ゆうやけ・こやけ

求めているのは、雨上がりの夕焼けあとにやってくる青空です。

短編小説『駆けいでるとき』

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

『駆けいでるとき』(10)

          10

 真冬の陰鬱な朝をほとんど眠れないまま貴男は迎える。まだ明けてはいなかったが、風のない、暖かな朝だった。性器だけが異常なほど勃起していた。寝汗をかいたのか、湿ったままのシーツから抜け出す気力をなくしたまま、貴男は屹立したままの性器を手にしていた。頭をかすめるのは、昨日、何もなすこともなく逃げ帰るしかなかった村でのことだった。オレの体で、いま動きうるものはこいつだけだ。貴男は己のいきり立つ性器をさらに握りしめながら、自分たちを拒絶し続ける村を呪った。すぐかたわらにナオミが額に汗を浮かべたまま眠っている。父親を手伝い、夜半過ぎても竹細工作りに精を出していたせいか、まだ深い寝息を立てている。囲炉裏にはまだそのときの残り火が赤い炎を立てていた。おかげで、冬の朝とはいえ、家全体に温もりが残っている。襖一つ向こうにはヨネ、そして老父がやはり眠り込んでいる。二人の寝息もまた、深い最中にあった。貴男はそのまま横になっていることに耐えられず、まるで何かに追いたてられるようにして起きた。それにナオミが反応し、しばし目覚めた様子だったが、トイレだという貴男のささやきに安堵したのか、すぐさま再び深い眠りに落ちた。貴男は音を立てないようにして身支度を整えて家を出た。温かなせいか、あたりは冬によくある薄靄に包まれている。

 貴男は社地と村を交互に眺めることのできる斜面に立った。性器はまだ勃起していた。貴男はそこで、己の性器を社地に向け、まるで社地を汚すかのように長い時間をかけて自涜し、放尿した。貴男は眼を凝らして社地を見た。番小屋のような建物には明かりが灯り、人影が見えた。貴男の足はごく自然に社地に向いた。一度、はっきりとその正体を探ってみたかった。陽が差すにはまだ間があったが、朝はすっかり明けていた。貴男が村人に悟られないように木立の中を抜けて社地についたときには、焼け落ちた松明が燻っている番小屋には誰もいなかった。それでも、木立の影から貴男は周りの様子を探る。付近に誰もいないことを確かめると、貴男は社地の側面から社地の裏手にあたる斜面を登った。そこから番小屋にいたと見える二人の村人が、村への坂を下って行くのが眺められた。交替がやってくるまでには少し余裕があるだろう。もし早目にやってきても、ここからならわかる。貴男は社地を見降すことのできる場所に移動した。黒いアスファルト道路と社地は短い隧道で結ばれている。その隧道の上から、貴男は延々と続く道路を見降す。完成したばかりと思える黒いアスファルト道路上には足跡一つなかった。

 ナオミの話では、工事のために仕方なくつけられた足跡は舗装が完成した箇所から次々と洗らわれたという。それは女たちの仕事で、女たちは道路に上がる前にまず足を洗い、近くを流れる小川から運んできた水をかけながら道路上にできた汚れを洗い流す作業を続けているということだった。ナオミもかつて、最初の頃はその作業に加わっていた。しかし、弟の一件でその役から排除された。明け方目覚める前に見た夢、それはこれだったと貴男は思った。黒く、露に濡れたアスファルト道路を誰かが駆けていた。それはナオミではなかったろうか。あるいはそれはヨネだったのか。すでに夢の記憶は薄らいでいた。ただ、女たちが素足でこの道路を確かに駆けていた。ナオミに聞いたその光景が脳裏のどこかに残っていたのだろうか。今朝、貴男はそんな夢を見ていた。その今朝の夢がヒタヒタという足音を伴って貴男の脳裡に再び浮かぶ。そして、確かにオレが叫んでいた。「ナオミ、駆けろ、駆け抜けろ!」と。ヒタヒタという足音は夢の中でいつしか、追っ手の足音となっていた。駆けているのは貴男自身ともなり、ナオミともなった。追っ手はすぐそばまで迫っていた。貴男は再び叫んでいた。「ナオミ、駆けろ、駆け抜けろ!」。

 社地はやはり同じようにアスファルトを埋めた石垣で囲まれている。工事はほとんど完成しているように思われた。あとは運動場のように広い社地を囲む鉄柵が一部分、末完成のまま残されているだけだった。社地の中央部に、ほぼ正方形に盛座が造作されている。恐らくそこに社が建てられるのだろう。この社地にふさわしい建物は間もなくここに出現する。それは鋼鉄の柱に支えられた黒色の屋根を持つものに違いない。その巨大な社の棟上の日、仮に造られた屋根の下ではこの社地の上に第一歩を記すことになる不確かな人物への儀式が挙行される……。それはいったいどんな人物なのか。貴男はふと、その社地を汚すことを想定し、思わず額の汗を拭った。それと同時に、その不確かな人物に、突然、畏怖した。間もなく陽光が山闇から現われようとしている。この村にふさわしい気怠るいままの陽光が……。貴男は腕を伸ばして支えにしていた細い木を押し倒そうとした。木の根は強く、そう簡単には倒れそうもなかったが、それでも周りの土が斜面を転がり、社地の上にわずかの汚点をつけた。だが、それは社地の広さに比べ、あまりにかすかなシミでしかない。貴男は足元の石を蹴った。その石は社地で跳び跳ねながら砕け、かなりの汚点をつくった。これはこれで大騒ぎになるかもしれない。そう思いながらも、それを見ているうちに貴男の先ほどの畏怖感はすでに消失していた。

 しかし、これだけの汚点が一体何になろう。貴男は自分の犯した小さな反抗をむしろ嫌悪した。小心者の己れにできたわずかの反抗。これはすぐ洗い流されるだろうし、村人には偶然起こった産物としか捉えられないかもしれない。そして、社地の成立には何の意味もなしえない。貴男は徒労を感じながら、そこに坐りこんだ。それ以上の土壌を、社地に落とすことにはまだ勇気が足りなかった。それでももう一度、貴男はすぐそばにあった石を蹴り落した。しかし、石は社地の手前の木に遮られてその根元でとまった。さらにもう一石を蹴り落そうとしたとき、貴男は誰かに視つめられている気配を感じた。しかし、周囲には誰もいない。村のほうを眺めると、交替のための見張りがやってきている。もう少し気づかずにいたら、あるいは貴男は視つかっていただろう。貴男は慌てて斜面の木立の中に移動した。そこから村人の動向を貴男は視つめる。しかし、見張りの二人は社地までくることもなく、そのまま番小屋の中に入った。貴男は彼らが汚れた社地を見つけたときどんな驚動を示すのかを確かめたかった。貴男は彼らが小屋から出てくるのをしばらく待ったが、なかなか出てきそうもなかった。貴男は番小屋に投げつけようとして小石を手にした。それを投げようとしたとき、再び自分を見つめる人の眼を感じた。貴男は一瞬、ナオミの弟を追いつめた村人への脅威を感じた。

 風で揺れる木々の音以外に、人の動くような音も聞こえた。ほかにも見張りがいたのか……。貴男は動揺しながら斜面を登った。そうしながら何度も背後に恐怖を感じた。いまにも何人かの村人が襲いかかってくるかのように錯覚された。貴男はまるで銃口を視つめながらその引き金が引かれるのを待つ死刑因のような気持ちだった。見えない相手が現われるのを貴男は歩きながら待った。貴男は歩き続けた。相手はなかなか襲いかかってきそうもなかったが、自分のあとを誰かがつけていることはもはや間違いなかった。そして相手が一人であることを貴男はその足音から察した。貴男は駆けた。相手がそれに動じたのを確かめてすぐ振り返った。なんと、そこにはヨネがいた。「ヨネさん」。それは確かにヨネだった。ヨネは視つけられたことに彼女なりに狼狽しながら貴男を怯えた顔で見た。ここまでついてきたもののどうすればよいのか教えてほしい、という感じだった。ヨネは家からずっとオレをつけていたのだろうか。思いがけない相手に、貴男は安堵する一方で、ヨネのそうした行動をいぶかった。貴男はヨネのそばに近寄った。叱られると思ったのか、ヨネはうつむいたまま、眼だけを貴男を向ける。そして、足元の雑草を引きちぎるとそれを口に入れては吹き出す。それはヨネが、どうしていいのかわからないときによく見せる仕種だった。その度にヨネの顔は頭髪の中に隠れた。

 まるであどけない少女のような仕種に貴男はほっと一息ついた。服装と頭髪が黒ければ、少女以外に思いようもないだろう。一人の少女が山の斜面に立っている。もし、他に誰かがみてもそう思うだろう、ヨネはまだ少女なのだ。ふと、貴男はそんな感傷に浸った。だが、それはすぐ否定されてしまった。ヨネが俯くたびに胸がはだけ、そのふくらみが、乳首までが覗いた。それは初めての光景ではなかった。ヨネが不用意に見せるごく普通の光景だった。貴男の眼に、それが今朝は妙に生々しかった。もはや決して美しい肌ではない。それはすでに老いを忍ばせ、浅黒く、乾燥していた。そんな中にも、かつての豊満な肉体が感じとられる。村人の何人がこの肌を知っているのだろうか。彼らは何の躊躇いもなくこの体にさわり、そして犯したのだ。あまり多くの感情を持たずして生れてきたヨネが、その快感を覚えたとき、彼らは自分の性器を剥き出しにするヨネを相手にしなくなったに違いない。こうして風を静かに受けているヨネを視ていると、かつてヨネの身に起こったことは容易に想像できない出来事のように思えた。それにしても、ヨネはナオミによく似ている。

 叱られないことを察してか、ヨネの表情は先ほどとは違っている。そして、その眼に期待が浮かんでいる。ヨネはオレを求めているのだろうか。それに、もしヨネが家からずっとオレをつけていたのなら、オレが手淫する様をどこかで見ていたに違いない。ヨネはそれを見て、何を思っただろうか。貴男は自分のよこしまな考えがそれ以上ヨネに向けられることを自ら否定して頭を振った。それを見て、ヨネが再び動揺した顔を見せた。貴男はすこし語気を強めてヨネに家に帰るようにいった。そしてそれ以上ヨネに構わずに再び斜面を歩き始めた。ヨネは相変わらずあとをつけてきた。貴男は家に帰るふうを装って一度家に向かう道に引き返し、そこでヨネを撒いた。木立の影からヨネが自分を捜しながら家のほうへ帰って行くのを確かめて、貴男は再び社地の裏側に向かった。見張りの村人はまだ小屋にいる様子だった。社地の汚点にはまた気づいている様子もなかった。貴男は眼覚めはじめたらしい村の中心部にある村の支配者の住家を眼にした。社殿風のその建物は堂々とした構えで、全体が金属質でできているような印象を受ける。尾根伝いにその位置を確認すると、貴勇は再び斜面を登り、尾根に沿ってその家を目差した。(つづく)

■『駆けいでるとき』は15回前後の連載予定です。

『駆けいでるとき』(9)

          9

 貴男にはどこからともなく自分を視つめる眼が次第に増えつつあるように感じられた。明らかに敵意に満ちたその眼差しを家々の随所に感じながら、貴男は軽トラックのエンジンをかけたままでいる。村へやってきたものの、いざ村の入口までくると、貴男はそのまま村に侵入することをしばし躊躇してしまった。軽トラックを買って三週間ほどがたっていた。乾物や保存の利く海産物を売るための荷台の簡単なしつらえはナオミの父の協力を得て、どうにか格好がつき、近在の町の乾物や海産物を扱う卸店との話もついた。貴男は一週間ほど前から、近在の村々での商いを始めたが、物を売るということは、最初からそう簡単なものではなかった。ナオミの弟が始めたときも、最初は同じようなものだったと、ナオミや父はやさしい言葉を重ねて貴男を励ましたが、その行き先は決して安穏としていられるものではなかった。ぽつぽつと、馴染み客がつくようにはなったが、まだとても儲けるというところまではいかなかった。貴男にすれば、生まれて初めて経験する商売だった。それだけに、最初の張り切り具合とは裏腹に、なかなか計算の成り立たない行商に少々の苛立ちも出た。その気分をかろうじて抑えることができたのも、ひとえにナオミ一家の温かな支えがあってのことだった。

 貴男が町に出かけるようになっても、一家の生活は貧しさが増すばかりだった。町で干物や雑貨を仕入れて他の村で売る。しかし、近隣に村がないことからどうしても遠出になった。そのため、時間がかかりすぎ、わずかの収入しか得られなかった。目前にしている自分たちの村でその生活手段を得ることができない限り、ただかろうじて食べるだけというあかつき村からの食料援助だけではとうてい貧しさからは抜けられそうもなかった。貴男の眼は社地の造成で定期的な収入を得るようになっていたあかつき村に向いた。村人の反応も、まだ他所者である自分に対しては多少違うのではないかと思えた。結果がどうであろうと、少なからず確かめてみたくもあった。貴男はこの日、思い切って町からの帰りに村にまでやってきていた。ナオミたちには一言も相談してはいなかった。商売を始めてちょうど三週間ほどたっている日曜日の午後のことだった。あかつき村の入り口に当たる村の集会所の前の空き地に車を止めたまま、貴男は店を開いた。もっとも店を開くといっても、荷台のシートをめくり、多少の商品を並べ替える程度のものだった。手作りのショーケースにはいくばくかの乾物と前日、町で仕入れた新鮮な生わかめなど、幾種類かの海産物があった。

 車を止めてすでに三十分ほどたってはいるが、村人は誰一人顔を出さない。何度か拡声器を通じてあらかじめ録音しておいた商いを告げる声を周囲に流してはみたが、反応はまったくなかった。物が売れるかどうかは別にして、近在の村では、このようなことはなかった。必ずといっていいくらい、村人の一人や二人はその声で顔を出してくれた。どうやら、場所にも問題があったのかもしれない。貴男は半ば絶望的な思いで空を見上げた。冬の穏やかな昼間の空には、限りなく晴天が広がっていた。トンビと思われる二羽の鳥が大きな弧を描いていた。あのトンビの眼に、自分はどう映っているのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい、いつまでもこうしているわけにはいかないと、貴男はアクセルをゆっくり踏んで村の家並みへの道に入った。両脇を家屋に挟まれると、エンジンの音が貴男の耳にも必要以上に響くように思われた。だが、ノロノロと進んでも、虚しくエソジン音が反響するだけで、人影はまったく現れない。今日は日曜日で、たいていの村人がいるはずだった。だが、先ほどから通行する人としてさえ姿を現さない。しかし、家のどこかから自分を見つめるいくつかの眼差しが感じられた。貴男はさらに拡声器から声をかけ、村に商いにやってきたことを告げたものの、相変わらず反応に変化はなかった。

 誰でもいい、会えばすぐあいそよく品物にふれよう。余計なことは一切口にせず、ただ商売だけに徹しよう、貴男はいよいよ村にはいったところで、車の速度を最少に落としながらそう思った。まだ一度も足を踏み入れたことのない村だったが、さほど近在の村と変わるところはなかった。それに加えて、自分はまだ他所者だという不確かな存在感が、むしろ貴男の行動を少なからず大胆なものにしていた。まさか、村に入ったからといって殺されるようなこともなかろう。むしろ同情があってしかるべきだ。ナオミの家は弟を失っている。それは同時にまた、村人の心の傷にもなっているはずだ。貴男は勝手にそう思ってもみた。そして、村へ入って最初の曲がり角にきたとき、行く手に数人の子供たちに出くわした。出くわしたというよりは、むしろ子供たちは貴男を待っていたというべきだろう。貴男は自分を見つめる眼がただならない気配を漂わせていることに思わずたじろいだ。その眼はとうてい子供の眼ではない。自分を視つめながら、行く手を遮ろうとする子供の懐疑な眼に貴男は思わず狼狽した。だが、貴男はできるだけの平静さをつくろい五人ほどの子供たちの前で車を停め、あえて声をかけた。
「母さんたちはいるかい」

 子供たちはそれに答えず、相変らずの眼で貴男を視つめたままでいた。貴男はその中で一番年下だと思える五歳ほどの男の子に、客寄せに使っている卸店の名入りの風船が入った袋を差し出した。だが、予想に反して、幼子はその袋を強い力で払い落とした。貴男は仕方なく車を降り、袋を拾った。貴男が車を降りる際、子供たちはわずかに退いたが、視つめる眼はさらに険しさを増していた。仕方なく貴男は再びエンジンをかけ、ゆっくりと車を走らせようとした。子供たちは眼で貴男を睨みつけたままで道を空けた。それをどこかで誰かがじっと見ている。確かにいる、再び貴男はそれらの眼を意識した。今日、途中の道路で望見した社地や新しい道路の造成地には人影はほとんど見当たらなかった。見張り役だろうと思える数人の人影はあったが、ほとんどの工事現場には人影はなかった。村人は間違いなく村にいるはずだった。貴男は戸口の一つ一つに眼を凝らしながら進んだが、誰も出てこなかった。子供たちのほか、大人は一人として姿を見せない。貴男はそれ以上に村に深入りすることに一種の気味の悪さを感じ、同じ道を引き返した。そうしながら再び拡声器の声を響かせたが、結果は同じたった。子供たちのほかは誰も顔すら出さなかった。しかし、村の出口にさしかかったとき、村人の一団、十人ほどが集会所の前で貴男を待ち受けていた。貴男は湧き上ってくる動揺を抑えながら、かまわず車を進めようとする。

 村人たちは一様に険湿な表情のままで貴男を迎えた。貴男は急速に高まりつつある恐怖感を意識しながらも、できるだけ平静さを装って車を停め、思い切って声をかけた。決して慌ててはならない。だが、声は自然に強張っていた。
「乾物や海産物を売りにきたのですが、いかがでしょうか」
 子供たちと同じように答えない。そればかりか、村人たちは貴男の車を取り囲むようにその輪を縮めた。もしかしたら、ここで村人たちに吊るし上げられるかもしれない、貴男は激しい畏怖の念にとらわれ、思わず車を発車させた。だが、まるでにじり寄るかのようにして、村人たちはさらに貴男に接近してくる。貴男は掌に汗を浮かべながら、村人たちの眼に明らかに委縮して映っているのであろう白分を想像する。それでも貴男はアクセルを少しばかり吹かして進もうとした。しかし、走り抜けることは不可能に思われた。車が接近するまで村人たちは動こうとしなかった。貴男は思わずブレーキを踏んだ。その瞬間、予想に反して、村人たちはその道を開けた。だが、一気に走りだせないまま、貴男は背後に恐怖を感じつつ、ゆっくりとその輸から出る。そこでアクセルを踏み込もうとしてエンストさせてしまった。慌ててエンジンをかけようとするが、車はようとしていうことをきかなかった。その貴男に、村人の怒声が投げつけられた。

「もう二度と村へ来ることはなんねえぞ」
「ナオミと暮らしたいなら村の掟を守るこった。守られなけりゃ、それなりに覚悟をしておくこった」
「ナオミの弟のことを知っとるやろ。どこで食いつめて、ナオミをたらしこんでここにきたかしんねえが、それならそれで、ナオミとつるんだままでいろや」
「他所者めが、大人なしく引っ込んでろ」
 次々と発せられる怒声に貴男はますます慌てた。貴男はなかなか始動しないエソジソをかけようとして何度もキーをまわした。貴男は仕方なく車から降りて自らの力で押した。村を出たところで再びエンジンをかけると、今度は容易に始動した。「クソッ」。激しく車を叩いた。貴男はまるで小石を投げられたような屈辱に振り向く勇気を持たないまま、一気にアクセルを踏んだ。村はずれの坂道を一気に登ろうとするが、かなり摩滅しているエソジソはやっと登るのが精一杯だった。
 村はオレをも拒絶した、村人たちは完璧にそれを実行した。やっと坂を登りきっても、背後に感じられる眼に対抗することができないまま、貴男はそう思い、よろめくようにして坂を登る車のアクセルをさらに何度となく踏み込んだ。坂の上でいったん車を停めて、やっと村を振り仰いだ。すでにそこには誰もいなかった。貴男は大きく息を吸った。村の空には先ほどのトンビがいまだに獲物を見つけることができずにいるのか、さらに大きな弧を描いて舞ったままだった。(つづく)

■『駆けいでるとき』は15回前後の連載予定です。

『駆けいでるとき』(8)

           8

 季節が冬から春に変わろうとしているのか、それを告げる稲光が時折、付近一帯を真昼のように染める。湿った南風が何度も家を大きく揺すり、家の中さえ通り抜ける。そのたびに、消えかける蟻燭のゆらめきに、ヨネの眼が不安気に動き廻る。微くさい部屋に閉じこめられたまま、誰も何もいわない。風雨は夜半から間断なく続き、まだ空け切らぬ山間を音をたてて貫いていく。風の音のせいでいつもより早く、家族全員がまだ暗いうちに起きてしまった。電灯をつけてみたが、停電していた。
「いまではめったにないことなのに」とナオミがさらにもう一本、新しい蝋燭に火を灯しながら貴男にいった。貴男は薄明りの奥で稲光に恐れおののくヨネを心配していた。ナオミによれば、ヨネが極端に嫌うものが二つあるという。そのうちの一つが稲光であとの一つは蛇だった。「それはヨネさんだけではなくて、オレだってそうだよ。ナオミだってそうかもしれないよ」と貴男は笑った。ヨネが極端にその二つを嫌うというその理由はわからなかったが、それはすでに幼いときから示していたことだった。それが直接ヨネへのいじめの対象になったことはないというが、山で偶然にも蛇を見つけると、そこで萎縮したまま、逃げ出すこともできず、何度か癲癇による引きつけさえも起こしたことがあるという。

 ヨネはいつも何を考えているのだろう。山間の家にやってきてから、ヨネの視線を感じると、貴男はいつもそう思う。じっと自分を視つめていると思えても、いざ何か話しかけようとすると、その眼はすぐに曖昧なものとなり、視線はぷいとそらされてしまう。きっとヨネはヨネなりに貴男を家族として受け止めようとしているに違いなかった。だから貴男はそのたびに、ヨネが自分に何か話しかけたいことでもあるのかと思ってそれに応じようとするのだが、ヨネは最初の視線とは全く無関係な動作を示してしまうのだった。貴男がさらに呼びかけると、ヨネはぎこちない徴笑をみせたまま、うつむいてしまう。しかし、いまのところヨネとの会話は成り立たなくても、貴男にはなぜだかヨネに安らぎさえ感じていた。家族同士で話しているとき、家の前の畑の手助けをしている折など、ふとヨネの視線を感じることがあったが、貴男はあえてその視線を無視し、ヨネときちんと向き合うときには、決して自分から視線をそらさないようにした。貴男の独りよがりかもしれなかったが、日が経つにしたがって、ヨネの眼から真新しいものを見るといった貴男への懐疑な視線はいつの間にか消えていた。

 ヨネは部屋の隅で竹細工に精を出している老父の傍らに座り、ヨネなりの考えで、父親を助けていた。父親が必要とする道具を選び、 竹くずを丹念に拾い集めるのもヨネの仕事だった。父が長い年月をかけてヨネに仕込んだだけあって、その手際は手馴れたものに写った。それはナオミとて手を出せない、いわばヨネの聖域のようなものだった。ナオミはそのことをよく知っており、たまに後片付けを手伝うことはあっても、ヨネの仕事振りには決して口を出さなかった。父が自分の仕事としている竹細工を始めようとすると、その細工道具、材料の持ち込みなど、そのすべてにヨネは長けていた。父が仕事を始めると、その傍らにいつも座り、父が次に何を求めるのかをじっと眼を凝らして見ていた。何も知らない人がそんな二人の様子を見れば、老いた竹細工職人とそれを支える忠実な弟子との関係に写ったことだろう。それほど二人は寄り添い、日によっては終日作業に没頭していることもあった。今朝は手慰みに父が竹笛を作った。ヨネはそれを与えられ、懸命に吹こうとする。しかし、音は出ない。吹く真似はできるが、微妙な息吹きがうまくできないのだ。それでもヨネは力を入れて何度も音を出そうとする。何度吹いても同じことだった。竹の中を駆け抜ける空音が風の音に混り、まるでそれが部屋の中で何かの獲物を求めて駆けめぐっているように思われた。

 老父の作った笛や、それに類する竹細工を茜村の先にある町の土産物店や雑貨屋に届けるのは行商に出掛けていた弟の仕事だった。しかし、弟が死んでからはそれもできないまま、かなりの品が部屋の隅に放置したままになっている。幸いにも、町の雑貨屋が今日にでも、あかつき村の社地に何らかの品物を届けることになっており、その帰り道にここまで立ち寄ってくれることになっていた。そのことを村人が告げにやってきたのは昨日のことだった。それに伴い、久々の現金収入があると一家は喜んだ。車に便乗できれば、いくばくかの買い物に老父自らが町まで出かけることになっていた。風には雨が混じっていたが、幸いにも雨は小降りになりつつある。しかし、風だけは前にも増して強くなっているようだった。冬から春へ、季節は確実に変わろうとしていた。車に乗せるための竹細工を土間のゴザの上に並べ終え、老父はさらに細工物を吟味している。
 貴男はふとナオミを視る。ナオミはぼんやりとそんな老父の手先を視つめている。その額には汗が薄く滲んでいる。そういえば、先ほどから急激に湿気が増しているようにも思われた。あるいは新たに薪を加えた炉辺の火のせいかもしれない。
「こんな生活なのに、あなたはまだ不溝一ついわないのね」

 貴男の視線に気づいたときナオミはそう呟いた。老父の手が止まり、老いた視線がナオミを捉える。
「私はあなたをこんな生活の中に引き込んでしまったことを後悔しているわ。もうこれ以上、あなたをここに引き留めるどんな理由もないわ」
「ナオミ、なぜ急にそんなことをいいだすんだ。山を越えて帰って行く世界をオレはすでに捨ててきたんだよ。仮にここ以外の場所を求めたところで、同じことだし、形を変えた世間の掟というやつに、やはりオレは縛られてしまうだろう。村がオレたちを拒絶することにももう慣れたさ。いまのオレにはそんなことよりも、オレたちが村を必要としないで生活できる方法をみつけ、ここでの生活をどんなふうに維持していこうかと考えることで精一杯なんだ。それ以外、何も考えてはいないよ。ましてやここを出て行こうということなんか……。そしてそれをつい、いましがた思いついたところさ。オレもお父さんと一緒に町へ行ってくるよ。お父さん、オレも町へ一緒に行ってもいいでしょうが……」
「そりゃ、構わんが、何のために行くのかのう。午前中にはこちらに寄ってくれるという話じゃが、町に着くのは昼過ぎになる。帰りがまた大変じゃ。夜になってやっと帰れるほど歩かなきゃならんぞ」
「お父さんにできて、若いオレにできないこともないでしょうが。構わんですよ。それに買い物の荷物にもよりますが、歩くことはないですよ。帰りは車にしましょう」

 家族全員が貴男を見つめている。その意味を図りかねたのか、ヨネまでが貴男の次の一言を待っているように思えた。「貴男……」とナオミがやっと声を出した。
「そうさ、車を買うんだよ、中古の軽自動車、それもトラック型をさ。それなら安く買えるだろう。中古の安物を買えるぐらいの金はまだある。オレも弟のようにやってみる」
「弟のようにって。商売をするつもりなの。しかし、村では何も売れないわ、村へ行くことすらできないのだから」
「だからこそ、車が必要なんだ。よその村へ行くんだ、車さえあれぱそれもできる」
 貴男はそういいながら、ここにやってきてから初めて、老父が嬉しそうに笑うのを見た。いや、家族全員がだった。だが、ナオミの顔が再び曇った。それを察して貴男はいった。
「だいじょうぶだよ。間違ってもあの道路を突走しるようなことはしないよ」
 その声に、ナオミはやっと満面の笑顔を見せた。

 町で必要なものを買い、貴男と父が帰ってきたのは夕闇の漂う前の時刻だった。父の手には、久々の牛肉があった。貴男の手には、父のための清酒があった。車の中で長く話し合ったのか、父の顔がことのほかほころんでいるのをナオミは見た。すき焼きによるささやかな家族の宴だったが、そのぬくもりは一人一人に料理以上のものを感じさせたことだろう。貴男は久々に口にした酒の勢いで、自分にはなかった家族の暖かさを口にした。幼児期に母と死別、父が迎えた新しい母との折り合いが悪く、高校を卒業するとともに、家出同然で故郷をあとにしたこと。五年ほどで結核を発病、病院に入退院を繰り返したあげく、最終的にはナオミが賄い婦として働いていたサナトリウムで完治し、退院。その一年ほど前に、すでに父は他界しており、のち添えできた義母には子供はなかったことなど。貴男は文字通り、天涯孤独だった。サナトリウムで知り合ったナオミの存在がなければ、いまの自分がどこで何をしていたのか、かいもく見当もつかなかったが、少なくとも家族というぬくもりとは無縁の人生を送っていたに違いない。貴男はそのことだけはどうしても口にしなかった。
 その夜、ナオミが夕刻の出来事を貴男に告げた。すでに父にも話してあるという。
「夕方、二人が帰ってくるほんの前に村から使いがあったの」
 貴男はとっさに、それとなくその内容が想像できた。
「車を買ったらしいが、その車で、間違っても社地やそれに続く道路に乗り入れるようなことがないように十分に心しておくように、との村長からの伝言だったわ。そんなことするわけもないのに……」
 村はすでに、貴男が車を買ったことを知っていた。貴男は天井を見つめたまま、何も応えなかった。(つづく)

■『駆けいでるとき』は15回前後の連載予定です。

『駆けいでるとき』(7)

          7

 ヨネの過酷な運命は貴男の想像をはるかに超えていた。貴男はナオミの話を聞いた途端、しばらくは歩くこともままならなかった。きょうだいとしてというよりも、人として許すことのできない村人の行為だった。ナオミは再び泣いたが、気持ちは貴男とて同じだった。貴男はナオミを抱き寄せた。それ以上はもういいという意思表示だった。それでもナオミはまだ話したげだった。貴男はナオミの涙を拭った。その顔にヨネの顔が重なった。姉妹だから当然だが涙で歪んだ顔はより一層ヨネに酷似していた。
「もういいよ、ナオミ。ヨネさんはオレにとっても姉さんだ。これからはオレもいる。お父さんと二人だけで背負うことはない。オレもその役割を担うよ。そうしようとはもうずっと前から思っていた」
 貴男にはナオミの話から姉のヨネが何らかの障害を背負っていることは承知のうえのことだった。それが些か予想もしない展開を見せてはいたが、だからといってその事実を受け止めるだけの覚悟はあった。貴男にはそれがナオミへの愛でもあり、自分を受け入れてくれた家族に対する思いでもあった。
「ありがとう。でももう少し話させて」とナオミは涙を拭った。その先にどんなおぞましい話が潜んでいるのか、貴男は耳を塞ぎたい思いだった。ナオミの心襞に怒りがこみ上げているのか、その体が激しく震えていた。

「開けてみろや、というのはね。……それは下ばきを脱いで股を広げて見せろってことなの。姉はあんなふうだから、みんなが自分に注目してくれるというただそれだけのために、それからは自分でも率先してやり始めたわ。そうすればみんなが自分を相手にしてくれるということを身をもって体験したのね。ときによっては、声をかけられる前にそうしてしまうほどだった。そのうち、それだけではすまなくなった。姉はたびたび犯されはじめたわ。ひどいときには、茜村からも噂を聞きつけた若者がここまでやってきて、山間で姉を襲い、何度も強姦したことさえあった。姉が外に出ないようにみんなして気をつけていても、いつの間にか抜けでてしまう。母が死んでからも、私はなんども姉の下ばき洗いながら泣いたわ。それがたまらなく嫌で、姉が追いまわされているのを視ると私はいつも叫んだの。『姉をいじめないで、私をどうぞ』って。弟は弟でそんなときにはただがむしゃらに相手に飛びかかっていったけれど、たいていは力負けし、たたきつけられていた。弟があんなことをやってしまったのも、姉が知恵遅れのために、いいように弄ばれているという思いがあったせいだと思うの。弟だって、村のことや、掟の厳しさはよくわかっていたはずだから……。弟は、どんなときも姉を思って必死だったの」
 ナオミは激しく鳴咽した。貴男はこんなことまで話させてしまった自分を嫌悪しながらも、ナオミをどのようにして慰めていいのか、その言葉は容易に見つけられなかった。

 ヨネはまだ四十歳だったが、誰の眼にも五十歳は超えて見えただろう。髪には白いものが目立ち、それだけで十歳は老けて見えた。生まれてすぐ脳の病気にかかり、幼くして「脳性麻痺系の知恵遅れ」と診断されたというが、この村に住んでいる限りは、ヨネを特別な学校には入れようにも、付近にはそれにふさわしい学校もなかった。これが他の場所なら、他に方法があっただろうが、あかつき村のように、茜村外に置かれていた村のこと、普通の子供でさえ、小学校や中学校に行くのには徒歩とバスを使って二時間もかかっていてはとうてい無理なことだった。ヨネを学校に通わすとなると、誰かが毎日つきそわなければならなかった。当時のナオミの家にそれができるはずもなかった。それでもヨネは、子供のころは愛くるしい幼な子だった。村人の誰からも愛され、声をかけられては、顔いっぱいの笑顔を返すのだった。言葉にも障害があり、話せる言葉も限られていた。もし早くからそれを直すための学校に通っていれば、そこまではなかったろうが、ヨネの話せる言葉の大半は、センテンスの短い、幼児語言葉に過ぎなかった。しかし、人々はヨネの病気のことを知っており、少女期を迎えるころにあっても、まだこれといういじめや差別を受けることはなかった。貴男はサナトリウムの図書室で、インドでは身体に障害を持って生まれてきた子供はお釈迦様がその村全員にその子供をお預けになったとして、みんなで大切に育てるという習慣があるという話を読んだことがあったが、そのころまでのヨネもまた、そうであったのかもしれない。しかし、人々の思いやりもヨネが成人するに連れて薄れていった。

 若者のいたずらをきっかけに、ヨネの運命は大きく変わった。不運にもヨネは、まだ二十歳になるかならないかのころ、たてつづけて二回、誰の子供かわからない子を身ごもった。一人は死産だったが、二度目は、その相手を決して明かさない、知ろうとしないという条件で、茜村の人がその子を引き取り、どこかに連れ去った。両親はその子が男の子であったということだけをかろうじて知っただけだった。ヨネがこのあたりについてどれほど理解できているのかは定かではなかったが、自分が子供を産んだという記憶は強く持っており、以後も時折、乳飲み子をあやすしぐさを示したり、近所に子供が産まれると、それが自分の子供だと、相手かまわず抱き取ろうとしたようなこともあったという。いずれにせよ、その父親が誰であるのか、両親はおろか、村人たちにもまったくの不明であった。それが村人の誰かであることは確かなことだったが、調べようにも、ヨネがこの人と指差さない限り、無理な話だった。二人目を生んだとき、ナオミの両親はヨネの不妊手術を医者に頼んだ。医者は建前ではそれを断ったというが、その後ヨネが妊娠することはなかったことを見ると、医者は両親の願いを暗黙のうちに聞き入れてくれたのかもしれない。こうして、ヨネが妊娠することはなくなったが、ヨネが犯されることは以後もたびたび起こった。弟の掟破りもそんなときに起こったのだ。だが、弟が偶然目にしたのは、犯される姉ではなく、逃げ惑う男に半裸体で必死にすがりついていく姉の姿だった。

「ナオミ、もういいよ、そんなことまで、さあ家に帰ろう」
 貴男はナオミの肩を抱いて家に引き返した。ナオミは家でもずっと鳴咽し続けた。鳴咽しながらもナオミはまだ話そうとする。彼女はすべてを話してしまいたかったのだ。貴男はそれがわかるだけに、さらにナオミの心の中の叫び声を聞いたような気がした。しかし、それ以上に言葉は不要だった。すべてのことが容易に納得できた。
「ナオミ、もういいよ。でも君がどうしても話してしまいたいのなら、またあとで聞こう」
 ナオミの老父と姉はすでに家にいて、遅い昼食の準備に取りかかっていた。その間に、落ち着きを取り戻したナオミが父親に告げたせいか、父親が「心配をかけましたのう」と貴男に詫び、自らの口からことのいきさつについて話し始めた。弟についてのナオミの父の話はおおよそ次のような内容だった。
 ナオミと弟は老父のすすめで村を出て暮していたものの、いつまでも二人をそのままにしておくことはできないと、三年ほどして二人は相次いで村へ帰ってきた。弟は毎日行商にでるようになった。オートバイを町まで走らせて、そこで仕入れた乾物やときには湖で獲れた魚を近在の村で売ったりして、生計の足しにしていた。ヨネもナオミの監視のもとでしばらくは落ち着きを見せていた。再び始めたナオミたち村の生活にも新たな道筋が見え始めていたとき、持ち上がったのが社地をめぐる新たな村の動きだった。

 社地と道路の造成が始まって、ナオミたちもその工事に加わるようになった。各家から、一人以上、それに加わることが義務づけられたのだ。ある暑い日、老父が眼を離したスキに、ヨネがいなくなった。老父はナオミを工事現場から呼び、二人はほうぼうを捜した。しかし、ヨネは視つからなかった。夕刻、そのヨネは町から帰ってきた弟のバイクの荷台に乗せられて帰ってきた。弟は湖にいたからと、なぜか二人の心配顔とは対象的に曖昧な説明をした。荷台に乗ったままはしゃぐ姉のヨネを無理矢理降ろした弟の表情をナオミは訝った。ナオミは後で姉の下ばきを調べてみた。案じたとおりだった。姉の下ばきには男の精液と思われる汚れが乾燥しかけていた。弟はきっと、姉が犯されるところをみつけのだ。ナオミはそう思った。しかし、それは半ばそのとおりではあったが、最終的な事実は違っていた。その夜、夜半も過ぎた頃、姉がナオミの視ている前で下ばきを脱ぎ捨てて、弟に抱きかかって行った。弟は眠っていたが、自分に乗りかかってきたヨネに気づくとワッとばかりに声を荒げて姉をつき飛ばした。思わぬ仕打ちに怯えるヨネを弟は苦渋に満ちた顔で視つめながら、ナオミにそのわけを話した。

 町から帰る途中で、彼は湖で泳いでいるヨネを見つけた。ヨネは素裸で泳いでいた。そのそばに、弟の見知らぬ男が上半身裸のままで立っていた。男は湖から引き上げると、衣服をつけた。その男を裸のヨネが追った。弟がそこにオートバイを乗りつけたとき、すでに男の姿はなかった。弟は姉を連れて帰ろうとして、少し離れたところに脱ぎ捨ててあった姉の衣服を手に姉を呼んだ。人前で裸になることに何の躊躇も感じないヨネは、弟の前でも同じであった。彼はそれまで、何度か、姉の裸を見たことはあったが、それはあくまでも姉としてであった。しかし、湖水から飛び出したままの濡れた体のまま駆けてくる裸体は姉であることを一瞬、忘れさせた。しかし、彼はその裸体に眼をそむけながら、着物を着せかけようとした。だが、ヨネはそれに従わなかった。ヨネは突然、着物を着せかけようとした彼を抱き倒した。彼は自分を強い力で押しつけ、馬乗りになって明白に性交することを求めようとする姉を押しのけることがやっとだった。ヨネはその点ではまだ経験のない弟の比ではなかった。ヨネは再び弟の上に乗って、弟の性器を手に自分の体に導こうとした。弟はいい知れない女の業を感じたという。はからずも弟は、慣れない女の裸体に勃起し、すぐに射精してしまったという。まだ女を知らなかったという弟にとって、それはどう考えても、抗弁のしようもない耐え難い結果となった。弟はナオミにそのことを告白すると、自分の行為に改ためて驚愕するかのように、突然、身を振るわして絶叫した。彼は外に走り出ると、オートバイのエンジソを吹かし、猛スピードで走り去った。その弟が、結果的に社地を目差し、それに続く道路を走り去ろうとして行手を阻まれ、谷に落ちたことはあとで知ったことだった。

「弟が死んでからも、私たちの中で、いまも村に自由に出入りできるのは姉だけだわ。姉には掟のことなんてわからない。村人の中にはむしろ姉が行くことを喜こぶ人がいるほどよ。ヨネ、そら開けててみろや、ってね。私たちは姉を決して村に行かせないように見張っているのだけど、いつも監視はできないわ。いまでは声はかけても、あんなに老けこんでしまった姉を犯ず者はほとんどいなくなったけれど……。あんなになってしまうと、誰も相手にしなくなるのね、でも姉が村へ行けばやはり人はいうわ。ヨネ、開けてみろやって……」
 夜、貴男は二人の部屋で初めての満月を見た。月は満々と光を反射し、部屋を仄かに照らしていた。夜空には雲はなかった。貴男が久々に見た美しい月だった。その月明かりの中で貴男はナオミにいった。
「ナオミ、とにかくやってみよう、村が拒絶しても、オレたち四人が協力し合えば、ここでの生活もなんとかなる。オレもなにかやってみるさ」
 ナオミは貴男のかたわらに腰を降ろし、彼に身体を寄せかけた。ナオミの髪から湯の香りと草の香りが混った匂いがした。貴男はナオミの暖かな場所をまさぐった。ナオミはあえて月明かりに股間を示すかのように足を開いた。その刹那、ナオミの股間から再び湯の香りが匂った。ナオミは何もつけていなかった。貴男は湯の香りにうながされるようにそこに顔を沈めた。(つづく)

『駆けいでるとき』(6)

          6

 ナオミが家への道をたどろうとしたとき、貴男はそれをとめ、湖に父親と姉のヨネを迎えに行こうと提案した。ナオミは一瞬怪訝な顔をしたが、貴男の意図を察したのか、神妙な顔をして頷いた。貴男はナオミの案内で湖への道にはいった。ナオミたちが朝早く出かけたという湖は社地を見下ろす丘から三十分ほど下った山間にあった。なだらかな丘陵の道を二十分ほど下ったころ、眼前がいきなり開け、湖の蒼い輝きが眼にはいった。いまの時期は寒ブナと鯉ならさほど苦労しなくても獲れるということだった。二人は湖を眼前にした丘の上から父とヨネを捜したが、その姿はどこにもなかった。蒼い湖には村人しか訪れないという、それこそ名もなき存在だった。さほど大きな湖ではなかったが、今年は多かったという夏の雨水を満々とたたえ、湖面は真昼の日射しの中でかすかな風を受けてさざめいていた。村の田畑はここからの水を受けて枯れることはないという。湖へ流れ込むという小さな川はその位置からは確認はできなかったが、逆にこの湖から流れ出る川の流れは眼にできた。それは貴男がつい先ほどまで小枝を投げていた急流に続いていた。

「ありがとう。私たちを見れば父たちも喜んでくれたと思うわ。でもどうやら一足違いで帰ったのね」
 ナオミは貴男の気持ちに応えるようにそういった。それには貴男はただ、「うん」と応えた。「少し休みましょうよ」とナオミは貴男の体を気遣って腰を下ろした。貴男はそれに素直に従った。いくら体が回復しているとはいえ、着いた翌日の山歩きはさすがにこたえた。ナオミが差し出した水筒の水を音をたてながら飲んだ。美味しい水だった。そういえば家の庭には手動の水汲みポンプがあった。空を見上げると、鷹だと思える二羽の鳥が舞っていた。つがいなのだろうか、二羽は大空をしばらくめいめいで飛んでいたが、やがて太陽に背を向けるようにして揃って西の空に向かい、すぐに見えなくなった。
「寒くない、大丈夫」。ナオミが心配げな表情で貴男に訊いた。
「ああ、まだ熱いくらいだ。さすがに歩き回るとまだこたえるね。でも、大丈夫だよ。そんなに心配するなよ。ナオミが心配し続けると、こちらまで、かからなくてもいい病気になっちまうよ」
 そんな貴男のいい方がおかしかったのか、ナオミがクスッと笑った。そのかすかな表情の変化に、貴男はやっと救われたような気持ちになった。だが、そのナオミが突然のようにまた口を開いた。

「ごめんなさい。おかしな村にきてしまったと思っているでしょう。ほんとに申しわけないわ。でも、あなたをだますとか、誤魔化すといった気持ちはなかったのよ。あなたがもう聞きたくないという気持ちもわかるの。私だってあまりこんな会話をたびたびはしたくない。でもこれが日常でもあるのよ。だから、訊きたいことがあったら、何でも聞いて欲しいの。もうどんなことだって隠すつもりはないの」
 ナオミの表情に、最前までの物憂げな風情は失われていた。そのかわりに顔にはいっさいを観念し、そのすべてを話そうという決意がみなぎっていた。だが、ナオミがそういったところで、貴男にはそれ以上に訊きたいと思うことはなかった。そのことを眼で訴えたつもりだったのに、ナオミは自ら頭を振り、貴男の言葉をじっと待った。しかし、貴男にはその気持ちはあまりなかった。いずれすべてがわかることだし、これ以上にナオミを悲しませ、傷つけることはないと思った。貴男は座ったままの姿勢で、そっとナオミを抱いた。ナオミは素直にそれを受け入れ、貴男に向き合う形で貴男の脚に跨った。
「ごめんね、貴男」。貴男の求めで口を吸ったあとで、ナオミがいった。その熱い思いに応えたのは、むしろ貴男の体だった。ナオミはほどなく貴男の股間に自分を沈めた。その瞬間、久々に感じるナオミの熱いほとばしりがかすかに音をたてた。その音をかき消すかのようにナオミは激しく腰を揺すった。

 二人は今度は違った道をたどりながら家に急いだ。もしかして父が心配し、ナオミたちのように二人を捜しているかもしれなかった。案の定、道の途中で父とヨネに出会った。やはり探しに出ていたのだ。貴男はナオミの父に魚の礼をいうとともに心配をかけたことを詫びた。父は「とんでもないことです」と慌てて手を振り、自分たちが遅かったからだと、むしろ自分たちを詫びた。貴男は嬉しかった。自分の家族はもうこの人たちをおいていないのだと、改めて思った。父とヨネに先導されながら、貴男は少し遅れながらも二人のあとを追った。そんな貴男に連れ添いながら、ナオミが再び村のことを話そうとする。いったんは耳をふさいだつもりの貴男だったが、父たちの後ろ姿を見ながら、この際、聞くことは聞いておいたほうがいいのかもしれないという気持ちになっていた。先ほどの父親の優しげな眼差しに、この家の家族になったという思いがそう思わせたのかもしれない。二人は少し歩をゆるめた。父親が心配して一度ふり返ったが、ことの成り行きを察したのか、早足に林道の向こうに姿を消した。

「この村はいままでに、どんな地図にも記されたことのない寒村だったのよ。あかつきという名は、茜村に対抗していつのころからかつけた名前よ。いまでこそ、郵便物はあかつき村で届くけれど、以前は、“茜村外あかつき”とされていたわ。村の存在そのものが茜村の人にさえ認められていなくて、事実上いまも、正式にはあかつき村という村は存在していないのよ。けれど、あの社地が完成し、そこにお社か何かが建てられると、この村は一躍名を売ることになると村長たちはいっている。そこには私たちがすぐそばでは顔さえ視ることもできない高貴な人が時折やってくるということなの。社の運営はその高貴な人の世話人が司ることになるのだけれど、そこから命じられるすべての仕事の采配は村長に委されているのよ。社が完成すれば、村人全員が社のための仕事に就くことになっているわ」
「しかし、それにしても、田畑は村の命だろう。それを捨ててしまうことはないのだろうに……」
「私たちも最初そう思った。ところが社が建設されるまで、社地や道路を決して汚してはならず、田畑に出る暇があれば全員で掃除し、見張れということなの。もし社地や道路が高貴な人がくるまでに汚されるようなことがあると社地にはどんな建物も建つことはない、村あげてこの二つを汚れから守れと、高貴な人が直接村長に申しつけたということだわ。だから社地にお社が建つまでは勝手な真似は許されないのよ。村の掟はいますべて、社地と道路に向けられているの。その手当もちゃんと出ているのよ」

 だからといってナオミたちがそんなに簡単に村を追いだされていいはずはない。それに自分さえもが村を歩くこともできないなんて、いまこの時期にそんなことが許されるはずはない、と貴男は思った。
「その掟を変革することは誰も考えないのかい。あるいは自分はそんな仕事はいやだという人は……」
「掟は前にも増して絶大さをきわめているわ。村全体にとって、不利と判断されることは、一人や二人の考えではどうにもならないのよ。もちろん、そんな掟をどうにかしようと考える人はいたわ。たいていは弟のように、一度この村を離れてまた帰ってきた人に多いけれど、掟を破ったときの怖さを考えると、結果的には中途であきらめてしまう。もちろん、中には掟に従わず、それを実行しようとする人もいた。しかし、そんな人も結局は掟どおりに村から出て行くことになるの」
「なんといわれようが、村に居座ったらいいではないか」
「そうはいかないのよ。その人の家に、突然、火がつけられることもあるし、弟のように、当事者がなんらかの形で事故死することになる。それも、決して誰の仕業かわらないように。村の掟破りはそれほど容赦のない過酷なものなのよ」

 聞けば聞くほど不可解な村の有り様だった。恐らくたいていの村人の家族が一度や二度、この村から出て行ったことだろう。中には二度とここには帰ってこない人たちもいただろうが、どうやらそれだけでもなさそうだった。そのときちょうど、二人の眼前の林の向こうにあのアスファルト道路が見えた。
「掟に従って村を離れた人たちの、どれくらいの人が一年経ってから、この村に帰ってくるんだ」
「たいていの人たちは帰ってきたわ。そのときはもう誰も決して前のことに触れたり、差別することはない。それも一つの定めであって、きびしく守られているわ。だからたいへいの人が帰ってきた。知らないところでの生活は決して楽ではない。都会での生活に疲れ、ここに帰ればという人が多かったの」
「その人たちの生活は?」
「三年以内なら元通りになるわ。田や畑だって、返してもらえる。村を出て三年以上経っている場合は、新たな土地を自分の手で開墾し、家も建てなければなければならないけれど、それもまたみんなして手伝ってもらえるから、いつの間にかまた村人として同化できるの」
「でも、君たちがそうする理由もないだろう。君は他での生活を経験しているのだし、完全に出てしまえばよかったんだ。きっと姉さんのことからだと思うけれど、お父さんと姉さんを連れていけばいいじゃあないか。君だって、町の療養施設で働いていたんだ。姉さんを町の施設であずかってもらえるということもできたはずだ。それぐらいのことはわかっていて、なおも村に帰るなんて考えられないよ」
 ナオミは頭をふった。そのまましばらく思いつめたように何もいわなかった。

「私たちには姉を村の外に連れ出すことはできなかったわ。あなたはまだ姉のことを本当に知っていないからそう思ってくれるだろうけれど、姉はただあんなふうなだけではないのよ。生まれついたときから知恵遅れだったというけれど、姉は私たちが家族であるということ、父や母に愛されて育ったということはそれなりによく知っているわ。父は母が死んでからは、姉を自分一人で抱えたまま、私と弟が村を出ていくことを承知した。でも、私と弟はそのことがいつも気がかりだった。結局、私も弟も村に帰ってきてしまった。どこで何をしていても、いつも父と姉のことが気がかりだったためよ。掟のことをのぞけば、村での生活は貧しくとも平穏だし、贅沢をいわなければ、それなりの生活ができる。私も弟もあこがれた町での生活が結局は何ももたらされないということを知ったとき、やはり村で暮らそうと思った。これは私だけに限ったことではなく、多くの村人が繰り返してきたことでもあったのよ。姉は生まれつきあんなふうだったわ。今ではすっかり老け込んでしまっているけれど、私と五つも年が違わないのよ。近頃の姉は年齢とは無関係にますます老け込んでいくわ」

 貴男の脳裏にヨネの姿が浮かんだ。貴男がここにやってきてまだ二日しか経っていないせいもあるだろうが、貴男の眼にもヨネがいわゆる健常者でないことはすぐに見てとれた。ナオミがそのことを隠していたわけではない。サナトリウムでそのことはすでに聞いていた。詳しく話そうとするのを貴男がとめたのだ。ただそれだけのことで、ナオミが姉の存在を隠そうとしていたわけでは決してなかった。
「以前、姉がまだ年相応に若やいでいたころ、一日中それが日課のように、村を歩き廻っていたわ。そのうち、それだけではすまなくなった……。ある日、年頃になった姉を見て、子供たちがあるいい方で声をかけるようになってから、姉の存在はまったく違った好奇の対象になってしまった。ある日、若者の一人が姉の背後に回っていきなり姉の下ばきをずり降ろした。そうされても、姉は剥き出しにされた下半身を隠そうとはせず、姉はむしろ自分が注目を浴びていることに満足して、そのままで笑っていた。みんなそれを見て笑ったわ。見るに見かねて村人がそれをやめさせるまで、姉はそのままでみんなの注目を浴びていた。それからというもの、子供たちは姉を見るとこう声をかけるようになったのよ。『そらヨネ、開けてみろや……』って」(つづく)

■『駆けいでるとき』は15回前後の連載予定です。

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.
ゆうやけ・こやけ
ゆうやけ・こやけ
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

ブログバナー

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事