イングリット・フジコ・ヘミング・チャリティコンサート企画準備室

旧奏楽堂重文指定20周年を記念したイベント企画のブログです。

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当日プログラムより

当日のプログラムに、鈴木千帆さんからご寄稿をいただきました。


旧東京音楽学校奏楽堂の保存運動

 東京芸術大学美術学部、東京都美術館とに隣接する旧東京音楽学校奏楽堂。このわが国最古の西洋音楽の殿堂が今ここにあることが、数々のドラマが繰り広げられた結果であることを、皆さんはご存知でしょうか。奏楽堂が重要文化財となって20年。その経緯を振り返ってみましょう。

● 明治村への移転・・・
旧東京音楽学校奏楽堂は、1890年(明治23年)、東京芸術大学構内にある現在の新奏楽堂の地に建設された日本最古のコンサートホールである。数々の初演、記念的公演を行ってきた、まさに当時の西洋音楽流入のメッカであった。1928年(昭和3年)にはパイプオルガンも設置され、著名な演奏家を含む卒業生を世に送り出していった場なのである。
しかし戦後、東京音楽学校が東京芸術大学音楽学部になるころには、建物の傷みが目立つようになってきていた。昭和30年代には歴史ある木造建築は老朽化による危険と隣りあわせとなっており、パイプオルガンも使用不能になった。学生数の増加、オーケストラの大型化に対応しうる大きく新しいホールがほしいというのは、音楽学部の多くの教官たちの共通する願いとなっていく。昭和41年、東京芸術大学では新奏楽堂の建設計画が持ち上がった。一方で、旧奏楽堂は昭和46年4月の文部省実態調査で危険建造物と認定され、取り壊しの危機に直面することになったのである。
昭和47年5月30日、愛知県犬山市の明治村より、東京芸術大学の当時の学長、福井直俊に、歴史的建造物である奏楽堂を無償で譲渡してほしいという文書が届いた。喜んだ音楽学部は新奏楽堂建設計画を開始したのである。

● 奏楽堂が現地にあることの意味
新奏楽堂建設計画は、音楽学部の最重要事項として旧奏楽堂の解体計画と共に進められた。
しかし、かねてより構内の建造物の取り壊しの危機を感じている教官がいた。当時美術学部建築科助教授であった前野まさるである。前野は大学院で明治建築について学び、明治建築の宝庫である芸大構内の建造物の価値を学内に説いていた。手狭になった芸大構内には建物がひしめき合い、常に古い建物は取り壊しの危機にさらされていたのだ。赤絵煉瓦書庫(旧教育博物館書庫)もそのひとつであった。
前野の姿勢に共感した美術・音楽の学生有志たちが自発的に署名運動と書庫の取り壊しを報じた新聞記事で、赤煉瓦書庫は危機一髪で守られた。昭和51年11月のことである。そういった機運を背景に、音楽学校の歴史の証言者としての奏楽堂を現地に残そうという動きは、構内でも静かに始まっていた。
昭和54年9月、芸大は奏楽堂明治村移転に関し具体的協議を始めた。これに対し、10月16日、日本建築学会は奏楽堂の現地保存を望む要望書を、東京芸術大学長、文部大臣、文化庁長官に提出。同月29日、東京芸大出身の著名音楽家7人(芥川也寸志、岩城宏之、江藤俊哉、中山悌一、林光、黛敏郎、森正)が連名で学内保存を要求する要望書を同じく東京芸術大学長、文部大臣、文化庁長官に提出した。「奏楽堂保存運動」が始まったのである。

● 奏楽堂保存運動
東京芸術大学は、このような事態になることを想定していなかった。数年がかりの新奏楽堂建築計画が頓挫するのを懸念した大学は、「構内に残すことは不可能であり、やむを得ず他に移築・保存するのだ」と解答した。
しかし、「奏楽堂を救う会」結成の呼びかけに賛同し、昭和55年2月の時点で入会を申し出た人の数は1700人を超えた。世論は完全に保存側であった。音楽学部内では民族音楽学者の故小泉文夫と作曲家の故松村禎三が前野と共に早くから旧奏楽堂の学内保存を呼びかけていたが、世論の動きを切っ掛けに学内にも賛同者が現れ、芸大は内部でも割れ、混乱することになる。
学生たちも賛同し、保存運動を始めた。学友会執行部は「移築についての説明会」を催し、「学内保存を」と訴えたチラシを学内に撒いて、徐々に理解を広げていったのである。

● 台東区長の決断
 理解が理解を呼び、日に日に「現地に保存を」という論調は強くなっていった。新奏楽堂建設計画を死守したい芸大は強硬な姿勢を取ることになり、世論が後押しする「奏楽堂を救う会」と完全に対立することになってしまった。昭和55年7月、新奏楽堂建設予算を盛り込んだ「昭和56年度概算要求書」に「新奏楽堂建設は悲願」と記して政府に提出。しかし、この予算はペンディングとなってしまう。奏楽堂問題は暗礁に乗り上げてしまった。
そこへ、翌年7月当時台東区長であった内山栄一がこの問題を知るや否や、「台東区の奏楽堂を台東区から出さない」と言明し、台東区が奏楽堂を引き取るという提案を東京芸術大学に持ちかけたのである。芸大が喜んで受け入れたのは言うまでもない。
内山は当時の都知事鈴木俊一にも働きかけ、理解を求めた。区内とはいえ東京都に属する上野公園移築という案にはさまざまな制約がかかってくるからだ。この問題は文化財に指定されることが条件で解決することになり、移築費用の負担も台東区が行うこととなって、解決を見ることになる。区長の英断である。
一時は取り壊しの危機にさらされた奏楽堂であったが、東京芸術大学にほど近い地に、“活用される”国の重要文化財として移築復元されたのである。昭和62年3月のことであった。
昭和58年7月12日、保存運動の功労者たちのサインと共に色紙に記された言葉は美しい。「奏楽堂は永遠である」。

● 蘇ったパイプオルガン
奏楽堂ステージ正面に備え付けられているパイプオルガンは、1920年に徳川頼貞侯イギリスのアボットスミス社から購入し、麻布の南葵楽堂に備えた日本最古の本格的なオルガンである。ニューマティックアクションを有する日本では珍しい機構を持った価値あるオルガンであるが、関東大震災を経て、昭和3年に南葵楽堂より東京音楽学校に移設されたときから、奏楽堂のシンボルであった。しかしこのオルガンは上野公園移築が決まったとき、「形だけの保存」が決定していた。奏楽堂保存運動の際、この価値ある「パイプオルガンも残そう」という機運が高まり、「奏楽堂のパイプオルガンをよみがえらせる会」が結成された。市民が結集し、理解を呼びかけるパンフレットが製作され、募金活動が行われた。その結果、区が(有)マナ・オルゲルバウに委託する形でオルガンも復元が決定した。活用され続ける文化財としてパイプオルガンも見事に蘇ったのである。

● 共存できた「ふたつの奏楽堂」
東京芸術大学が「悲願」していた新奏楽堂は、平成11年に落成した。当初と異なる形となったが、音響の良いホールは学生・教員に活用され、演奏は広く公開されている。現在このような形で新旧ふたつの奏楽堂が共存できる状態になったのは、このようなさまざまな人々が織り成す理解の結集があってこそだったのである。
文化とは理解する人がいて財となり、大切にされ、次世代へと伝承されていく。「モノを大切にする文化象徴」となり、歴史の生き証人となった台東区立旧東京音楽学校奏楽堂。見事に蘇ったアボット・スミス社のパイプオルガンとともに、これからも末永く見守っていきたいものである。
 

鈴木千帆(音楽学、鍵盤音楽史)


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