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「風子」の場合(1)
夏休みが終わって九月の新学期が始まったとき、風子の変わりようは誰の眼にも明らかだった。風子を知っている誰もが考えたことは、その原因が彼女の弟の死と関係あるのではないかということだった。当時、風子は近隣では著名なミッションスクール系の女子学園の中等部の三年生として通っていた。弟の不幸な事故がなければ、彼女はそのまま同じ学校の高等部に進学していたはずだ。当時の風子の髪型は普通の女の子のようなおかっぱだったが、九月の悲しい事故を経た十月の初旬、彼女の頭は、見た眼には後頭部を男の子の坊主頭のように刈り上げ、髪全体も極端に短くなっていた。その異様な髪型は、あのミッション系の学校に通うにはあまりにも不似合いに映った。そのことで学校から注意を受けたのか、自らの意思でそう決めたのか、翌年の四月から風子はそのまま高等部には進学せず、同じ市内の、ごく普通の女子高校に進学していた。髪型は相変わらず、後頭部を刈り上げた、ボーイッシュなスタイルのままだった。
小学校時代の達雄はその年度によって違うこともあったが、一年生の折に彼女と同じクラスになって以来、小学校を卒業するまで、二、三回は同クラスになったことから、彼女のことは最初からよく知っていた。幼稚園も同じはずだったが、幼稚園での記憶はほとんどなかった。もっとも、では幼稚園では他に誰と一緒だったのか、と問われても近所の者でさえ、誰の顔も浮かばなかった。小学校時代の彼女は勉強もよくできて、いつも担任から褒められていた。その甲斐もあって、彼女は小学校を卒業すると、近隣の女子児童憧れのそのミッション系スクールの中等部に合格し、通うようになった。そこに通うには、バスで三十分ほどかかった。だからだろう、彼女がその学校に通うようになってからは街で見かける機会は少なくなったが、その制服は遠くからでも一目で認められるもので、達雄は時折、他の男の子同様に、その学校の制服姿の風子を一種の羨望の眼差しで見つめていたものだった。当時、達雄は特に親しくなったわけではなかったが、母親同士がかつての女学校の同級生同士だったということから、幼い頃には母親と一緒に何度か彼女の家に出入りしていたこともあり、彼女のことは他の女の子よりは少しばかり親しみを持って見てはいた。だからといって、引っ込み思案な達雄は幼い頃の一時期を除いて、それほど親しく接したということはなかった。母親と彼女の家を訪ねても、達雄が相手にするのはもっぱら弟のほうで、彼女と直接、接触することはあまりなかった。そういう意味では、彼女の達雄への印象も同じようなものだったろう。街で彼女に偶然出会うこともしばしばあったが、幼かった二人は、すれ違いざまにていのいい挨拶を交わすほどの知恵もなく、どちらともなく互いの眼を避け、うつむき加減に通り過ぎて行くのが常だった。達雄もそうだが、彼女もまた母親を通じての親近感があり、どちらもそれなりに相手を意識していたことは間違いなかったが、むしろそれがわざわいしたのかもしれない。
小学生時代の彼女はおとなしい、可愛い顔立ちをした女の子だった。成績も良く、誰にでも、いつも微笑を浮かべて接し、中学生になるまでずっと女の子たちの中心にいた。その印象は彼女がミッション系の学校に通うようになってからも、達雄には変わることはなかった。ただ、二人が成長するにつれ、かつての照れや恥ずかしさは別の意味で増したように思う。中学校に通うようになってから、達雄はそんな彼女と街で出会うと、彼女は幼児期のように微笑むことはなくなったが、ちらっと達雄に眼を走らせ、はにかむようにして俯いて通り過ぎるようになった。達雄もまた、少々胸を高鳴らせたものの、彼女と同じように眼を伏せ、足早に通り過ぎるのが常だった。二人には、誰もが幼小年期にさしかかる際に体験する、異性に対してのほろ苦い最初の一里塚であったのかもしれない。
彼女は弟の死という事故があるまで、「風子」と、いまのような通称で呼ばれたことはなく、みんなには本名である「芙美子ちゃん」、あるいは「芙美ちゃん」と呼ばれていた。しかし、彼女が中等部三年の二学期になってしばらく経つと、いつの間にかその呼び名は「風子」に変わっていた。それは彼女が突然、後頭部を刈り上げ、髪全体を短くした時期と重なっていた。彼女の髪型のあまりの変化は、それを眼にした誰でもが驚き、すれ違いざまに何度となく振り返っては見直したものだった。その眼差しの中には、「あの、芙美子ちゃんが……、どうして?」という奇異な視線が向けられていた。それまでの芙美子への印象は髪型一つで、まったくと言っていいほど変わって見えた。もっと言えば、彼女のいつも微笑みが絶えなかったその顔から、その表情が消え、いつも陰鬱で、眼はどこか遠い、あらぬ方向に向けられているようなことが多くなったからだ。彼女のその髪型はそのまま、中等部を卒業するまで変わることはなかった。その頃から、彼女は誰が言い出したのか、現在の通称「風子」と呼ばれるようになっていた。
達雄にはその風子という呼び名は自分でつけたのか、仲間の誰かが言いだしたのかはよくわからなかったが、彼女はその呼び名が気に入っていたようで、そのうち、彼女自らが自分のことを「風子、風の子の風子」だと、まわりに徹底させてもいるようだった。彼女自体がそう呼ばれることを望んでいたのか、誰かがそう言いだしたのをそのまま受け入れたのかは不明だが、両親でさえ、「ふうちゃん」と呼んで憚らなかった。最も両親の場合はあくまでも芙美子を略しての愛称だったろうが、それが広まり、風子になったのかもしれない。それでも、その事故があるまで、彼女が周りの友達から風子と呼ばれることはなく、普通のごくおとなしい「芙美子ちゃん」、「芙美ちゃん」だった。その彼女が、どうして風子と呼ばれるようになったのか、どうしてあんなふうに変わったのかは、実のところは誰にもはっきりしたことはわからなかった。ただ、誰もが考え、達雄自身もそれが何らかの原因になっているのではないかという、あの悲しい事故がきっかけになっているだろうことは疑うことはなかった。
その悲劇は彼女が通っていた中等部三年生の夏休みが終わる直前に起こった。当時、彼女には二歳年下の弟がいた。彼女はこの夏、両親にせがんで新しい自転車を買ってもらった。彼女がそれまで乗っていたのは子ども用のもので、中学生になった彼女にその自転車はもう不釣り合いのものだった。彼女は両親に中学生にふさわしい、ほぼ大人用に近いサイズの新しい自転車を買ってくれるようにせがんだ。その自転車が届いたのは、ほどなく夏休みが終わる二日前のことだった。注文はしたものの、在庫の関係で納品が遅れた。彼女はヤキモキした思いで自転車が届くのを待っていた。自転車が届いたその日、彼女は早速、馴らし運転のつもりで試乗した。新しい自転車の乗り心地は上々で、その日は一日中乗りまわした。そして、その日の夕刻のことだった。彼女は弟にせがまれて、その後部荷台に彼を乗せた。皮肉なことに、事故はその直後に起こった。彼女は弟を後ろの荷台に乗せたまま、快適に自転車を漕いだ。自宅から海岸に向かう一本道を自転車は快適に走った。その道から、海の見える大通りに出ようとした。海風を受けて海岸沿いのアスファルト道路を快適に出走すれば、弟も喜ぶだろうと彼女は考えたに違いない。T字路を出て、左にハンドルを切った瞬間にその事故は起こった。T字路を曲がった出会い頭に、いきなり現れた自転車に驚いた軽トラックが急ブレーキをかけたまま自転車の前部に激しく衝突した。彼女の自転車はアスファルト道路に叩きつけられ、ハンドルを握っていた彼女自体はその衝撃にしてはそれほどのダメージは受けず、そのまま気を失った。ところが、後部の荷台に乗っていた弟は衝突の衝撃で弾き飛ばされ、アスファルト道路に激突、首の骨を折って即死していた。彼女は病院で意識を取り戻し、同時に弟の死を知らされた。
そのニュースはまたたく間に街中に伝わった。滅多にない、田舎町での大事故だった。そのことを知った達雄の母は取るものもとりあえず、大慌てで病院に駆けつけた。達雄は母が帰宅してから、事故の全容を聞かされた。死んだ者への哀悼もさることながら、病院で弟の死を知らされた彼女の嘆き、悲しみがいかようなものであるか、母は涙を交えて、達雄たち家族に伝えた。達雄自身、母の話を聞いた後、自室で少しばかり涙したほど、衝撃的なニュースだった。そして迎えた三学期の初め、学校こそは違っていたが、彼女のその変わりようは瞬く間に達雄の通う学校中にも伝わり、再び達雄はそのことをもって、彼女の事故に対する衝撃の激しさを改めて知った思いだった。しかし、だからといってまだ中等部の三年生に過ぎない彼女がどうしてそんな髪型にしてしまったのか、推測中心の噂が飛び交ったが、ずっとのちに、その理由を彼女自身から聞くまでの長い間、達雄にはわからないままだった。
風子と呼ばれるようになった彼女が誰の眼にも、ひとかどの「スケバン」もどきになるのには、そんなに長い時間はかからなかった。それまでに、風子が「スケバン」と呼ばれていた何人かの女子生徒と取っ組み合いの喧嘩をして、相手を押さえつけ、「あんたらのズベコウとは違うんだよ」と相手を屈服させたなどというまことしやかな噂が何度か流れるようになると、確かに風子の風貌はだんだんと険しくなり、並の男の子ではもう近寄れず、話しかけることさえも憚れるといった雰囲気を漂わすようになっていた。実際、しばらくの間、風子は顔だけにかかわらず身体全身に生傷をこさえていた。女同士の摑み合いとはいえ、それがいかに過酷なものであったかを物語っていた。風子はその戦いに、どうにか勝ち進んだようだった。かつての彼女の気質からは誰もが考えられない彼女の変化だった。達雄自身も、あのふうちゃんのどこにそんな力が秘められていたのか、想像すらできなかった。自分の前に立ちはだかるどんな相手に対しても、弟を亡くした悲しみに比べれば、捨て鉢な気持ちとなり、ただひたすら戦いに臨んで行ったのか。中学を卒業するまでには、風子は見た目にはもうひとかどの「不良女子」然とした雰囲気を身体中から発散させていた。風子はほどなくその学校の中等部は卒業したものの、高等部には進まず、同じ市内の普通の女子高校に入学した。同時に、いったん身につけた風子としての印象はますます強くなり、入学後まもなく、彼女は常に一人きりということはなくなり、いつも二、三人の取り巻きの女子校生に囲まれるようにして通学し、校庭や街の繁華街を闊歩するようになっていた。達雄にとって、風子は少しずつ遠い存在になっていた。
高校二年生のときだったが、夏休みの前の七月初旬、達雄は印象に残る風子の絡んだ現場に遭遇したことがあった。それはJRの駅の近くにある城址公園でのことだった。達雄はこの公園が好きだった。中でも、天守閣跡の石垣からは海岸方面につづく街のほぼ全景が見えた。残念なことに、そこから海自体は望めなかったが、当時はそれほど大きな建物はなく、穏やかな街並みや田畑が長く水平線の彼方までつづいていた。達雄は時折、その石垣に腰を降ろし、長いときには一時間ほどもぼんやりと、これといった考え事をするでもなく、時を過ごすことが多かった。いつもの場所に座って、十分ほどたったときだった。眼下の公園の広場に五、六人の女子高生の集団が入って来たのが見てとれた。その中の一人に風子が混じっていた。思わず、身体を少し後方にずらし、下の彼女たちの行動に眼を凝らした。その構図は彼女たちの制服ですぐに判断された。中の二人はかつて風子が通っていたあのミッションスクールの女生徒で、あとは全て風子の通う女子高の生徒たちだった。
彼女たちの声は切れ切れにしか聞こえなかった。そんな声を解釈すると、どうやら、かつて同窓生だった風子のことをさげすむような言動があったらしい。詳しいことはよくわからなかったが、街中で風子たちとすれ違ったミッションスクールの彼女たち二人が、まるで汚物を見るかのような目で風子を見たというのがその始まりのようであった。これには風子自身よりも、その取り巻きが怒った。彼女たちにとって、ミッションスクールの女子学生たちは鼻持ちならない存在だった。何もなければ、牙をむくことはないが、あからさまに自分たちが優位だという顔をすると、秘めたる怒りが爆発することもあった。おまけに、風子はかつてはその一員であった。その風子があからさまに蔑まれたということは、また別の意味でも風子の仲間たちには許されないことだったようだ。かつての同窓生に、そんな侮蔑的な顔を向けられて許されるのか、と言うのが風子の仲間たちの言い分であったのだろう。それがどんな場面で、どう表ざたになったのかは分からなかったが、普段は地元のエリート然としていたミッションスクールの学生に対して、そうでない他校の学生が何らかの嫉妬を覚えていることは間違いのない事実だった。それが爆発した、ということなのか。
多勢に無勢、そんなことには夢にも巻き込まれないと思っていたミッションスクール系の女子学生は、いまや自分たちのプライドもかなぐり捨て、自分たちは決して風子にそんな態度をとったことはないと、懸命に釈明していた。ことの顛末がどうなるのか、達雄も結構、どきどきと胸を振るわせながら、その成り行きを遠目ながらに窺っていた。そんな中、当の風子が二人の前に立った。しばしの静寂があった。風子はいきなり、その二人の頬に、素早いビンタを一発ずつ食らわした。そしてすぐに言った。
「もういい。行きな」
たったそれだけだった。二人は大慌ての様子で、公園を後にした。仲間の不満そうな声を耳に、風子は「黙りな!」とだけ言うと、自らやれやれと言った風情で、そばのベンチに腰を下ろした。そんな風子に数人が寄って風子に何か囁いているようだったが、その声は達雄には届かなかった。すべてはそれで終わった。達雄が耳にしたことのある、相手の上半身を裸にして、あるいはパンティまで降ろさせて相手をいたぶるというような光景はそこにはなかった。公園には一時の静寂が訪れた。しばらくして、風子たちもまた、その公園を後にした。それが達雄の眼に入ったすべてだった。
そしてもう一つ、達雄には忘れようのない自分に関係した一つの事実があった。達雄が高校二年生になったばかりの春だった。達雄は学校を終え、自分の街に向かうバスを待つため、バスセンターの待合室で次のバスを待っていた。そんな達雄をいつの間にか取り囲むようにして、三、四人の別の高校の男子生徒が囲んだ。彼らは周囲を伺いながら、じりじりと達雄に近づいてきた。達雄はそのわけをすぐに理解した。彼らは名うての不良学生で、こんなふうにして、他校の学生から小遣いをかつあげしているということは聴いていた。その予想通り、そのうちの一人が「おい、少し金を貸してくれんか」とあからさまに凄んできた。達雄は慌て、「そんなに持っていませんけど」とすぐに白旗をあげた。彼らの言い分を拒否すれば、人眼の届かないところに連れて行かれ、金を巻き上げられるばかりか、少しばかり可愛がられるということは予想できた。それに、達雄の財布には大した金額は入っていなかった。これだけしかないと、財布を見せれば彼らとて納得するしかなかろう。達雄は学生服の上着のポケットから、財布を取り出した。そのうちの一人がニヤニヤしながら、その財布を受け取ろうとしたときだった。「やめなよ」という女性のかん高い声がバスセンター内に轟いた。声のしたほうを振り向くと、風子のほかに四人ほどの女子高の制服を姿の女子学生たちが近づいてくる。
「何やってんだよ。誰か警察を呼んできな」と風子はひときわ大きな声を出して凄んだ。そして、その声のまま言った。
「達ちゃん、財布をしまいな。こんなのに引っかかっちゃ、ダメじゃん」
「…………」
達雄は何も言えなかった。再び風子が声を出した。
「行きな!」
その一言で、達雄から財布を受け取ろうした男子学生はすごすごと後退した。彼らの親分角の学生が、「行こうぜ」と言うと、彼らはそのままバスセンターから小走りに出て行った。ちょうどバスが出るというアナウンスがあった。達雄は風子を見た。風子は達雄に眼で「行きな」とばかりに合図した。達雄が風子に助けられたのはこの一回だけだったが、うわさに聴いていた風子のスケバンぶりというか、貫禄をまざまざと見せつけられた思いだった。それからも、通学のバスで何度も風子にはあったが、風子は達雄とは決して眼を合わすことはなかった。
バスというと、達雄は何回かこんなシーンにも遭遇した。風子たちがバスに乗ると、仮にもう席は埋まっていても、男女にかかわらず、風子にそばに立たれた高校生は否応なく風子に席を譲るしかなかった。風子たちが席を譲れというわけではない、なんとなくそうせざるを得ないという沈黙の威圧があった。ただし、達雄が座っている席には風子たちは決して近づかなかった。もちろん、これには理由があったが、必ずしも母親同士が同級生というわけだけではなかった。そのわけは達雄が高校の卒業を目前にした頃にやっと知った。
そのわけは、達雄をして唖然とするものだった。バスセンターでの一件があったその頃から、風子の髪型は徐々ではあったが、かつてのようなおかっぱに戻りつつあった。だが、相変わらず後頭部は刈り上げていて、その髪型を見ただけで、普通の高校生は道を開けた。そんな風子の逸話の中に、達雄は、彼の従兄との恋愛話を耳にした。従兄は父のすぐ上の姉の長男だった。近所に住んでいたということもあって、一人っ子の達雄にとって、彼は小さな頃から兄のような存在だった。伯母はすでに数年前、病死していた。その伯母のことはともかく、二人の恋愛話は、一方的に風子が従兄を好いているのではないかという話だった。しかし、従兄や風子自身から直接その話を聴いたわけではなかったから、達雄自身、にわかには信じられない思いだった。だが、自分には絶対にちょっかいを出さないばかりか、バスの中でも達雄には決してガンツケをしないことの意味はそれかもしれないと思った。そんな、従兄との出会いの経緯を漏れ聞くに至って、少しは納得できるものだった。
達雄と風子が高校の二年の二月のことだった。風子たちはある寒い日、学校の帰り道で別の学校の生徒たちに取り囲まれた。その中には、かつて風子たちといざこざを起こし、あえなく風子たちから蹴散らかされた何人かが混じっていた。いわば、風子へのお礼参りのようなものだったらしい。このときの風子たちは女生徒ばかりで五人、相手は二人の男と女七、八人ほどいた。彼ら彼女たちは風子たちの学校の通学路にある児童公園の公衆便所の中に潜んで、風子たちを待ち受けていた。風子たちは学校の帰り道、必ずといっていいほど、しばらくこの児童公園にたむろしていた。この公園にたむろするには目的が一つあった。風子自身はさわりもしなかったが、仲間の何人かがタバコを吸うためだったという。そんな雰囲気の中で、たわいのないお喋りに興じる。タバコを吸うことを除けば、ごく普通の女子高生の集団だった。
その日も、ベンチのある一角を占め、何人かがタバコを手にしたときだった。急にトイレの中から出てきた一団に風子たちは瞬く間に囲まれた。彼ら彼女たちは手に棒きれのようなものを持っていた。彼ら彼女たちの輪は、徐々に風子たちを小さな塊にするかのようにその輪を縮めてきた。小さな塊にして、一気に叩き潰そうという魂胆が見え見えだった。
「やるんなら、素手で来な!」
風子が大声で啖呵を切った。
「うるせい! かっこつけやがって!」
そう言うと、相手の男一人がいきなり風子めがけて手を振り上げた。風子はそれを避けようとして頭をかがめた。が、彼の持つ棒切れは風子の肩を激しくとらえた。「う〜ん」と風子は蹲った。それを合図に、男女入り乱れて風子たちに襲いかかってきた。ドス、ドスという、風子たちの体に食い込む棒切れの音がつづいた。中には泣き出す者もいた。そのときだった。
「こりゃ、やめんか」という男の太い声とともに、三人ほどの土木作業服姿の屈強な若者たちが公園に全速力で入ってきた。そこで、いったん輪ははじけた。
「お前ら、何しとんじゃあー」
男たちの中の一人が、男子高校生の一人から棒切れを奪い取り、彼らに構えた。「かかって来るなら来い! ワシらが相手になるど!」と偉丈夫の彼が叫んだ。そのうち、他の二人も、棒切れを奪い取り、同じように身構えた。
しばらく、沈黙が流れた。と、最初に風子にとびかかってきた男子高校生が、「おい、みんな行くぞ」と言うなり、公園の出口をめざして駆け出した。それに、あとの高校生たちも「畜生」とか「覚えていろ」とかを口にしながら、後を追った。あっという間のことだった。公園にいっとき静寂が残った。
風子が殴られた肩に片手を添えるようにして立ち上がった。そして言った。
「敦ちゃん、ありがとう」
彼は風子も知っている木村敦夫という、達雄の従兄だった。敦夫は達雄よりも、五歳ほど年上だった。その敦夫が風子に言った。
「風子、お前らもいい加減にせえよ。いつまでも粋がってはいけんよ」
風子は黙ってうなだれたままだった。
敦夫は工業高校を卒業後、地元市役所の土木課に勤めていた。たまたまこの日、数人の課員とともに、この児童公園の測量に来ていたのだ。風子たちが気づかなかったのは、彼らが公園の測量のために、公園からは見えない、外周の測量をしていたからだ。そのとき、風子らの叫び声が彼らの耳に届いた。急いで駆けつけてみると、このざまだった。敦夫とて、同じ街に住む風子のことを知らないわけではない。そのことは別として、なんと、風子は自分たちを助けてくれた達雄の従兄に一目ぼれした。と言っても、風子は前から敦夫のことを気にしていたようだったらしいが……。敦夫は身長もあり、中・高校時代にラグビー部で鍛えた体は、まさに威風堂々としたものだった。風子に限らず、この当時の敦夫は、近所の年頃の女子たちの秘かな憧れの君だった。
この話は、何年か後に風子が従兄と結婚したとき、達雄が風子自身から訊いたものだった。公園でのことがきっかけになって、風子の卒業前に二人は恋愛関係に陥った。といっても、最初は風子のほうが一方的に夢中になったということらしいが……。
達雄は東京に出て一年目の正月、夏休みはバイトに精を出したため帰省しなかったが、母親がうるさく言うため、その年の暮れには帰省した。その夜、久々の故郷でくつろいでいると、母が従兄の敦夫が近々、結婚するという話を達雄に切り出した。
「敦ちゃんがね、結婚する相手というのが、なんとふうちゃんなんよ」
達雄がびっくりしたということはいうまでもない。達雄は思わず、どうして、と訊いた。
「どうしてってお前、好き合っていたというから、仕方ないじゃあないか」と、母はこともなげに言った。娘のいない母は、かつての同級生の子どもである風子のことをかなり前から気にしていた。それが、まさか自分の親戚になろうとは夢にも思わぬことだったろう。母親は達雄に、これまでの二人の経緯について話した。もっともその話の大半は風子の母親から聞いたものであるらしいことは、達雄にも察せられた。その話によると、二人が意識してつき合うようになったのは、風子の卒業前からだったらしい。そんなことがあるにもかかわらず、風子は決まっていた大阪の繊維会社に就職を決めていた。恐らく、恋愛といってもまだ初期の段階だったのだろう。二人は時折、土日をかけて大阪とこの街を行き来していた。行くにも戻るにも新幹線で一時間と少しほどの距離だった。二人はそうしながらも、その愛を育んでいた。といっても限界があった。お金もかかった。一方で、二人の仲は急速に進んだ。風子は半年ほどで会社を辞め、故郷に帰ってきて街の鋳物工場の事務員として再就職した。そして今回の、結婚という話になったということだった。何はともあれ、めでたい話だと達雄は思いながら、風子の顔を脳裏に浮かべていた。あの風子がまさか自分の従兄の嫁さんになろうとは、思いもしなかった。風子がそれとなく、遠慮がちに達雄を意識していたのはこのせいだったのかと、達雄はあらためて理解した。
その話を聞いた翌日の正月、その従兄と風子が揃って結婚の挨拶に来た。達雄が久々に見た風子の顔からは高校時代の風子の風貌は消えていた。もともとは美形の顔に、髪の毛も少々長めで、すでに人妻らしい気風を漂わせていた。それに、すでに風子のお腹は少し膨らんでいるのが見てとれた。従兄が達雄に言った。
「達雄、お前、風子とは同級生だよな。達雄、風子のこと頼むよな。何かあったら、相談にも乗ってやってくれよ」
達雄は慌てた。頼むよな、と言われてもその意味することがとっさに達雄には理解できなかった。それに、風子から何を相談されるというのか。達雄は曖昧な言い方で「ああ」と言っただけだった。風子が言った。
「達ちゃん、これからもよろしくね」
そう言って微笑みながら達雄を見る風子の顔には、かつてのあの風子の険しい面影は少しも感じられなかった。彼女の顔にはかつての「芙美ちゃん」が甦っていた。自分が知っているあの風子が元の芙美子に戻ったんだと、達雄は風子がにこやかに笑う横顔を見ながら、ふとそう感じた。
父と母の強い要望で、従兄と風子は座敷に招き入れられた。正月ということもあったが、まさか風子が親戚になる一員として我が家に上がり込むなどということは、達雄には想像することもできないことだった。父は甥たちが訪ねてきたことにご機嫌で、あまり飲めないにもかかわらず、早速、酒盛りが始まった。達雄も父から参加するように命じられ、仕方なくこれから夫婦になろうという二人の前に座った。風子の華やいだ幸せそうな顔が達雄にはまぶしかった。少し大きくなっていたお腹を抱えて幸せそうに微笑む彼女には、あの荒れていたころの風子の面影はどこにもなかった。幸せそうな従兄たちを見ていると、達雄は否応もなく従兄に嫉妬した。
それから三年ほど、達雄は風子に会ったことはなかった。結婚した二人は、それを機に従兄の勤める市役所がある町に引っ越していたせいもある。夏休みで帰省した故郷で、達雄は風子が二番目の子どもを宿していることを訊いた。それが母親のもたらした風子に関してのすべてだった。風子の実家は達雄たちの家からさほど離れていなかったが、最近の風子はあまり実家にも寄りつかなくなっていたらしい。もっとも母親に言わせれば、小さい子を抱え、さらに二番目ができたとなると、それはそれで当然だよ、と風子をかばった。
達雄は大学を卒業すると、そのまま東京で就職した。学生の頃と違って、前のようにたびたび故郷に帰ることはなくなった。そんな達雄が数年ぶりに帰省した。就職して、四年ほど経っていた。その正月の帰省時、敦夫の姉に当たる従姉が新年の挨拶をかねて達雄の家にやってきた。この従姉は敦夫よりもさらに三歳ほど上だった。一人っ子の達雄には、敦夫を兄と思うのと同様、彼女もまた姉のような存在でもあった。従姉は同じ街の同級生と結婚し、やはり近所に住んでいた。従姉は帰りがけに達雄を呼んだ。彼女が言うには、風子が市役所の近くに、スナックを出している。正月明けの明日、その店に一緒に行かないかという誘いだった。断る理由はなかった。むしろ久しぶりに会えるという、風子に感じる高揚感があった。
達雄はその翌日の夕刻、従姉と待ち合わせてバスに乗った。従姉はすでに三回ほど夫とともに風子のスナックに行ったことがあるとのことだった。
「ふうちゃんにね、今度達雄が帰省したら、達ちゃんを連れて来てってと、頼まれていたんよ。二人は同級生だったんだってね」
達雄は黙って頷いた。
「達雄、お店に行くと驚くよ。いまは堂々としたお店のママよ。もともとふうちゃんは昔からキレイだったもんね」
従姉は達雄の反応を確かめるように、そう言って含み笑いをした。
店の名前は、そのままズバリ「風子」だった。従姉が先に店に入った。「あれ、義姉さん、いらっしゃい」と、声がかかった。 それが風子の声なのか、別の女性なのか、達雄にはすぐには分からなかった。店に入るなり、従姉が言った。
「珍しい、人を連れて来たわよ」
私は着物姿の女性に向かって、黙って頭を下げた。
「達ちゃん……、達ちゃんだよね」
風子は驚いた顔のまま、達雄をじっと見た。
達雄はこのとき、風子に会うのは彼女が従兄の敦夫と達雄の家に来て以来のことだったが、眼の前の着物姿の女性がかつての風子だとはすぐには分らなかった。従姉が言った。
「そうよ。達雄よ」
達雄はかつての風子の顔を想像し、その顔に眼の前の風子を重ねた。間違いなく、それは風子だった。達雄は少しばかりはにかみながら、「こんばんは。お久しぶりです」と頭を下げた。
「本当に、達ちゃんだ。達ちゃん、久しぶりね。よく来てくれたのね。私がわかる?」
達雄はまぶしそうな顔をして頷いた。風子がいくつも年上に思えた。風子は息を弾ませるようにしてつづけた。
「懐かしいね。達ちゃんと、こんなふうにしてまた会うなんて、私、なんだか恥ずかしいわ。もう親戚同士なのにね」
風子はそんなことを言った。確かにその顔は照れていた。あの当時の風子では考えられない表情だった。風子は元の芙美子に戻っていた。
店は、入るとすぐL字型のカウンターがあった。詰めて座れば、七、八人は座れそうだった。店の奥には六畳ほどの畳敷きの部屋があり、十人前後の団体客があると、その座敷に客を上げることもあるということだったが、あいにくその部屋への襖は締まっており、部屋の様子はうかがえなかった。
達雄が水割りを一杯開けた頃、その閉ざされていた襖が開き、部屋から一人の少女が顔を出した。小学校の上級生に見えた。達雄にはその少女が風子の子とすぐにわかった。達雄とは又従兄妹に当たる。少女は従姉に「伯母ちゃん、こんにちは」と頭を下げた。「ほら、この伯父さんも親戚の人なんよ」と従姉が達雄のほうを向いて言うと、久美は「伯父ちゃん、こんばんは」と達雄にも顔を向けて頭を下げた。「はい、こんばんは」と、達雄は小さな久美に挨拶を返した。久美は少し恥ずかしそうに笑みをこぼした。小さな頃の芙美子の少しはにかんだような笑顔によく似ていた。久美は達雄たちへの挨拶が終わると、店の隅の洗い場に向かい、すぐにそこに置いてあった二、三の食器を洗い始めた。それを見た従姉が「久美ちゃん、お手伝い? えらいわねえ」と笑った。久美は水を止め、振り返って伯母である従姉に言った。
「お母ちゃんが一人でかわいそうなんだもん」
すぐに風子が「あら、久美、そんなこと言うものじゃないよ」と、少し荒げた声を出した。従姉はどちらにともなく「あらあら」と声を出したが、それ以上は黙ってしまった。少しの間をおいて従姉は風子に言った。
「下のほうの子は?」
「実家の母のとこです。最近は実家の父と母になついてしまって、こっちよりも、向こうのほうがええみたい。それだけ、助かっていますけどね」
「そうなの」と従姉は言って、再び久美のほうに眼を向けた。その後ろ姿を見ながら、従姉が同じように我が子に顔を向けている風子に訊いた。
「敦夫は店に顔を出すことある?」
風子は即座に答えた。
「はい、たまに。友達を連れて」
従姉は「そう」と頷いたが、それ以上の詮索はよしたようだった。何かしら、奥歯にものの挟まったような曖昧さの残る返事だった。
達雄は母から、敦夫に若い女性ができて、最近はその彼女のところに入り浸りのようだと、聴いていた。達雄は先ほどの久美が口にした「お母ちゃんが一人でかわいそうなんだもん」と言った意味がこのことを指しているのだろうかと思った。小学生も上級生となれば、それぐらいのことはある程度は理解してのことだったのだろう。
「敦夫にも、困ったもんだねえ」
敦夫の姉はそんなことを呟いてため息をついた。久美はだまってコップを洗っていた。が、いまの父と母の確執を知った上でのことだったろうが、その幼子の後ろ姿が、どこか寂し気に見えた。
それを察したのか、風子が「達ちゃん、何か歌って」と、カラオケのマイクを達雄の前に置いた。が、達雄は固辞した。普段から、カラオケは苦手だった。他の人が歌うのは一向に構わないが、極力、自分は歌うことは拒んできた。
「そう、遠慮してるんじゃあないの。でも、達ちゃんって、中学、高校とブラスバンドにいたでしょ。歌ぐらい平気じゃないの」
達雄は風子の顔を見た。風子とは中学も高校も違う。どうして自分がブラバンにいたことを知っているのか。そのことを悟ったように、風子は言った。
「実は達ちゃんの高校の運動会を見に行ったことがあるのよ。ダチの彼氏が達ちゃんと同じ学校で、無理むり運動会見学につき合わされたことがあったんよ。そのときブラバンが演奏していたから、私、達ちゃんが中学のときにブラバンにいたということを知っていたから、もしかして達ちゃんがいるかと思ってよく見たら、いたいた、あっ、達ちゃんだと思ったことがあったんよ。中学のときにもブラバンに入っていることは達ちゃんのおばちゃんから聞いていたからね」
もちろん、達雄が初めて聞く話だった。まさか、という思いに、達雄は顔を赤らめて下を向いた。そんなところに風子が出没していたなど、想像することもできなかった。
「あんたら、小学のとき、同じクラスになったことはあったん?」
従姉が聴いた。風子が応えた。
「二、三回はあったんじゃない、ねえ、達ちゃん、そうでしょ」
達雄は相変わらず黙って頷いた。
「高校のブラバンにいたときの達ちゃんは素敵だったよ。達ちゃんが好きだという女の子を私、何人も知ってるよ」
風子は笑いながらそんなことを言った。
「冗談を言うのはよしてくれよ」
今度ばかりは、達雄は言下に否定した。
達雄に替わって、従姉がたてつづけに三曲ほど熱唱した。さらにつづけようとしたとき、三人連れの客が入ってきた。
「そろそろ行こか」
従姉は達雄にそう囁くと「ママ、お勘定」と風子に言った。風子は「義姉さん、今日はいいです」と片手を振った。「それはだめよ。商売は商売」と従姉は譲る気はない。「それじゃあ」と、風子は金額を書いた小さな紙きれを渡した。「こんなに安くていいの」と、従姉。「それぐらいのサービスはさせてください」と風子。千円札数枚を渡した従姉は達雄に「ちょっとトイレ、待ってね」と、席を立った。風子は義姉がトイレに入ったのを見届けると、達雄のそばで小さな声で言った。
「達ちゃん、今度一人で来て。待ってるから」
達雄は黙って頷いた。
「本当よ。約束だよ。絶対来てね」
風子の眼がキラキラと輝いているように達雄には思えた。
店を出て、達雄たちは再びバスに乗った。バスの中で、達雄は風子のことを思った。達雄の頭の中に蘇ってきたのは「スケバン風子」ではなかった。小学生のときの風子の面影だった。今日の風子はもちろんかつての風子ではない。しかし、達雄の頭の中では、今日の着物姿の風子と小学生時代の風子が重なって見えた。ただ、従兄たちは熱々で、風子は夫の敦夫をあれほど愛していたというのに、彼はいま風子から遠ざかろうとしているのか。達雄はそんな従兄が信じられなかった。達雄の脳裏に娘の久美が「お母ちゃんが一人でかわいそうだから」と言った幼い声が再び思い出された。隣に座っていた従姉はもう、敦夫のことは口にしなかった。達雄たちは着いたバス停で別れた。翌日、達雄は東京に帰った。(つづく)
*本稿は『ちば文学』第20号(2019年1月末日発行)に掲載されたものに加筆・訂正を加えたものです。転載を同意してくださった「ちば文学会」に感謝します。
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