ゆうやけ・こやけ

求めているのは、雨上がりの夕焼けあとにやってくる青空です。

小説『街』

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『街』(第21最終回)

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          21

 タクシーの運転手に起こされて車を降りると、街は夕刻前の慌ただしい時を迎えていた。観光客にその日水揚げしたばかりの魚を売る声、またたとえそれが冷凍ものであろうとも、その新鮮さにかけては劣るものではないといった、懐かしい街の魚売りの呼び声があちこちでかけられていた。もう何年も変わることのない街が重治の眼前にあった。
 列車を降りて車に乗り込んだとき、駅前は冬特有の深い靄の中に埋もれていた。その靄も、街の海岸が近づくにつれ、空はふだんの夕刻を呈しはじめていた。重治は運転手に島への船着き場で降ろしてくれるようにと降車場所を変更した。最初はウインクのある商店街の入り口まで頼んだが、それよりずっと手前の定期連絡船の渡船場に変更した。街に本格的に足を踏み入る前に、どうしてもつい数ヶ月間前に滞在した島に寄ってみたかった。
 久々に体に受ける潮風が快かった。真冬の海とはいえ、それほどの寒気は感じられなかった。重治はこうして島の海水浴場に毎年のようにして通った少年時代を懐かしんだ。思い出の中には、卓三兄も文雄の兄もいた。街の習慣で、島の海水浴場に行くには大きな試練が課せられていた。その試練は連絡船の島への到発着時にあった。島に渡るときには島の桟橋の手前で、街に帰るときには街の船着き場の手前でそれは長年の伝統として、いわば“街公認”の行事が定期的に行われた。つまり、海辺で育つ子供たちにいち早く泳ぎを教えるための、いちばん手っ取り早い方法が、伝統的に上級生によって行われていたのだ。
 それは船が島の桟橋に近づいたときか、逆に街の船着き場に船が着くときに実行された。まだ泳げない下級生を無理やりに海にほうり込むのだ。もちろん、いざというときのためにその子を補佐するために、十分に泳げる上級生がほぼ同時に海に飛び込み、いざというときに備えるのだが、それを知っている初年生は、その助けを借りることをまるで拒否するかのように、潮を飲みながらもその“難行”を1回目か2回目かで卒業し、一人前の海の少年に成長していくのが常だった。
 重治は当時とさほど変わらない海でのかつての自分を思い出していた。負けない、絶対に負けないぞと思いながら、何度、海水を飲み込んだことか。ふだんは対抗する意識を持ったことのない文雄とただ一つ競ったのも、この海でのことだった。そのために、なんど、海水を飲み込んだことか。
 島に到着したとき、靄はほとんど晴れ上がっていた。
 重治はまっすぐに海水浴場を目差した。海岸のボートハウスには、かつての老婆と違い、若い娘がいた。ボートはなんの疑問もなく重治に貸し与えられた。重治はまだ陽のある浜にボートを漕ぎ出した。一気に沖を目差した。そこまで漕ぎ出れば目前には街があった。
 重治はいまはじめて、本物の街が自分の中に存在をはじめているのを感じた。それは、すでにかつて重治が感じたものとは違う街の存在だった。街はすでに単なる過去として自分の内部に存在するだけなのだ、と重治は思いたかった。
 重治はボートの上で急に尿意をもよおし、性器を引き出した。重治はその性器をあえて街に向けて放尿した。今まで感じたことのないような決感だった。なぜか込み上げてくる笑いを押えようとして、危うく海に墜ちてしまいそうだった。
 さらに海上に漕ぎ出ると、かなりの風があった。だが、重治は方向を定めることなくボートを漕いだ。手が冷えのため感覚を失いつつあった。寒さに身震いしながら、かつて文雄がそうしたように、さらにウィスキーを呷った。静かだったとはいえ、冬の海は沖に出れば出るほど、波高だった。重治は仕方なく、海岸の中央に引き返した。
 ボートはしだいに、卓三兄と文雄が死んだ飛込台に近づいた。台に着くと、重治は台の最上段を目差した。風が強く、すでに靄は完全に晴れ渡っていた。酔がまわりはじめたせいか、焦点の定まらない彼方に、まさに太陽が没しようとしていた。重治は定まらないままの眼で、それでも太陽をしっかりとその眼でとらえていた。
 その瞬間だった。夕日があの朝にしか見せない黄金の海を呈したのだ。朝ほどの海全体というきらびやかさはなかったものの、一筋だけだった黄金色はあの朝のものと同じものだった。もしかしたらその一筋をたどれば、それは文雄と次子のところにいけるかもしれない道だった。だが、その狭間に大手を開いて奈津江が飛び込んできた。いまのぼくは、この人によって生かされようとしている、と重治は思った。
 いつまでも、個人的なことにこだわって生きていけるだろうか、と重治はさらに思った。これまでどれほどの人たちと接してきただろうか。そのほとんどが自分に対して好意を示し、当たり前の生を示唆していた。そういった意味では、生きるということ事態がすでに自分一人のものではないことは承知していた。重治は自分が勤務していた高校での一人の生徒のことを思い出した。
 それは現代史の時間だった。名もなく歴史に翻弄された人々のことを、やや感情的に語ったときのことだった。一人の生徒が、いきなり手を上げてこう言った。
「先生、お話を聞いていて、感じたことがありました。もしかして、近所の八百屋のおじさんやおばさんにも、自分の身はどうにでもなれといった青春といっていいようなものがあったかもしれないということですか」
 その質問に、多くの生徒は爆笑したが、重治とその生徒の眼はしばし離れることはなかった。
 重治は飛び込み台の踊り場に寝転がった。そこは同じように卓三兄と文雄が寝転がったとされる場所だった。
 体を傾けると、ちょうど太陽が最後の山の尾根に没しようとしているところだった。重治は、台の上で卓三兄と文雄に語りかけた。自分はもう、どんなに無様でもいい、それを自分のこととして認めて、これから奈津江とともに生きるよと。
 重治の耳に「お客さん、時間です。それに危険ですからすぐに浜に帰ってください」というアナウンスが伝わった。重治は手にしていたウィスキーの大半を卓三兄と文雄をために海に注ぎ、残りのわずかを自らが呷った。(了)

☆『流れのあと』(全20回)の連載は終わりました。
 第1回はこちらから──http://blogs.yahoo.co.jp/yyclub2004/1081913.html

『街』(第20回)

          20

 重治には思いがけない事態の進展だった。まさかアメリカ人が本当に宿までくるとは思いもしなかった。何かが自分を確かめているのかとも思った。それと同時に、勃起した性器を振りかざして文雄たちを追ったというアメリカ人を思い浮かべずにはいられなかった。いま重治の意識の中にあるアメリカ人は、自分にキャラメルをくれたやさしいアメリカ人ではなかった。性的な欲望に駆られ、巨大な性器を振りかざして日本人を追いかけてくるアメリカ人だった。
「私、ロビーに行ってくる。事情を話せば出直してくれるよ」と言いながらも、女は大慌てで着替えをすませた。重治は怖かった。心臓が激しく動悸していた。
「いや、ぼくがここを出ていく。君には大事な仕事なんだろう。しかも、前金を貰っていることだし」
 重治はかろうじてそう言った。どこかでだれかが「卑怯者」とささやいていた。
「ダメだよ。待っててよ。なんとかするから」
 女は女で重治の気持ちを推しはかる余裕もなく、一方的にそう言ってロビーに向かおうとした。そのとき、部屋のドアが激しくノックされた。
「あっ、きちゃったよ」
 女はすぐにドアに向かい、部屋の外に出た。男の太い、「アイシテイルヨ」と言うたどたどしい日本語がドアの外で響いた。それは重治の想像する巨大なアメリカ人に似つかわしい濁声だった。
 いきなり「ノゥー」という女の叫喚に近い声が発せられた。と同時に、ドアの取っ手を回わそうとする音が部屋に響いた。再び「ノゥー」」という声とともに、「帰れよ、この野郎」と叫ぶ女の声が聴こえた。重治の動悸はさらに高まった。アメリカ人のものだと思えるドアを叩く音が激しく轟いた。これ以上、女をそのままにしておけなかった。重治は意をけっしてドアに近づいた。
 アメリカ人は盛んに女の名を呼び、日本語で「アイシテイルヨ、アイシテイルヨ」を繰り返している。女は連れと一緒であることをアメリカ人に何度も告げようとしていたが、彼は日本語交じりに、「構わないから自分といっしょにくるように」と盛んに女を誘っていた。重治は覚悟を決めた。巨大なアメリカ人を相手に自分に何ができるかわからなかったが、彼をあきらめさせるには、自分が顔を出す以外にないと思わずにはいられなかった。重治は思いきってドアを開けた。一瞬、重治は自分の眼を疑った。
 その男は間違いなくアメリカ人だった。女が何度も「ノゥー」を繰り返した相手であろうことは間違いないようだった。男はすでに五十歳を過ぎているように見えた。そこには禿上った頭に残るわずかの頭髪をきちんと手入れした、アメリカ人としては明らかに小男で、小太りの男が立っていた。男は不意に現れた重治の出現に驚きながらも、敵意を剥き出しにした眼で重治を見た。
「わかったでしょ。私にはこの人がいるのよ」
 女が咄嗟にそう言って二人の間に入った。騒ぎを聞きつけ、いくつかのドアが開き、事の成り行きを注視している。宿の従業員もすぐそばまで駆けつけていた。アメリカ人は重治に嘲笑しながら、胸のポケットから財布をとりだし、そのまま女に渡すような仕草を見せた。女はその財布を叩き落とし、重治が考えもしなかったことを口にした。
「あの人を殺したのはこの男なのよ、この男のためにあの人は死んでしまったのよ」
 その一言で、重治はそれとなく女の事情らしきものが想像できた。すでに、相手が自分と同じくらいの身長しかないことで、恐怖心はいくらかは後退していた。重治は思わず、自然に身構えている自分を意識した。いままでに、人に対してこんな身構え方をしたことがあったろうか。それは必ずしも、巨大だと思っていたアメリカ人の像が不意に壊れたために生じたものではなかった。何か別のものが重治を揺り動かしていた。
 女は重治らの争いがすぐにでも始まると思ったのだろう。怒りの表情はアメリカ人にぶつけたままで二人の間から身を退かせた。実際には非常に短かい時間でしかなかったろうが、重治には二人が視つめ合ってからずいぶん長い時が経ったように感じられた。重治は深い吐息をつき、女を視つめた。
 そのときだった。突然、重治は左の頬にするどい強打を受けた。重治は二、三歩よろめいた。さらに追い打ちをかけるように、アメリカ人の足が重治の腹部を襲った。重治は自分の身体を支えることができず床に倒れた。顔中の血液が急に荒れ狂うかのように感じられ、眼がかすみしばらくはどうすることもできなかった。さらに襲いかかろうとするアメリカ人を女が体ごとに制止した。その間に、やっと平常に戻りつつある自分の意譲を確かめながら、重治は立ち上がろうとした。
「気をつけて」女が絶叫した。アメリカ人の手の中にアーミーナイフが握られている。重治はもう黙っていられないと思った。女はナイフにひるむことなく、懸命にアメリカ人を制止しようとしている。
「あの人も、結局はこうして殺されたのよ、あの人を殺したのはこの男なのよ、あの人がこの町にいる両親に私のことを話しに行った日、運悪く、この男が犬を連れて散歩しているのにぶつかったの」
 女が一気にそこまでしゃべったとき、アメリカ人はそれを阻止するかのように、重治に近寄ってきた。しかし、同時に女がしゃべろうとするのをやめさせようと女をにらみつけた瞬間、重治はナイフを持つ男の右手をうまく捕らえ、ナイフを振り落とすことに成功した。重治はナイフを拾い上げ、逆に男に突きつけた。女がさらに続けた。
「こいつはいきなり、あの人に犬をけしかけた。私がいくらやめるように頼んでも、仕方がない、これは犬が勝手にやっていることなんだといわんばかりのジェスチャーをするだけで、おもしろがっていたんだよ。あの人は噛ついた犬を蹴っ飛ばした。犬は前よりも激しくあの人に飛びかかった。可哀想にあの人は犬から逃れようとして池へ落ちた。こいつはそれでやっと犬を呼び返したが、あの人は池の中で震えていた。冷めたいためではないのよ。怒りに燃えていたのよ、このアメ公に対して、どうすることもできない自分を恥じていたのよ」
 重治はそれまで張りつめていた気力が急に萎えていくのを感じた。彼女の恋人はそれがもとで自殺をしたのだろうか。女は一息吐いてなおも話そうとしたが、重治はそれをとめた。
「もういい、そんなことはもういい」
 しかし、女はやめなかった。
「あの人は傷だらけで自分の家に帰って行った。そこには、近所の人からことのいきさつを聴いていた父親と兄が待っていた。私たちが家に入ったとたん、父親は私に向かって出て失せろといきなり怒鳴りつけた。わしらはお前さんのようなパン助には用はない。アメリカさんでも相手にしていろと言いながら、私にもたれかかっていたあの人をもう一人の息子とともに引き離そうとした。あの人はその手を振り払うようにして後退りしながら、なんてことを言うんだと二人に言い、私を連れて出ようとした。だけども、出血のため貧血を起したあの人は倒れてしまい、結局、私だけが追い出された。その私をこいつは待っていたんだ。あげくの果てに、こいつは私を力づく林の中へ連れ込んだんだ」
「もう止めろ」
 重治は思わず平手で女の頬を殴った。だが、女はやめなかった。
「私を捜しにきたあの人は、狂ったように林の中を駆けてきた。そして再び犬をけしかけられ、どうすることもできなかった。あの人が死んだのは、その夜のことだった。私はそれ以来、いつかこの男を殺ってやるとチャンスを狙っていたんだ」
 女はいきなり、重治の手からナイフを奪おうとした。重治はその手を振り払い、ナイフをたたんで、宿の従業員のほうに投げた。
「もういい、やめろ!」
 重治は絶叫してしまった。引き込まれるまま女にしゃべらせたことを後悔した。いまさら何になるというんだ。重治は先刻から次第に自分が苛らだってくる原因が、アメリカ人よりもむしろ女のせいだと思った。どこまで信じていいのかわからなかったが、自分までもが巻き込まれる話ではなかった。
 そのときだった。女を突き飛ばして、アメリカ人が再び重治に襲いかかつてきた。最初の狙いはうまく外せた。重治は再び湧き上がってきそうな恐怖を押えるように、アメリカ人から眼を離さず、彼の次の動きを待った。二度目の狙いは的確だった。重治は予想通りの相手の動きをけん制し、相手の頭突きを避けると同時に、足をかけた。アメリカ人は勢い余って、顔面を取っ手にまともにぶつけて、崩れ落ちた。
 その背後から、女がなんどとなく蹴った。彼女はいつまでもそれをやめようとはしなかった。重治はそれを視ながら、アメリカ人が再び立ち上がり襲いかかってくるだろうと想像していた。彼がこちらを振り向いたとたんに襲い掛かってくれば、再び打ちのめされる自分を想像した。小柄とはいえ軍人だった。格闘訓練は十分すぎるほど積んでいるに違いなかった。
 しかし、いつしか眼前のアメリカ人の顔から凶暴さが失われていた。直接、ドアの取っ手にぶつけたのか、禿げ上がった額に血が滲んでいた。
 こうした事件はたびたび起こるのかもしれない。宿の従業員数名がその一部始終を見ていたが、さほど大騒ぎする様子もなく、彼らがしたことといえば、持ってきた救急箱でアメリカ人の額を簡単に治療したぐらいだった。警察沙汰にすることを、商売上、極力避けようとしているらしい。そういった意味では、アメリカ人もまたそうだったのだろう。
 アメリカ人は蹲ったままで、不敵な笑いさえ浮かべた。もし、いま彼が十分残っていそうなその力を結集して、重治に襲いかかってきたら、重治は彼のなすままに身を委ねるほかはなかったろう。重治自身も、完全に戦う気力を失なっていた。
 重治はことが起こる前の自分を思い浮かべた。重治にとって、今後、決して起こりえないと思われる戦慄だった。かつて自分があのように他人に向かったことがあったろうか。奈津江と出会ったときのデモや、その他のデモでのあの激しい闘争の中でさえも、仲間に「パクられる」と言われただけで心ならずも後退してしまっていた自分がいた。いま、相変わらず狡猾で挑戦的な眼で重治を見つめているアメリカ人の眼を避けながら、重治は次第に憂諺になりはじめていた。
 女がアメリカ人に出て行くように促した。アメリカ人はドアで傷つけた額を押さえながらゆっくりと立ち上がった。そしてすぐに、宿の従業員にうながされるまま、そこから遠去かった。
「ありがとう、とんだ迷惑をかけて」と女は重治に頭を下げた。
 二人の間にはもうどんな会話も見つけ出すことはないだろう。彼女は恐らく、元の酒場に帰って行き、これからもアメリカ人を相手に商売をし続けることだろう。重治にはなぜか、それがよくわるような気がした。
 女もまた、そのまま宿を出て行き、二度と重治の前に現れなかった。重治の小さなバツクがテーブルの上にひっそりと置かれてある。まるで、この部屋に一人でしか泊らなかったような錯覚さえ覚える。女のいたことを示すものはもう何もなかった。そういえば、女は重治に金を要求することもなく出て行っていた。
 重治は何もしてやれず、再び米兵相手の酒場に帰って行ったと思われる女のことを思った。その思いを壊すかのように、窓ガラスに爆音を響かせながら、晴れ上った空に離陸して間もない米軍機が機体を旋回させていた。(つづく)

■最終第21回はこちらから──http://blogs.yahoo.co.jp/yyclub2004/4543957.html
☆『流れのあと』(全20回)の連載は終わりました。
 第1回はこちらから──http://blogs.yahoo.co.jp/yyclub2004/1081913.html

『街』(第19回)

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          19

 重治の前で女はなんのてらいもなく裸になった。重治には初めての体験だった。重治が知る次子も奈津江も、閨房ではそれそうおうに振る舞ったが、その前にこれほど大胆に重治の前で自分を晒したことはなかった。そんな女の振る舞いに、重治もまた若い性を刺激されていた。
 だが、実際に女の中に入ってみると、彼女の仕草にはどこか大胆さばかりが空回りしているようなちぐはぐさがあった。早朝、女が出かける前にすました行為は慌ただしいものではあったが、それでもまだ彼女の仕草には重治をいとおしむかのような年上の女が持つ年下の男へのやさしさに似たものがあったような気がした。重治もまた、そういった意味では、行きずりだけではない、その女の何かに惹かれたことも事実だった。
 奈津江のことを思い出さないわけではなかったが、重治の心の中には、どこかに街を認めてしまわなければならなくなった自分への嫌悪感のようなものがあった。自分は自分なりに生きてきた。純粋に、そう純粋に生きてきたはずだった。しかし、それがいくばくかの人を傷つけてきたことも事実だった。祖母もそうなら、長兄や卓三兄もそうだった。母親替わりになってくれ、母親以上に甘えることができたウインクの伯母もそうだった。そんな中で、次子のことはついぞ忘れられなかった。いまにして思えば、次子こそ母であり、重治が持たなかった姉であり、妹だったのかもしれなかった。
 女の性に対する大胆さは前にも増して激しかったが、どこかその行為にはすべてが計算尽くの、娼婦特有の空疎な動きを感じさせた。それでも女は、暖房が利いているとはいえ、真冬の室内で体にはうっすらと汗を滲ませていた。
「もういいよ、やめておこうよ」
 重治は自分に跨ってなおも盛んに腰を揺すり続ける女に言った。予想に反して女は「もう少し、もう少しだから、いかせてよ。今度はあんた、上になってくれる」と、重治に覆い被さり、自らの力で重治の体を回転させ、下になった。しかし、すでに重治の体は萎えていた。おんなは「チェッ」と舌打ちをして身を起こし、自分の体からはじき出てしまった重治の性器を口にした。
「もう、そんな気分ではない。やめよう」
 それでも女はやめなかった。重治はできるだけ平静を装っていた。その女の熱心な行為にうながされるかのようにして、重治の脳裏には巨大なアメリカ人の裸体が鮮明に浮かびつつあった。それは島で文雄の兄の話を聴きながら想像した、あの巨大な性器を持ったアメリカ人の像だった。そいつは、まっすぐに重治のほうに向かってきて、やがて巨大に勃起した性器となって迫ってくるように思えた。嫌悪すべきものに対抗でもするかのように、重治の性器もまた女の口の中で呼応しはじめた。重治の眼には、自分の股に顔を埋めて懸命な彼女の口の動きに合わせてリズミカルに動いている女の四肢があった。重治の若い性は前にも増して勃起していた。
「そら見て、ちゃんと大きくなったじゃない」
 女は自分の唾液で口のまわりを濡らしたままで笑った。重治は再び女の中に入った。
 女の気怠るい、間のある声が重治の頭の中にあったアメリカ人の裸体像を破壊した。重治は女の呻吟に応えるかのように射精した。数時間前に放たれたばかりの若い性は、同じ女の中で完全に回復していた。
 射精のあと、重治は次子と奈津江のことを思った。
 終わってから、重治の眼に滲む涙を女がめざとく見つけ、黙ってその手で拭った。女は涙のわけを聞こうとはしまかった。
 女はしばらくして重治を起こし、バスをすすめた。重治は自分でも驚くほど、それに素直に応じた。浴槽に浸かっていると、女が入ってきた。女は重治をバスタブに座らせると、頭からつま先まで、ていねいな手つきで重治を洗った。重治は、女の優しさに全身をあずけた。
 最初、この宿に着いたとき、この付近には不釣合いの建物に重治は一瞬、たじろいだ。和風とはいえ、それぞれの部屋にはベッドがセットされた部屋があることを聞いた。重治は部屋に一歩足を踏み入れた途端、奇妙な錯覚に陥ったことを覚えている。そこはその当時、急速な勢いで増えはじていたラブホテルまがいの宿だったのだ。適当な和風の趣は米兵たちを喜こばせるだろうし、日本人にはしゃれたホテルとして映ることだろう。どちらにとっても、宿は機能的には無理なく設計されていた。
 女が重治の体を拭きながら言った。
「さっき、アメリカ人と寝てきたばかりだといったでしょ。それでも平気だった?」
 重治は一瞬、先ほどの脳裏に浮かんだアメリカ人のことを思い、一瞬躊躇した。
「嘘だろう。会ったことはあったかもしれないが……。それに、もしそうだとしてもかまわないさ」
「そう、わかっていたの」と、女はあっさりとその事実を認め、「どうして?」と訊いた。
「君が清潔好きだということは、きのうからわかっていたよ。ここに着いてから、すぐ手を洗ったし、何度も湯を使うのを見れば、それくらいのことはわかる。だいいち先ほど君の体から匂ったのは、ここの石鹸の匂いだった」
 女は声を出して笑った。
「あなたってやさしいのね、奥さんも幸せね。早く帰ってあげなければね。私、悪いことしたね」と女は重治の顔をうかがうようにして言った。重治はそれには直接応えなかったが、その一言は身にこたえた。
 女を残し、重治は浴室を出た。
 奈津江がこうした自分を知ったらどう思うだろうか。また言うだろう。あなたは自分勝手で、いつも自分が中心。泣くのも喜ぶのも、いつも全部、自分が中心。結局、卑怯者なのよ、と。
 傷害罪で逮捕されたとき、重治が留置場に入れられていたのは、夜を挟んでおよそ一日のことだった。その二日間、奈津江は警察署とタクシーの運転手、それに目撃者、重治をかばってくれた店のマスターと、息を吐く間もなく走り回り、重治に代わって謝罪し、少しでも罪を免れる方法はないかと頼みもした。重治は警察署に接見に訪れた弁護士から、「奥さんは、まるで半狂乱でしたよ。被害者が告訴することを取り下げたのも、奥さんのそんな努力が実ってのことです」と聞いた。その弁護士さえ、奈津江が伝を便りに頼み込んだ名うてのベテランだった。
 思えば、これで何度だろうか。高校生のときに起こした事件では卓三兄や伯母に辛い思いをさせ、今度は奈津江に同じような思いをさせてしまった。その自分は、見知らぬ町で見知らぬ女を抱き、体のつま先まで洗ってもらいながら、いまもなお、のうのうとして女が湯から上がってくるのを待っている。一度くらいは自分の言うことをきちんと聞いてほしいという、奈津江の頼みを自分でも承知のうえで、受け入れたのではなかったのか。そこで、否応なく街への思いは封印したはずだった。そうしなければならないはずだった。それすらも、いま、裏切りつつある。
 しばらくして、女がバスルームから出てきた。重治はその女がしきりに時計に眼をこらしているのに気がついた。重治は訊いた。
「アメリカ人は本当にくるのかい」
 重治はその言葉に女が動揺したことをはっきりと見てとった。
「アメリカ人と約束したんだね、そうだろう」
「そうなの、でも、断るわ。実はね、もうあなたがいないんだと思ったのよ。ごめんなさいね。先にお金をもらってしまったんだ。それで、つい承知したのよ」
「ぼくに遠慮なんかいらないよ。これから、君がアメリカ人と遇ごしたいのなら、ぼくは出ていくよ。ぼくには君の行動をとやかくいえるどんな理由もないのだから」
 重治はそのまま黙った。そして、間もなく彼女の元にやってくると思われるアメリカ人を想像した。同時に重治の脳裏に再びアメリカ人の巨大な性器が迫るのを感じた。
「お願い、あんたが断わってくれない。あの人は私があなたと一緒だということを知らないから。私があなたと一緒だと知れば、帰ると思うわ。お金も返すし、だいたい、あの人には奥さんだっているのよ」
「相手が日本人なら、浮気なんか平気と思っているんじゃないのか」
「そうよ、やつらそんなこと構ってはいないわよ、奧方たちもアメ公どおしの浮気ならすごいけれど、自分の夫が日本の女と寝ることなんて、なんとも思ってはいないよ。私の仲間がそう言っていたよ。その人、アメ公の家でメイドをやっていたことがあるのだけど、何度もそこの夫に強要されて寝たというけど、それを知っているはずの奥方はまるで奴隷ごときが主人に抱かれてありがたく思いなさいって顔をしていたというよ。そしてそこのまだ、一五になるかならいかの息子が彼女に手を出そうとしているのがわかったとき、やっと、この売女といって彼女をクビにしたそうよ。それでも、彼女はそこの亭主といまでもときどき会ってはいるけれど……。もちろん貰うものは貰っているというけど。ごめんね、あの人はきっとくる」
 重治はそのことをどの程度、信じてよいのかわらなかったが、きっとやってくるという彼女の言葉には気味の悪いほどの執念のようなものが宿っているのを感じた。
 そんなとき、電話のベルが鳴った。女が電話に出た。「アメリカの方がご面会にお見えですが」という声が重治にも聞こえた。(つづく)

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☆『流れのあと』(全20回)の連載は終わりました。
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『街』(第18回)

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 裸の女の両脚の間に、明け方の陽光を受けた市街地が拡がっている。女はまだ、眼覚めている重治に気づいてはいない。自分では三十になったばかりだと言ったが、その裸体からはもう少し年上であることを想像させた。裸の下半身を剥き出しにしたまま、女はほとんど重治の頭上に近い位置に立ち、数日ぶりに射しはじめた真冬の陽光を吸収する町を眺めている。重治には女のその眼がわかるような気がする。この町で殺されたという彼女の恋人の死が、彼女の頭の中で揺らいでいるのかもしれない。
 目的地には到達しない列車を途中のターミナル駅で下車し、駅前の路地裏にあったバーにはいった。そこで出会った彼女は、重治に何の躊躇いもなく、付近の町で死んだという恋人の話をはじめた。重治は最初、その話は自分への注目を引くためのリップサービスか嘘だと思って聞いていた。彼女は恋人と二人、その町での新しい生活を始めるつもりだったと何度も繰り返し語った。二人とも酒を飲みながらの話とて、彼女の恋人がなぜ殺されたのか、重治ははっきりと聴いたわけではなかったが、時折、涙を見せる彼女の言葉に、それほどいい加減なものは感じられなかった。
 彼女から聴いて知ったことといえば、恋人はこの町の旧家の出身であり、家を飛び出していたということ。そして、彼女との結婚のことを報告に帰省したが、彼女が水商売にいたというただその理由から父親と兄に反対された。彼女は近所の宿で待っていたが、その夜、彼は帰ってこず、翌日、死体となって家の近くの溜池に浮かんだというような話だった。彼の親族は結婚に反対されたための自殺だとして片づけた。しかし彼女は、彼が自分を残して自殺するわけがなく、何かのトラブルに巻き込まれたか、誰かに殺されたのかもしれないと考えており、それがはっきりするまではこの町を出ないという。彼が死んでから、もう三ヶ月ほどが経っているということだった。
 重治は彼女にその後の暮らしぶりを訊いた。彼女は笑いながら、「もちろん、このお店の給料でよ」と言ったあとで、それとなく店を見回し、自分たちにだれも注目していないことを確かめると、店の者に気づかれないようにするためか、自分の右手を胸元まで持っていき「それに、ときどきこれよ」と、胸の前の右手の親指を他の四本の中間に突き出して見せた。そして急に声をひそめ、「彼の両親は私に一銭も出してくれなかったんよ。私はもともと文無しだったから、この店に勤め、内緒でときどきアレをやってるの。このへんは米兵もくるし、けっこうそういう子がいるのよ。私はまだ新人で、たまにしかやらないけどね。ここまで話したんだから、今夜はよろしく頼みますよ。サービスするからね」と、女は重治がもう承知したかのように、顔全体を媚びて見せた。
 彼女は出会ったばかりの重治の何に触発されたのか、恋人の住んでいた町にあるという宿に誘った。外は折からの激しい雨の中にあった。電車はすでにない。何の縁もない気安さと彼女の頑なな申し出とで、重治はそれに応じた。
 先に女が湯に入り、重治が出たときには彼女は浴衣を着ていたものの、裸の下半身を晒したまま、かすかないびきをかいて眠っていた。布団のそばには、風呂上がりに飲んだと見えるビール瓶とコップが盆の上に置かれたままだった。盆には重治のために用意されたコップがふせてあった。自分を待ちながら、ビールを飲んでいるうちに、つい眠ってしまったのだろう。重治は残りのビールをコップに注いだ。まだ十分冷たさが残っている。重治はさらに冷蔵庫からもう一本出した。重治はそれを半分ほど空け、女のそばに添え寝をするようにして横になった。ほとんど素っ裸の女の体が手の触れる場所にあった。だが、どうしようかと迷っているうちに、重治もまた酒のせいでいつの間にか眠っていた。
 シャワーでも浴びたのか、女の足元にはバスタオルが投げ出されている。女は重治に気づかないまま窓の外をいつまでも見つめている。重治はその視線の先に何があるのか気になった。だが、いくら暖房が利いているからといってそのままでは風邪を引いてしまう。重治は女に声をかけた。
「そんな格好のままで寒くないのか」
 女は下から見られていたことに、一瞬、恥じらいを見せてバスタオルに手を伸ばしかけたが、それを否定するかのように、素っ裸のまま重治の布団をめくり、重治の上に裸のままで大胆に跨った。そして、「きのうはごめんね。待ってたんよ。いつの間にか寝てしまっていたね」とわざとらしく、甘えるようにして乳房を揺らした。女は重治の浴衣の紐を取り払い、浴衣を割るようにして重治に裸の体を重ねた。冷たい体だった。

 再び眼覚めたとき、女は部屋にはいなかった。持ち物がそのままになっているところを見ると、散歩にでも出たのだろうか。死んだ恋人の家はすぐ近くだと言っていたから、あるいはそのあたりを訪れているのかもしれない。重治は時計を見た。
 先に自分の里に寄ると言っていた奈津江は、一足早い夜行寝台に乗った。もう実家に着いているだろうか。あるいはすぐにウインクに向かい、とりあえずは重治のことやこれからの新生活について伯母と話しているかもしれなかった。
 あの夜、警察官らが捜していたのはやはり重治だった。店のマスターが重治は事件が起こる前から店にいたと偽証をしたため、あの場はそれで収まっていたが、目撃者の証言から、店を調査した二人の警察官が重治のことを思い出し、事件の翌日、重治は傷害罪で逮捕された。タクシーを店の前に停めて、車から出たあと、チップをねだりすぐに釣り銭を寄越こそうとしなかったタクシーの初老の運転手の胸倉を掴まえて車から引き出し、足蹴りにしたという。さらに殴って怪我を負わせたというのが運転手の言い分だった。タクシーから逃げる途中で、他の車とぶつかって転んだが、そのまま店に逃げ込んだらしい。上着のほつれと肩の痛みはそのためで、目撃者はそのときぶつかった車の運転手だった。
 タクシーの運転手への奈津江の努力もあって、重治は間もなく釈放された。不必要にチップをねだったということも大きな要因になった。しかし、傷害犯が教師だということから、事件は一部のマスコミにも漏れ、重治は二つの学校に辞表を出さざるをえなかった。こうして重治は完全に職を失った。重治はとりあえず、東京での生活に見切りをつけようという奈津江の申し出でに応じるほかはなかった。
 数日後、重治らは今後のことについてウインクの伯母に相談するため、街に向かうことにしたが、奈津江は彼女の親に一応、報告しておきたいと、一日早く東京を発ち、翌日、重治と落ち合うことにしていた。だが、あまり気乗りがしなかった帰省のせいか、重治は街への駅に停車する終列車に乗り遅れ、その数駅手前の駅までしか行かない列車に乗る羽目となった。重治は奈津江に連絡を入れ、到着が一日遅れるわけを話し、途中のターミナル駅で列車を降りた。
 薄日さえ出ていたのに、雨がまた激しく降りだした。窓から眺めると、時折、雨煙が何度も立ち登り、市街地全体が雨とともに移動しているような感さえある。女はどうしたのだろうか。
 宿の女性が、できれば遅くして欲しいと頼んでいた朝食を運んできた。この付近では、台風でもなければこんな風雨の日はあまり多くはないという女性の話を聞きながら、雨が降りはじめてしばらく経つのに、まだ婦ってこない女を案じた。
「雨が振っていなければ、この裏手の山から瀬戸内海が見えますのに……。それにアメリカの基地もよく見えますよ。でも、この雨ではそれもむりですね」
 確かに、裏山から基地が視えるだろう。この雨にもかかわらず、もう何度か、爆撃機特有の飛行音が山の手から響くのを聴いている。
「この付近にも、基地に通っている軍人さんのハウスが何軒もありますよ」
 バーで女と会い、ここまでの車中から、ハウスらしい建物をいくつか眼にした。宿の窓からも見受けられる。この付近でハウスが一番多いのは、宿の裏手の基地を眺めることのできる丘陵地帯だと、彼女は続けた。日本人の別荘が、その中に身を潜めるようにして何軒か混っているという。それにこの宿にも、駅前や基地周辺で女を誘った米兵が、夜半頃、たびたび訪ねてくることがあるという。彼女はそんなことをとりとめなく話しながら、朝食を並べた。見ると、一人前しかない。重治がわけを聞くと、女が出かける前に自分は朝食はいらないからと言ったということだった。
 そのとき、女が帰ってきた。「あとは私がやるわ」と言われ、宿の女は慌てるようにして室を出た。
 重治は女に話しかけようとしたが、彼女は寝転んで眼を閉じ、何度も深い吐息をついている。しばらくの間、そのまま動こうとはしない。
「ちょっと休ませて、疲れたわ」女は天井を見たままそう言った。重治は女が激しい息づかいをしているのに気づいた。しかし、重治はその理由を聞くこともなく、黙って朝食の箸を動かした。山の手から響いてくる爆撃機の爆音が再び聞こえた。
 重治が食事を終えるころ、女はやっと身を起こし、重治のために茶を入れた。
「私、さっき米兵と寝てきたのよ。なじみの兵隊さんでこんなところに住んでいるなんて思いもしなかった。もう何回も寝た相手だから求めに応じたけど、あの人が死んだとき、もうこれっきりアメリカ人とは寝ないつもりだったのに、なじみには弱いわ」
 重治は昨夜の話と違うではないか、と言おうとしてその言葉を飲み込んだ。言ったところでそれがなんになろう。自分は行きずりの一見の客でしかなかった。だが、突然の女の言葉に重治はどう応えていいのかわからなかった。米兵のことを「あの人」と女が言うとき、妙な感傷がこもっていた。女はあの人がくれたんだといって重治の前に米国煙草を投げ出した。重治はそれを一本抜いて女に投げ返した。
「あの人、金持ちなんだ、二回分もくれたよ」煙草を出して開いたままのハンドバックの中を覗きこみながら女は咳やくようにそう言った。どのくらいもらったのか知らないが、重治はふと、女がなぜここにきたのか訊こうとしたが、それもやめた。
「あんた、もしかしたら、あの人がここにやってくるかもしれないよ」
 女は重治のほうを視ないでそう言った。重治は女が自分の何を確かめようとしているのかと考えた。しかし、重治はそれには応えることもなく、もらった煙草をゆっくりと吹かした。
「ねえ、私の言ったこと聞こえたの」と女は多少立腹しているらしい声でそう言う。
「ああ、聞えているさ」
「じゃ、なんとか言ったらどう? あの人はあんたが私を抱いているとき、くるかもしれないんだよ」
「だからどうだって言うんだ。ぼくもそのあの人も同じ客だろう。相手だってそんなこと百も承知さ。もう、そんな話はやめろよ。ぼくはここを出ていく、それでいいんだろう」
「ごめん、ただ聞いてみたかっただけ」女は意外と素直にそう言って立ち上がった。そして、「ねえ、私はいかなかったの。いかして」とすぐに着ているものをはぎ取るようにして裸になった。(つづく)

■第19回はこちらから──http://blogs.yahoo.co.jp/yyclub2004/4186578.html
☆『流れのあと』(全20回)の連載は終わりました。
 第1回はこちらから──http://blogs.yahoo.co.jp/yyclub2004/1081913.html

『街』(第17回)

          17

 奈津江が泣いていた。その涙に、重治は自分への救いようのない奈津江の不信を感じた。どこかで歯車が狂ってしまった。街に帰るまでは、二人の間にこれほどの不信はなかった。街に対するわだかまりは、二人の了解内での過去の出来事であったはずだった。それが一方的な形で、再び街が重治の内部に巣くってしまった。二人には予測外の出来事だった。
 重治は自らの街へのこだわりについて改めて反芻した。自分がここまで街にこだわってしまうことに訝ってもみた。しかし、その答えはそう簡単に見つけることはできなかった。
 涙を拭いながら、奈津江が突然のように言った。
「今日、学校で何があったの」
 重治は今日一日の出来事を思い出そうと試みる。学校を出るまでのことははっきりしている。しかし、酒を飲みはじめてからのことは途中から記憶にはなった。
「途中からよく覚えていないんだ。いったい何が起こったのか、何を起こしたのか、よく覚えていない。きょう、ぼくは生徒たちを失望させてしまった。教えることに身が入らず、生徒たちから批判さえされてしまった。いろんなことを考えているうちに、自分を見失ってしまっていたんだ」
 奈津江は言葉の真意を探ろうとしてか、しばらく重治を見つめていた。しかし、自分で何かを納得したかのように、一挙に自分の思いのたけをしゃべりはじめた。
「あなたは知っているはずだわ。自分がとっくの昔から自分自身を失なってしまい、もう何者でもなくなってしまっていることを知っているのではないの。それをわかっていながら、なおも自分を誤魔化そうとしている。自分でもわかっているはずよ。生徒の期待を裏切っておきながら、それでもなお、あなたは自分の過去にすがり、生徒や私に許しを乞おうとしている。どうしたというのよ、いまのあなたの日常はすべてそうなのよ。いまにして思えば、それは学生のときからだった。まるで、参加することに意義があるかのようにデモに出かける。それでいて、あなたの生活のなかに、デモに関したどのような信条もなかった。もっともそのことは私にも言えることではあるけれど……。ふつうはそこに限界を感じ、新たな自分を模索して人は変わっていくのよ。しかし、それがあなたにはできない。私には、それはあなたの持つ、不可思議な魅力の一つでもあった。だけど、いまのようになってしまうと、魅力だなんてとても言えなくなってしまっている。何かを続けているのならまだしも、生活はもう平々凡々としているのに、深刻な顔を続けることだけは忘れない……。それがあなたの限界なのかもしれないけれど。あなたはそこから抜け出せないまま、古めかしい思考の中を行き来しているにすぎないのよ。そうであるなら、あなたは教師というような職業を選んではいけなかったのよ」
 奈津江はここまで一気にしゃべると、ふっと息をついだ。そして、重治が予想だにしないことまで口にした。
「あなたは、次子さんを間接的に自分が殺したというけれど、だったら文雄さんはどうなの。文雄さんだってそうだったのではないのかしら。文雄さんを死に追いやったのも、ほかならない、あなただったのではないの。文雄さんとあなたは、ずっと一心同体、本当の友情や信条で結ばれてきたわけでしょう。それはそれでいいことだと思うけれど、もしかしたら、文雄さんはあなたのその後の優柔不断さを考えていて、むしろ自分の死のきっかけとしたのではないかとも考えられるわ。もちろんこれは言いすぎだと思うけれども、そんなこと、考えたことあった。あなたは文雄さんの自殺さえ予想もしていなかった。あんなに仲がよかったのに、それはどういうことなの。文雄さんも、いっさいそのようなことをあなたに相談もしなかった。あなたは自分なりに文雄さんの死の原因を考えていたでしょうが、それもすべては自分本位なことでしかなかったのではないの。文雄さんはあなたを見ていつも苛だっていた。死を前提としているように話すあなたが、いつも温々と生きていたからなのよ。あなたは“街”とすぐそれをひきあいに出す。あなたにとっての街はすべての口実にすぎなかったはずだわ。自分の限界を街で正当化しようとし続けた。卑怯だわ。あなたは過去を、自分の弁解のために創作した。過去は少なくともあなたのその後の生活において、何の要素ももたらさなかったはずよ。あなたはそんな自分の限界を知ったとき、都合よく街を創り上げたのよ。あなたは自分で自分の貧弱な過去を築きあげたのよ。あなたは学生時代によくこういったわね、“過去は消し去られたとき、初めて過去として存在する”と。だけどあなたは消すことなく別の形でいつの間にか再登場させたわ。大演出で」
 重治には返す言葉がなかった。奈津江は自分の言葉とともにあふれ出てくる涙を拭おうともせず重治を視つめている。その涙に、奈津江の決別の意味が含まれていたことを重治はまだ気づかなかった。
 重治はやっと酔いに覚めはじめた頭で学校が引けてからの自分の行動を思い起こそうとしていた。誘われるまま、何軒かの店で痛飲し、同僚たちと怒鳴り合うようにして互いの議論を吹きかけ合った。しかし、なぜ肩が、腕が痛むのだ。あの店に入る前に何かが起ったのかは容易に思い出せないでいた。
 重治の肩をもむ仕草を見て、奈津江が再び口を開いた。
「あなたはあの店に入ると、いきなり、他の人がいるのも構わず、席に転り込んだ。しばらくはそのままの姿勢で眠っていたということよ」
 奈津江はそう言ってやっと涙を拭った。そうだったのか、重治は思った。
「何を起こしたのか説明してくれないか」
 そのまま重治は次の言葉を見失なう。奈津江はそう言った重治の言葉に反感を覚えた。しかし、それに反抗することを彼女はかろうじて押えた。
「これは店のマスターが電話をくれたときに聞いた話だけど、話してあげるわ。だけど、これはあくまでも店内だけのことで、店に入ってくるまでのあなたが何を起したのかはわからない。あなたが店で眠り込んでからすぐ近くでパトカーのサイレンが響き、店の近くに停った。その音のせいか、あなたはしばらく起きていたらしいわ。あなたが起きているちょうどそのとき、近くを捜索していた警察官が店にも入ってきて、店内を調べさせてくれと、客たちの様子をうかがった。うずくまったままで顔を上げないあなたを、一人の警察官が声をかけた。だけど、顔をみただけで、次の席に移って行き、結局はそのまま出て行こうとした。そのとき、あなたがすごい勢いで立ち上り『俺だ、俺だよ、逃げたのは、俺を連れていってくれ』と言って騒ぎ出した。突然のことに狼狽する警官に駆け寄ったらしいわよ。警察官は最初のうちは、酔ったサラリマンが絡んできたのだと思い、取り合おうとしなかった。だけど、あまりにあなたが騒ぐものだから、それでは一緒に行きましようと、あなたを連れて行こうとすると、今度は『ふざけるな、俺をどこへ連れて行くと言うんだ、連れて行ってお前らは俺に何をしようというんだ』と騒ぎ始めた。怒った警察官は、本気になって本当にあなたを連れて行こうとした。保護ということでね。そのときマスターが、常連さんでひどく酔っているものだからと、間に入って詫び、やっと納得させたのよ」.
 はっきりと想い出せないけれど、警察官に絡んでいた自分を覚えているような気がする。それがあの店でのこととは思えなかった。しかし、ただそれだけだったのだろうか。近くで起こったという事件に自分が関係しているかもしれない。もしそうなら、いずれははっきりするだろうが……。
「あなたがどこで何をしたのか知らないけれど、わけもなく酔うというようなことは止したらどう。それこそ、あなたらしくもない。あなたがふだん、いちばん嫌っていることではないの」
 奈津江はそう言い放つと、自室に向かい、大きな音を立ててドアを閉めた。
 重治はそのまま奈津江を追うこともなく、しばし呆然としたまま座り込んでいた。その前に、奈津江が再び現れた。
「これから一人で今後のことをよく考えて欲しいの。私、今夜は友だちのところに泊めてもらうわ。私も私で、どうするか考えるから」
 アパートのドアが、大きな音を立てたように思われた。しかし、それは重治の錯覚かもしれなかった。
 重治もまた、再び夜の街に出た。そうせずにはいられなかった。奈津江の言ったとおり、自分は結局、何もできなかったのだと思った。街を創り上げた結果として残ったのは、暖昧な精神と平凡すぎる生活だけだった。重治はいま、重苦しいばかりでどうすることもできないような孤独感のなかにいた。ただそれだけが残ったというだけなのか。無精に腹が立つがその怒りを向けられる先は、自分でしかなかった。
 奈津江の不信は当然だったが、これからの自分には何ができるだろう。奈津江は前に街で暮すことを提案したことがある。彼女が感じていた二人の危うさを、むしろ逆手に取った提案だったかもしれない。しかし、重治は街で暮らすことはできないと応えた。たとえ、それが二人の再出発となるとしても、どうしても暮らすことはできないのだと……。(つづく)

■第18回はこちらから──http://blogs.yahoo.co.jp/yyclub2004/3822325.html
☆『流れのあと』(全20回)の連載は終わりました。
 第1回はこちらから──http://blogs.yahoo.co.jp/yyclub2004/1081913.html

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