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第七章(終章)
(その1)
サヤカが福島に帰って二日ほど過ぎた朝の六時過ぎ、チャイムが鳴った。ほどなく鍵音がし、ドアを開ける音がする。サヤカであるはずはなかった。それ以外に鍵を持っているのは妻でしかない。しかし、この時間にそれはあり得ない。やはりサヤカだろうか、と思った。だが、足音は明らかにサヤカのものではない。私は黙ったまま、その人がキッチンに上がる気配を感じながら耳を傾け、これは妻だと思った。私が寝ている部屋の襖がしずかに開けられた。顔を出したのはやはり妻だった。この時間にここに現れるということは、始発に近い時刻に電車に乗ったに違いない。妻は私と眼が合うなり、「誰かさんでなくて、ごめんなさいね」といったが、その言葉に憮然とした私に「あっ、ごめんなさい。朝早くからつまらないことをいって」と部屋に入り、コートを脱いだ。
「連絡もしないで、突然でごめんなさい」と妻がいうの聴きながら、私はゆっくり布団から起き上がり、「今頃の時間にどうした?」と声を出した。私はとりあえず、着替えをすまし、布団を仕舞った。そして、「お茶でも入れよう」と玄関と一体になっている、妻が入ってきたキッチンへ行こうとした。妻はそんな私から眼を離さなかった。私は妻のその視線に何かしら容易ならざるものを感じた。私はその眼を逃れるように、閉められたばかりの襖に手をかけた。妻はそんな私の行く手を阻むように「いいの。すぐに失礼するから」と背後から声をかけた。振り返ると、妻はその険しい眼を私から離さなかった。私はもう一度、訊いた
「こんなに早く、どうしたというんだ」
妻はさらに険しい眼をしてじっと私を見た。一呼吸して、腰を下ろして彼女はいった。
「あれから、私もいろいろ考えました。サヤカさんのことです。私が彼女にしてあげられることは何かないかを考えました。でも、私があなたと離婚する以外に、どうしようもないということ以外には考えられませんでした。それができないとなると、ではどうすればいいのか、さらにサヤカさんも私もまた納得できること……」
妻はそこで、いったん、言葉につまった。そして一気にいった。「それはあなたに死んでもらうおうということでした。もちろん、私はそうしてもらいたくないし、彼女もまたそうでしょう。でも彼女があなたと一緒になりたいということを私は絶対に認めることができないとしたら、それしかないように思いました。私には悲しいことですが、まだあなたが私と離婚したいとお考えならば、あなた、私たちのために死んでください。そうしてくだされば、サヤカさんも私もどちらも納得するしかありません。そのことをお伝えするため、朝早く出てきました」
いきなり何をいうのかと思った。それが妻の真意であるかどうかはさておいて、妻は妻なりに、サヤカへの償いをそんなふうに考えたのだろう。そうは思ったが、「いきなり死んでくれとは?」と、私はそれだけいった。妻が本気で私に死ねといっているわけではないだろうが、妻は妻なりに考え、私を試そうとしているのか。妻は私から眼を離さなかった。私はサヤカがいったことを頭に浮かべていた。
「私は普通の女よ。人並みに子どもも欲しいし、いい母親にもなりたいの」と彼女がいったとき、私は「時間がかかる」とだけ応えた。私は明らかに逃げていた。
「時間がかかる? あなた、私のことで奥さんと話し合ったことがあるの?」
「一度だけあった」
と、サヤカの問いに私はそう答えた。私は、こんないい方しかできなかった。
妻が再び口を開いた。
「私は一人の女としてサヤカさんが気の毒でした。いきなり私に電話してきて、あなたと別れてくださいというのは、あまりにも非常識なことです。それでもそこまで精神的に追い詰められて私に直接電話してきた彼女の心情を考えると、それを叶えてあげるためにはどんなことがしてあげられるでしょう。先日、あなたとサヤカさんのことで話し合った後にも、私は彼女のために自分がしてあげられることはないかと考えました。しかし、子どもたちのことを考え、彼女の希望に応えることができない以上、私にはどうすることもできませんでした。そうして私が考えたこと、どちらもが仕方ないことと諦められること、それはあなたに死んでもらうことではないか、そう思ったのです。あなたは二人に責任をとって死んだ、そう思えば、それはそれなりに理屈がつく、と考えたからです。あなたがどうしたいのか、私にはわかりません。どちらにしても、そう考えるほかはありません。サヤカさんととても別れられないとあなたが思っているとしたら、それはそれで私たち家族を欺いていることになります。ということは、どうしようもないことです。私も決心しました。あなた、死んでください。あなたがサヤカさんをとるということは、私たち家族にはとても耐えられないことです。あなたが死ぬことについて、私、昨夜は一睡もしないで考えました。私があなたとは別れない、彼女にはそのことは耐えられない、ということになれば、私が出した結論はその一つしかありませんでした」
妻の言葉はひどく私を動揺させた。確かに、私はまだサヤカに未練を抱いている。そのサヤカが同じ会社の同僚と結婚するというのに、私はいつまで彼女にこだわるのか。なぜか、そのことを妻にいうことは憚れた。妻が一番の電車で来たということは、彼女のいう通り、一晩寝ないで考え、それなりに行きついた結論だったのだろう。そこに、サヤカに対する妻としての意地と同時に、憐憫の思いが同居してのことだったのではないか。
実は、ちょうど一カ月ほど前、サヤカから同じようなことをいわれたことがあった。サヤカはいった。
「あなた、私と別れられないなら死んでよ。そうしてくれれば私はあなたのことをあきらめられる、別れられる」
もちろん、これはそのときサヤカが思いついてとっさに出した言葉だったと思っていた。本気で考えていたわけではないだろうが、そのときの心情は妻が思うところと一緒だったのだと、私はいまにして思った。サヤカは珍しく執拗に私との結婚を迫り、それができないなら、私の青春を奪った罪を感じて死んでほしい、と必要に食い下がった。だからこそ、私は妻に離婚を申し出もした。その後サヤカはそのことについては忘れてしまったかのように私に接していたが、もしかして電話で妻にそのことを話したのかもしれない。
私は大きく息をついた。私には妻を説得できるどんな言葉もなかった。何かをいえば、それはどんなに繕うとも不誠実以外の何物でもなかったろう。妻が本気で私に死ねといっているわけはないと感じてはいたが、彼女は彼女なりに、サヤカへの誠実を考慮して出した一つの結論だったのだ。奇しくも私は二人に同じようなことをいわれたことになる。サヤカは確かにいった。「あなた、私と一緒になれないときは死んでくれない」。サヤカのその言葉の裏に、それなりに私を思う彼女の言葉の重さが身にしみた。
妻はつづけた。
「あの人が私に電話したこと、お聴きになりましたか」
私は頷いた。
私はあのとき、サヤカの言葉は単なる睦言の一種のようなものとして受け止めていたが、その真意には妻の同じような気持ちが流れていたことへの配慮はなかった。
「彼女も同じようなことをいったよ。でも、死んでくれということはないだろう。二人の前から消えるという方法だってありうる」
私は苦しさまぎれにそんなことをいった。
「ずるいわ」と妻はいった。私はすぐにそういったことを後悔した。妻は私の言葉にたたみかけるようにいった。
「どこかに消えて、それでまた新しい人を見つけて、仲睦まじく暮らそうというの」
「いや、そういうわけではないが」といいかけて私はあとの言葉を失った。自分があまりに陳腐な存在だった。
「自分がいったことに、恥ずかしいと思わないの。よくそんなことがぬけぬけといえますね」
「すまなかった」と私は素直に詫びた。それ以上、私に言葉はなかった。妻がいった。
「あなたは私が知る限り、ずっと編集というお仕事についていらっしゃいました。編集というお仕事がどんな仕事であるのか私にはよくわかりません。でも、私のような者でも思えるのは、それなりの知識もあって、それだけに普通の人よりも思慮深いはずではないのですか。だけどあなたは、子どもたちに一度でも宿題の面倒を見てやったことがありますか。子どもたちに大袈裟にいえば、人生について話してやったことがありますか。あなたの職業ってなんでしたの。お父さまが、旋盤工から叩き上げた優秀な技術者だったと、あなたはよく私に話してくださったわね。その話には、ああこの人はお父さまの職業を誇っている、その一途な職業を理解していると思って、尊敬さえしていました。でも、あなたはご自分の職業を子どもたちに誇ったことがあったのでしょうか……。私とあなたの諍いを耳にした子ども達が顔を出しても、あなたはなんでもないから、部屋に戻りなさい、というのが精いっぱいで、その一言に子どもたちは素直に従っていましたが、あとで少しでも子どもたちにそのわけを話してやったことすらないでしょう。おかげで子どもたちはいつも何らかの欲求不満状態だった。少しでも子どもたちの気持を和らげようという努力もなかった。それが父親というものでしょうか」
またある日にはこんなことがあった。いきなり妻がいった。
「いまおつきあいのある人って、あなたにとってどんないいことがありますか」
私は慌てた。私は黙って妻の前で、しばし沈黙するしかなかった。もしかすると、彼女は母親になったつもりで我慢したのかもしれない。そのとき彼女は、まるで私の心の中を見透かすようにいったものだった。
「私はあなたのお母さまの代わりはできません。オイタをしている子どもを抱きしめて、怒りもせず、ああ、よしよし、と慰めるなんて、まっぴらです……」
妻はしばらく沈黙したが、思い切ったようにいった。
「もしおばあさまやほかの親戚の方々が物心ついたころのあなたに、お母さまの真実を正直にあなたに話し、お母さまについてほんの少しでも子どもが喜ぶようなエピソードなどをお話になっていたら、現在のあなたとはまた違った別の人格が備わっていたのかもしれませんね。私はそのどちらがいいとか悪いとかということではなく、むしろそのほうがあなたは救われたのかもしれません」と、妻はここでいったん口を濁した。そして、一息入れてつづけた。
「こんなことをいうと、あなたに叱られるかもしれませんけど、私、多分高校のときだったと思うけれど、義母と子についての小説を読んだことがありました。いまはその作品の名も、だれが書いたのかも忘れてしまいましたが、話の筋はある程度覚えています。すでに先妻の子どもがいる家庭の後妻に入った妻が、先妻の子の子育てで迷っていたとき、その嫁は姑からこんなことをいわれた、とありました。それは、後妻に入った継母がその子どもを前にして、自分の口から本当の母が亡くなっている事実を正直に伝えてやり、亡くなったお母さまは決してあなたから離れずに、ずっとあなたを見守っていますよ、決してあなたから離れません。いつまでもあなたのそばにいてくれています。ですから、亡くなったお母さまのことを忘れないようにしましょう。お母さまはいつもあなたのそばであなたを見守っていることを忘れないように、というようなことを幼い子に教えなさい。そうすることで、彼女は継母なりの信頼を少しずつながら得ていったというお話でした。確かその姑さんはこんなこともいったよう思います。このことを私や父親がいうことはたやすいが、仮に継母としても、現実にあなたはあの子の母親です。その母親がいってこそ、子どもの胸を打つのですと。私はあなたと結婚して、何度かこのお話を思い出していました。もし、あなたのいまのお母さまがこのようにいうか、せめておばあさまやお父さまが、あなたのお母さまの本当のことを正直にお話しになっていれば、現在のあなたとまた違った人格が生まれていたのかもしれませんね」
「それはどういうことだ」
「先にお話しした小説のように、その通りではないにしても似たような結果になっていたのではないか、と思っただけです。余計なことをいったようですね。ごめんなさい」
妻には、私の顔が不機嫌そうに見えたのかもしれない。が,私の内心は決してそうではなかった。妻の話をそれなりに理解しようとしていた。私とて、かつて何度もそうであったらと自問したことがあった。私は妻に「そうかもしれない」とだけいった。よくある話といえば、よくある話だったろう。私たちのような境遇に陥った家族の誰でもが同じようなことを考え、自分たちにはこれが一番だとそれぞれに判断したに違いない。私も何度か、同じような問題を扱った小説を読んだことがあったが、あらためて妻からそんな話を聞くと、それにはそれなりの感慨めいたものもあった。
「もし私がそんな立場になれば、どうしたかと考えると、どちらを選ぶにしても大変な決意があったと思います。あなたのご家族は内緒にし通すことを選ばれた。それはそれなりにあなたのことを思って決断されたことだとは思います。いまのお母さまやおばあさまの立場で考えてみれば、あなたはあまりにも幼く、お母さまにつながるどんな記憶もなかったでしょうから、それはそれで最善の方法だと思われたのでしょう。それは誰にも責められません。それでもおばあさまは私と初めて会われたとき、あなたの母恋について尋常ではないことを私に話されました。それはあなたがすでに実母がなくなっていることを知っていると考えた上でのお話だったと思います。もしそうお思いなら、途中からでもあなたに本当のことをお話しなられるべきではなかったのかしら。私はそのことが残念です。おばあさまもお父さまもとうとう亡くなられるまで何もお話にならなかったのでしょう。せめてお二人の口から、あなたに本当のお母さまのことがほんの少しでも伝えられていたらと思います。それがなかったあなたには、無念の思いが残ったままになってしまった。それがお気の毒です。継母と継子というものはその枠からどうしても動かせないものなのか、それがあるとしたら、もしかすると子どもの心を実母の面影につないでやるほうがいいのではないか、私はその小説のことを思い出し、新ためてそう思いました」
妻はそう言いながら、私の反応を確かめていた。
「それに、こんな話を聞いたことがあります」と妻はつづけた。
「里親制度というものがありますね。その制度で、子供達を預かって育てている人たちの話ですが、その人たちがラジオのインタビューに答えて、こう言っていたのを聴いたことがあります。それは子供達に里親の自分たちが本当の親ではないということを、いつ話してあげるのがいいかという話題でした。大抵は乳幼児のときに子どもを預かるわけですが、そんな親たちにとって、いつ真実を話すのがいいかというのは大きな課題で、結論としては、小学校に上がる前が最適の時期ではないかということでした。子どもに自分たちは里親だと告げることを『真実の告知』というのだそうですが、それは子どもが小学校にあがる前がふさわしい。なぜなら子どもが学校に上がると、様々な手続きなどで、子どもが真実に触れる機会が増える。そのため、できれば子どもが小学校に上がる前に真実の告知をすましておいて、子どもが事実を知ったときに備えておいたほうがいいのではないか、という考え方でした。ではこの真実の告知とは何かというと、実はあなたと私たちは本当の親子ではないことを告げた上で、だけどあなたと私たちの間には本当の親子以上のもっと素晴らしい愛情、固い絆で繋がっています。私たちはここまであなたをそんな深い愛情で育ててきました。この愛情はこれからも変わることはないのです、というようなことを伝えるとのことでした。このことも、先のお話と同じようなことを言っているのではないでしょうか。いずれも、私にはあなたのこと抜きには考えられませんでした。もしあなたにこのようなことがあれば、おそらく、あなたの人生はまた、多少とも違っていたものになったのかもしれませんね」
私は、妻の話を聞きながら、あることを思い出した。それは私が十六歳になって、オートバイの免許をとることを父に相談したときのことだった。年齢的には中学の三年か、高校に入った頃のことだ。私は父の了解を得て、その手続きしようとした。驚いたことに、父が率先して書類を揃え、届けておいてくれるという。田舎町のこと、街の警察署には確かに父の知り合いが何人もいた。そのこともあって、私は父が頼みがてら警察に行ってくれるものと思っていた。私には、煩わしい手続きを省くことができる。まさか父がそんなふうに積極的に警察署への手続きをやってくれるとは思いもしなかっただけに、私は父の申し出を喜んで、承諾した。私はそのために警察署からもらってきた書類を父に渡した。それには必要な提出書類のあれこれが書いてあった。一日二日して、父が書類の提出を終えたことを聞いた。私は無事、小学校の校庭に引かれた実技試験コースを辿り、試験にパスした。交通知識の講習も同時の行われたように記憶している。
私は試験の帰り道、ふと、なぜ父がそんなことをしてくれたのかと疑念に思った。その意味を探り当てるまでにそんな長い時間はかからなかった。提出書類の中に、戸籍謄本の提出が義務づけられていた。そうか、これかと思い当たった私は町役場に出向き、戸籍抄本の写しを申請し、すぐにそれに目を通した。即座に眼が止まったのは、母の名に×印があり、死亡したとされる日時が記載されていた。父はこれを見せたくなかったのだ。ここまでやるか、というのが、そのときの私の印象だった。私はここまでして父が隠そうとするものは何かと思った。父は私がその母の死に気づいていないといまも思っているのだろうか。それともことの現実をあえて私の眼に晒したくないと配慮してのことだったのか。私はその日を陰鬱なままで過ごしたことも深く記憶している。
私の記憶は、一気に新しい家での記憶に直結する。そんなとき、まず現れるのは、両手の一方を幼稚園の保母、片方を義母の手によって、引きずられるようにして幼稚園に連れて行かれる情けない私の幼児期の姿だ。私は泣き叫んでいる。そうして泣き叫びながら、わずか三百メートルほどの距離を、毎朝のように幼稚園まで引きずられるようにして通園するのだ。不思議なことに、そのことを除けば、その幼稚園内での他の記憶はまったくと言っていいほどない。
私がなぜ、それほど幼稚園を嫌っていたのか、それはわからない。特にいじめられたという記憶もない。幼稚園の思い出といえば、私にはその光景しか残っていない。ただただ毎朝のこの光景が、記憶の襞にしっかりと張り付き、父の新しい生活に引き取られてからの記憶は必ずここから始まる。幼児期の次の記憶はというと、小学校初期の、学内での行事だ。鉄棒の逆上がりがなかなかできなくて、みんなバカにされ、笑われている幼い日の自分がいる。跳び箱が飛べなくて、必ず跳び箱を前にして立ちすくむか跳び箱を飛越せずに乗っかったままで呆然としている自分がいる。遊びとはいえ、どんなスポーツにも加われない自分がいる。そんな嫌な記憶ばかりだ。
そしてその次につづくのは義母に激しく逆らう幼い私の姿だ。こんな暗い幼児期を過ごした私に、どんな未来があったというのだろうか。
いずれにせよ、何らかの形で妻のいう幼児期の育てられ方、母のことを隠しつづけられた一つの結果が私のいまを形作っていることはそれなりに頷ける。ただ、もしそうであったとして、私の人生にどんな代わりようがあったことだろうか。そて点でははなはだ疑問だ。私のどこかに、そんな理由で自分のこれまでを簡単に否定できないという、何かしら漠然とした疑念があった。そしてその疑念とは何か。それは私が生まれながらに持っていた、精神的なひ弱さに他ならない。もし母が生きていたとしたら、私はまた、別の意味で、わがまま放題、どうしようもない人間として成長していたかもしれない。多分そうだろう。いずれにせよ、このひ弱な性格は母がいたとしても、持ち前の私を形作っていたのかもしれない。母を理由にして自分を語ること、自分を別人格の人間に置き換えることなど、もうそろそろ終わりにしなければならない。
妻はしばらくの間は無言のままだった。その妻が、何かに気づいたように言った。
「私はサヤカさんが憎いとは思いません。サヤカさんもまた、あなたの何かに取り込まれたいわば犠牲者です。あの人も、多分、生涯あなたから受けた傷を噛み締めながら生きていくのでしょう。表情や態度には出なくても、彼女の内面に、いつまでも根深く残りつづけることでしょう」
妻はなんとなく頭を振る私をため息まじりに見つめた。が,それは妻のいうことを否定してのことではなかった。そんな私を見つめながら、妻は「帰ります。勝手なことをいいました。これ以上お話しするのも無駄でしょうから」というと、そのままコートを手にした。私にはそれを停められなかった。彼女は静かに部屋を出て行った。ドアが閉まり、やがて廊下に響くヒールの音が聞こえた。サヤカのものとは違う、どこか淋しく、頼りなげに聞こえる靴音が小さくなっていった。私は妻が帰ってからも、妻がいったことを考えつづけた。が、しょせんいまとなってはどうしようもないことなのだとも思った。
それから二日ほどして妻から電話があり、サヤカが前の電話のことを丁寧に詫びたあと、結婚すると伝えてきたことを告げた。妻はその後で、早朝にいきなり私を訪ねてきた朝のことを詫びた。私は謝ることはない、とだけ彼女にいい、電話を切った。妻の声は終始、落ち着いていた。だが、サヤカが結婚することになったからと妻の心が晴れやかになったわけではないことは、妻の言葉の端々から感じられた。
その日の夜、私はいささか酔った。妻が突然やって来て三日ほどたっていた。盛り場から駅に向かった足は、駅に入ると、いつの間にか、家に向かう多摩方面への電車のホームを目指していたのだ。深夜、酔ったまま帰宅した。目覚めたとき、最初に眼に入ったものは天井だった。一瞬ここはどこだ、と思った。酔ったあげくに酒場で出会った女の部屋に泊まり、目覚めて自分がどこにいるのかに狼狽したことも何度かあった。
そんな思いでゆっくりと部屋全体を見回した。とたんに、そうか、家に帰ったんだと思った。子どもたちはすでに学校へ行ったのか、もの音一つしない。久しぶりの帰宅だった。この前帰ったのはいつだったか、あまり覚えていない。おそらく、半年ぶりだろう。静寂の中でそんなことを考えているうちに、再びまどろんだ。再び目覚めたのは、妻が外出先から帰ってきたらしい物音からだった。妻が私の様子を見るために、襖を開けた。私は慌てて眼をつむり、まだ寝ているふうを装った。
考えてみれば、大なり小なり、こんな生活がもう十年ほどつづいている。子どもたちはまだ小さかったから、父親が帰ればいつも大歓迎だった。しかし、妻は違った。どこか疑わし気な顔で私を見つめた。彼女はそのことでくどくどと詮索するようなことはなかったが、子どもがいなければとっくの昔に私には見切りをつけていただろう。サヤカだけではなく、これまでにも大なり小なり同じようなことがあった。そのたびに私はそれとなく はぐらかしてきたが、彼女は彼女なりの直感で、そんな私のことを見抜いていたような気がする。それでも表面的には私を許していたのは、ひとえに子どもの存在があったに違いない。私のいないところで、実家の母親にはずいぶん愚痴をいったらしいが、彼女の母親は母親で、私がそうなるのも、あなたの責任でもあるのよと、その都度、彼女をたしなめていたようだった。男の人というものは、たとえ結婚していても一度や二度はそんなことがあって当たり前よ、というのが彼女の持論だった。とにかく、変に怒ってしまえば、結局は女のほうが負けてしまう、そういうものだと彼女は娘を諭した。
私はいつも、まず自分のことばかり考えていた。よりよい家族、自分にはなかったかもしれない理想的な家族をつくろうとはしたが、そのための努力はほとんどしなかったといっていい。結果として妻を裏切り、父親としての子どもたちの期待には何一つ答えてやることがなかった。
同じようなことが、私がつき合った、あるいはただ好意を持ってくれた女性たちにいえた。私はいつも自分が正しいと思いながらも、彼女たちのちょっとした好意に、最初はいつも祖母や早くして死んだ母を重ねた。想像はできても、体験のない私を正当化するつもりはない。しかし、そうした女性たちが優しければ優しいほど、私は彼女たちに母のような愛情を感じた。
いつしかそれは、私にとっては当り前の行為となり、それが満たされないときにただただ相手に対する不信感を言葉に出し、結果としてそんな自分を呪った。だが、それが分かっていても、私は同じような過ちを何度も繰り返した。繰り返したというよりは繰り返すしかなかった。相手が信頼できる人であればあるほど、こうした傾向は強くなった。男女を通じて友人たちはそんな私を見て、ときにははなはだ自分勝手な人だと私の行為を蔑んだ。そう思われても仕方がなかったが、私はそんな自分を、まるで不治の病者のように、ときには愛し、ときには嫌悪しながらも自分を変えようとしなかった。いや、変えようがなかったのだ。私はいままで、誰も愛したことがないように思う。家族も家庭も、友人も、そして私を通り過ぎていったどのような女たちも……。誰も愛せなかった。愛そうとしなかったわけではないが、結果として、だれも愛することができなかった。
妻が顔を出した。
「お目覚めですか? 昨夜は随分酔っていましたね。もうべろんべろんで、ここが自分の仕事部屋か自宅なのか、分からないようでしたよ。でも、よくたどり着けたものですね。すぐに玄関で横になってしまい、こちらに寝かせるのも大変でした。子どもたちも起き出して手伝ってくれたんですよ」
私は「そうか」といって眼をつむった。妻に声をかけられ眼を開けると、妻は手に一葉のハガキを手にしていた。手にしてみると、学生時代に良く出入りしていたある喫茶店のママからのものだった。名前を見ただけではよくわからなかったが、文面に目を通すと、それが誰であるかにやっと気づいた。
当時、ちょっとした縁があって、その店の家族と仲良くした。それは当時。私たちが住んでいた最初のアパートから越してから途絶えたが、向こうの家族と一緒に海水浴やハイキングにも出掛けた。店は長く同じ場所にあったが、私が住まいを替えた関係で、その後は近くに出向いたとき、ふらりと立ち寄る程度で、さらにいまの住まいに引っ越ししてからの親交は長く途絶えていた。私はハガキの文面に目を通した。ハガキにはマスターが肺がんのために、長く療養していたがつい一か月ほど前に亡くなったことが記されていた。たまたま主人の遺品を整理していて、私の転居通知を目にしたので、懐かしく当時を思い出し、お知らせする次第です、といった内容だった。私はまだ元気なころのマスターを思い浮かべた。
その店は私の通う大学への通学路の路地裏にあり、あの頃のその店のコーヒーは確か六〇円だったと記憶している。周りの店では、八〇〜一〇〇円だった。おまけに午後二時までに行くと、モーニングサービスの分厚いトーストが一枚ついた。バターもたっぷり塗られていた。客のほとんどが、付近にあった二つの大学の学生だった。私たちは、その店で二時間、日によっては三時間も粘ったことがある。当時の学生もまた貧しかった。同じ店で、コーヒーを二杯も頼むような学生はあまりいなかった。それでも店のマスターもママも嫌な顔を見せず、いつも私たちを温かく迎えてくれた
私が妻と同棲を始めた頃、ある日、私はその喫茶店に彼女を連れて行った。私はそこで同棲中である事実を告げ、彼女を紹介した。何度か二人で店に顔を出していたある帰り際、マスターに呼び止められ、「よかったら、奥さんに店を手伝ってもらえないだろうか」と提案された。条件は日給七百円だった。当時、学生のアルバイトの日給は七百円から八、九百円、ちょっとした力仕事なら千円前後というのが相場だった。私は、どうする? と彼女を見た。彼女はあっさりと、その申し出を承諾した。どうせどこかでパートのような仕事をしなければならないと考えていた矢先だった。
マスターはいけると思ったのか、さらに条件をつけ加えた。「来てくれればわかるこことだが、最近の客は一日だいたい五〇人平均、あなたが来てくれれば、それなりに客もつきそうだから、一日一〇人増えるごとに日給に一〇〇円ずつ追加するし、その分は毎日払うから」といった。彼女は「私に務まるかしら」といいながらも、その申し出に快く頷き、「では明日からでも来ましょうか」とにこやかに答えた。厨房でそのやりとりを聞いいていたのだろう。ママが顔を出して、「よろしく、ね。私も助かるわ」と口添えした。
思えば、あの頃は妻が一番輝いていた時代だった。若かったということもあろうが、二人とも生活するのに一生懸命だった。余計なことに神経を使う余裕など二人にはなかった。彼女が店を手伝うようになって、客は徐々に、確実に増えた。よほど彼女の客のあしらい方がよかったのだろうか。もう一つは、大学での私の所属していた文芸サークルのおかげである。「あいつのレコがあの店で働いているらしいよ」ということがサークル内で伝わり、彼らの多くが店に日参するようになったことと、クラスメートもまた、その話を聞きつけ、その顔を見たさに店を訪れるようになったのがきっかけだった。そのうちの何割かがやがては常連のようになり、店はそれなりに繁盛した。おかげで彼女は勤め始めてほどなく、約束の一〇〇円、日によっては二〇〇円を毎日のように手にするようになった。当時の物価でいえば、二〇〇円あれば、二人分のその日の夕食のおかず代に十分足りた。おかげで、一緒に暮らすようになったことを理由に毎月の送金の割増を親に要請することもできなかった私には、毎日のそのお金はずいぶん助かる金額となった。そのうち、我々は以前に触れたような経緯から卒業を前にした一月、正式に結婚したが、結婚すればなおのこと、親にそれ以上の負担は強いられるはずもなかった。
大学の卒業を前にしたその年の三月、東京に大雪が降った。当時国電と呼ばれていた電車が三日間も運航停止したほどの大雪だった。その雪をついて、妻はいつものように店に出ようとしていた。当時我々が住んでいたのは二階建てのアパートの二階部分だった。雪はアパートの階段にもうずたかく積もっていた。私が外出した後だった。その階段を降りようとして彼女は足を滑らせた。ほぼ尻餅をつくような格好で、上階部から下まで滑り落ちた。アパートの大家の家はすぐそばにあった。異様な物音と悲鳴に気づいた大家の奥さんが何事かと窓からアパートを見ると、妻が階段の下で呻いていた。彼女は一目で階段から滑り落ちたことを悟った。奥さんは大慌てで自分の車を車庫から出し、雪道を警戒しながらも妻を病院にまで連れて行ってくれた。外傷はほとんどなかったが、妻はそれで股関節を痛め、二週間ほどの入院を余儀なくされた。
私は連絡を受け、急ぎ病院に出向いた。病室に駆けつけると、妻はベッドの上で泣いていた。私は知らなかったのだが、そのせいで妻は流産していた。妻自身、自分の妊娠を疑ってはいたが、産院で確かめる前のことだった。妻は若かった。その分、回復も早かったが、結局、それがもとで、彼女は店をやめた。怪我のことよりも、流産しことが彼女の気持ちをしばらくは萎えさせたままだった。その店のマスターが亡くなったという知らせに、私はそんな当時のことを思い出していた。時計を見ると、まもなく正午に近かった。顔を洗おうと部屋を出た。その物音に気づいて、妻が顔を出した。「体中がお酒臭い。お風呂に入ったら」と、私に入浴を勧めた。風呂から出ると、妻が「これがいま届きました」と、一通の封書を差し出した。
久々に目にした懐かしい筆跡だった。伯父からだった。母の弟に当たるこの伯父とはもう久しく会っていない。封を切ると、懐かしい人からの書状に添えて、私とは従兄に当たる母の長兄の息子の結婚式への招待状が入っていた。手紙には、私と私の家族の安否を気遣う書き出しとともに、母の五十回忌の際の私たちとの懐かしいあれこれが、つい昨日のことのように認められていた。次いで、従兄の結婚のことが触れられ、これを機会に久々に顔を見せて欲しいとのことが書き添えられていた。普段はどうしても無沙汰気味になる伯父の私への心遣いが嬉しかった。結婚式の日付を見ると、まだ半年後のことだった。これを機会にと、一刻も早く私に知らせたいという伯父の息づかいが文面にはあふれていた。玄関に子どもの一人が帰ってきた気配がした。(「第七章」その2につづく)
*本稿は『ちば文学』第19号(2018年9月末日発行)に掲載されたものに加筆・訂正を加えたものです。転載を同意してくださった「ちば文学会」に感謝します。
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