イングリット・フジコ・ヘミング・チャリティコンサート企画準備室

旧奏楽堂重文指定20周年を記念したイベント企画のブログです。

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当日のプログラムより

台東区立旧東京音楽学校奏楽堂 重要文化財指定20周年記念
イングリット・フジコ・ヘミング・チャリティコンサート

◆ 第一部 旧奏楽堂にまつわるミニレクチャー&オルガン演奏 ◆

J. S. バッハ (1685-1750)
・ カンタータ第147番 BWV147より第10曲《主よ、人の望みの喜びよ》
M. レーガー(1873-1916)
・ オルガンのためのコラール前奏曲 作品47-1《神よ、我を顧みたまえ》
J. S. バッハ (1685-1750)
・ トッカータとフーガ 二短調 BWV565

講演:前野まさる オルガン演奏:湯浅照子

◆ 第二部 ピアノ演奏 ◆

D. スカルラッティ (1685-1757)
・ ソナタ ホ長調 K.380 (L.23)
・ ソナタ ハ長調 K.159 (L.104)
F. ショパン (1810-1849)
・ ノクターン 作品9-1 変ロ短調
・ バラード 第1番 ト短調
・ 3つの新練習曲より 第1番 へ短調
・ 練習曲より 作品25-1 《牧童》 作品10-3 《別れの曲》
作品10-12《革命》

――休憩――

I. アルベニス (1860-1909)
・ 《スペイン組曲》作品47より 第5曲〈アストゥリアスーーレイェンダ〉
F. リスト (1811-1886)
・ 《春の宵》 S.568(原曲・シューマン)
・ 3つの演奏会用練習曲 S.144より 第3番 《ため息》
・ 巡礼の年 第1年:スイス S.160より 第4番 《泉のほとりで》
・ パガニーニによる大練習曲 S.140より 第6番 《主題と変奏》
第3番 《ラ・カンパネラ》


ピアノ演奏:イングリット・フジコ・ヘミング

イメージ 1

昨日4月9日の「イングリット・フジコ・ヘミング・チャリティコンサート」は、おかげさまで無事終了いたしました。満員御礼の会場が沸き返る、素晴らしい演奏会となりました。これもひとえに、ご来場いただきました皆様のおかげです。本当にありがとうございました。

お客様アンケートの集計が終わりましたら、このブログでも集計結果の一部をご紹介したく思っております。

当日配布しましたプログラム掲載の文章を、本ブログ上にて公開いたしました。是非、ご一読ください。
 →http://blogs.yahoo.co.jp/zbevent/folder/677115.html

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当日のプログラムより


台東区立旧東京音楽学校奏楽堂奏楽堂
重要文化財指定20周年チャリティコンサートによせて
ごあいさつ
平成20年4月9日
東京芸術大学名誉教授 前野 まさる

 本日は台東区立旧東京音楽学校奏楽堂の重要文化財指定20周年記念チャリティコンサートにお越しいただいて有り難うございます。
 奏楽堂は昭和63年(1988)1月13日に国の重要文化財に指定を受けて以来、本年で20年目を迎えます。憶えば、奏楽堂は明治23年(1890)に建てられた東京音楽学校の講堂で、階段状の客席を持つ日本最初の音楽ホールで、多くの演奏家が初舞台を踏んだ記念すべきホールです。また、東京音楽学校、東京芸大音楽学部の研究と教育の精神的ルーツでもあります。音楽学校で勉強した学生にとって、奏楽堂は入学試験から卒業演奏まで様々な想い出がホールに染み込んでいるものと思います。こうした想い出深い場所は、その地に在ってこそ、その歴史と地域の文脈をたどることが出来るのです。そのものがその場所から失せると、その歴史も記憶も失せてしまいます。
 そうしたことを理解した芥川也寸志、黛敏郎などの音楽学校の卒業生が昭和55年(1980)に「奏楽堂を救う会」を発足させ保存運動を始めたのです。芸大と「奏楽堂を救う会」とが対立する中、こうした壁を取り除いたのが「台東区の文化財は台東区からださない」と宣言した元台東区区長の内山栄一さんです。この一言で流れが大きく変わり上野公園内保存の道が開かれたのです。そして、遂に奏楽堂は昭和63年(1988)1月13日、晴れて重要文化財建造物に指定されたのです。
 この記念すべき20周年記念チャリティコンサートにご出演願える方は、フジコ・ヘミングさんで、親子二代にわたって東京音楽学校で勉強され、奏楽堂には人一倍多くの想い出をお持ちの方です。今回のチャリティコンサートは、フジコ・ヘミングさんのお許しを得て、会費の一部を奏楽堂の維持費にご寄付させて戴くようにいたします。皆様のご協力をお願い致します。

当日のプログラムより

 昨夏、作曲家の松村禎三氏が他界されました。奏楽堂保存運動から二十余年。徐々に、この保存運動のことを知る人は少なくなっています。そんな中、前野教授は今も足繁く奏楽堂に通い、事あるごとに奏楽堂の歴史、保存運動の物語を語り続けています。退官後も大学を問わず学生たちを連れ歩き、街の歴史を説くその姿に、私たちZBイベント実行委員会は多くを学びました。今回のコンサートの実行メンバーは、そんな前野教授の教え子、奏楽堂保存運動を知らない世代です。
 奏楽堂物語は未だ終わっていません。老朽したパイプオルガンは各所が機能せず、鳴りっ放しも度々。大抵のオルガニストは敬遠し、奏楽堂主催の日曜コンサートで芸大生が弾く他は、一般への貸出は事実上中止の状態です。今回の企画は、そんな奏楽堂の歴史と現状を“伝える” 私たちなりの手段でした。
 本企画をフジコさんの弟の大月ウルフさんにお話したとき、ウルフさんは、その趣旨に痛く共感下さり、すぐにパリのフジコさんに連絡をとって下さいました。大人気のフジコさんに一年先のコンサートの予定を入れて頂くのは不可能に近いことでしたが、フジコさんは優先的に予定を入れて下さいました。そのため、某社長自ら実行委員長の携帯電話に日程調整を乞う電話をかけてきたこともありました。何でも然る海外の著名演奏家との共演の企画だとか。フジコさんは何千万という大金の動く来日公演を差し置いて、本日の日程を譲らずにいて下さったのです。湯浅先生もまた、年明けから自ら旧奏楽堂に何度も足をお運び下さり、本日の公演に備えて下さいました。
 お二人の素晴らしい演奏家は勿論、多くの方々の善意によって、本日のコンサートは成り立っています。大月家の皆様には、この一年余、数々のお手間をとらせたにもかかわらず、お宅にうかがう度に温かいおもてなしをいただきました。プロダクト・オンの小池さんは、企画段階から常に相談に応じてくれ、この小公演の制作を快く引き受けてくれました。青葉ピアノの高橋さんには、ピアノ調律以外でも度々お世話になりました。マナ・オルゲルバウさん無くして、今日のオルガン演奏は有り得ません。そして何より、ご後援くださいました台東区芸術文化財団様には、格別のご高配を賜りました。この場を借りて皆様に厚く御礼申し上げます。

 数えきれぬ人々の思い出が詰まった、この温もり溢れる小さな音楽ホールに、今日私たちはまた一つ新たな思い出を作ります。世の中は絶えず動いています。人も街も変わっていきます。そうした中で、いつまでも変わらずそこに居てくれる存在の大切さ。これからも、旧奏楽堂が、この場所で今日の思い出と共に歴史を紡ぎ、私たちを迎えてくれることを願ってやみません。

 今宵、ここに集った全ての人々との出逢いに心から感謝いたします。

ZBイベント実行委員会 実行委員長 松崎未来

当日プログラムより

当日のプログラムに、鈴木千帆さんからご寄稿をいただきました。


旧東京音楽学校奏楽堂の保存運動

 東京芸術大学美術学部、東京都美術館とに隣接する旧東京音楽学校奏楽堂。このわが国最古の西洋音楽の殿堂が今ここにあることが、数々のドラマが繰り広げられた結果であることを、皆さんはご存知でしょうか。奏楽堂が重要文化財となって20年。その経緯を振り返ってみましょう。

● 明治村への移転・・・
旧東京音楽学校奏楽堂は、1890年(明治23年)、東京芸術大学構内にある現在の新奏楽堂の地に建設された日本最古のコンサートホールである。数々の初演、記念的公演を行ってきた、まさに当時の西洋音楽流入のメッカであった。1928年(昭和3年)にはパイプオルガンも設置され、著名な演奏家を含む卒業生を世に送り出していった場なのである。
しかし戦後、東京音楽学校が東京芸術大学音楽学部になるころには、建物の傷みが目立つようになってきていた。昭和30年代には歴史ある木造建築は老朽化による危険と隣りあわせとなっており、パイプオルガンも使用不能になった。学生数の増加、オーケストラの大型化に対応しうる大きく新しいホールがほしいというのは、音楽学部の多くの教官たちの共通する願いとなっていく。昭和41年、東京芸術大学では新奏楽堂の建設計画が持ち上がった。一方で、旧奏楽堂は昭和46年4月の文部省実態調査で危険建造物と認定され、取り壊しの危機に直面することになったのである。
昭和47年5月30日、愛知県犬山市の明治村より、東京芸術大学の当時の学長、福井直俊に、歴史的建造物である奏楽堂を無償で譲渡してほしいという文書が届いた。喜んだ音楽学部は新奏楽堂建設計画を開始したのである。

● 奏楽堂が現地にあることの意味
新奏楽堂建設計画は、音楽学部の最重要事項として旧奏楽堂の解体計画と共に進められた。
しかし、かねてより構内の建造物の取り壊しの危機を感じている教官がいた。当時美術学部建築科助教授であった前野まさるである。前野は大学院で明治建築について学び、明治建築の宝庫である芸大構内の建造物の価値を学内に説いていた。手狭になった芸大構内には建物がひしめき合い、常に古い建物は取り壊しの危機にさらされていたのだ。赤絵煉瓦書庫(旧教育博物館書庫)もそのひとつであった。
前野の姿勢に共感した美術・音楽の学生有志たちが自発的に署名運動と書庫の取り壊しを報じた新聞記事で、赤煉瓦書庫は危機一髪で守られた。昭和51年11月のことである。そういった機運を背景に、音楽学校の歴史の証言者としての奏楽堂を現地に残そうという動きは、構内でも静かに始まっていた。
昭和54年9月、芸大は奏楽堂明治村移転に関し具体的協議を始めた。これに対し、10月16日、日本建築学会は奏楽堂の現地保存を望む要望書を、東京芸術大学長、文部大臣、文化庁長官に提出。同月29日、東京芸大出身の著名音楽家7人(芥川也寸志、岩城宏之、江藤俊哉、中山悌一、林光、黛敏郎、森正)が連名で学内保存を要求する要望書を同じく東京芸術大学長、文部大臣、文化庁長官に提出した。「奏楽堂保存運動」が始まったのである。

● 奏楽堂保存運動
東京芸術大学は、このような事態になることを想定していなかった。数年がかりの新奏楽堂建築計画が頓挫するのを懸念した大学は、「構内に残すことは不可能であり、やむを得ず他に移築・保存するのだ」と解答した。
しかし、「奏楽堂を救う会」結成の呼びかけに賛同し、昭和55年2月の時点で入会を申し出た人の数は1700人を超えた。世論は完全に保存側であった。音楽学部内では民族音楽学者の故小泉文夫と作曲家の故松村禎三が前野と共に早くから旧奏楽堂の学内保存を呼びかけていたが、世論の動きを切っ掛けに学内にも賛同者が現れ、芸大は内部でも割れ、混乱することになる。
学生たちも賛同し、保存運動を始めた。学友会執行部は「移築についての説明会」を催し、「学内保存を」と訴えたチラシを学内に撒いて、徐々に理解を広げていったのである。

● 台東区長の決断
 理解が理解を呼び、日に日に「現地に保存を」という論調は強くなっていった。新奏楽堂建設計画を死守したい芸大は強硬な姿勢を取ることになり、世論が後押しする「奏楽堂を救う会」と完全に対立することになってしまった。昭和55年7月、新奏楽堂建設予算を盛り込んだ「昭和56年度概算要求書」に「新奏楽堂建設は悲願」と記して政府に提出。しかし、この予算はペンディングとなってしまう。奏楽堂問題は暗礁に乗り上げてしまった。
そこへ、翌年7月当時台東区長であった内山栄一がこの問題を知るや否や、「台東区の奏楽堂を台東区から出さない」と言明し、台東区が奏楽堂を引き取るという提案を東京芸術大学に持ちかけたのである。芸大が喜んで受け入れたのは言うまでもない。
内山は当時の都知事鈴木俊一にも働きかけ、理解を求めた。区内とはいえ東京都に属する上野公園移築という案にはさまざまな制約がかかってくるからだ。この問題は文化財に指定されることが条件で解決することになり、移築費用の負担も台東区が行うこととなって、解決を見ることになる。区長の英断である。
一時は取り壊しの危機にさらされた奏楽堂であったが、東京芸術大学にほど近い地に、“活用される”国の重要文化財として移築復元されたのである。昭和62年3月のことであった。
昭和58年7月12日、保存運動の功労者たちのサインと共に色紙に記された言葉は美しい。「奏楽堂は永遠である」。

● 蘇ったパイプオルガン
奏楽堂ステージ正面に備え付けられているパイプオルガンは、1920年に徳川頼貞侯イギリスのアボットスミス社から購入し、麻布の南葵楽堂に備えた日本最古の本格的なオルガンである。ニューマティックアクションを有する日本では珍しい機構を持った価値あるオルガンであるが、関東大震災を経て、昭和3年に南葵楽堂より東京音楽学校に移設されたときから、奏楽堂のシンボルであった。しかしこのオルガンは上野公園移築が決まったとき、「形だけの保存」が決定していた。奏楽堂保存運動の際、この価値ある「パイプオルガンも残そう」という機運が高まり、「奏楽堂のパイプオルガンをよみがえらせる会」が結成された。市民が結集し、理解を呼びかけるパンフレットが製作され、募金活動が行われた。その結果、区が(有)マナ・オルゲルバウに委託する形でオルガンも復元が決定した。活用され続ける文化財としてパイプオルガンも見事に蘇ったのである。

● 共存できた「ふたつの奏楽堂」
東京芸術大学が「悲願」していた新奏楽堂は、平成11年に落成した。当初と異なる形となったが、音響の良いホールは学生・教員に活用され、演奏は広く公開されている。現在このような形で新旧ふたつの奏楽堂が共存できる状態になったのは、このようなさまざまな人々が織り成す理解の結集があってこそだったのである。
文化とは理解する人がいて財となり、大切にされ、次世代へと伝承されていく。「モノを大切にする文化象徴」となり、歴史の生き証人となった台東区立旧東京音楽学校奏楽堂。見事に蘇ったアボット・スミス社のパイプオルガンとともに、これからも末永く見守っていきたいものである。
 

鈴木千帆(音楽学、鍵盤音楽史)

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