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タクシーの運転手に起こされて車を降りると、街は夕刻前の慌ただしい時を迎えていた。観光客にその日水揚げしたばかりの魚を売る声、またたとえそれが冷凍ものであろうとも、その新鮮さにかけては劣るものではないといった、懐かしい街の魚売りの呼び声があちこちでかけられていた。もう何年も変わることのない街が重治の眼前にあった。
列車を降りて車に乗り込んだとき、駅前は冬特有の深い靄の中に埋もれていた。その靄も、街の海岸が近づくにつれ、空はふだんの夕刻を呈しはじめていた。重治は運転手に島への船着き場で降ろしてくれるようにと降車場所を変更した。最初はウインクのある商店街の入り口まで頼んだが、それよりずっと手前の定期連絡船の渡船場に変更した。街に本格的に足を踏み入る前に、どうしてもつい数ヶ月間前に滞在した島に寄ってみたかった。
久々に体に受ける潮風が快かった。真冬の海とはいえ、それほどの寒気は感じられなかった。重治はこうして島の海水浴場に毎年のようにして通った少年時代を懐かしんだ。思い出の中には、卓三兄も文雄の兄もいた。街の習慣で、島の海水浴場に行くには大きな試練が課せられていた。その試練は連絡船の島への到発着時にあった。島に渡るときには島の桟橋の手前で、街に帰るときには街の船着き場の手前でそれは長年の伝統として、いわば“街公認”の行事が定期的に行われた。つまり、海辺で育つ子供たちにいち早く泳ぎを教えるための、いちばん手っ取り早い方法が、伝統的に上級生によって行われていたのだ。
それは船が島の桟橋に近づいたときか、逆に街の船着き場に船が着くときに実行された。まだ泳げない下級生を無理やりに海にほうり込むのだ。もちろん、いざというときのためにその子を補佐するために、十分に泳げる上級生がほぼ同時に海に飛び込み、いざというときに備えるのだが、それを知っている初年生は、その助けを借りることをまるで拒否するかのように、潮を飲みながらもその“難行”を1回目か2回目かで卒業し、一人前の海の少年に成長していくのが常だった。
重治は当時とさほど変わらない海でのかつての自分を思い出していた。負けない、絶対に負けないぞと思いながら、何度、海水を飲み込んだことか。ふだんは対抗する意識を持ったことのない文雄とただ一つ競ったのも、この海でのことだった。そのために、なんど、海水を飲み込んだことか。
島に到着したとき、靄はほとんど晴れ上がっていた。
重治はまっすぐに海水浴場を目差した。海岸のボートハウスには、かつての老婆と違い、若い娘がいた。ボートはなんの疑問もなく重治に貸し与えられた。重治はまだ陽のある浜にボートを漕ぎ出した。一気に沖を目差した。そこまで漕ぎ出れば目前には街があった。
重治はいまはじめて、本物の街が自分の中に存在をはじめているのを感じた。それは、すでにかつて重治が感じたものとは違う街の存在だった。街はすでに単なる過去として自分の内部に存在するだけなのだ、と重治は思いたかった。
重治はボートの上で急に尿意をもよおし、性器を引き出した。重治はその性器をあえて街に向けて放尿した。今まで感じたことのないような決感だった。なぜか込み上げてくる笑いを押えようとして、危うく海に墜ちてしまいそうだった。
さらに海上に漕ぎ出ると、かなりの風があった。だが、重治は方向を定めることなくボートを漕いだ。手が冷えのため感覚を失いつつあった。寒さに身震いしながら、かつて文雄がそうしたように、さらにウィスキーを呷った。静かだったとはいえ、冬の海は沖に出れば出るほど、波高だった。重治は仕方なく、海岸の中央に引き返した。
ボートはしだいに、卓三兄と文雄が死んだ飛込台に近づいた。台に着くと、重治は台の最上段を目差した。風が強く、すでに靄は完全に晴れ渡っていた。酔がまわりはじめたせいか、焦点の定まらない彼方に、まさに太陽が没しようとしていた。重治は定まらないままの眼で、それでも太陽をしっかりとその眼でとらえていた。
その瞬間だった。夕日があの朝にしか見せない黄金の海を呈したのだ。朝ほどの海全体というきらびやかさはなかったものの、一筋だけだった黄金色はあの朝のものと同じものだった。もしかしたらその一筋をたどれば、それは文雄と次子のところにいけるかもしれない道だった。だが、その狭間に大手を開いて奈津江が飛び込んできた。いまのぼくは、この人によって生かされようとしている、と重治は思った。
いつまでも、個人的なことにこだわって生きていけるだろうか、と重治はさらに思った。これまでどれほどの人たちと接してきただろうか。そのほとんどが自分に対して好意を示し、当たり前の生を示唆していた。そういった意味では、生きるということ事態がすでに自分一人のものではないことは承知していた。重治は自分が勤務していた高校での一人の生徒のことを思い出した。
それは現代史の時間だった。名もなく歴史に翻弄された人々のことを、やや感情的に語ったときのことだった。一人の生徒が、いきなり手を上げてこう言った。
「先生、お話を聞いていて、感じたことがありました。もしかして、近所の八百屋のおじさんやおばさんにも、自分の身はどうにでもなれといった青春といっていいようなものがあったかもしれないということですか」
その質問に、多くの生徒は爆笑したが、重治とその生徒の眼はしばし離れることはなかった。
重治は飛び込み台の踊り場に寝転がった。そこは同じように卓三兄と文雄が寝転がったとされる場所だった。
体を傾けると、ちょうど太陽が最後の山の尾根に没しようとしているところだった。重治は、台の上で卓三兄と文雄に語りかけた。自分はもう、どんなに無様でもいい、それを自分のこととして認めて、これから奈津江とともに生きるよと。
重治の耳に「お客さん、時間です。それに危険ですからすぐに浜に帰ってください」というアナウンスが伝わった。重治は手にしていたウィスキーの大半を卓三兄と文雄をために海に注ぎ、残りのわずかを自らが呷った。(了)
☆『流れのあと』(全20回)の連載は終わりました。
第1回はこちらから──http://blogs.yahoo.co.jp/yyclub2004/1081913.html
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