ゆうやけ・こやけ

求めているのは、雨上がりの夕焼けあとにやってくる青空です。

小説『流れのあと』

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     2-12

 長い沈黙がつづいた。アケミがそっとシュウの手を離し、タオルで自分の顔の涙を拭った。その顔がまっすぐにシュウに向けられた。
「シュウ、ごめんなさい、私は自分を見失ってしまっていた。とうとう自分のもろさをさらけだしてしまった。そればかりか、あなたとの生活、いいえ、あなたのここでの新しい生活さえも壊してしまった。私は自分が怖かった。それから逃げるために、熱をいいことに、半ば強制的に自分を追いやってしまっていたよ。私はもともと、ここで死んでもいいと思っていた。ここへきて自分が村を、村さえもう一度心にとどめさえすれば意外とあっさり、シュウの気づかない方法で自分をそこへ導けるものと思っていた。だけど、それはできなかった。あなたとの生活で、やり直せるかもしれないという気持ちが出てくれば出てくるほど、私が決意していた死が怖くなった。だからこそ、私はそんな意識を押し殺すことで私の中で大きくなろうとするもう一人の私、あなたを利用することで死への恐怖にわなないているもう一人の私に、私は私で挑戦してみたかった。だけど、とうとうできなかった。考えてみれば、私は死を恐れる必要などなかったのかもしれない。自分の手にふれることのできるこの村で何をやろうと、それは全く私の自由だったはずなのに、その自由にさえ私はおびえてしまった。せめて、村に少しでもふれることができれば、私は私で村と決別できると思っていたの。実際にはそれほどこだわらなければならないどんな理由もなかったけれど、予期せぬ私の分身が大地にふれようとする私を阻止しつづけた。いったん、私自身が拒んでしまった大地は、もう私を受けつけてくれようとはしなかった。声高らかに嘲笑する分身に私は耐えるほかなかったのよ。その嘲けりは私の体のあらゆる部分に侵入して、いまも私を嘲っている。私はそのたびに雪の下の大地を想った。そこに手をふれ、そこに横わり、やがて雪とともに埋もれていく自分を何度も思った。そうすれば大地そのものが私を抱きしめ、分身の声を否定してくれると思っていたの。つい先ほどまで、自分がなぜ雪を掘り起していたのか、あまりにも漠然としていて気づかなったけれど、こうして炎を見つめているうちに、この指先に残っている土の匂いを嗅ぐことで想い出せたのよ……。シュウごめんなさい。私が何をしてきたか、いまやっとわかったわ。あなたの指にも絡みついている同じ土地の匂い、ごめんなさい、私が自分勝手に行動していたため、あなたの生活を台無しにしてしまったわ……」
 炎が隙間風に揺めいた。
「もう俺たち、どうすることもできないの……。失ったもの、求めるべきものを探すことすらできないのかい。アケミ、アケミは言っただろう。春を待つって。春をただひたすら待ちながら冬眠でもしようかって」
「シュウ、それも終わった。もうそれも同じことなのよ、私も何度かそんなことを考え、その日のくるのを待とうとした。けれど、結局は何も変わることがない。春がきたところで私には蝶のように気軽に花を求めて翔び廻れる羽もないし、木の実を探して自由に野山を駆け廻れる強靭な脚もなくしてしまっている。そして、またしても同じことを繰り返そうとしている自分に気づくだけなのよ。私はいまこそ、そんな私への未練を絶たなければならないと思っている。もう私にはそれしかないんだと……。いまになってやっとわかるの。すべてが無力であったと……。あの夕映えが私の中のわだかまりを覆いつくしてくれたわ。一方で夢中になって土の匂いを求めてはいたものの、あの赤い輝きは私の中に浸透し、その意識を内部から染め直してくれた……。シュウ、私は行くわ、もう一度、旅立つわ。この旅立ちが何を意味するのか、わからない。でも、どんなことがあっても行きたいの。これ以上のどんな惨めさもあなたに見て欲しくないのよ。シュウ、もうおしまい。本当にごめんなさいね。浜を出て以来、あなたはずっと私の支えだった。兄以上にあなたは私を支えてくれたわ、シュウ」
 酷寒の夜が明けようとしている。できればこのままの状態で終焉してほしいような夜だった。重い夜の、のしかかってくるような寂寞に耐えながら、二人は夜明けまで炎を見て過ごした。淀みきった脳裡は、それ以上のどんな思考をも中止させているようだった。そして一方で、すべての決着がついていた。
 アケミが立ちあがった。長時間の座位に二、三度よろめくようにしてやっと立った。手を貸そうとしたシュウを拒んだまま、アケミは身支度を整えた。昨夜一夜で、再び疲労が色濃く顔全体を覆っている。夜の重圧は自らをさらけ出したアケミのほうに幾重もの力でのしかかっていた。
 扉のきしむ音が小さな堂内を駆けた。黎明の蒼白な雪明りが室内に踊り込む。その光に脚をすくわれるようにして、シュウも立った。アケミが扉の外で待っていた。アケミはしばらくシュウを見つめていた。シュウが扉のかたわらたたずむのを見届け、呟くように言った。
「さようなら、シュウ、さようなら」
 辛うじてシュウの耳元に達した吐息のような声だった。そのままアケミは村のほうに向かって歩を速める。「アケミ!」シュウの叫び声に一度は立ちどまったものの、アケミはついに振り返ろうとはしなかった。
 昨夕、二人が共に連れそって堂に戻ってきたときの足跡がそのまま残っている。そして、それとは全く別の村へ通じる方向に新しく、まだ踏みしめて間もないアケミの温もりがつづいている。一人きりの足跡にシュウはアケミの決意を見る思いだった。その足跡は村へとつづくのか、あるいは村からどこかへなのか、シュウには全く想像できなかった。いまにも降り出しそうな凍空の下で、アケミは再び新たな何かを考えているのだろうか……。
 シュウは雪の中に降り立った。「それも終わった」とアケミは言った。しかし、俺にはそれすらもない、終わるべき何もないのだ……。それはあまりにも一方的なアケミの決別宣言であった。だが、アケミはもはやシュウの手の届かない世界に、シュウを超えて存在している。もし自分がアケミほどの純粋さでもってこの地に挑んだのなら、アケミの新たな出発はまた違った形で行なわれていたのではないか、外部との接触をあれほど頑なにアケミは遮断していた。その決意にひるみかけると己れ自らの狂気とも呼べる独自な世界へ引き入れるほど、アケミはわが身を苦悩のどん底へ落としながらもそれに抗った。その狂気こそ、一面、死に相違なかったのではないのか……。やがて降り出す雪が眼前の二様の足跡を消失してくれるだろう。そのとき、アケミと自分との間は完全に断たれてしまう。追うべきなのか、アケミを、いますぐに……。
 シュウは何度となく眼前の足跡の上を辿りつつアケミの後を追う自分の姿を想った。だが、それはできないことだった。終わった、とアケミが言ったように、二人の生活は終わってしまったのだ。アケミが自ら求めた場所へ、またしても自分が追従することはもうできないことだった。たとえ、アケミがその先で何をやり遂げようとしているとしても……。
 予期したとおり雪になった。視界はすぐに途絶え、天を仰ぐシュウの顔に容赦なく墜下してくる。シュウはそのまま立ち竦んでいた。もはや何も考えることはない。自然が囁きかけてくる声をこうして待っていよう。自然の放った大いなる息吹にわが身を委ねていればよい……。顔面に覆い被ってくる雪が己の視界を遮りはじめてもシュウは天を仰いだままだった。天空に向かって吸い込まれ、雪とは逆の方向の灰色の彼方に自分が舞い昇っているような錯覚さえ覚えた。

 おびただしい雪であった。もうどのくらい歩き、どの辺りにいるのか想像すらできない降雪であった。が、シュウはなおも歩きつづける。
 旅立ち──とアケミは言った。そしてアケミは去った。だが、それ決してアケミだけの旅ではない。自分もまた同じ道程を歩むことになるかもしれない自分の出発であった。
 シュウは浜を想い浮べる。海が見たい……とても海が懐しい。冬の海はほどなく春を迎えることになるだろう。シュウはふと海で事故に遭ったアケミの兄を想った。その表情がアケミの顔と重なりあっていつまでも離れようとはしない。雪が雪国の人たちにとって恐怖の対象であるように、海もまた漁師にとっては同じ対象であった。アケミの兄はそれに畏怖しながらも強靱な思いで立ち向かっていた。そして実際に、あの兄は海をよく知っていた。浜へアケミとともに引きとられて以来、毎日海を見つづけながら兄は村のあまりに静的な面と比べて、激しく流動変身する海の気まぐれをそれが故によく知っていたに違いない。それだからこそ、もう漁に行くこともなく、網をつくろうことにしかその余生への手段を見つけるほかない老いた漁師をかっこうの相談相手としていた。話の合間に手をかざし、海を見つめる彼らがどんなことを話し合っていたのかは定かではないが、少くとも海についての断片であったろうことは想像できる。そのぶんだけ、彼は海というものを知っていた。一歩下った立場であの兄は、海と対決していたのだ……。そして俺は、水泡の立ち昇る海を夢みながらなおかつ、海を懐しもうとしている。……だが、海が見たい、海が懐しい……。
 体全体に重気圧の気体が詰め込まれているようなもどかしさがあった。それでいて体が前へ前へと押されていく。視界はすでに零に近い。自分の意志とは全く無関係に脚が先へ先へと進んでいく。それにしても、この力はどこからくるのだろう。湧き起る力がどこかへ追い立て、まるで雪の中を翔んでいるようにシュウの歩調を速める。シュウは急激な勢いで迫りくる風雪の冷やかさに何度も身震いしながらも、漂いくる潮の香を嗅いだように思った。大地は凍結しはじめている──。

(第2部「始まりの冬」了)

■第3部、第4部(完結)は2007年3月から再開の予定です。
 

     2-11

 寒気が首筋を掠めた。開けきらぬ瞼の向こうに、シュウはふと異様な感じを覚えた。開け放たれた扉の外が焼けつくような光に包まれて輝いている。光は堂の内部にまで充満していた。それが夕映えのせいだとわかるまでに、しばらくの時が要った。最初の印象とは裏腹に、夕映えの輝きは次第に冷落とした様相を示しはじめている。
 戦慄に似た感慨を幾度も覚えながら、シュウは扉に這い寄った。戸外の光景はいつかデモを見送ったあとで目眩に襲われたときのあの一瞬の光景に似ていた。不気味な静寂と炎に包まれているこの大地こそ、まさしくあの赤い荒野にほかならなかった。どこまでも沸々と輝き、雪を被った荒地と空とが同じ色によって同化している。シュウは高鳴る胸のときめきを体一杯にあふれさせ、嘗めるようにしてあたりを見廻す。手も、足も……己れ自身もまた赤く染まったまま大地に同化しようとしている……。シュウは雪の上に立った。踏みしめる雪が炎のように燃えている。その中にいまにも溶け込んでいくような錯覚……。その大地の上に、シュウは間違いなく立ち竦んでいる。
 雪に覆いつくされた山間の丘陵は夕映えを深吸したまま、まるで鮮血を吹きあげる時を待っているようにさえ思えた。容易に制御できない感動のまま、シュウは茫然と赤色の大地を確かめては歩く。それにしても、何という静寂の世界なのだろうか……。すべてが赤色の中で死に絶え、揺ぐものとてない。溶解寸前の、いつ訪れるかもしれないその時を、大気さえもが息を殺して待ち望んでいる。赤色にただれた雪の結晶がいまに炎を上げ、そのうねりがやがてこの大地を嘗め尽くしてしまうのだろうか……。そう、そうなるに違いない。そして俺もまた、その時を待っていたのだ……。
 同じ色に染まった雲が少しずつ移動をはじめている。それに応えてか、木立の雪が二つ三つ、音もなく梢を震わせ、舞い落ちる。まるで血しぶきのように、舞う雪粉も赤く染っていた。寒気が脚元から駆け昇ってくる。体が次第に凍えてくるのがわかる。しかし、その芯は依然として、いや前にも増して燃えさかっている。歩く……崩壊のときを信じながら、夕映えの消失する前にそれを確かめるべく、シュウは歩いた。その脚は、いつしか村に向かっている。
 雪を踏む音すらも、もうシュウの耳には入らない。体内でふくれあがった血が大地めざして霧散する機会を狙っている。眼球さえも血で覆われ、その炎の中で燃えつきようとしている……。それは突然に、眼前の窪地で雪が跳ねることからはじまる。シュウはじっとそのときを錯覚する。極度に強張った体が弓なりになり、焦点が一時、乱雑なまでに交錯する。体中の血が次の衝撃を待ち受け、一度に逆流しようとしている。……が、それだけだった。
 やはり、アケミは村にいた。またしても懸命に雪を降っていたのか、アケミはうずたかく積まれた雪のそばにいた。シュウはしばらく、窪地のアケミを見降ろしていた。その後ろ姿こそ荒地での儀式と呼ぶにふさわしいものだった。アケミもまた、掘り進む眼前の大地の変化を敏感に嗅ぎとり、大きな期待を抱いているのではないのか……。アケミもまた赤い荒地に完璧に同化している……。
 アケミは前にも増して力の限りを費やしていた。穴にはすでに地表が現われている。どこからか持ってきたのだろう、穴には木切れが突き立てられている。最後に、素手ですくい上げたのか、細い指先は土壌にまみれていた。肩で大きく息を整えながらも、アケミはもう力つき、体全体で喘いでいる。が、まだやめようとはしない。そこに地表が現われ、枯れ草が混じりはじめているというのに、またしても木切れを手に、いくたびかの穴掘りをはじめた。華奢な指が、木切れさえももてないほど震えている。
 そんなアケミを見つめたまま、シュウは夏の、あの浜でのアケミを想わないわけにはいかなかった。あのときも、こうして同じように蹲ったまま両掌で砂をすくっていた。あのアケミは何を思って砂を掘りわけていたのだろうか……。そしていまは……。シュウの脳裡に夏の強い陽射を受けて輝く砂の一粒一粒が形をともなってよぎった。昼下りの鋭い陽光を受けて果てしなく延びていた水平線の誘い……。それは、一面いまもこの光景に類似したものを含んでいる。シュウの脳裡に夏の海が浮んでは消えた。
 シュウはアケミの肩に手をかけ、精一杯の声でその名を呼んだ。その声に体を震わせてアケミが振り仰ぐ。シュウはその前に廻って、跪きながらアケミの手を取った。同時にアケミが口を開いた。
「もう春よ、春がやってきているわ。そら、聞えるでしょう、春の音が……」
「春の音……春の音?」
「ほら、聞いて。こうしてじっと耳を傾けていると聞えるんだよ。あれは雪の雫なのよ、雪が地表で解け、土の上を雪解けの水が流れはじめているよ……。水の、雪の雫が流れる音が聞えるよ」
「アケミ、きっと俺はまだその音に気づいていないんだ。でも、もう少し経てば俺にも聞えてくるかもしれない。きっとそうさ、いまに俺にも聞えるよ」
「聞える、そら、あの音よ。雫が少しずつ大きくなって、廻りの雪を解かしながらもう流れ出している。いまにすべてを押し流すほどの流れになるのよ。そして何もかも流しつくして春がやってくるの。新しい芽が吹き、新しい大地が誕生する……。それがもう始まっているの。その音が聞えてくるよ」
「さあ、アケミ、手伝おう。水の流れをよくするため、春を探すためにもっともっと雪を掘ろう……」
 それが、ほんとうは何を意味しているのか、シュウにわからなかった。だが、意味するものを探ること自体、この儀式にどんな意味を持つというのか。かつての浜で幼き女王として子供たちの中に君臨していたアケミは、今はこの儀式を司る巫女なのだ。俯けた顔の大半を覆い隠している黒髪の中で、夕映えをまともに浴びて黙想するその表情こそ、巫女のそれに相応しかった。アケミが願うどんなことにも、儀式の参列者たる己はただ従うほかない。シュウはアケミの言葉を待った。再び蹲ったアケミが地表に何言かを囁きかけたあとの言葉を待った。夕映えは、いま絶頂のさなかにある。赤い炎はいま燦然と地表のあらゆる場所を嘗めつくしている。
「アケミ、さあ、儀式をつづけよう。俺も手伝うからさ」
 シュウはあえて儀式と言った。それ以外の、他のどんな言葉も見当たらなかった。二人の最後ともなるかもしれない赤い大地で、他のすべての言葉は虚しかった。しかし、その意に反してアケミが頭を振って拒絶したのだ。シュウをいま、まじまじと見つめるアケミの頬に赤い涙が伝った。そのままで、何度も頭を振りつづけるアケミの眼は、あの元のアケミにかえっている。
 あたりがにわかに黄昏に包まれはじめてきた。夕映えの名残を漂わせながらも、空の大半は急速に冬空特有の濃い灰色に覆われ、寒気がどっとばかりに大地に向けて下降していた。凍気が二人の頬を掠め、遠く木立の梢に雪煙が舞い上がっている。
「アケミ、行こう。儀式は終わったよ、終わってしまった。さあ、体がこんなに冷えてしまっている」
 アケミを引き寄せる手が感覚を失いかけている。このままでは二人とも凍ってしまいそうだ。抱き抱えたアケミの体の反応に、シュウはあの石膏の像を想う。強引に抱きしめたシュウの手の動きにも、やはり応えようとはしない。このままアケミが動かないのではないか……。シュウはそんな不安を指先に感じながら、アケミの手を取った。アケミは一瞬、踏みとどまる仕種を見せた。シュウは力一杯その手を引いた。それに促されてか、やっとアケミはシュウに従い歩きはじめる。雪が凍結しはじめた荒地に、すでに黄昏の気配すらも終わろうとしていた。

 風が慟哭している。幾方からも吹きつけてくる風がめまぐるしく交差し合い、互いの摩擦音を競っていた。堂に暖が淀みはじめてもアケミはまだ変らなかった。空き缶での急ごしらえの炉の中で弾け散る木枝の音がとてつもない音をたてて弾ねる。そんな炎を喰い入るように見つめたまま、シュウは先刻の燃えあがろうとしていた大地を思い起こす。その赤色を透して過去が、工場での生活が浮んでくる。そうした生活を理由にしてここへやってきたはずだったのに、いまはここでの生活がすでに虚しい。すぐに消えたあの夕映えのように……。
 シュウはアケミの手を握りしめた。こうなってしまってもアケミを除いた今後のどんな生活も考えることはできなかった。炎を映すアケミの瞳がそんなシュウを射すくめるように瞬いた。
 ここ数日というもの、俺を拒絶しつづけているアケミのこの眼の奥に頑として存在しているのは何なのだろうか、堂へ戻ってからのアケミは俺のすすめるままにここに腰を降し、炉の中に火が入るのを初めて見るような眼付きまで眺めていた。そんなアケミに、もうこれ以上何といって声をかけていいのか見当さえつかない。あの夕映えの創り出してくれた二人の儀式、俺はそのときすでに、アケミの持つ不思議な力に己が敗北したのを感じていた。その俺に、果して他のどんな手段があるというのか……。シュウは絶望の淵で喘ぐしかない弱々しい自分を詛った。周りを雪に遮断されたこの堂での二人の生活を元に戻すにはどんな方法が必要なのか。アケミに比べ、アケミにすべてを依存し、求めることしかできない己の無気力さが虚しかった。
 アケミの眼の中で炎が揺れた。その炎を消失させるかのようにしてアケミはシュウの視線を避け、瞼を閉じる。シュウはその表情にここ数日の間、仮面のようにはりついていた険が失われているのを見た。あの強張りと悲惨がいつの間にか消えている。微かに動く、閉じられたままの瞼にさえ自然の瞬きが戻っている。それだけでも表情は一変していた。ここ数日のアケミなら、たとえ閉じてはいてもその瞼の上にもかたくなな拒絶が示されていた。それが消失し、以前のような優しさが甦っている。声をかけようとして、シュウはやっとの思いでとどまった。いま、アケミはあきらかに自分を取り戻そうとしている。ここでもし声をかければ、アケミはまたあの自分だけの世界へ後退してしまうかもしれない。シュウは咽元にまで出かかっていたアケミの名をかろうじて飲み込んだ。
 投げ込まれた木片に、炎はより輝きあがった。面やつれのひどいアケミの頬にも血が通い、肌が色を取り戻しつつある。その炎に応え、眼醒めるような瞳でアケミはシュウを見る。何かをしゃべり出そうとして、アケミはふと戸惑いをみせる。それも幼児のように、唇を動かしながら、何を言ってよいのか考え込むように……。シュウは一度引っ込めていた手で再びアケミの手を取った。何でもいい、どんなことでもいい、さあ話せよ、この俺がわかるかい、さあ話してくれよ……。握りしめた手に力が入る。祈りに近い自分の期待が握りしめた手を通してアケミの心に自分の気持ちが伝わることを願いながら、シュウはもう一方の手を出し、アケミの手を両手で包み込んだ。
 しばらくして、手の中でわずかな反応が起こった。二人の手の互いの温かさが通じ合っていた。薄く、滲むようにしてアケミの眼に涙が浮かび、一つ、二つ、瞼からこぼれた。握りしめたアケミの手に、暖かさが戻っていた。(つづく)

■最終第20回はこちらから。http://blogs.yahoo.co.jp/yyclub2004/2151049.html

     2−10

 下半身を剥き出しにした、マヌカンのような少女が波打ち際で死に絶えている。体は波に洗われ、濡れているはずの少女の黒い髪が風に弄ばれ、瞼には涙をにじませている。果てのない砂丘のはずれで、黒く染みたように見える小さな黒い点……。回転する空が、砂が、風の渦の中で次第に速度を増し、点を中心にして流動する。そして、ふいにやんだ風とともに、小さな黒い点はもはや跡形もなく砂丘の底にのみこまれている。
 未明から繰り返し見つづけた夢のひとコマ。シュウは気づいては眼覚め、眼覚めてはまた、何度となく同じ印象を与える夢にとらわれている自分に気づいていた。別のひとコマには、少女の下半身に顔を埋めたまま片方の手で冷やかな石膏の肌を弄り、片方では勃起した己の性器を弄っている自分自身の灰色の影も見た。風に震える少女の下半身だけは現実のアケミそのものだった。一度は夢精の不快さに目覚めたものの、久々の惨めさを拭い去る気力もなくし、シュウはここ数日ふれていないアケミの体を再び夢の中に誘い込み、またしても惰眠の底を漂った。
 戸外は雪が舞っている。体の中心に重苦しさ淀み、絡みついて離れない疲労が、時折、シュウの瞼を震わせる。灰色の空のせいで、いまが一日のどのあたりに当るのかわからない。多分、間もなく昼間にさしかかろうとしているのだろう。風が雪を蹴散らしながら猛スピードで通り過ぎて行くのが聞える。そんなシュウの耳元に、風の音に混ってふと入り込んできた別の鈍い音があった。その音にはアケミのものと思える吐息がきれぎれに混っている。はっとした思いでアケミの寝袋を振り仰いだ。やはり、そこにアケミはいなかった。前とはあきらかに違った、予測もつかない何かが起こりつつある予感がシュウをおびえさせた。シュウは音の所在を適確に聞きあてようと、じっと耳を傾ける。音は堂のすぐそばから聞こえていた。
 シュウは堂の明かり窓を覗いた。すぐそこにアケミがいた。堂のすぐそばで、アケミは何かに憑かれたようにして懸命に雪を掘り起している。しかも素手で、髪を振り乱し、意味のつかめない声を漏らしながら盛んに両手で雪を掘っている。その姿は、あたかも土中深く埋められた骨を求めて、咽を鳴らしている犬を思わせた。シュウは、すぐにもそれを止めさせようといったん戸外に出ようとしながらも、思い直してとどまった。しばらく様子を探ることで、ここ何日かのアケミの沈黙の理由を見つけることができるかもしれないと思った。
 不可思議なアケミの行動だった。それは咄嗟の思いつきなのか、何か大きな意味があってのものなのか。防寒のためいつも寝袋で使用していたシーツ替りの毛布を無造作に頭から被ってはいるものの、その下は堂の中にいるときと同じ恰好で、もう何日も着つづけている厚手の赤いセーターのままだった。もし予定された行動であったのなら、もっと防寒に気をつけたろうに、その恰好から見ても、とうてい準備したものとは思えなかった。頭から被った毛布には、かなりの雪が積っている。アケミが外に出て、すでにかなりの時間が経っていることを示していた。やはり猶予はない。
 シュウが扉を開け、「アケミ」と呼びかけた。その声に反応するかのように、アケミは毛布をかなぐり捨てて立ち上がった。そして、立ちあがりざま、アケミは両手を頬に押しつける。長時間に渡って雪を掻いていた手がピンク色に染まっている。その手が両頬に当てられ、アケミの表情は泣き崩れる。が、それも一瞬のことだった。見る間にその顔には、獲物を掘り当てられない無念さが露骨なまでに現われた。アケミは一体、何を探そうとしていたのだろう、シュウはアケミに近づくきっかけを失ったまま、アケミの顔にいつまでも残る穴への未練を訝る。アケミはアケミで、そのまましばらくは茫然とした面持ちで、自分がつい先刻まで掘っていた穴を眼にしたまま動こうとはしない。まさか、まさかアケミがあの中に自らを沈めようとしているのでは……。シュウはその考えに思わず自分を呪った。自分の脳裡を過ったとんでもない想いを、己自身で畏怖した。 「アケミ! アケミ!」
 シュウはついに堪り兼ねて叫んだ。アケミはその声の主を放心した眼でしばしの間、じっと見た。が、意外にも何の躊躇もなくぷいとばかり穴を見捨てて堂に引き返してくる。
「アケミ、一体どうしたというんだ、おいアケミ、聞いているのか、アケミ、大丈夫か」
 拭い去ることのできない不安を押し殺したまま、シュウはそう言ってアケミを迎える。やはりじっと、珍しいものでも見つめるような眼で、アケミはそれに応えようともしない。雪のせいか、それとも雪を掘り進めていたときの汗のせいか、頭髪が凍っているように冷たい。寒さに震える肩が波打ち、眼には氷のような涙がいまにも落ちそうにあふれている。その肩に手をかけ、シュウは再び訊ねる。置いた瞬間に凍りついてしまいそうな、はっとするほどの冷たい肩だった。
「ああ、雪は深いよ。私にはどうすることもできない。とても、とても雪は深いよ」
 一気に、口走るようにしてそう言ったアケミの声に、シュウはつい何日か前のアケミを想う。あの高熱にうなされながら盛んに「雪解けが待てない! 雪解けまで待っていられない!」と繰り返しうなされていたアケミ。まさか、まさかアケミが春の訪れを確かめるため雪を掘り起したなんて、あまりにも単純な結びつきだ。到底信じることはできない。もう一度、シュウはアケミの肩を揺ぶって名を呼んだ。が、その瞳にシュウを見ようとする光はなかった。疑眼のような、あまりにも物的なその眼に、シュウはそれ以上の呼びかけを見失ってしまった。
 眠ってしまったのか、そう装っているのか、壁に顔をくっつけたままアケミは黙してしまっている。その背後に蹲ったまま、シュウはアケミの後ろ姿を見つづける。懸命に雪を掻いていたあのアケミの姿が鮮明に甦っては消える。その姿はやがて動くことを停止し、すべてを拒絶した石膏の像のように頑なに自分の世界に入り込んでしまった。あの海でのアケミ、指先に血をにじませながらも砂を掘っていたあの日のアケミが想い出される。アケミをこのまま石膏の像にしてはならない。シュウは以前工場での作業中に、喚起したことのあるアケミの彫像を想いながら、何度も頭を振る。それに、今朝のあの不吉とも思える夢をも……。それは、かつてシュウが一度として感じたことのないアケミの拒絶だった。
 そのまま一夜が明けた。だが、シュウはその間、ついに一睡もできなかった。アケミは一晩中、同じように背を見せたままであったし、シュウにはそのまま何もできない自分を苛立っての不眠でもあった。
 シュウはそれでも期待を抱いていた。耐えがたい、あまりの空漠感に大声をあげようともした。その声は、またしても閉ざしてしまったアケミの心の底の、残っているはずのほんのわずかのアケミ自身に響き、あるいは閉された扉を開けさせる役目を果してくれるかもしれない。が、それももはや、絶望に近い所業だと悟ってもいた。眼前にいるアケミは、もう別人といってもおかしくない存在だった。心臓の鼓動だけを不気味に打ちつづけている人造人間に等しかった。自分とのどんな繋がりもすべて拒否し、アケミは死んでいた。シュウが何度か顔を出し、その表情を窺ってみても、アケミの瞳にさほどの変化はなかった。自分自身をも拒絶しようとする虚静さが感じられる、空な眼球だった。
 アケミはもしかすると、あの兄を同じ世界へ入り込もうとしているのではないのか。そう考えることはシュウにとって、とてつもない打撃ではあった。が、そう考えるほかにいまのアケミを解するどんな理由も見つけられそうになかった。
 それにしても、とシュウの思考はつづく。なぜだ、なぜなんだろう。高熱が何日もつづいたせいなのか。むしろいまとなっては、あの高熱も狂気への結果と考えることもできる。だが、もしこの状態がそうであるのだとしたら、その歩みを引きとどめる処置をどう講じればいいのか……。それとも……わからない、もうわからない。シュウの疑惑は果てることがなかった。
 しかし、シュウはそんな一方で結論を急いでいた。まず差しあたってどこか、どこでもいい、一番近くの病院にアケミを連れていくこと。もしうまくいけばまだ初期の症状であると思われるアケミをここから連れ出すことで治すことが可能かもしれず、病魔を踏みとどませることができるかもしれない。この方法が結果的にどんなことをもたらすにせよ、いまはそうする以外にないのでは……。だが、雪の中を何時間もかかって連れ歩くことで途中で起こる不測の事体をシュウは恐れた。自分の性急さがアケミを取り返しのできない場所へ追いやることになるかもしれなかった。もう少し様子を看るべきなのか……。だが、時の経過による変化が恐ろしかった。そう、やはりそうすべきなのだ、すぐにでも……。
 外は完全に雪になっている。天候の状態を判断した上で出かけたほうがよさそうだった。シュウは簡易ストーブの火を増した。寝袋の中から立ち登る炎を確めつつ、シュウはなおも考えつづける。が、炎の温もりが増大するにつれ、その思考は衰退の一途を辿る。炎が一度、大きな音をたてて消えた。その音にも動ずることなく、一抹の不安を胸に抱きながらも、シュウは闇の底へと沈んでいく自分を感じる。凍つく風をまともに受け、雪に足をとられながらもアケミを背負って町をめざしている自分が遠去かって行く……。再びストーブに火をつけ直した。アケミの炎に映えるその表情は、寝息の軽やかさに比べ重く歪んだままだった。(つづく)

■第19回はこちらから。 http://blogs.yahoo.co.jp/yyclub2004/2057965.html

     2-9

 アケミの発熱が長引いたため、簡易ストーブのガスが思わぬ早さでなくなった。ちょうど降雪の合間で、晴天がつづきバスが動いている。シュウは、町でガスの補給をしなければならなかった。二人はここに、ラジオを持ち込むことをよしとしなかった。世の中の動きを知ることができたのは、町に降りたときでしかない。それがなぜ、バスの運行を知ることができたかといえば、山間を走るバスは、必要以上にクラクションを鳴らしたからだ。クラクションは、夏は登山客、冬は冬で山間に点在する別荘地にバスが走っていることを知らせるためのシグナルの役目を果たしていた。その音が二人の元にも聞こえていた。
 久々にシュウがガスや他の買い物で町に降りた日、アケミはシュウを見送ったあと、村全体が見下ろせる小高い丘にいた。風はなく、雪がわずかに舞っている。険しい表情から、ため息ともとれる白く長い息が口元から何度となく流れた。アケミは村に何を語りかけていたのか。

 私はもう、このまま自分を欺いていることなんてできそうにない。二度もきてしまった私たちの村……。そして私は、村の現実とともに、兄と私の心の中の村も壊してしまったのだ。私はここにきてやっと知った。私こそ、兄以上に村を懐しがっていたのだと。だが、そうだとしても、私は兄ほど純粋な慕いで村を求めていたのだろうか。浜での生活をはじめて、私はむしろ兄に村を託すことで、浜の子供としてのびのびと暮らした。だけど、何か、兄に対しての後ろめたさを感じないわけにはいかなかった。この村のために早死にしたといってもいい父や母を思うとき、そのことはなおも深まったような気がする。私はいつか、父と母の眠るこの村で、兄とともに生きなければならないと思っていた。だけど、シュウとここでの生活をはじめて以来、私は自分の抱いていた村が、もはや自分たちの手ではどうすることもできないほど壊されてしまったことを認めるほかなかった。雪が溶けたとき、そこに顔を出す村を正視することができるだろうか……。わずかの収穫しかあてにできなかった痩せさらばえた土地、どんなに手を加え、改良を重ねてもどうしようもなかった土地の不毛、それでも私たちにとってはやっと見つけることのできた、たった一つのよりどころだった。だからここでうまくいけば、兄を引き取り、ここでなくても、この近くの村で出直すつもりだった。しかし、私にはもうできない。もう耐えられそうにない……。
 私の中に、いつの間にか忍び込んできたこの焦燥の正体は何なのだろうか。私の内部に巣くいはじめたものの正体は……。だが、私は気づいている。すでにその正体が何であるのか気づいている。はっきりしていることは、そいつが、私の意識を現実の村以上に破壊しつつあることだ。私の表情、それに言葉や行動、すでにあいつは私の体全体にまで手を延しつつある。私はもろくも、自分の存在さえつかみそこなってしまっている。
 もし無理にでも払いのけようとしようものなら、そいつは意地になって私のすべてを喰いつくそうとするだろう。それはもとよりかまわないことだけれど、きっとそいつは、私の一部をたくみに破壊し、残りの一部に巣喰ったまま、私の中で温々と生きつづけようとするに違いない。なぜなら、そいつが破壊しようとしているのは私の感性にほかならず、私が生への希望を喪失してしまうまで、そいつは私の中からけっして出ていこうとはしないだろう。村を捨てきれないままで持ち越してしまった、いわば生身の化身として、そいつはいつまでも私を追いつめる。
 そいつが予想以上に大きく育ってしまったいま、私は一人、いずれそいつとの戦いを宣言しなければならない。兄のように、あんなに幸福な状態で村を自分のものとすることができない私は、もう自分で自分の村を処置するしかない。私はいま、そのことしか考えられない私になろうとしている……。

 アケミが再び熱を出した。微熱とはいえ、シュウは猶予ならざるものを感じた。熱は一日経って治まったが、以来、ふいにぶり返すことがたびたび起こった。シュウは一時的にも町に降りることを提案したが、アケミは相変わらず頑なにそれを拒絶した。そんなときのアケミの表情は、病んだうえのこととはいえ、それをはるかに超えた、別世界の人間を思い起こさせた。
 熱は一進一退で、平熱がつづくこともあれば、微熱が長くつづくこともあった。それでなくても、雪のために戸外に出ることが少なくなっていた。二人きりの生活は時として互いの感情が高ぶり、些細なことで言い争いをして、しばし無言という状態がつづくことさえあった。二人の生活には眼には見えない、感情の行き違いが生じようとしていた。口数が減り、ちょっとしたことにも、お互いに敏感に反応することもあった。
 シュウは最初、アケミのこうしたありようは、体調の変化からくる一過性のものと思っていた。しかし、アケミの言動の微妙な変化に、シュウは畏怖すら覚えた。アケミがシュウの手の届かないところに行こうとしている。シュウはその原因が単に病からきたものであることを祈った。熱のために、多少もうろうとしながらも、静かな寝息をたるアケミの表情に、シュウはやっと安らぎさえ覚えることがしばしばだった。今もシュウはそっと、アケミの首下に手を差し入れ、自分のほうへ上半身を抱えるようにして引き寄せる。一時は上がりつつあった熱もどうやら下がっていた。そのときアケミの眼が一瞬、シュウを見た。が、その目は再び閉じられた。
 それは二人の性のあり方にも如実に現れた。性は徐々に愛の証から、単なる儀礼、男と女が狭いところで寝起きしていれば起こるであろう堕落へと走っていた。アケミは無造作に下半身だけ裸となり、「シュウ、抱いてちょうだい、お願い、抱いてちょうだい」と、以前とは違う面もちでより大胆に迫ってくるようになった。それでいて、そんな振る舞いのどこかに恥じらいがあるのか、かすかに四肢を振るわせることもあった。やせ細ってしまったアケミの、それでいて柔らかな肌の感触に魅了され、残されたわずかの絆を確かめでもするかのように、シュウはアケミの求める場所に手を差しのべる。そんなとき、アケミがふと我に返ったように、シュウにつぶやくことがあった。
「シュウ、体が汚れていてごめん。私は、私はこうしてしかシュウを慰めてしかあげられなくなった」
 シュウはアケミが一人きりでわけのわからない深い淀みの中に陥って行こうとしていると思った。シュウはアケミをつらぬきながら、そのわけをしろとして、アケミの喘ぎに懸命に追いすがるしかなかった。
 それにしても、一体何がアケミの内部に渦巻いているのだろうか。あるいは戸外の積雪のように、アケミの感情そのものも凍てついてしまったのか……。シュウは耐える以外にどんな手立ても見出し得ない。苦悶すればするほど、とてつもない空漠が生じてくる。自分には到底判断することのできない不可視なる何物かをアケミが見つめ出しているに違いないと思いながらも……。
 シュウはそれでも期待を抱いていた。高熱の去った直後の、極度の虚脱状態にアケミが陥っていると信じていた。だが、三日経ち、四日経ってもアケミは元のアケミに戻る気配すらない。終日、茫然とした表情で、座り込んだまま黙しつづけ、シュウの呼びかけに顔を強張らせたまま、曖昧にしか応えようとはしない。シュウが内心あれほど恋しているその微笑など、思い描くことすら拒絶していた。
 シュウはそれでも待った。ほんのわずかの、どんな感情の変化をも見過すまいとアケミを注視していた。しかし、そんな期待はやがて意味のつかめない苛立ちを生み、シュウはシュウで心を閉じるしかなかった。そんなとき、シュウもまた、アケミと同じように部屋の片隅に頂伏して過す時間が多くなっていた。沈黙はあまりにも重苦しく、閉ざされた生活の中ではなおさらであった。そして、空もまた晴れ間を失ったままでいた。
 青い、抜け出るような外界の誘いをシュウは待っていた。その誘いさえあれば、いまではしゃべることも少なくなったアケミの手を引いて雪の中を歩ける。あてどなく……そう、そうすることによって、アケミと共有できる最後の場所を探し出すことができるかもしれない。シュウは父の探しあてた世界への入口を見つけ出すことを思い描いてさえいた。堂の中の、耐えがたい淀みに射し込む一条の光を待っていた。そのときこそ、意を決してアケミのためにすべてを捨ててもいい……と。(つづく)

■第18回はこちらから。http://blogs.yahoo.co.jp/yyclub2004/1999836.html

     2-8のつづき

 アケミの熱がやっと下がった翌朝は抜けるような快晴だった。久々の陽を受けて、堂内の温度も幾分上がっていた。シュウは朝の浅い眠りの中でそれを感じつつなおも微睡んでいた。そんなときだった。堂の外に人の気配を感じた。誰かが歩きまわっている。シュウは咄嗟にアケミの寝袋を見た。が、そこにアケミの姿はなかった。シュウは慌てて身を起こした。天井を覆っていた洗濯物がないことにも気づいた。
 扉を開けた瞬間、「ヤッホー」の声とともに、ピンポン玉大の雪礫がまともにシュウの顔を捉えた。なんと、アケミは上半身裸だった。昨夜までのアケミはもうそこにはいなかった。「何をしているんだ」と声をかけたと同時に、二度目の雪礫が飛んできた。今度のそれは、シュウの胸元ではじけた。
 信じがたい光景だった。アケミはシュウに手当りしだいに雪をかき集めては投げてくる。それを何度も全身に受けながら、シュウはただ、呆然としたまま見るほかなかった。アケミの背後には、昨日の洗濯物がロープに吊され、冬の陽を浴びていた。
「どうしたというの、そんな不思議そうな顔をして……。ああ、とってもいい気持ち」
 久々に晴れあがった空からの陽を受け、アケミは勝ち誇った勇者のように雪の上に君臨している。シュウは陽の光を受けて反射する雪の眩しさに眼をしばたかせながら、アケミがここへきて初めて見せた、女王然とした顔に、かつて浜で君臨していたあのアケミを甦らせる。アケミが笑い転げるようにして頭上高く巻き散らす雪粉は朝の陽に銀色に輝き、裸のアケミを包みながら舞った。あの浜の、子供たちの女王にふさわしい光景だった。少女のような形のままで小刻みに揺れる乳房もまた、浜の女王にふさわしかった。
 アケミはふと、戯けた顔で大空に両手を差し出した。それが何を意味しているのかシュウにはわからなかったが、アケミは陽光に眼を細めながら両手を高くかざし、そのまま空に身を乗り出すように身をよじった。シュウは思わず呟やいた。
「翔べ、翔べ、アケミ!」
 そのアケミが、本当に翔んだのだ。……が、それはあまりにむなしい飛翔だった。ピョコンと跳ねたアケミはそのまま雪の中にもんどりと落ち、「うっへ〜。つめたいわ、こりゃあ」と慌てて上半身を起こして雪の中に座り込んだ。全身が雪にまみれていた。その雪の中から、小ぶりの乳房の片方が顔をのぞかせ、もう一房は雪にまみれたままだった。慌てて雪をかき分けながら近寄ってくるシュウを見て、顔中に雪をくっつけたまま、アケミはまた笑った。雪の中に体の大半を没したというのにアケミの肌はピンク色に輝いていた。
「ふんわりしていると思っていたのに、下は私たちが踏みしめているもんだから、意外と痛かったよ」
「大丈夫かい」
「平気よ、平気だよ。昨日一日、体調は戻ったよ。洗濯物を干しているうちに暑くなったから、風もなかったから、裸になっちゃった。少し肌も焼きたかったんだ。シュウ、とてもいい気持ちよ、ほら見て、体がもうこんなに雪焼けしている。冷たくって気持ちいいよ」
 体がピンク色に見えたのは、雪焼けも関係していたのだ。
「熱はどうなんだ」
 アケミはそれに応えず、雪の中からすっくと立ちあがると、シュウの手を振り切るようにして雪原を駆け、すぐそばの小川を見下ろせる高台に立った。その三メートルほど下が崖になっている。
「雪がくずれるかもしれないぞ、あぶないぞ」
「いいからシュウ。あなたもきてみなさいよ。ここはとてもいいよ、最高の気分。こんなに晴れた空の下で、これほど気持ちのよい気分を味わったの、初めてだよ。きてごらんよ。ここで空を見上げているとね、いつの間にか私も空と一緒にどこかへ流れて行くような気がするよ。青い空に吸い込まれて漂いながら、何もかも忘れて流れて行くことができるのよ。さあ、早くおいでよ。早く」
 アケミはそう言ったかと思うと、今度は足で思いきり烈しく雪を蹴散らせる。そうすることが嬉しくて仕方がないといった表情だった。
「ウッフフフ、怖いのでしょう。ここが怖いの」
 アケミの笑い声が、顔一杯にこぼれている。紺空を背にしたその肌が、陽に活気づきながらシュウを待ち受けている。風のない、久々の小春日和に大気までがくつろいでいた。淡い雲の塊がゆっくりと頭上を通過していく。空はどこまでも青かった。
「ねえ、シュウ、あなたも上を脱ぎなさいよ、風もないし、私だけこうじゃ、つまんないよ」
 アケミに促され、シュウもまた半身を陽に晒した。目前にあった乳房を自分の胸に包み込んで、シュウは昨夜までの不安がいまや跡かたもなく消失していることに気づいた。うまく行く、やはりうまく行くんだ、このまま二人は持ちこたえることができる……とシュウは何度も胸を躍らせた。

 雪焼けしたアケミの肌は、冷たい雪に洗われて引きしまって見える。肩から乳房の先の脹らみにかけて、シュウは静かに唇を這わせる。まだ残っている汗の匂い……。あるかないかのような乳首の小さなとがり……。シュウはそこに、水を得るために部屋に運んでいた簡易バケツの雪をつまみ、飾りのように乗せた。一瞬の冷ややかさに、アケミは身をよじったが、それはすぐに溶けて流れた。
 雪はアケミを昂めるためのちょっとした小道具になった。アケミの体は一気にその果てを求めて駆け出そうとしていた。その後を追うようにシュウも駆ける。今、シュウにとってのアケミの体は、雪原の雪のようにどこまでも深く、この上もない安らぎとなっていた。その雪に絡まれ、絡みでもするかのように、いつか二人は雪のように溶けあった。アケミが上に、シュウが下になり、すぐにその形を変える。二人はつい先ほど戸外で駆け廻ったときの激情をいまもそのまま持続させながら、長い抱擁の中にあった。
 シュウはアケミからいったん離れ、勃起した性器に雪の冠を乗せてアケミに運ぶ。アケミはアケミでその入り口を雪で飾り、シュウがそれをかきわけながら入ってくるよう促した。冷たかったが、二人にとってそれは新しく見つけた、またとない遊びとなった。シュウはややもすると冷たさに麻痺して屹立を失いかける性器を慌てて温めようとアケミの中に運んだ。アケミも同じよう冷えていたが、その内裏にはつきることのない熱い火照りをたぎらせていた。
 二人は今、つい先ほどの雪に何度も脚をとられながら、二人して陽光に包まれて雪原を駆け廻ったときの、すべての不安を忘却した、めくるめくほど仕合せな時の流れのさなかにあった。(つづく)

■第17回はこちらから。http://blogs.yahoo.co.jp/yyclub2004/1867208.html

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