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2-12
長い沈黙がつづいた。アケミがそっとシュウの手を離し、タオルで自分の顔の涙を拭った。その顔がまっすぐにシュウに向けられた。
「シュウ、ごめんなさい、私は自分を見失ってしまっていた。とうとう自分のもろさをさらけだしてしまった。そればかりか、あなたとの生活、いいえ、あなたのここでの新しい生活さえも壊してしまった。私は自分が怖かった。それから逃げるために、熱をいいことに、半ば強制的に自分を追いやってしまっていたよ。私はもともと、ここで死んでもいいと思っていた。ここへきて自分が村を、村さえもう一度心にとどめさえすれば意外とあっさり、シュウの気づかない方法で自分をそこへ導けるものと思っていた。だけど、それはできなかった。あなたとの生活で、やり直せるかもしれないという気持ちが出てくれば出てくるほど、私が決意していた死が怖くなった。だからこそ、私はそんな意識を押し殺すことで私の中で大きくなろうとするもう一人の私、あなたを利用することで死への恐怖にわなないているもう一人の私に、私は私で挑戦してみたかった。だけど、とうとうできなかった。考えてみれば、私は死を恐れる必要などなかったのかもしれない。自分の手にふれることのできるこの村で何をやろうと、それは全く私の自由だったはずなのに、その自由にさえ私はおびえてしまった。せめて、村に少しでもふれることができれば、私は私で村と決別できると思っていたの。実際にはそれほどこだわらなければならないどんな理由もなかったけれど、予期せぬ私の分身が大地にふれようとする私を阻止しつづけた。いったん、私自身が拒んでしまった大地は、もう私を受けつけてくれようとはしなかった。声高らかに嘲笑する分身に私は耐えるほかなかったのよ。その嘲けりは私の体のあらゆる部分に侵入して、いまも私を嘲っている。私はそのたびに雪の下の大地を想った。そこに手をふれ、そこに横わり、やがて雪とともに埋もれていく自分を何度も思った。そうすれば大地そのものが私を抱きしめ、分身の声を否定してくれると思っていたの。つい先ほどまで、自分がなぜ雪を掘り起していたのか、あまりにも漠然としていて気づかなったけれど、こうして炎を見つめているうちに、この指先に残っている土の匂いを嗅ぐことで想い出せたのよ……。シュウごめんなさい。私が何をしてきたか、いまやっとわかったわ。あなたの指にも絡みついている同じ土地の匂い、ごめんなさい、私が自分勝手に行動していたため、あなたの生活を台無しにしてしまったわ……」
炎が隙間風に揺めいた。
「もう俺たち、どうすることもできないの……。失ったもの、求めるべきものを探すことすらできないのかい。アケミ、アケミは言っただろう。春を待つって。春をただひたすら待ちながら冬眠でもしようかって」
「シュウ、それも終わった。もうそれも同じことなのよ、私も何度かそんなことを考え、その日のくるのを待とうとした。けれど、結局は何も変わることがない。春がきたところで私には蝶のように気軽に花を求めて翔び廻れる羽もないし、木の実を探して自由に野山を駆け廻れる強靭な脚もなくしてしまっている。そして、またしても同じことを繰り返そうとしている自分に気づくだけなのよ。私はいまこそ、そんな私への未練を絶たなければならないと思っている。もう私にはそれしかないんだと……。いまになってやっとわかるの。すべてが無力であったと……。あの夕映えが私の中のわだかまりを覆いつくしてくれたわ。一方で夢中になって土の匂いを求めてはいたものの、あの赤い輝きは私の中に浸透し、その意識を内部から染め直してくれた……。シュウ、私は行くわ、もう一度、旅立つわ。この旅立ちが何を意味するのか、わからない。でも、どんなことがあっても行きたいの。これ以上のどんな惨めさもあなたに見て欲しくないのよ。シュウ、もうおしまい。本当にごめんなさいね。浜を出て以来、あなたはずっと私の支えだった。兄以上にあなたは私を支えてくれたわ、シュウ」
酷寒の夜が明けようとしている。できればこのままの状態で終焉してほしいような夜だった。重い夜の、のしかかってくるような寂寞に耐えながら、二人は夜明けまで炎を見て過ごした。淀みきった脳裡は、それ以上のどんな思考をも中止させているようだった。そして一方で、すべての決着がついていた。
アケミが立ちあがった。長時間の座位に二、三度よろめくようにしてやっと立った。手を貸そうとしたシュウを拒んだまま、アケミは身支度を整えた。昨夜一夜で、再び疲労が色濃く顔全体を覆っている。夜の重圧は自らをさらけ出したアケミのほうに幾重もの力でのしかかっていた。
扉のきしむ音が小さな堂内を駆けた。黎明の蒼白な雪明りが室内に踊り込む。その光に脚をすくわれるようにして、シュウも立った。アケミが扉の外で待っていた。アケミはしばらくシュウを見つめていた。シュウが扉のかたわらたたずむのを見届け、呟くように言った。
「さようなら、シュウ、さようなら」
辛うじてシュウの耳元に達した吐息のような声だった。そのままアケミは村のほうに向かって歩を速める。「アケミ!」シュウの叫び声に一度は立ちどまったものの、アケミはついに振り返ろうとはしなかった。
昨夕、二人が共に連れそって堂に戻ってきたときの足跡がそのまま残っている。そして、それとは全く別の村へ通じる方向に新しく、まだ踏みしめて間もないアケミの温もりがつづいている。一人きりの足跡にシュウはアケミの決意を見る思いだった。その足跡は村へとつづくのか、あるいは村からどこかへなのか、シュウには全く想像できなかった。いまにも降り出しそうな凍空の下で、アケミは再び新たな何かを考えているのだろうか……。
シュウは雪の中に降り立った。「それも終わった」とアケミは言った。しかし、俺にはそれすらもない、終わるべき何もないのだ……。それはあまりにも一方的なアケミの決別宣言であった。だが、アケミはもはやシュウの手の届かない世界に、シュウを超えて存在している。もし自分がアケミほどの純粋さでもってこの地に挑んだのなら、アケミの新たな出発はまた違った形で行なわれていたのではないか、外部との接触をあれほど頑なにアケミは遮断していた。その決意にひるみかけると己れ自らの狂気とも呼べる独自な世界へ引き入れるほど、アケミはわが身を苦悩のどん底へ落としながらもそれに抗った。その狂気こそ、一面、死に相違なかったのではないのか……。やがて降り出す雪が眼前の二様の足跡を消失してくれるだろう。そのとき、アケミと自分との間は完全に断たれてしまう。追うべきなのか、アケミを、いますぐに……。
シュウは何度となく眼前の足跡の上を辿りつつアケミの後を追う自分の姿を想った。だが、それはできないことだった。終わった、とアケミが言ったように、二人の生活は終わってしまったのだ。アケミが自ら求めた場所へ、またしても自分が追従することはもうできないことだった。たとえ、アケミがその先で何をやり遂げようとしているとしても……。
予期したとおり雪になった。視界はすぐに途絶え、天を仰ぐシュウの顔に容赦なく墜下してくる。シュウはそのまま立ち竦んでいた。もはや何も考えることはない。自然が囁きかけてくる声をこうして待っていよう。自然の放った大いなる息吹にわが身を委ねていればよい……。顔面に覆い被ってくる雪が己の視界を遮りはじめてもシュウは天を仰いだままだった。天空に向かって吸い込まれ、雪とは逆の方向の灰色の彼方に自分が舞い昇っているような錯覚さえ覚えた。
おびただしい雪であった。もうどのくらい歩き、どの辺りにいるのか想像すらできない降雪であった。が、シュウはなおも歩きつづける。
旅立ち──とアケミは言った。そしてアケミは去った。だが、それ決してアケミだけの旅ではない。自分もまた同じ道程を歩むことになるかもしれない自分の出発であった。
シュウは浜を想い浮べる。海が見たい……とても海が懐しい。冬の海はほどなく春を迎えることになるだろう。シュウはふと海で事故に遭ったアケミの兄を想った。その表情がアケミの顔と重なりあっていつまでも離れようとはしない。雪が雪国の人たちにとって恐怖の対象であるように、海もまた漁師にとっては同じ対象であった。アケミの兄はそれに畏怖しながらも強靱な思いで立ち向かっていた。そして実際に、あの兄は海をよく知っていた。浜へアケミとともに引きとられて以来、毎日海を見つづけながら兄は村のあまりに静的な面と比べて、激しく流動変身する海の気まぐれをそれが故によく知っていたに違いない。それだからこそ、もう漁に行くこともなく、網をつくろうことにしかその余生への手段を見つけるほかない老いた漁師をかっこうの相談相手としていた。話の合間に手をかざし、海を見つめる彼らがどんなことを話し合っていたのかは定かではないが、少くとも海についての断片であったろうことは想像できる。そのぶんだけ、彼は海というものを知っていた。一歩下った立場であの兄は、海と対決していたのだ……。そして俺は、水泡の立ち昇る海を夢みながらなおかつ、海を懐しもうとしている。……だが、海が見たい、海が懐しい……。
体全体に重気圧の気体が詰め込まれているようなもどかしさがあった。それでいて体が前へ前へと押されていく。視界はすでに零に近い。自分の意志とは全く無関係に脚が先へ先へと進んでいく。それにしても、この力はどこからくるのだろう。湧き起る力がどこかへ追い立て、まるで雪の中を翔んでいるようにシュウの歩調を速める。シュウは急激な勢いで迫りくる風雪の冷やかさに何度も身震いしながらも、漂いくる潮の香を嗅いだように思った。大地は凍結しはじめている──。
(第2部「始まりの冬」了)
■第3部、第4部(完結)は2007年3月から再開の予定です。
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