イングリット・フジコ・ヘミング・チャリティコンサート企画準備室

旧奏楽堂重文指定20周年を記念したイベント企画のブログです。

旧奏楽堂について

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旧奏楽堂のパイプオルガンについてご紹介いたします。(「温故知新 〜はるもにあ」(2004.09.03プログラムより。一部修正。)
なお、現在旧奏楽堂のパイプオルガンの一般貸出は行っておりません。(旧奏楽堂主催の日曜コンサートの時のみ演奏を行っています。)本企画第一部でのオルガン演奏は、台東区芸術文化財団と旧奏楽堂の特別許可のもとで使用致します。

旧東京音楽学校奏楽堂パイプオルガン


 これほどの紆余曲折を経て、現在も生き続けている価値あるパイプオルガンが他にあるだろうか?誕生したときから波乱万丈という宿命を背負った楽器なのかもしれない。
 数々のオルガニストによって弾かれてきて、現在もやさしい音を響かせるそのパイプオルガンが、“活き”続け永遠に音を響かせるために、今、再考されようとしている。

名器シュルツェのオルガン・・
 昭和60年、奏楽堂の上野公園移築の際、形だけの保存が決定していたパイプオルガンに、東京藝術大学オルガン科教授(当時)、秋元道雄氏はそのルーツ解明を試み、「ロンドンの万国博覧会(1851)に出品されたシュルツェのオルガンではないか」と論証、パイプオルガン保存運動に拍車をかけた。こうして、今宵もその音楽を聴くことができる。
 「私の推論が当たっていれば、日本にもこの貴重なシュルツェ・オルガンが現存することになる。奏楽堂のパイプオルガンは、日本初のコンサート用オルガンとして、また日本洋楽史をたどる重要なオルガンとして以上の、新たな文化的価値を付
与されるのである」。(『よみがえれ!パイプオルガン』)。
 シュルツェ工房(ドイツ)は、18、19世紀にヨーロッパ、主にイギリスでオルガンを制作し、「ドイツとイギリスのオルガン建造界に与えた影響はかなり大きい」とニューグローヴ大事典に記されている。中でも一族のエドモンド・シュルツェは「特にイギリスでは、ハイド・パークのロンドン万国博覧会 (1851) に出品した小オルガンと、ドンカスター教区教会に建造した大オルガンで成功を収めた」(同事典)。
 秋元教授はパイプスケール(大きさの比率)、ストップ(音栓)表を比較検討、細微に渡って可能な限り資料調査を行い、ドイツの大オルガン学者ハンス・クロッツに「完全に申し分のない証拠」を挙げたとその論証を評価された(1985.6.6)。氏の指摘が正しければ、この旧奏楽堂オルガンは特に名工と評価されるシュルツェが、成功に全霊を傾けたと考えられる「博覧会オルガン」、ということになる。パイプのシュルツェ・サイン、その他ヨーロッパに眠っているかもしれない決定的証拠発見に期待したいところだ。
 この「博覧会オルガン」、会後12月にノーザンプトン小麦取引所に420ポンドで設置、その14年後同地タウンホール寄贈、3年後に同ホールに移設。1869年には拡大改造され、1890年にはホール拡大のためにオルガンは取り外された。1905年まで3つの倉庫に保管されていたと推定され、さらにパイプが1906年バターズフィールド(リーズから16km)に30ポンドで売却されている。これが日本に来たのだとすれば、すでにこの時点で60年以上にわたって3度の解体、再設置、保管という過酷な状況で生き続けてきたことになる。
 徳川??貞候がリーズのアボットスミス社にパイプオルガンを発注したのは、1914年(大正3年)のことであった。

徳川??貞候と南葵楽堂
 明治期より紀州徳川家は、文化面に非常に理解を示していた。徳川??倫(よりみち)は、日本初の私立公開図書館である南葵(なんき)文庫を開く。その子??貞(よりさだ)は近代音楽に傾倒、パイプオルガンをイギリスに注文し、大正7年、麻布に南葵楽堂を建設した。
 「パイプ千五百余本鍵盤三個ストップス四十個七馬力半の電気動力を以て送風するオルガン」(『南葵文庫概要』)は、注文から6年経った「大正九年七月三日」に「無事本邦」に技師付で到着。当時日本にはすでに数台のパイプオルガンが造られていたものの、数箱に分けられた無数のパイプが積まれている状況、すなわち「楽器」とは程遠い姿を見て、入国監理は何と思ったであろうか。もう少しで建築の材料などと勘違いされ一つ一つに税がかかるところであった。あわてた??貞候の説得で「教育品」として無税となり、「パイプオルガン」は無事入国した。
 明治期より日本では、洋楽の広まりとともに少しずつオルガンは関心を持たれるようになっていた。リードオルガンを中心に教会などに設置され、東京音楽学校などから奏者が輩出されていた。このような状況を背景に、当然のごとく大正期東洋最大のオルガン設置は人々の関心ごととなる。5ヵ月の設置期間ののち行われた11月の披露演奏会場の外では、警官派遣、青年による鉄柵乗り越えという騒ぎが起きていた。
 しかし、注目のオルガン設置からわずか3年後の大正12年9月1日、関東を大地震が襲う。南葵楽堂は犠牲となった。他の数々の文化遺産と同じくこのパイプオルガンも破損し、生存の決定的危機を迎えたのである。

パイプオルガン保存運動 〜台東区へ譲渡、上野公園移設
 奏楽堂運動が功を奏し、東京藝術大学より台東区へと奏楽堂の譲渡が決まった(本日の公演参照)。上野公園移築決定に従い、昭和 59 年、その工事が着工すると「本来の復元にはパイプオルガンの復元も必要だ」という考えが関係者の中に生じた。しかし、台東区へ譲渡話が来たとき、パイプオルガンの再生の話は入っていなかった。そのため区の財政にオルガン再生のための予算は組み込まれていなかったのである。
この予算を生み出すには、議員の説得、ひいては世論の同調が必要とされた。秋元氏の調査により「価値あるオルガン」と再認識されたのも流れを後押しし、「 奏楽堂のパイプオルガンをよみがえらせる会 」 が発足したのである。
 徐々にこの保存運動はマスコミなどを通じて知られるようになった。それは、特に地元谷根千地区、学生などに共感を呼び、住民による自発的な募金活動へとつながっていった。主婦の仰木ひろみ氏(地域誌『谷根千』編集)などが中心となり、
パンフレット「よみがえれ!パイプオルガンー永遠に響け上野の杜に」が編集発行され、その理念がパンフレット購入を通じて知られるようになった。一口 2500 円の募金総額は 1050 万円(うちパンフレット 33 万 6150 円)、これはオルガン修理費として区長の手に渡されたのであった。
 内山榮一台東区長(当時)は、「奏楽堂は保存も大切だが、運営はもっと大切だ」と “ 使われつつ保存する ” 動的な文化財に決意を語ったとされる(『上野奏楽堂物語』)。

多くの「価値」を後世に語るオルガン
 平成 15 年 12 月、演奏会中にオルガンの「 鳴りっ ぱなし事故 」 が起きた。この事件は、古く不安定な楽器の活用に躊躇を生み出してしまった。今年4 月よりオルガンの日曜コンサートは復活したが、以来一般への貸し出しは原則として取りやめになっていた。本日は前野氏・主催者の強い説得によってオルガンビルダーが付き添うことで使用が許された、条件付特別貸出日なのである。
 過酷な状況にあった古い楽器が蘇って、ここまで演奏可能な状態で来たことは、関係者の努力にただただ脱帽である。しかし、使用しないことが必ずしも楽器に良いことではないことと考えると、現状は懸念すべき事態といわざるを得ない。 昭和 3 年当時の設置に依拠する現在の復元の形。このときの設置自体に加え、長期的維持の展望が必ずしも良くない今の状況を分析し、“ 使われる ”文化財だからこそ特殊である問題も踏まえ、さまざまな観点からより良いオルガンの方向性を再検討する必要があるだろう。最近、この動きが東京藝術大学のほうで起きてきている。その働きかけは、この紙面を記す私にも届いた。
 84 年前、はるばるとイギリスから日本にやってきた楽器。生存危機を乗り越えた楽器。「古いものを大切にすること」を再認識して人々が守った象徴的楽器。この旧奏楽堂パイプオルガンは、単にメモリアルであるだけでない、多くの「価値」を内包した語り継がれるべき楽器なのである。

鈴木千帆
東京藝術大学音楽学部楽理科卒、同大学院音楽学専攻(西洋音楽史)修了、現東京藝術大学楽理科非常勤助手。専門はパイプオルガンを中心とする鍵盤音楽史。音楽学を角倉一朗、土田英三郎、オルガンを植田義子、ブライアン・アシュレイ、 同建造法を廣野嗣雄等に師事。

※1月24日(木)午前10時半より、旧奏楽堂において、本企画第一部でオルガンを演奏下さる湯浅照子先生が調査とメンテナンスのため、オルガンの演奏を行います。正式な演奏会ではありませんが、当日は一般公開日ですので、どなたでもご入場いただけます。旧奏楽堂のパイプオルガンの音色を聞いてみたいという方は、是非この機会に足をお運び下さい。

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