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「大丈夫? あの……失礼ですが……あなた何か、頭の病気とかあります?」 婦人は平気な顔で落ちている手をまたぎ、つかつかと直也に近寄って、頭を抱えた直也の肩に手をかけようとした。直也の心臓は小さく小さく収縮していくようだった。
ああ、やめてくれ。近づかないで。肩をさわらないで!
えも言えわれぬ不安に襲われた直也は、一歩、二歩と後ずさりし、その後、くるりと背を向けると店の外へ向かって一気にかけ出した。
自分が頭の病気だって? 精神病ってことか? 病気なのは、あなたたちではないか?
◆◇◆ 直也は彼女とランチの待ち合わせをしていたことも忘れ、駅へ直行すると、誰とも目を合わさないように苦心しながら電車に乗り、揺られ続けた。 自分のアパートへ着くと、内側から玄関のカギをかけ、すぐにベッドへ潜り込んだ。
しばらく布団を被ってふさぎ込んでいたが、一時間ほどして少し気分が落ち着いたので、テレビのスイッチを入れた。
あれはもしかしたら、「ドッキリテレビ」とかそういう類の悪質な冗談で、人の肝を抜いて視聴者を喜ばせる番組の仕掛けだったのかもしれない。いや、それにしてはあまりにもあのちぎれた手はリアルで生々しかったが。もしかしたら、いまごろバラバラ殺人事件として、ニュースで報道されているかもしれない。 そう思って直也はリモコンのチャンネルをせわしなく変えながら、ベッドの中でテレビを見続けた。 しかし、先ほど直也の見たものを説明するような番組は、どのチャンネルでも何一つやっていなかった。 そのままその事件は直也の心の中に葬られた。 しかし生身の人間の手というものは、ちぎれて放置されると、心の中でも腐敗を進行させるものだ。直也の心は、その手の記憶を覆い隠すことによって、一緒に腐敗を始めたようだった。
◆◇◆
その夜から、直也は蛆虫の夢を見るようになった。 いろいろなシチュエーションで蛆虫が出てくる。 あのショッピングモールの入り口の落ちていた手に、ハエが卵を産み付けている場面。 そこから続々と蛆虫が生まれる場面。 右手の無くなった死体がどこかの空き地に転がっており、死体の内部から蛆虫が発生し、くちゃくちゃと音を立てて肉を食べている場面。 手、足、腕、太股、胴体、頭と死体がバラバラにされて出てくるときもあった。表面にはうろこのようにびっしりと蛆虫が覆い、それぞれがどこの体のパーツなのか、夢の中、直也は目をそむけながらも考えている。 蛆虫のアップ。どこか遠くで常にボ――――――ンという重苦しい低い音が響いている。 太った子どもの指ほどもある汚れた黄土色の蛆虫が、どこかの壁を這い上がってくる。 ぐにゃぐにゃと重なり合いながら蠢く様子がこの上なく気味悪い。そいつらは這い上がり、直也の体へ、直也の手へと迫り来る。 訴えているのだ。ちぎれた手が……。自分の主だった人間を捜してくれと。放ったらかしにしないでくれ、もう一度、主人の体に縫いつけてほしいと。 なのに、直也は見て見ぬふりをした。 なぜならば、直也を取り巻く世界が、突然今までとがらりと表情を変え、直也を無視したからだ。 世界……直也が今まで大体こんな風だと思い込み、信じていた世界は一体何だったのだろうか? 世界があの時、あの瞬間、豹変した。 あの手のことを警察に通報しなかった直也が犯罪者だとしたら、あの時あそこを通った全ての人間が犯罪者じゃないか? しかし、この世は相変わらず平和じゃないか、見かけ上は……。 直也は目が覚めているときも、恐ろしい錯覚に付きまとわれた。日常のいたるところにちぎれた手が、ちぎれた足が、ちぎれた指が、落ちている錯覚だ。 瞬間的に赤黒いぐにぐにした断面をもつ手足に見えるそれは、もう一度見ると、靴だったり、放置されたおもちゃだったり、投げ捨てられた空き缶だったり、ただの石だったりする。 さりげなく、微妙に、直也を取り巻く世界は狂い初めているようだった。
◆◇◆
ランチの待ち合わせをすっぽかしたことで、直也は彼女にふられてしまった。 ふられるのは当たり前だ。相手が怒るのは当たり前だ。直也が約束をすっぽかし、その後も何の弁解もなく放置しておいたのだから。 そう思うとかえって安心した。それが世の中というものだ。直也が今までこんなものだと信じていた世界が直也の目の前にあること、それは彼女とのつき合いが続くことよりも大切なことだった、今の直也にとっては。 どうか、直也の頭の中にある常識の通用する世の中であり続けてほしい、たとえ、彼女にふられてもだ。 どうか、ちぎれた手足がごろごろ転がっていて、まるでそれを道ばたに放置された犬の糞か何かのように不愉快に思いながらも無視し、またいで歩くようなそんな世の中ではありませんように……。 直也の願いが通じたのが、その後は手も足も指も、全く落ちていることはなかった。あの日の出来事は夢だったのだ、と直也は自分に言い聞かせようとした。しかしやはり、この世の中はどこかが違う。今までと。 どこだろう? 直也は同じような絵が二つ並んだ間違い探しのパズルのように、以前の世の中と、今、目の前に広がる世の中を比較した。 この世界の何かが違う。何だろう? いや、どこも違わない。いや、ちがう……。 大学へ向かう電車の中で、直也は私立学校へ通う小学生の姿をまじまじと見つめた。なんだか子どもが皆、白い顔をしている。能面のような白い顔。 電車の窓から、通学路を歩く小学生たちのランドセルをしょった姿を見る。やはり白い顔だ。 最近の子は外へ出ないから、ひときわ白さが目立つのか?いや、白いと感じること自体、単なる気のせいかも知れない。よく分からない、でも何かが違う。 そう思い始めると、子どもの顔の色ばかり気になるようになった。何事も、うわの空になる。テレビを見ても子役ばかり見てしまう。 わざわざ子どもの顔を見るために、公園へ出かける。ベンチにいつまでも腰掛けている。遊具で遊ぶ子どもたちの姿を目で追う。 ころころとビニールボールが向こうから転がってきた。直也は足下からそれを拾い上げ、ボールを追って走ってきた男の子に渡そうとした。 今までにないような近い距離で、子どもの顔を見つめた。そして「あっ」と小声で叫んでしまった。 子どもは化粧をしていたのだ。おしろい……女性が塗るファンデーション……というやつを顔全体に塗っていた。それもかなりの厚塗りだった。まるで白っぽいゴムマスクをつけているようだった。 直也はつい我を忘れて、子どもの顔をじろじろと何秒間も見てしまった。ゴムマスクをつけたような子どもの顔が次第にこわばっていく。 |
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●百物語●
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年末、お出かけの方も多いんじゃないかな? そんな方のために、ケータイからも読める「年末ホラー」はいかがでしょう。ホラーが苦手な方はスルーしてくださいね。
なんだ? あれは……。 直也は地面に落ちているものに目を見張った。 手?……じゃないか?……まさか……? 日曜日の昼の雑踏の中で、直也が見つめようとしている物に、反応し足を止める者は他にいない。皆、平然とした顔で、通り過ぎ、店の中へ吸い込まれていく。 なぜだ? ここは最近どこの地方都市にも見られるような大型ショッピングモールの南正面口。 明るく、新しく、開放的で、大規模で、にぎやかで、清潔な……客を呼び寄せるために必要な全ての要素を取り込んで構築された大型店の入り口のど真ん中に、唐突に落ちている片方の手? ……一瞬、マネキン人形の腕先が落ちたのではないかとも考えたが、どう見ても直也の目に映っているのは、本物の人間の手だ…… 指の付き方からしてそれは右手で、手首から上が十センチほどついている。多分、大人の手だろうが、体液が流出したせいか、ふくらみがなく、異様に骨張って見えた。
腐敗臭が、その断面にむき出しになった骨や肉や何やら赤黒いグニグニしたものから、発しはじめていた。
まだそれほど古くなく、かといって新しいものでもなく、腐敗臭はこれからひどくなるのであろうが、とりあえずはまだ鼻をつまむ程でもなく、断面から流出した血液は、まるで子どもが床に落としていったコーンつきアイスクリームの溶けたヤツのように、とろりとした丸い小さな池になり、そのまま乾燥するのを待っているようであった。
しかし、だれもそれに目を留めようとしない。平気で素通りしていく。 何十人、何百人もの通行人がだ。
開店から2時間ほど経ったショッピングモールは、これから買い物や昼食や映画を楽しもうとする客たちがぞくぞくと南正面口へ集まり中へ吸い込まれていく。家族連れ、若いカップル、中高生の友達グループ、主婦たち、熟年カップル……誰もが何の不安も疑問もないといった幸せそうな顔をして店内に入っていく。
どうして?
他の人々には、これが見えないのか? いや、見えている。 よく前を見ずにふざけて歩いていたひとりの少年が、その手を踏みつけそうになって、あわてて宙でその足を止めた。そして歩幅を大きく変更し、その手をまたいだ。 「げっ、汚ねぇ。」と少年は言って、友達の顔を見て意味もなく笑った。ちょうど道ばたの犬の糞を踏みつけそうになったときと同じ、幼稚で品のないはしゃぎ方だった。
直也はどうすればいいのか、分からなかった。こんなものを見てしまったせいで、何かものすごい犯罪の共犯者の一味にむりやりさせられた感覚を覚えた。
誰か一人でも、この手のことで足を止めて欲しかった。これは大変だ、警察を呼ぼう、と騒ぎ、皆に呼びかけて欲しかった。
なのに誰も警察を呼ぼうとしない。あるいはもう警察を呼んであるのか。いや、とてもパトカーを待機している様子はない。
手をうっかり踏みつけそうになる客が、何人も店内に吸い込まれていった。 誰かに話しかけてみようか、「あの手が見えませんか? これは大変なことです、警察を呼びましょう。」と。 ……そうだ、そうするべきじゃないか? 直也の目の前に落ちている手は、間違いなく犯罪が関係している。誰かの命が奪われた可能性も高い。それを見過ごして通報しなければ、自分も犯罪者になってしまうじゃないか。
直也は勇気をふり絞り、通行人に声をかけた。
「あの……。」 あまりはっきりした声にならず、誰も気づいてくれなかった。 「あのう……。」
自分と同じくらいの年頃の大学生風の男にねらいを定めて、もう一度声をかけた。だが、無視された。
「あのう……。」
次の若者に声をかけたときは「宗教の勧誘なら、間に合ってるよ。」と言われた。
「なんですか?」「あのう。」 ありったけの勇気をふりしぼり、かなり大きな声で、通りかかった初老の婦人を呼び止めた。縁のない薄いメガネをかけ、軽くパーマをかけた上品な印象の婦人。
婦人はやさしげな表情をちょっと、堅くした。直也は言葉が見つからずに、咄嗟に落ちている手を指差した。
「確かに。本当に迷惑ですね、不衛生だし……。でもじきに掃除夫が来てかたづけてくれますよ。」「そういうことじゃなくて……け、警察を。」 「警察?」 婦人は眉をひそめた。 「スリにでもあったの? 具合が悪いの? なんなら救急車を呼びましょうか?」
婦人は直也の顔をまじまじと見つめた。直也はひどい動悸におそわれ、顔がこわばり、思わずその場で頭をかかえこんだ。
「大丈夫? あの……失礼ですが……あなた何か、頭の病気とかあります?」 婦人は平気な顔で落ちている手をまたぎ、つかつかと直也に近寄って、頭を抱えた直也の肩に手をかけようとした。直也の心臓は小さく小さく収縮していくようだった。
ああ、やめてくれ。近づかないで。肩をさわらないで!
えも言えわれぬ不安に襲われた直也は、一歩、二歩と後ずさりし、その後、くるりと背を向けると店の外へ向かって一気にかけ出した。 |
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いかがでしたか。「人体模型くん」は『百物語 黎明編 第3話』でした。もし気に入ってくださったら、本、買ってくださいね。(^o^) |
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