藤田湘子・俳句の方法・角川撰書
没の体験②
同じころ、能村登四郎は、
「はたらきにゆくはみなゆき朝ぐもり」
「額咲くや四五日の旅ひかへをり」
といった純な句で、新樹集の一句二句を往復する成績であった。
私より数年早い入門だから、すでに没の洗礼はすんでいたものと思われる。
けれども、氏がそこから上の三句四句に進出するのはなお数年先のことである。
当時を回顧しながら登四郎は、後に「一句十年」というエッセイを書いている。
<私は「馬酔木」の一句組で十年すごした、十年の下積みに耐え抜いたことが、自分の俳句の骨格を作った>
というのが基調にあって、一句になった、三句になったなど、目先の結果に一喜一憂してジタバタするな、と、投句者への戒めを説いたものだったと記憶している。
登四郎がこのエッセイを書いたのは、二十年ほど前のこと。
すでに雑詠欄に没をもつ結社は稀少となり、投句者の間には緩選を求める傾向がきざしていた。
投句すれば一句は載る、一句では物足りなくてもっと余計採ってくれる選者を求める――とうい風潮が蔓延してきたのである。
つまり、師を選ぶことより、載録される句の多寡によって所属誌を決める傾向が芽生えた、と言ってもよい。
そして、それと同時に、一人で複数の結社に所属することも、珍しいことではなくなってきた。
登四郎がこれらのことを見据えながら、「一句十年」を強調したかどうかわからない。
けれども少なくとも、一句欄のもう一つ下に、没という選者側の評価があるのだという言外の含みは、つよくあったに違いない。
没があり一句欄があって、その屈辱に耐えることによって自分は成長したという自負を、私は「一句十年」のタイトルから嗅ぎ取ることが出来るのだ。
また、私はしばしば、「俳句は結社でなければ育たぬ」と、多くの先輩から口伝てに聞いた。私もそう思った。
しかし、それを納得出来たのは、そのころの結社はどこも夥しい数の没があったからだ。
没を経験し、没の泥沼からはい出る修業が、優れた作者になるための鞏固(きょうこ)の基礎作りにつながったから、「結社で育つ」と言えるのである。
今にして思う。
雑詠欄に没があって、投稿者がそれを当然と受け止めていた時代こそ、まさに見事な結社の時代であった、と。
今は、諸悪の根源は結社にある。
(飯田龍太)







