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以下の記述は、望月五三郎 『私の支那事変』(1985年)42頁以下の記述より引用するものである。
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線路に沿って西へと進む。無錫の手前8kmあたりで、敵の敗残兵約2ケ中隊に遭遇し、激戦の末、約30名を捕虜にする。敗走する敵は無錫へとのがれた。
無錫は工業都市であるが戦下の無錫の煙突の林立には煙一つ昇っていない。曽つての煤煙であたりの建物はどす黒く染って陰気な街である。
速射砲が敵陣の壁めがけて発射された。速射砲とは発射すると直線で弾がとぶ。発射音と同時に、ドン、ドカン瞬間にはもう弾は壁を砕いている物凄い破壊力である。
引き続き野砲の援護射撃が始まった。その間に中隊は前進する、援護射撃は有難いが、観測を誤ったのか、我々をはさんで前と後に落下する。そしてその間隔がだんだん我々に近づいてくる。鯖中隊怒り心頭に達する。
やがて砲撃はとまり、敵は常州方面へと退却した。
常州へと進撃する行軍中の丹陽附近で大休止のとき、私は吉田一等兵と向ひ合って雑談をしていると、突然うーんとうなって腹をおさえながらうずくまった。流弾にあたったのである。
「おい吉田」と声をかけたが返事がない、死んでいるのである。即死であった。もう五寸位置がちがっていたら、私にあたっていたのである。私はほんの五寸前で死んでいった吉田一等兵をこの目で見た。葬るにも時間がない。衛生隊にお願ひして、心を残しながら行軍に続いた。
このあたりから野田、向井両少尉の百人斬りが始るのである。野田少尉は見習士官として第11中隊に赴任し我々の教官であった。少尉に任官し大隊副官として、行軍中は馬にまたがり、配下中隊の命令伝達に奔走していた。
この人が百人斬りの勇士とさわがれ、内地の新聞、ラジオニュースで賞賛され一躍有名になった人である。
「おい望月あこにいる支那人をつれてこい」命令のままに支那人をひっぱって来た。助けてくれと哀願するが、やがてあきらめて前に座る。少尉の振り上げた軍刀を背にしてふり返り、憎しみ丸だしの笑ひをこめて、軍刀をにらみつける。
一刀のもとに首がとんで胴体が、がっくりと前に倒れる。首からふき出した血の勢で小石がころころと動いている。目をそむけたい気持も、少尉の手前じっとこらえる。
戦友の死を目の前で見、幾多の屍を越えてきた私ではあったが、抵抗なき農民を何んの理由もなく血祭にあげる行為はどうしても納得出来なかった。
その行為は、支那人を見つければ、向井少尉とうばい合ひする程、エスカレートしてきた。
両少尉は涙を流して助けを求める農民を無残にも切り捨てた。支那兵を戦闘中たたき斬ったのならいざ知らず。この行為を連隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した。そしてこの百人斬りは続行されたのである。
この残虐行為を何故、英雄と評価し宣伝したのであらうか。マスコミは最前線にいながら、支那兵と支那農民をぼかして報道したものであり、報道部の検閲を通過して国内に報道されたものであるところに意義がある。
今戦争の姿生がうかがえる。世界戦争史の中に一大汚点を残したのである。
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1937(昭和12)年12月13日付『東京日々新聞』
【紫金山麓にて12日浅野、鈴木両特派員発】
南京入りまで"百人斬り競争"といふ珍競争をはじめた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌少尉は10日の紫金山攻略戦のどさくさに106対105というレコードを作って、10日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。
野田「おい俺は105だが貴様は?」向井「おれは106だ!」...両少尉は"アハハハ"結局いつまでにいづれか先に100人斬ったかこれは不問。結局「ぢゃドロンゲーム」と致そう。だが改めて150人はどうじゃ」と忽ち意見一致して11日からいよいよ150人斬りはじまった。11日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩り真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語ってのち、知らぬうちに両方で100人を超えていたのは愉快じゃ。俺の関の孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢゃ。戦いが済んだらこの日本刀を貴社に寄贈すると約束したよ。11日の午前3時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶり出されて弾雨の中を「えいままよ」と刀をかついで棒立ちになっていたが、一つもあたらずだ。これもこの孫六のおかげだ。 と飛来する敵弾の中で106の生き血を吸った孫六を記者に示した。
1937年11月30日付東京日々新聞朝刊(第1報)
(見出し)百人斬り競争! 両少尉、早くも八十人
(本文)【常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発】常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある、無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。
無錫進発後向井少尉は鉄道路線廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた 。
その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。
向井少尉 この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ。
野田少尉 僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ。
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