽しいですって。それはそうでしょうね。楽しくてしょうがないでしょう。残念ながら、私はそれに対抗しようもありません。でも、私はあなたのなんだったのでしょう。最初から楽しくない女だったのでしょうか? あなたのいう楽しい、ってどんなことか教えてください。そんなこと、よくいえますね。楽しくない女にしたのはどなたなんですか」。妻はさらに声を荒げ、「その人といると楽しいから別れてほしいとはどういうことでしょうか。私たち家族は、あなたにとって何だったのでしょう。子どもたちにはどう説明しろというのでしょうか」
 そのとき、私はそれ以上、何もいえなかった。むろん、このことはサヤカには話していない。話せるわけもなかった。妻はおそらくその後も、私と彼女の関係がつづいていることは薄々気づいていただろう。いつこの話が再燃するか、何年も声を潜めて耐えていたに違いない。
 妻はつづけた。
「サヤカさんは、奥さん、私にあの人をください。私にはそうお願いするしか考えられないんです。私もずいぶん悩みました。奥さんのことを思うとこのようなお願いが実に理不尽なものであるかはよくわかっています。でも、とにかく奥さんに会おう。会って話してみよう、と思ったんです。ですが、私には奥さんにお会いできだけの勇気がなく、さすがにそれはできませんでした、と話してくれました。そして、あなたと別れて欲しい、あなたを私と一緒にさせてほしい、と。これがどんなに理不尽で、勝手なお願いだということはよくわかっているが、私にはあの人が必要なんです。では私には? と思いながらも、若い彼女の気持ちは痛いほどわかりました」
 妻はそこで声を詰まらせた。
「彼女は私より一五歳も年下なのね。あなたが夢中になるのもよくわかるわ。でも私は、あなたの二人の子どもの母親なのよ。私はあえて彼女のそのわけを聞きませんでした。聞くまでもないことです。私の口からそのことを話す必要もないでしょう。私はお断りしました。あれ以来その関係をつづけていたあなたの気持ちもよくわかります。だからといって私があなたと別れなければならない理由はありませんからと。彼女は私の返事を聞くと、多分泣きながら、『そうですね。私のほうが非常識でした』といい、『そうですよね』と繰り返し、だまってしまいました。電話のあと、私は私なりに彼女のことを思いました。私にも、この話は悲しいものでした。私は彼女を負かした、私が勝ったという思いは一切ありませんでした。そして、私が彼女にしてあげられることは何かないかを考えましたが、でもどうしようもないことです。でも、あなたが彼女と一緒になりたいということを私は絶対に認めることとができません」
 妻はこの後、私とサヤカがもう何年つき合っているのかと訊いた。私は正直に答えた。
「そうですか。すると彼女のいう通り、もう五年にもなるのですね。彼女はどんな思いでここ数年を過ごしていたのかよくわかります。前にあなたからお話があったとき、私にはどんな人がお相手なのかよくわかりませんでしたし、どうせあなたの気まぐれで、また始まったというくらいにしか思っていませんでした。もうずっと前にも今回のようなことがありましね。あのとき、あなたに問いただす前に、子どもたちが聞きつけて、泣きながら、『お父さん、もうやめなよ。お母さんが泣いてるじゃないか。別れないでよ、別れては絶対にいけないよ』とあなたの前に二人とも両手を広げて立ちふさがりましたね。恐らく子ども部屋で耳を澄まし、事の成り行きを、私たちがやりあう声を子どもなりに心配しながら息を殺していたに違いありません。さほど広くもない家ですから」
 あのとき、妻は子どもたちを抱きしめながら、声を立てずに泣いていた。数分後、私は黙って家を出た。その私を子どもたちが追いかけてきた。私は子どもたちにさえかけてやる言葉を失っていた。近くのフルーツパーラに入り、二人のためにフルーツパーラを注文し、私はビールを頼んだ。二人は私を時折盗み見ながら、黙々とパフェーを食べた。店を出ても、二人は駅に向かう私についてきた。
「お父さんは仕事があるから、これから事務所へ行くよ。もう心配しなくていいから、ここから帰りなさい」
 そういうと二人は納得し、まるでこの二人からも逃げるように小走りになった私に手を振った。私は思わず泣いた。その涙は誰に対してものだったのか、私にはわからなかった。私たちはその日以来、それ以上、話すことをやめた。以来、妻も私もこの話を蒸し返すことは互いになかったが……。
「そのことで話はうやむやになりました。それを見て、あなたも少しは自重されることと思っていましたし、私のほうも、話を蒸し返してはあなたを追いやることになる。子どもたちのこともあるからと、それ以上のお話はつづけようとは思いませんでしたが、今回はサヤカさんという人に形をかえてまたしても同じようなお話ですか。あなたの病気はその後もずっとつづいていたんですね」
 私は空になったグラスを見つめていた。そうする以外に、私にはすべがなかった。その一方で、そうか、と私は思った。つい最近のサヤカの態度が腑に落ちた。サヤカは私に業を煮やし、直接行動に出たのだ。そして彼女は妻と話すことで、彼女なりの結論を得ようとしたということだろう。
 妻はいった。
「私は何もいわなくなった彼女にはっきりいいました。お気持ちはわかるけれど、私にはこれっぽっちもそんな考えはありません。絶対にお断りします。あの人が何をいったのかわかりませんが、私は絶対に承服しません。たとえどんな条件を出されようが、このことだけは妥協しません。子どもたちのためにも、絶対にありえないことですと」。一息ついで妻はつづけた。「ただし、それでよければ、どうぞあの人との関係をつづけてください。そのことについては、私は我慢しましょう。私は一人で子どもたちを支えていきます。しかし、子どもたちのためにも、絶対に離婚だけはしませんから、どうぞご一緒に、というと、サヤカさんは『突然こんなお電話をして失礼しました』と一方的に電話を切りました。このご返事は、同時にあなたにも申し上げます。私の決意は変わりません。ただ、私はむしろ、このことでサヤカさんが自暴自棄にならないかを心配しています」
 私は完全に打ちのめされていた。サヤカのために何かをいわなければならないと考えたが、妻にはかける言葉はなかった。「心配かけてすまない。よく考えてみるよ」と私は苦しさを紛らわすかのように、ようやくそういった。妻は一歩も引き下がらなかった。
「よく考えてどうするのですか。あなたがどのように私を説得なさろうと、サヤカさんには申しわけないけど、私は妥協しません。サヤカさんもサヤカさんです。あなたが家庭を持っているということを承知でおつき合いを始めたのでしょ? そしていまになって、あなたが欲しい、結婚させてくれとは虫がよすぎます。お気の毒とは思いますが、私にいわせていたければ、勝手すぎませんか。妻子持ちとつき合うなら、そんな話は持ち出さない、というのが世間のルールではないのでしょうか。もちろん、今回の責任は、すべてあなたにあります。向こうが承知だからといって、手を出す男の人も男の人です。話がこじればこうなることはわかっていたでしょうに。ただの遊びなら許されることかもしれませんが、彼女がそう思うようになった大きな責任はあなたにあるのですよ。そういった面で、彼女がかわいそうです。要するに彼女はあなたにうまく遊ばれ、利用され、期待を裏切られた、ということではないんですか。すべてはあなたの責任です。私にはあなたを助けるどのような手立てもありません。離婚も絶対にしません。そのうえで、サヤカさんとの仲をどうするのか、今回のことでどうなさるのか、あなた以外には誰も口添えなどできませよ。ご自分がまいた種です。どう刈り取るのか、私には興味もありません」
 妻は一気にそんなことをまくし立てた。ただ妻は、私のグラスが空になっていることに気づいたのか、新たに酒を入れて私の前に置いた。私はそのグラスに手が出なかった。しばらく沈黙がつづいた。柱時計が夕刻の四時を告げた。
 妻がつぶやくようにいった。
「もし、おばあさまがこのことを知られたとしたら、一体どのようにおっしゃられたでしょうね」
私は妻の顔を見た。同時に妻と祖母が初めてあった日のことが浮かんだ。あの日、祖母は妻に私の母親のことを伝えた。妻はこれまで、そのことをどれほど意識してきたかわからないが、その思いを抱いたのは今回だけではないだろう。母を恋しく思うことと、女性と性的な付き合いをつづけるということは明らかに違う。だが、果たして、私にとってどれほどの差があったのか。つき合いのあった女性は決して母親代わりではなかった。だが私の内部のどこかで、だから許されるという勝手な思いはなかったろうか。おそらく妻は、そのあたりを攻めているのだろう。私はこう答えるしかなかった。
「前に話したことがあったと思うが、祖母たちに徹底的に母のことを隠しつづけられることで、私の母親恋し増したこともあったと思う。もしかして、もっとフランクに母親のことをみんなが話してくれていたら、もう少しマシな男になっていたのかしれない」
 妻は冷ややかな目で私を見た。
「ごめんなさい。おばあさまのことを持ち出して。あなたにそんなことを話させるつもりはなかったのに、ごめんなさい。」
 妻は涙をぬぐった。そして改めて私を視た。
「私はあなたより確かに年上だけど、結婚以来、私はあなたの母親を意識したことはありませんでした。確かにそのことでおばぁさまからお聞きしましたが、実際にあなたと暮らし始めたときも、正式に結婚してからも、私はそのことをそれほど意識したことはありません。現実に、あなたも私にそんなことをお求めになったことはないでしょう。これまで少なからずの女性とおつき合いなさったことでしょうが、相手はあくまでも女性としてであって、決して母親を求めていたわけではないでしょうに」
 妻のいう通りだった。私は打ちのめされた思いだった。私は彼女が私より年上であることを改めて実感させられた思いだった。
「帰る」と私はかろうじていった。
 妻はただ「そうですか」とだけいって、自室にこもった。しばらくしてその部屋から、彼女のすすり泣きが聞こえた。私はそれを確かめるべくもなく、静かに玄関を出た。
 
 事務所に帰って帰ってから、私はサヤカからの連絡を待った。が、この一週間、サヤカから連絡はなかった。妻への電話の一件を聞いたいまとなっては、それはあり得ない期待だった。さらに二日たったが、サヤカと連絡は取れなかった。私から一、二度、会社にも電話したが、いつも留守ということだった。
 そんな日の日曜日だった。日曜日の午前中なら、サヤカは部屋にいるだろうという思いもあった。新宿駅で別れ際にサヤカがいった言葉も気になっていた。私はオートバイを駆り、まっすぐに池袋近くにあるサヤカのアパートを目差した。
 アパートの見える路地に入り、いるかどうかを確かめるつもりでそのベランダを見た。そして、慌てて五〇メートルほど手前でオートバイを停めた。二階の彼女の部屋のベランダに若い男が立ってタバコを吸っていたのだ。男はベランダの手すりに体を預け、物珍しそうに周囲の様子を眺めている。男の顔には見覚えがあった。彼はサヤカの同僚だった。何人か一緒の席でサヤカに紹介されたことがある。そのときの私は、サヤカとつき合いがあった恩師の担当編集者として紹介された。サヤカと私の関係が深まる前に、もう一度二度会ったような気がするが、彼の存在は私の記憶からは消失されていた。その彼が、どうしてこんな時間にサヤカの部屋にいるのか、そう思うだけで私の胸は高鳴った。彼はベランダから私を一瞥したが、ヘルメットにサングラス姿の私を気に止めるでもなく、すぐに眼を放し、相変わらず周囲を見渡している。もしそれがサヤカなら、一瞬にして気づいただろう。サヤカは私のオートバイを見慣れているし、ヘルメット姿にもすぐ気づいたことだろう。私はポケットから煙草を出して火をつけた。彼の眼にそのしぐさが入ったのか、彼はもう一度ちらっと私を見たが、これといって不振さを抱いているという様子もなかった。ちょうどそのときベランダへの引き戸がわずかに開き、男は手にしていた煙草を簡易灰皿で慌てて消し、部屋に戻った。サヤカに呼ばれたに違いない。男のベランダでの仕草からして、男が初めてサヤカの部屋を訪れたことは想像できた。そんな様子からしても、男とサヤカの関係は容易に想像できた。私が疑う余地はなかった。サヤカは私でさえ、ベランダに立つことを嫌った。女性の一人暮らしの部屋に男の姿があること、大家の家が近所であることを警戒してのことだった。
 私の思い通りなら、サヤカの大胆な行動は予想すらできないことだ。私はサヤカの望みをこれまで受け入れないできた。その努力さえしてあまりこなかったといっていい。非は全面的に私にある。としても、サヤカのこの急な行為は、普段の彼女からは理解できないことだった。私はタバコの火を消し、もと来た道にオートバイの方向を代えてエンジンを吹かした。
 サヤカに対する怒りはなかった。その男とサヤカの関係がどうであれ、私に何がいえただろうか。それでも平気でいられたわけではない。夕刻になって私はサヤカに電話した。が、サヤカは電話には出なかった。私は思い切って再び出かけることにした。まだ男がいるかもしれないという思いがあったが、それはそれで仕方ない。私は再び、オートバイに跨った。
 アパートの部屋に明かりが灯いているのに、サヤカは留守だった。私はアパートの玄関脇でサヤカを待った。三十分ほどしてサヤカらしいヒールの音が背後に迫った。どこか、買い物にでも出ていたのか、服装は普段着だった。手にはコンビニの袋がぶら下がっている。ヒールの音は私の近くで一旦止み、今度は駆け足で私のそばを駆け抜けた。薄暗い中にたたずんでいるのが私であることに気づいたに違いなかった。私はゆっくりとサヤカの後を追い、サヤカの部屋の前に立った。とっくに部屋に入っていると思われたが、部屋からは物音一つしなかった。しばらく様子を見たが、なかなか返答がない。明かりさえも消しているようだった。私はサヤカの部屋のチャイムを鳴らした。少し間をおいて、灯がともされ、サヤカが顔を出した。その顔には戸惑いとともに、なんらかの開き直りといった表情が同居していた。サヤカが出てきた部屋の引き戸は開かれたままで、まだひきっぱなしの夜具が見えた。玄関先には男物の革靴まであった。それを見た私にサヤカが気づいたかどうかはわからないが、サヤカは私が部屋に一歩踏み入るのを妨げるようにしてドアの外に出てきた。「誰か来ているのか」と私は小声でささやくようにいった。サヤカはそれには答えなかった。
「悪いけど、今日は帰って。私、急用ができたの。明日大事な用があって福島に帰るわ。その準備もあるの。もし、時間があれば、一度あなたのところに寄るわ。これからその準備もあってあまり時間がないの。話は明日にしてくれる」
 サヤカは小声でそういった。その顔にはいつもは見せない苦悶の色が浮かんでいた。私はそんなサヤカをいぶかったが、「そうか」といい、さらに「電話があったことを聞いたよ」とつけ加えた。が、サヤカはそのことには何も答えなかった。私は黙ったまま、部屋の前でサヤカと別れてアパートを出た。この一連のサヤカの態度は明らかにいままでにないものだった。私が拒絶された初めての体験だった。まだ敷かれたままだった夜具に、私は朝ベランダに立っていた男を想像した。
 その夜、当然ながら、私はなかなか寝つかれなかった。切れ切れに妻の言葉が思い出され、これまでのサヤカの言葉も思い出された。二人の顔は暗く沈んでおり、私はそのたびに、ウィスキーを口に運んだ。眠ろうとしたが、酒の勢いを借りても、睡魔は容易にやってこなかった。やがて訪れた眠りの中で、私は瀬戸内海の海にいた。なぜか、その海は干上がり、街の海岸から向かいの島までは徒歩でいけそうだった。海岸や船から見る海底の様子は明らかに違っていた。干上がった海底には大小の岩が散乱していた。暗い海底のそれらの岩石は私の行く先を何度も阻んだ。私は夢の中で、これは私が子どものころによく見た夢だと思った。薄暗い岩陰のあちこちに、かつて釣りをしていたときに岩に釣り糸が引っ掛かり、やむなく切断するしかなかったその糸を見つけた。周りをよく見ると、釣り糸はあちこちに絡まっていた。夢の中で私はそんな糸を一本一本丹念に拾っていた。中には魚がかかったままの糸もあった。その魚が死んでいるのか、まだ生きているのか判断できなかった。どうしたことか、いくら歩いても、対岸の島にはつかなかった。私は夢の中で焦っていた。再びいつ潮が満ちてくるかもしれなかった。が、行けどもいけども対岸にあったはずの島にはたどり着かない。子どものころ、もしこの海の潮がすべてなくなったら、海底はどうなっているのかをたびたび夢想していた。そのせいか、潮の引いた海底を歩く夢もまたたびたび見た。またそのころの夢には、幼いときにフサからきいた海坊主が出てくることを夢の中でも恐れていた。だが、幸か不幸か、夢の中では一度も海坊主は現れなかった。が、どこかに隠れている気配はいつも感じていた。そんな夢も、年を経るにしたがって見ることはなくなっていたのに、何十年ぶりに同じような夢を見たのか、ふと目覚めた私は寝汗を拭いながらそう思った。まだ夜は明けていなかった。私は夜の闇の中で、しばらくの間、じっと暗がりを見つめていた。その日の長い夜は、まだなかなか明けそうになかった。
 翌朝早く、チャイムが鳴った。「宅急便です」と声がした。ときおり、仕事先の出版社から、資料を詰めた宅急便が届くことはあったが、そんな予定もなかった。私はドアを開けた。段ボールが二個、手押し車に積まれていた。配達人は、手際よく、玄関と併設されているキッチンの床に、その二つを積み重ねた。受取証に印鑑を押そうとして、その差出人がサヤカからのものであることに気づいた。サヤカの丸みを帯びた文字が私の目の中で踊った。一瞬「あれッ」と思ったものの私は中身が何であるのかを察していた。段ボールの封を切ると、果たして私の予想通りのものが詰まっていた。その中には、私がサヤカの部屋に泊まるために置いていた歯ブラシ、着替え、仕事の道具、何冊かの本など、置いたままにしていた日用品だった。中には、こんなものまでサヤカのところに置いていたのかと、すっかり忘れていたものまで、整然と詰め込まれていた。まだパソコンが普及する前の、いまは使うことがない古い卓上ワープロまで入っていた。何かの折に捨ててくれとサヤカに頼んでいたものだが、どこかにしまっていたのだろう。最近では、仮にサヤカの部屋で仕事をするにしても、私が常時持ち歩いていたノートパソコンを使っていた。サヤカの部屋にときおり泊まるようになって五年、そのわずかで長かった歴史がその古いワープロに見え隠れしていた。これらの品は一体いつこの箱に片づけられたのだろうか。恐らく、あの彼を部屋に入れるまでにすべてが処理されていたのだろう。私はそれらの品々を眺めながら、改めてサヤカの決意を知った。妻に電話したのも、私との承諾を得るというよりも、自分としての決着をつけようとしたのだと思った。
 もう私の前に現れることはないと思っていたそのサヤカが、お昼近くになってやってきた。ドアを開け、私はサヤカを招き入れた。玄関にはサヤカから送られてきた宅配便が封を切ったまま積み重なっていた。サヤカはその荷をちらっと見た。「まあ、上れよ」と私はいった。が、サヤカは頭を振った。
「急いでいるのですぐ失礼するわ」そういってじっと私を視た。その眼に見るみるうちに涙がにじんだ。
「私、結婚することにしたの。今日はその彼と上野で待ち合わせ、福島に一緒に行って、両親に合わせるの」
 サヤカは眼を伏せ、手の甲で涙を拭った。
「多分、もう知っているでしょうが、奥様に電話してしまいました。奥様には悪いことしたと思っています。奥様は少しも何も悪くはないのに、とんだとばっちりだったでしょう。でも、奥様には申しわけないことをしたけど、おかげで私はあなたのことをきっぱりと、形をつける気になりました。ありがとう、楽しい数年でした。私はいつまでも忘れないことでしょう。長い間ありがとう。それから荷物の中で足りないものがあったら連絡してください。多分全部あると思うけれど……」
 サヤカは静かに頭を下げた。ドアを閉めながらサヤカがいった。「あなたを嫌いになったわけではないのよ。いまでも好きです。でも。これ以上はどうしようもないの……ありがとう。ごきげんよう」。
 やがて静かにドアが閉まった。「そうか、結婚するのか」と私は声に出して呟いた。その声が、サヤカに届いたかどうかはわからない。聞き覚えのあるヒールの音が遠ざかって行く。そのサヤカを追いかけようとして、私はいったんサンダルに足をかけ、ドアノブに手を触れたが、それ以上は足が出なかった。追いかけたところで、私に何がいえただろうか。やがて私の耳に、エレベーターのドアの開く音が聞こえ、すぐに閉じる音が響いた。私はドアを開いて一、二歩廊下に出た。が、その足は動かなかった。
私の前に、暗い海の海底が広がっていた。そのとてつもない暗い、潮の干した海に私は宝物をなくしたような気がした。その宝物は、海底ですでに光を失っていた。それをどう探そうが、決して再び私の手に戻ることはないだろう。私は部屋に帰り、じっと段ボールの箱を見つめた。その中には、五年に及ぶサヤカとの思い出が詰まっていた。中から、本など、いくつかのものを取り出すと、私はその中身をゴミ袋に詰め、階下のごみ箱に捨てた。このごみも、いつかあの暗黒の海の海底に埋没することだろう。私はゴミ箱のふたを閉めながらそう思った。
 私は部屋に帰ってからも、ごく自然に、サヤカとの五年を辿ろうとしていた。が、サヤカの影は海底の岩場に隠れ、再び出てくる気配はなかった。海は暗くなる一方で、私にはもう何も捜しようがないように思われた。(第七章に続く)

*本稿は『ちば文学』第18号(2018年2月末日発行)に掲載されたものに加筆・訂正を加えたものです。現在も連載中ですが、転載を同意してくださった「ちば文学会」に感謝します。なお、本稿は次回第7章にて完結します。
 


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