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小姓とZENの俳句と言葉
俳句の解釈は読者の感じたことが正解です

書庫阿部筲人

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阿部筲人・・四合目からの出発・講談社より引用。
説明俳句
理屈を叫んだり、理屈に支えられたりするほかに、初心には「理屈っぽく」という型が多くなります。
短い言葉では、小理屈をいうほうがやさしく、また初心な相手には判りやすいので、句会で互いに採り合っている風景が見られます。
まだ俳句の骨法を会得しない段階同士だからであります。
「原因と結果」
「理由と帰結」
この道具立てで仕立てると、恐ろしく筋がよく通って、作りやすくなります。
論文などは、首尾よく筋道立つことはいいことですが、理屈を言ってはならない俳句には、かえってさまたげになる性質があります。
「毒芹に驚き山羊を引き離す」
「母老いたり秋草にさへ躓きぬ」
「梅雨明けや家狭きまで物干され」
 
大寒波宇宙(そら)は沈黙してゐたり
Zen
分析すれば、理屈で作っているかも分かりません。
 
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「ポケット俳句」

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阿部筲人・・四合目からの出発・講談社より引用。
句を作るとは、自分を表現するとともに、他人の同感を求める目的を含んでいます。
読者の共感を得て自分の幅広さを認識し、ともに生きる喜びを喜びます。
他人に見せずにしまっておくのを、「ポケット俳句」といい、それは単に自分のメモに止まり、表現の本義から外れます。
句は自分ひとりの気持を表現するに止まらず、誰しもの気持を広く代表することを含み、優れて作品を得ることは、他人をそこまで引き上げる意義を持っています。
実用文の普遍性は、相手に呼びかけ、共鳴させる意味と態度とを含んでいます。
かって俳壇に、俳句は独白か対話かの問題がありましたが、根底には、誰ということなき不特定の相手に向かっての会話的であり、かつ、独白的であり、両方の性格強く兼ね、一方的に言うことはできません。
だから初歩の作者にしても、必ず読者がいることを予想し、素直に受け取ってもらえるまでに仕上がっており、完成しているべきで、常にその心構えを忘れてはなりません。
しかし初めは自分一方を述べるのに精一杯で、そうした間に踏み外します。
舌足らずな不便な詩型ですから言い損ないができ、無理も生じやすく、情景がはみだしたりして、読んでも察しのつかないのが出来やすいことです。
 
冬晴や余生温め合ふ夫婦
初凪や夫婦の余生たのしさう
冬晴や余る月日の老夫婦
冬晴の力ぬけたる余生かな
冬晴の力を抜ひた余生かな
冬晴や力をあましゐる余生
 
 
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一時の流行

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麦秋や塗りつぶしたるゴッホの黄
ゴッホの絵を連想して最初にこれを用いた作者は手柄であって、それがいいとなるとたちまち模倣者があふれ、そこでたちまち陳腐にしてしまいます。
昔、草田男が、
「軍隊の近づく音や秋風裡」
を発表すると、この秋風裡がはんらんし、はては春風裡や涼風裡にまで広がりました。
西東三鬼が一連の「穀象」の佳作を発表すると、たちまち穀象の句が溢れました。
言い回しの問題になりますが、「天狼」で誰かが「何々し得ず・何々するほかなし」が現れると、それは今だに心なき連中がまねています。
「いくさよあるな」の、いかにも草田男らしい表現をそっくり借用している例が随分ありました。
これ等は最初の作者の手柄であって、それ以後の用例は亜流であり、手柄のない表現であります。
ここでもコロンブスの卵の実例があるわけになります。
阿部筲人・・四合目からの出発・講談社より引用。
 
『修道女歳晩の街ふり向かず』
俳句を初めて間もないころにこの句に出合った、出典も作者も忘れてしまったけれど、この句は記憶している。
俗世間と無縁の修道女と、歳末大売り出しに、とっぷりと俗世界に浸かっている街の対比が気に入っている。
 
「修道女あちらこちらの師走かな」
聖職の私服で交りゐる歳晩
Zen
 
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新しさと古さ

 
 
 
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阿部筲人・・四合目からの出発・講談社より引用。
 
古さとは
明治の中頃まで、理屈っぽい宗匠俳句のだれきった作風があふれ、これに対して子規は清新な風を起こして新派を立てました。
現在でも宗匠俳句は目立たぬところで句会専門に盛んに行われていますが、それらは雑誌に‘寄らないので目につきません。
これらの人々は旧派と呼ばれています。
 
俳壇は雑誌を通じて形成され、そこは伝統俳句と現代俳句とに分かれます。
後者は、現代の複雑な社会に生きる真の文学として、詩歌小説などと歩調を合わせようと努力します。
そうかといって伝統俳句が古きにな‘ずんで新しさを追求しないということはありません。
伝統の中にあっても、現在の人間を自覚俳句に実現しようと努力しています。
こうした真面目な人々の作品は、両者の区別がなくなり、結局一部分が旧慣にとらわれます。
文学としては、必ず一句一作に、何かの点に新しさを盛り、独自の一句を仕上げねば価値がないのであって、人の言い古しを繰り返しているのみでは、存在意義はありません。
作者自身は、人のカスをなめずに自分に忠実であろうとすれば、常に新しさを追求する覚悟が必要です。
 
十二月あちらもこちらも師走かな
修道女あちらこちらの師走かな
Zen
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つづく予定。
 
 
 

「も・に」俳句。

十二月あちらもこちらも師走かな
小姓
同じ意味だけれど語感が違う。
「も」の使い方は難しい。
 
・に」俳句。
「滝飛沫山蛾も涼しく髭振れり」(たきひまつやまがもすずしくひげふれり)
これには「人間も」ということを裏に、露骨に、へたに潜入させます。
この助詞「も」は初心者が実に不用意に乱用する、大変な文字です。
一字で他を云わずに含ませ、余韻を持たせることが出来ると考え違いする、欲張り根性の理屈の語で、それ故に、子規も「もは嫌味なり」と強く断定しています。
非常に警戒せねばならぬ語で、ほとんど使用に堪えないと考えて宜しい。
 
里なみも世なみも見えて盆踊り
佳句ではないにしろ並列の「も」を正しく用い、陰に欲張りをこめていませんから、素直であるといえます。
阿部筲人・・四合目からの出発・講談社より引用。
 
 

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