禅と茶の集い

今年も6月金曜4週連続で禅体験会、開催中です。

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*これからマップに従って踏破して頂くのですが、ご自身の身体を通じて身体の持つ豊かな世界を感じられることに、興味を持たれることでしょう。そうなれば十合目とその別峰への到達までの時間もそれほどかからないでしょう。
    
以上のような体験によって、「情動によって精神がコントロールされ、更にその精神によって身体がコントロールされる(文字通り、手足の如く使われて)」ことに慣れっこになっている現代人が、「身体によって精神をととのえ、更には感情によって情動をととのえる」技を体得するきっかけになればと思っています。     

『中庸』に「知遠之近 知風之自 知微之顯 可與入徳矣」という言葉があります。この解釈にはいろいろあります。儒教的なものもあれば公案禅からの解釈もあります。(耕雲庵英山老師著の『禅海一瀾抄講話』を参照して頂ければ、両方の解釈の説明があります)
     
私の解釈はそれらと異なり、既述のように精神エネルギーの高位・低位という視点からのものです。
     
「遠きの近きを知り」については、私は聴覚や視覚の問題と捉えていますので、いずれ「聴覚と視覚の訓練」で検討されます。
「風の自(よ)るを知り、微(かす)かの顯(あきら)かなるを知り、與に徳に入る可し」とは、文字通り微かな風(身体のゆるみ)を感じる能力(五合目重畳法2・九合目・十合目の別峰で体得されます)を養うことによって、重荷から解放される技の体得、そしてそのことが同時に「よくととのえし おのれ」(正確には、「よくととのえし おのれ」の中の「ゆとり・・・楽しさ」)に体達することであり、それを味わいながら使いこなすことによって、別稿『脳科学の成果より』で述べました「大脳辺縁系が仕掛ける罠」からの脱出方法の一つを手に入れ、ひいては中核自己の長所と自伝的自己の長所とを相互補完的に使いこなすという道(「與に徳に入る」道)が開けてくるのです。
     
大脳辺縁系が過活動を起こすことを、ヒトはいとも簡単にマスターします。食欲は生まれた時から、性欲は年齢がくればそれほど練習しなくても対応していきます。そして周りの大人達の振る舞いを見ると、吾我(エゴ)のオンパレードのようです。怒り・不安・恐れ・悲嘆の手本に、欠くことはありません。
     
それに比べて、微かな感覚を味わいながら、それを使いこなすという御手本があまりにも少ないのです。
「慎独」という素晴らしい言葉がありますが、現代のようなご時勢では、死語に近い状態にあります。

私の提案する技法をマスターして、ヒトならばどなたにも備わっている「よくととのえし おのれ」を味わい、使いこなすことによって、そしてそのような人物が日常世界に多数進出し、その人達が周りの人々に「善き御手本」となって頂ければ、とても素晴らしいことでしょう。
UNESCO憲章にある「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」とあります。

「人の心の中に平和の砦を築く」具体的方法を、皆様はご自身の身体を通して、確実に手に入れられることでしょう。
このたび自分の未熟さをも省みず、一連の草稿をしたため公表した最大の理由がこの問題なのです。私は、市川白弦著『仏教者の戦争責任』を読んで以来、世の中のありとしあらゆる存在の平安と幸福とを希求し、慈悲の心を説いた釈尊の教えが、戦争遂行のための道具に成り下がってしまう様子を、とても不幸なことだと思っています。

しかも最近の日本の政治状況を見ますと、再び武人が戦場に赴くために、戦場での心構えを求めて、禅の門を叩く日が近くなってきたと思わざるを得ないのです。
あらゆる人に禅の門は開かれていますので、武人が入門するのも、その人の立場にたてば当然の事とは思いますが、そのような事態に至ることを悲しく思うこの頃です。
ところで古くから禅の修行は武人に好まれています。北条時宗・楠正成・太田道灌・宮本武蔵・柳生宗矩・山岡鉄舟・乃木希典等々枚挙に遑がない位です。

その理由としては、公案禅の修行の階梯の中に、別稿や後述するように「断」の体得つまり諸々の思いを断ち斬る為の精神的訓練(坐禅の上での)や、今そこにある危機を避けずに真正面から受け止めてその状況に「全身全霊をもって、なりきる訓練」や、「紛争の種であるものを実際に斬ってしまう(第二段では、逆に生かしてしまう場面があるのですが、第一段が強烈な印象を与えます)訓練」などがあるからです。更には禅の指導者が良く使う「(大)勇猛心」や「剣禅一如」の言葉などが、武人が禅に親近感を持つ要因と思われます。

しかし満州事変(1931年9月)から大平洋戦争終了(1945年8月)までの間に、日本軍人の損失では、戦死者よりはるかに多くの餓死者や病死者をだし、更には多数の非戦闘員の犠牲も伴いました。(上記の14年間で日本人の死者は300万人以上、アジア太平洋地域の人々の死者は少なくとも1500万人以上といわれています)そして今日の戦争では、テロなどの横行により、世界中のあらゆるところが戦場化しつつあります。
このような状況の中で、「勇猛心」や「一時的高揚感」で仏弟子たる人物を、戦場に送り出すのは悲劇という他はないでしょう。

『老子』に「慈故に、能く勇なり」という言葉があります。慈悲の心を欠く勇気は蛮勇であるという意味です。
先ほど述べましたように、従来の公案禅による「坐禅上での「断」の体得」や「全身全霊をもって、なりきる訓練」や「紛争の種を斬ってしまう訓練」の段階では、慈悲の心の体得は到底適わぬ状況です。
ですからこの段階で、仏弟子たる人物を戦場に送り出すのは、荒業だけしかできない「蛮勇」の人を、あるいは兵士になりきることが仏の意志に適っているのだと信じきっている人を送り出すことに他ならないのです。
そのことが結果的に、禅が戦争遂行のための道具に成り下がってしまうという指摘を受けるのだと思います。

私は禅修行の早い段階で、修行者が「中核自己に備わっている3つの宝物(1「断」の機能、2身体のゆるみ・風の感覚・ゆとり・重荷からの解放感・・・楽しさ、3身体が感じる窮屈さ・身体が感じる弱さ・優しさ・思いやり・・・悲しみを感じる心)」を体得できるような修行階梯(別稿『禅仏教の方向性』等で述べられます)を提案します。

そして「3つの宝物」を体得した後にその人物が、兵士になろうと、政治家になろうと、原発反対運動に身を投じようと、個人個人の社会的・政治的判断によって、市民としての責任を果たすべきと考えるのです。

私の提案に対して、「兵士になるためには、身体のゆるみ・風の感覚・ゆとり・重荷からの解放感・・・楽しさとか、身体が感じる弱さ・優しさ・思いやり・・・悲しみを感じる心等を養うことは余計なことだ」「慈悲の心を究明することは禅仏教の修行では難易度の高い事だから、これから兵士に成ろうとする若者には到底無理な話だ」「白隠禅師以来代々の師家方が守ってきた伝統的な公案禅による修行階梯で良い、何も変更する必要はない。未熟者が出る幕ではない!」等々の批判が出てくるでしょう。

しかしこのような批判は、『仏教者の戦争責任』の内容に対して黙殺する態度そのものだと思いますし、更には釈尊の説かれた仏教の本義を見失ったもののように感じます。
「身体が感じる窮屈さ・身体が感じる弱さ・優しさ・思いやり・・・悲しみを感じる心」を、禅修行の早い段階でどなたにでも体得出来るのか否かについては、次稿『禅仏教の方向性』における論拠を読んで頂いて、皆様自身で判断してください。又未熟者の私が提案する『現代人のための禅修行の階梯』に御不満ならば、私の提案を読んだ上で熟達の方に、より優れたものを御提案して頂けますようお願い申しあげます。

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