ゆうやけ・こやけ

求めているのは、雨上がりの夕焼けあとにやってくる青空です。

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  第七章(終章)

(その2)
 酔って家に帰った日から一週間ほど経ったある日の夕刻、私は新宿にある出版社をオートバイで出て、夕闇迫る事務所への帰路を急いでいた。やがて市谷を経て一路、水道橋に向かってバイクのスピードを上げた。ちょうど左に靖国神社を見ながら、神社横の入り口そばの交差点を目前にしたところだった。前を走っていたタクシーが青信号なのに、突然、急ブレーキをかけて停止した。後でわかったことだが、夕暮れの横断歩道を赤信号にもかかわらず、子どもが駆け抜けようとしていたらしい。私は急ブレーキをかけたままかなりの勢いでタクシーに追突し、その反動で空中に投げ出された。私の身体は前のめりになりながらタクシーの横の道路に飛ばされた。なぜか、歩道に激突した瞬間のことはよく覚えている。道路に接した瞬間、私はとっさに、ああヘルメットをつけていてよかったと思ったことを覚えている。なぜか、瞬間的にそう思った。が、そのまま私は気を失っていた。気づいたときには救急車で御茶ノ水の整骨専門病院に運ばれていた。
 病室のベッドで目覚めた瞬間、私は異常に寒く感じ、ベッドの中で震えた。どうやら、横断歩道に打ちつけられたあと、失禁してしまったようだ。私が気づいたことを知った看護婦の手で私は全身の服を脱がされ、病院が支給してくれた下着と患者用のパジャマに着替えさせられた。着替えのため、ベッドから起きようとしたとき、私は腰に猛烈な痛みを感じた。やっとの思いで着替えを済ませた私は看護婦に支えられるようにして車椅子に乗せられ、レントゲン室に運ばれた。
 幸いなことに、主要な骨はどこも折れてはいなかったが、脊髄から枝が生えたように並ぶ腰椎が三本ほど折れているということだった。私はそのあと医療室のようなところに運ばれ、ギブスを巻くため、全裸になるようにと促された。私は「えっ」と声を出した。「誰も見ていませんよ。それにみんなは慣れっこです」と、婦長と呼ばれる年配の看護婦が笑いながら、私に布切れのようなものを手渡した。それは申し訳程度に局部を隠すことのできる三角巾状の白い布に紐のついた、いわば最少の褌ともいえるようなものだった。私は子どもの頃に一、二年間ほど使った覚えのある黒猫と呼ばれていた海水パンツ代わりの小さな褌を思い出した。それもまた、男の子の局部を辛うじて隠すことのできる代物だった。まだ幼児の私でさえ、それをつけることにはいささかの抵抗があった。私は激しい羞恥を感じながら、全裸になり、それを腰に巻いて局部を隠した。とにもかくにも、それで隠したいものは辛うじて隠れた。その間も、腰は極度に痛んだ。立っていること自体が、激痛を誘っているかのように思えた。
「できました」と、まだ二十歳になるかならないような若い看護婦が婦長に声をかけた。「はい、それでは始めましょうか」と彼女は私にここに立つようにと、二本の鉄棒の間を指差した。そこに行くにはわずかだが二、三歩は歩かなくてはいけない。案の定、腰の周りに激痛が走った。若いほうの看護婦の肩を借りて、私は小さな三角巾をつけたまま、恐る恐るそこに立った。婦長は両脇の天井から伸びた二本の鉄棒に掴るようにと私に命じた。手を伸ばし、私は指示通りに鉄棒を握りしめた。それだけでも、腰にまた激痛が走った。
 石膏を溶いたバケツに若い看護婦は自分の手一杯の包帯を投げ入れ、バケツの中で、解いた石膏に包帯がほどよく絡むようにかき混ぜていたらしい。それは私の背後の作業でのことだったが、その音で私はそう想像した。婦長が「はい、ではそろそろはじめましょうか」と返事をした。若いほうが「はい」と返事をすると、その中から、最初の一本を婦長に手渡したようだった。受け取った婦長は、まず私の局部のギリギリの上から、その石膏滴る包帯で身体を一回りさせながら上に上にと巻き始めた。私の腰には冷たい感触とともに、巻き付けては石膏を全体にまぶす婦長の手慣れたリズミカルな動きが伝わった。
 身体に新しい包帯を巻きつけるたびに、バケツから取り出されたばかりの包帯から、数滴の石膏の雫が私の下半身に降りかかる。その幾滴は局部前の三角巾の上にも落ちた。そのたびに石膏の重みで布がずれ、徐々に下に下がっていくのが感じられた。私は気になってならない。つい下を見下ろそうとする。その瞬間、巻いている婦長から叱責の声がかかる。「下を向いてはダメ! ギブスが歪んでしまうの。石膏を巻き終わるまで我慢して」。しかし,数分してまた気になった私はまたしても下を向いてしまう。再び彼女の声がかかる。「駄目よ! 先ほどからもうあなたのものは覗いているの。諦めて前を向いていなさい」。助手をしていた若い看護婦がクスクスと笑った。私はそれを機会に『もうどうにでもなれ』という気持ちになった。
 尾骶骨の下あたりから始まったギブスは、あっという間に脇の下のあたりで巻き終えられた。年配の看護婦が下半身に垂れた石灰の雫を丹念に拭き取ってくれ、慣れた手つきで私の腰の三角巾を外し、自分の顔の間近の局部やその周りの石膏を丹念に拭い落とし、パンツを履かせてくれた。上半身を覆うように仕上がったギブスはまるであたかも甲冑をつけたかのように身体を引き締めていた。まだ濡れたままだったせいか、私は少し震えた。「すぐに乾くから、少し我慢してください」と若い看護婦はそういって笑った。私が車椅子に座るのを見届けると、婦長は私のレントゲン写真を見せてくれた。確かに、尾骶骨の左側の下から三本の腰椎の異常がはっきりと写っていた。写真を見ると、下から一番目の腰椎は完全に分離し、二番目と三番目がちょうど木の枝が折れて辛うじて垂れ下がっているように見えた。「これは骨折?」と、私は訊いた。彼女は「骨折ではなく、腰椎分離ね」と、和やかにいった。
 病室に帰ると、妻が来ていた。事故の後、私のポケットを探った警察が免許証とともに入れてあった保健証を見つけ、そこに記載してあった自宅の電話番号からことの次第を妻に知らせてくれていた。続いて病院からも電話があり、衣服が濡れているので、一式持参して欲しいとの依頼だった。妻はそれがまさか失禁によるものだとは想像できず、なぜ? と思っていたらしい。
「大変だったわね、だいじょうぶ」と彼女は車椅子からベッドに移るのを介添えしながらそう聞いた。「ああ、大丈夫だ。ただ,腰が痛い」と、私は答えた。部屋は三人部屋だった。幸いにもたまたま他の二人は部屋にはいなかった。妻は「いきなり警察から電話があり、急いで駆けつけたから、とりあえず着替えを一通り持ってきたといい、私は彼女に手伝ってもらいながら、妻が持参にした下着に着替えた。体温のせいか、上半身に巻かれたギブスはすでにほとんど乾いていた。着替えをやっとの思いで済ませた私はベッドに横になり、大きく息をついた。トイレのためにベッドから降りるにも、かなり腰が痛みそうだった。
 しばらくして、「子どもたちは私がここに来たことを知らないから、今日はもう帰ります。明日出直しますから、ほかに何か持ってくるものはないですか」と私に聞いた。私は思いつくままにいくつかの品を口にし、ベッドに付したままで妻を見送った。その妻と入れ替わるようにして、警察官が入ってきた。簡単な事情聴衆が始まった。私は思い出すままに彼の質問に答えた。その彼から、他に怪我人はいなかったことを聞いた。信号が赤にもかかわらず横断歩道を渡ろうとした少女も、タクシーの急ブレーキで辛うじて怪我もなく、タクシー運転手のほうも何事もなかったということだし、オートバイもそれほどの損傷はなく、とりあえず警察署のほうで保管してあるとのことだった。私は安堵に胸をなぜ下ろした。
 結局、退院するには一ヶ月ほどかかった。私は病院から、幾つかの出版社に電話し、事情を納得してもらった。中には、中途半端なままで継続不能になった仕事も幾つかあったが、その多くは私の退院後まで待ってもらえた。それでも、妻に何回か頼んで、仕事部屋から運んでもらったやりかけの仕事を病院で少しずつつづけたが、思うようにははかどらなかった。
 退院する日、妻と長男が病院にやってきた。私は妻の運転する車に乗った。途中、小さな公園があった。タバコが吸いたくなった私は、途中で車を降りた。冬の寒い朝だった。妻が一緒に降りた。長男は車に残り、当時流行っていたゲームを夢中でつづけていた。私たちは何もしゃべることなく、少し歩いた。公園のベンチに腰を下ろした。妻もそうした。私には言葉はなかった。言葉に出せば、すべてが言い訳になるだろう。私は黙って煙草を吸った。久々に吸うたばこに少しむせた。
「この機会にタバコは止めたら?」と妻がいった。
「うん」とだけ答え、さらにタバコを吸った。もうむせることはなかった。
 しばらくの沈黙が流れた。妻はベンチから立ち上がり、すぐそばのイチョウの大木に体を持たせかけながら私を見た。
「これからどうします?」
 私は返事に窮した。時間だけが静かに流れていた。
「サヤカさんは病院にお見えになりました?」
「いや。もうそんな関係ではない」と、私はそれだけ答えてさらにタバコを吸った。妻は黙っていた。
 私はタバコを消しながら、妻の眼を避けた。消したタバコの処置に迷った。いや迷っているふうを装った。すぐ先に吸い殻入れがあった。まだ歩行が完全とは言えない私は吸い殻を手にそちらを見た。妻が気づいて、私の手からそれを取り、そこに捨てた。妻は再びベンチに腰を下ろした。
「彼女は、多分、私がけがをしたことを知らないはずだ」
「そんなことはないでしょうに?」
 私は迷ったが、彼女とは完全に別れている、と告げた。
「そう、そうだったの。病院でのあなたはどこか寂しそうだったわ。そうだったの」
 妻は空を見上げながら、そういった。私はそれ以上、サヤカのことは何もいわなかった。サヤカが我が家に電話して妻と話したことがその結果の一端につながっていることを妻も察しているのだろう。
「私って、あなたにとって何だったのでしょうか」
いきなり妻がそんなことを聞いた。
「…………」
「妻? それとも母親?」
「どんな人だって、母親にはなれないよ」
「おばあさまも?」
「そうだね。なれなかった。祖母は祖母なりに精一杯、母親を演じてはくれたし、彼女が考えうるだけの愛情を注いでくれたが、やはり母親にはなれなかった。義母もまたそうだった。最も義母のほうは、早くから思い通りになつかない私の母親になることを放棄したきらいはあったような気がする」
「サヤカさんは?」
「彼女もまた、そんなことを意識してはいただろうが、それはただそれだけのことだった。だれにもそういう思いをさせたのは、私の甘えだ。そう思ってもらえること、ただそれだけでも、私は幸せだったのかもしれない」
私たちはそれ以上何もしゃべらなかった。
「ここは寒いよ。そろそろ行こうよ」
 長男が車の窓から顔を出し、そう声をかけた。私は妻に助けられながら、ベンチからそろりと立った。
 車に乗る前、、私は前を向いたまま妻にいった。
「事務所をたたんで、家に帰ろうと思うが、いいだろうか」
「……いいですよ。大変でしょうが、前のように家からお出かけになられればいいでしょう」
 会社を辞めて半年ほど、私はいまの生業を自宅から通いながら始めた。やがて仕事が増える従って、現在の古いマンションを見つけ、ねぐら兼仕事部屋として借りた。最初の内は週末には必ず帰宅していたが、それがやがては一ヶ月に一度となり、サヤカが時折やってくるようになると、三ヶ月に一度、半年に一度となっていた。それだけ、仕事もあった。実際には、家に帰る時間すら忘れたように仕事にも追い立てられた。社外の協力者も何人かに増えていた。そんなこと、こんなことを大きな理由にして、私は家族の非難を、特に子ども達の非難をないがしろにしてきたのだ。そんな生活を始めてすでに十年余りが経とうとしている。
「最近は、お仕事のほうもあまりうまく行ってないのではないですか?」
「うん」私は、妻の問いかけを素直に認めた。現実に、毎月妻宛に振り込む生活費が遅れがちで、減額して送金することも度々だった。パソコン社会の到来で、出版業界は予想もしなかった不況の時代を迎えつつあった。それにかぶさるようにしていわゆるバブル崩壊がやってきた。そしてやって来た所謂ネット社会、一般家庭へのパソコンの急激な普及で、出版業界は更なる逆風にさらされた。私の受けていた仕事も、その量が減ると同時に、制作単価が落ち、かつての制作費の半分以下という事態も出現していた。私の仕事を手伝ってくれていた数人のフリーの編集者に回す仕事も、極端に減少し、中には就職先を懸命に探す仲間も増えた。
 全部ではなかったが、規模の小さな出版社から私への支払いもときには滞ることもあれば、単価の減額を要求されることもしばしばだったし、支払われないままとなるケースも起こり始めていた。景気がよかった頃のことを考えると、請け負う編集単価や原稿料も軒並み減額、ひどいものとなると、最盛期の半減ということも珍しくなくなっている。本当はすでに、経済状態は火の車だった。どうにか蓄えを崩しながらつづけてきてはいたが、そんなことが長くつづくわけはない。自分のほうさえ、支払えないことも生じつつある。この辺りが年貢の納めどきだった。こうした仕事の激変に合わせ、事務所等の経費の縮小を余儀なくさせた。あるいは友人たちのように再就職という道もあったが、年齢的には到底叶わぬ望みでもあった。ただ一つ取るべき道、それは自宅に引きこもり、経費を出来うる限り節減し、細々と仕事を継続するほかなかった。
 そんなふうに覚悟を決めてみると、かつての取引出版社の中には、事情を察してくれてこれまでにない仕事の世話をしてくれる社もあった。ただし、制作単価は大幅に減額するほかなかったが……。妻のほうだってそうだったに違いない、私には口に出していうことはなかったが、振り込みが遅れるたびに、減額されるたびに、なし崩しに貯金をおろしていたに違いない。現在の事務所の家賃負担がなくなれば、それだけでもかなり息がつける。本当のことを言えば、そこまで追い詰められていた。事故で入院する少し前、私は自宅に帰り、家族に届ける生活費が都合できない現状を妻に説明していた。そのとき、妻は快く承諾してくれた。病院から自宅に帰り、子どもが外に出て行くと、妻はキッチンの洗い場の引き出しから、封筒を差し出した。中を見ると、数十万はあると思える一万円札が入っていた。「姉が用立ててくれました。事務所を引き払うとなると、それなりに清算するためのお金が必要ではないですか。姉には別の理由で用立ててもらったものです。これで足りるかどうかはわかりませんが、これでできるだけ清算するものは清算して、すっきりと出直してください」
 封筒を手にした私の手が震えた。これだけあれが全てではないが切迫している支払いのかなりを清算できる、それにしても……。容易に言葉が出てこなかった。妻になんらかの形で感謝の意を示したかったのに、予想すらできなかったことに、私の頭は真っ白になり、どういっていいのか、どうしていいのかさえわからなかった。が、これで私の決意は決まった。
 私は退院の数日後、すぐに仕事場を引き払うことにした。机、ロッカー、冷蔵庫や電子レンジ、独身者向けの洗濯機など、大きなものは友人の何人かがが引き取ってくれ、資料として使った多数の本、それに私の作品と呼べるのか、いろんな雑誌類、代筆を頼まれた書籍、編集を請け負った多くの単行本、布団や食器、その他の日用品はほんの一部だけを残し、あとはすべて処分した。それらの全ては、私がそこで仕事を始めてから、必要に応じて増えたものだ。持ち帰えったとしても、家では同じようなものは不要となる。それに子どもたちも成長し、それぞれが一部屋ずつ使っていて、他にそれらを持ち込んで置ける場所はなかった。それでも、運送会社の小型トラックの荷台は一杯になった。段ボールに詰め込むことができたものはそうしたが、その段ボールのいくつかは、私の家に運び込まれたのち、相当長い間は持ち込んだままで、なかなか整理することすらできなかった。思い切って事務所はたたんだものの、私の中には言い知れない虚しさが溢れ、仕事中にややもするとその虚しさに押しつぶされそうで、容易に仕事の手は動きそうもなかった。

 それからおよそ一か月後、私は二年ぶりとなる初夏の瀬戸内海を眼の前にするホテルにいた。眼前の島々はまもなく消えかかる西日を島全体に受け、海は茜色に輝いていた。従兄の結婚式を二日後にして、私は早めに故郷の土を踏んだ。私はまず実家を訪れ、弟二人で両親の墓参りを済ませた。私は今回の帰省のわけを弟に話し、弟の車でホテルまで送ってもらった。いまや、実家は弟一人で暮らしている。彼に負担をかけたくないと考えた私は海岸近くのホテルをとっていた。
 そこに泊まろうと思ったのも、ホテルは私が生まれた本家からわずか一〇〇メートほどの同じ地つづきの海岸沿いにあったからだ。それともう一つの理由があった。もう、何年前になるだろうか。そのホテルは五十数年前に祖母のフサが、産後の肥立ちが悪くて体を壊し、病を癒すために実家で養生していた母を見舞うため、戦時中のその里までの道を往復三、四時間かけて歩いたその足跡を知ろうとして、その同じ道を歩くために同行してくれた編集者のH氏と宿泊した同じホテルだった。母が里帰りの際に折り鶴をまいたという海もまた、眼前に広がっている。ホテルは海岸から道路一本隔てた海沿いにあり、どの客室からも眼前に海が広がっている。ホテルの眼下には私がこの町に暮らしている間、足繁く通った渚が見下ろされた。道路の幅を広げ、防波堤を築いたために、渚のかなりの部分が埋め立てられていたが、新たに築かれた道路や防波堤を除けば、わずかに残された海岸には昔のままの姿が残っていた。
 私はのちに父に引き取られ住まいを替えたが、小中学校時代、あるいは高校に通うようになっても、春から秋にかけては、その放課後の時間の多くを割いて、この浜辺にいた。小学生の頃は祖父も健在で、散歩がてらに防波堤に出、防波堤から私を捜しては手招きして、着物の袂から菓子を取り出し、手渡してくれたこともしばしばあった。当時の浜辺は大小の岩石に交じって、十分な砂地があった。潮の引いた浜辺には冬場を除いて多くの子どもたちの姿があった。モリをもって浜辺を浮遊するタコやワタリガニを捜す者、せっせとあさり等を掘り出すための手鍬で砂を掘るか、または釣り餌を探す者、目的もなく浜辺を歩き、流れ着いた何らかの珍品を拾う者など、その目的は様々だが、誰もが黙々と自分のその日の目当てを求めて、再び潮が満ちるまでの数時間を費やす、そんな浜辺だった。ただし、この浜辺では危険が伴うことから、遊泳だけは学校から禁止されていた。この浜辺と向かいの島の狭い海峡にはサメが泳いでいた。そんなこともあって夏の海水浴のためには、眼前に浮かぶ島の海水浴場に、それもサメよけの網が張られた限られた場所に行かなければならなかった。が、いまの海岸の砂浜にはかつての浜のように子どもたちの姿はなかった。ただ、どこから紛れ込んだのか、首輪のない、一匹の野良犬が狭い砂地をまるで彷徨するかのように鼻を鳴らしながら同じコースを歩きまわっていた。
 私は当時を懐かしみながら、いまは誰もいない、わずかばかりに残された浜辺をしばし眺めていた。私はふと、サヤカのことを思った。サヤカのことはそう簡単に忘れられることではなかったが、そのことも今度の帰省で一時的にも忘れることができるきっかけにはなるだろうと思った。そう思いながらも、未だにサヤカに拘っている私がいた。と、突然、私の眼に涙があふれた。西日がぼやけている。私はあふれる涙を流れるままにしていた。この涙は何だろうと、と思った。サヤカを失ったことへの涙か、家族を悲しませたことへの後悔の涙なのか、少し迷った。私は思った。この涙は何でもない。私の心の演技、サヤカへの憐憫、家族への悔恨、それはすべて私の勝手な思いでしかない、と思った。とすれば、この涙をして、自分へのいい訳でしかない。そのために私は泣いた、と思った。つまりは、ウソ泣きでしかない。私は自分が恥ずかしかった。母が病を癒すために里帰りをする際に海に放ったという折り鶴の話をするとき、私はときに人前で涙を流した。そのたびに、自分がまた、母を利用していると思った。こうまでして自分を正当化しようとしている、その心のありさまがあまりにも見え透いていた。とすれば、母へ、祖母フサへの思いもまた同じようなものだったろうか。私は暮れなずむ海を見ながら、自分の曖昧なこれまでを思い、自分を呪った。いまも海岸を彷徨する野良犬が、まるで私のようにも見えた。
 もう何年前になるのか、私は初老の身体に鞭打って、久しぶりにこの海に潜った。弟も一緒だった。この海に身をさらすのはおよそ十数年前、子どもたちを伴って帰省して以来だった。すでに老い始めていた身体のせいもあったのか、海水がことのほか冷たく感じられた。私は弟の心配をよそに、久々の海の感触にそれなりに感動していた。さすが、海の中にはそれほど長くはいられなかったが、建物は別として、海から見るかつて親しんだ砂浜や釣りに興じた岩礁はまだ幼いころの記憶のままの風情を保っていた。海水が身体に馴染んでくると、私は思いっきり海底を目指し、海底に着くとすぐそばにあった岩礁に手を伸ばし、息のつづく限りそこに蹲ってじっと暗い海底に目を凝らした。まるで何者かが出てくるのを待ち受けるかのように……。が、老いの始まった私の体力はかつてのようにはいかなかった。我慢の限度まで海底に蹲ることはほとんどかなわなかった。蹲ろうにも、身体はすでに浮上しようともがいていた。呼吸もかつてのようには長くはつづかなかった。私は心の内で海にいった。もう駄目だ、もうつづかない。多分もう、こんなふうには潜ることはできないだろう、と誰にいうでもなく、私は心の中で呻吟した。
 なぜか、最近よく夢も似たようなものだった。もともと、ふだんから私の眠りはそれほど深いわけではない。それに私の場合、一日に何時間もぶっつづけに寝るというのではなく、一日うちに何回かまどろみながら、時折、仕事といった状態がつづいている。夢の内容はそれぞれまちまちで、たいていは想像の範囲を超えた不可思議な物語性のものが多かった。
 前にも触れたことだが、私はなぜか、この海、それも私が生まれた家とその前の海に浮かぶ島の間の海が干上がり、剥きだしの海底を歩きながら、そうかやはりこの地域はこのような形だったのかと自ら感心しながら海底を歩き、目の前の島に渡って私が好んで立った小さな岬の上から干上がった海底を覗き込んでいるといったような夢をよく見た。たいていの夢は暗い海底をいくら歩きつづけても向こう岸にはたどり着けないといった夢が多かった。これはなぜだったのだろうか。夢ではいつも空は晴れて周囲は明るいのに、海底は暗く、限りなくダーク色に見えた。夢ではいつも、私はその海底を当てもなく彷徨していた。歩くにつれて、闇は深くなっていった。私は夢の中で、その底なしのような闇にいつも怯えていた。それでいて、夢の中ではいつも海底を歩いてしまうその所在なさに幼い心を震わせていたのだ。子どものころ、そんな夢は断続的に現れた。私はいつもそんな夢の中で慄き、布団の中で身を小さくして震えていた。ホテルでの夜、久々に母らしい人の夢を見た。その人は、私が子どもの頃からよく見ていた黒い海底の中にたたずんで私を見ていた。いつものように、顔は暗くてわからないが、私には夢の中でそれが母であることはわかっていた。といっても、私は夢の中で、母の顔をはっきりと見たことは一度もない。それに近い夢、たとえばそれらしき人が歩いている。母だと思い追いかけるが、もう少しというところでその人影は消えてしまった。また、幼い私はそれらしき人にあやされているのに、その人の顔に触れようとすると、夢から覚めてしまう。母の姿は写真でしか知らないから、それはそれで仕方ないことかもしれないが、たとえ写真であれ、母の顔は知っているのだから、せめて夢の中で一度でもいいから、写真のままの顔で私に会いにきてくくればいいのにと、ずっと思ってきたが、未だにそれは叶えられない。

 翌日、私は従兄の結婚式に参列した。この従兄は母の長兄の長男だったが私よりも齢上で、それだけに晩婚といえるだろう。いずれにせよ、母の里の跡取りとなる。そんな理由もあってか、周囲にはなんとなくほっとしたかのような安ど感に包まれていた。私は会場で初めて会う多くの親類やその縁者に出会った。中学校のとき、私にブラスバンドへの入部を進めてくれた母の従姉妹に当たる音楽の先生にも数十年ぶりに出会った。先生とは同じテーブルだったが、私はなんとなく先生に顔を向け、微笑み返されると慌ててその目を避けた。知らず知らずのうちに、彼女に母の面影を探していたのかもしれない。私は式のあとで、伯父とともに母の墓を訪れた。母の里のたっての願いから、母の遺骨は分骨され、こちらの墓にも埋葬されていた。私は墓の前で手を合わせ、後ろを振り返り、すぐそこにある海を見た。海はほどなく山陰に落ちようとする日の光を受け、黄金色に輝いていた。私は私のすぐ横で同じ海を見ているに違いない母にそっと呼びかけた。「お母さん、ここはいいねえ。毎日こんなに美しい海を見ていられる。しかも、一日中だ。この海を見ながら、思い出すこともたくさんあるでしょう」。母が生きていた頃は、その実家は道路を隔てたすぐ前が海だった。いまでもさほど代わりはない。埋め立てで少し離れたといってもわずかの距離だ。玄関先には母が病気を癒すために実家に嫁ぎ先から接ぎ木を持ち帰って育った沈丁花が、台風のせいで大量に塩水をかぶって枯死したというほど、やはり海には近い。
 母の里の墓所は、瀬戸内海を見下ろす小高い山の斜面にあった。初夏の爽やかな浜風が吹いていた。手向けた花がそんな風に応えるかのように、花びらを揺らした。私はなぜか感傷的になり、心の中で「お母さん」と呼びかけた。こんなことは久しくなかった。
「お母さん、ここはいいですね。いつも海が見えていて、爽やかな風が風いています。幼い頃にお母さんが遊んだ懐かしい海が目の前にあるんですもの……」と心の中でいいかけて、私は思わず涙ぐんでしまった。「私は、この通り、相変わらず、あなたに甘え、あなたを理由にいい加減な人生を送っています。世間には“親に早く別れる子は親を慕わない”という言い伝えがあるようですが、もしかして私もそうだったのでしょうか。私は心のどこかで死んでいるあなたにずっと甘えてきたような気がします。あなたが海に放った折り鶴の話をするとき、私はときに人前で涙を流しました。そのたびに、自分がまた、母であるあなたを利用していると思ったものです……。 私は義母とはあまり口も聞かず、父にはしょっちゅう逆らった。そいう意味では先の言葉を知ったとき、私は私なりにずいぶん思い、悩んだものだった。お墓に供えた幾種かの花の葉が風に吹かれたのか、かすかに震えた。母が何かに応えたのか、それとも私を諌めたのか、私はじっとその葉を見つめた。多分、ここにくることはもうないかもしれない。今度は私の家のお墓でお会いしましょう。私は故郷の菩提寺の本堂の裏にある日当たりのない墓を思った。父も義母もそこで眠っている。もちろん母もだ。そこより、ここのほうが快適な空間に思えた。何しろ、ずっと瀬戸内海が見える。たまには向こうのお墓にも帰ってください、私は母にそう告げた。その墓に一礼して静かに母に別れを告げた。
 墓を離れ、私は海辺にたたずんだ。誰の車か、車内のかけっぱなしのままにされているラジオからの天気予報が「瀬戸内海はこれからところによっては夕立があるでしょう」と伝えていた。
 夏、海岸の正面に巨大な入道雲が現れると、数時間後には一時的なスコールに見舞われることがよくあった。子どもながらにも、海岸線の向こうに出現した巨大な雲の塊を眼にすると、なぜか瀬戸内海の夏を一人占めにしている気がして、叫びだしたくなるようなことがよくあった。いままさに、遠い四国方面の海の彼方に巨大な積乱雲が立ち上がろうとしている。それに映えるように、夕刻の陽が燦然と茜色に輝いている。私が立っているその位置から、かつて祖母のフサが私を乳母車に乗せて辿った山道が見えた。その同じ道を当時のフサの思いを胸に抱きながら、その思いを共有してくれた編集者のH氏と辿った真夏の一日が遠い昔のように思い出された。そのときの思いが募ったせいかもしれないが、私の眼には眼前の海に浮いた何十羽もの折鶴の白い群れが見えた。その鶴がまさにいっせいに飛び立ち、やがて茜色に染まりながら大空を飛翔するのを見たように思った。その先に雄大な積乱雲が、鶴たちを優しく包み込むかのように巨大な姿を変えつつあった。(完)

*本稿は『ちば文学』第19号(2018年9月末日発行)に掲載されたものに加筆・訂正を加えたものです。転載を同意してくださった「ちば文学会」に感謝します。


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