禅と茶の集い

今年も6月金曜4週連続で禅体験会、開催中です。

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一例を挙げてみましょう。以前「新幹線の中で泣きわめいていた乳児の母親に対して、怒った乗客がいた」と新聞紙上で話題になったことがありました。
新幹線の中という閉じ込められた空間の中で、乳児の泣きわめく声が長時間聞こえてくる状況は、近くにいる人にとって確かにきつい事だと思います。しかし当の母親はもっとつらい思いをしているはずです。この時、禅者ならばどうすればよいのでしょうか。

私が提案する「風の感覚・ゆとり・・・楽しさ」や「優しさ・思いやり・・・悲しみを感じる心」を使うことによって、結果的に怒りを鎮めたり、怒りに対する抵抗力を高めればよいということになります。(但し上記のような怒りを鎮める技法は、いずれ提案する「印契(手の形に伴う心の有り様よう)の探求」や「印契を応用した歩行訓練」や「発声訓練」よって習得することになりますので、それまでの当座の方法を記しておきます。
第一の方法は、⑩の所でも述べましたが、針等極細いものを抓もうとする時に手の第一指と第二指の爪の角を利用します。第一指と第二指とをそのようにして、他の三つの指は軽く握るようにします。

そして両手の第一指と第二指との爪の角に繋意し、その部位の感覚を利用して、怒り(情動)に対するのです。第一指と第二指との爪の角では、シビレ・痛み・熱さなどを感じるかもしれませんが、重要なことは、この部位に「断」又は「優しさとか思いやり・・・悲しみを感じる心」のどちらかが感じられるということです。この感覚(感情)によって、怒りを鎮めようとするのです。怒りを鎮める力は、片手よりも両手の方が強くなります。
第二の方法は、⑳でも述べました「左掌に心を安んぜよ」という方法です。特に、「左掌に向かって流れる風の力」によって、怒りが生じるのを、どれだけ消去できるのか、機会があったら試してください。

では以上のような技を通して得られるものは、何なのでしょうか?
それは、アントニオ・ダマシオのいう体性感覚野の近辺(第二次体性感覚野又は島皮質)と密接に関係のある「感情」ということになります。(感情の例として、先ほど「ゆとり・重荷からの解放感・・・楽しさ」とか「優しさ・思いやり・・・悲しみを感じる心、」ということを紹介しました)

そしてこの感情は、『脳科学の成果より』で述べましたようにアントニオ・ダマシオのいう中核自己に既に備わっているものですから、中核自己の特性即ち「いま・ここ」という性質をも持っています。

つまりアントニオ・ダマシオのいう「感情」に分類される「ゆとり・重荷からの解放感・・・楽しさ」や「優しさ・思いやり・・・悲しみを感じる心」は、「情動」に分類される「怒り、悲嘆」に対しての極めて有効な対抗手段であると同時に、「いま・ここ」という性質によって「後を引かない(つまり執着しない)」という機能をも有していることになります。
しかも上記のような「感情」は、使えば使う程豊かになります。まさに無限というわけですから、これを使わない手はありません。(これらは宇宙の生命の歴史の中で、ヒトに与えられたギフトともいえるものですから、風土・慣習・言語・宗教・民族(部族)・性差更には頭の良さ悪さ、知識の多寡等とは無関係に、誰にでも既に備わっているのです。只あまりにも身近にありすぎて、気づかないだけなのです)

「竹影掃堦塵不動 月穿潭底水無痕」という禅語で示される心の在り方は、具体的な訓練(稽古)によって到達可能になります。
皆様には、このガイドマップ(「調息の訓練」)や今後発表される予定の「印契の探求」・「印契を応用した歩行訓練」・「聴覚の訓練」・「視覚の訓練」・「発声訓練」を実修して頂ければ、確実にこの問題解決の核心に迫ることができるでしょう。
     
では白隠禅師が『毒語注心経』の中で「識神」は本当の「主人公」ではないと述べていますが、これぞ本物の「主人公」というガチッとしたものはあるのでしょうか? 実はそれもないのです。
     
「調息山」登頂のためのエピローグ(6)で述べましたように、「3つの宝物」が、それぞれの一つ一つが長時間であろうと短時間であろうと、コロコロと転じながら相続することを体得したり、更には「中核自己」の長所(「いま・ここ」、「感情」)と「自伝的自己」の長所(「イメージや言語を操る力」と「過去・現在・未来を考える能力」そして適度な「情動」も?)との相互補完的連携・協働を体得できれば、ガチッとした「主人公」が存在しないことを実感できるはずです。
以上が『脳科学の成果より』風に翻訳した「空ずる」ということの中身です。
     

ヒトに与えられたギフトを禅の修行を通して究明(「よくととのえしおのれ」を究明=己事究明)し、それらの機能を味わい使いこなしていくのです。そして一生を通して実践し、やがて自分の役割を(できれば誰かに託して)終えていくのです。(宇宙の生命の歴史の中で、一瞬キラリと光って消えていくようなものです)
ところで自分の役割を誰かに託してといいますと、皆様は、老師方のような祖師禅の熟達者(「磨甎」の人)の人達の話ではないかと思われるかもしれません。
確かに出家者中心の伝統的な臨済禅では、禅道場を選仏場と見て、そこに集まる有象無象の修行者の中から、真に後継者に適うと見た人物を一本釣のようにして引き上げる方法(「一個半個」の育成)が取られており、それ以外の人物の殆んどは、歴史の中に名も残さず消えていきました。
しかしこれからの社会人の為の禅の在り方では、様相が異なるでしょう。

「調息山」登頂のためのガイドマップ(5)で述べたように「慎独」の方々(如来禅の体現者)を多数輩出して、周りの人々の「善き御手本」になるようにする必要があると思うからです。
「慎独」の方々は、「よくととのえし おのれ(中核自己に備わっている3つの宝物)」を体得し、且つそれを他の人に伝える技を十分に持っています。
*少し前の処で、「何かの祟り」とか「原罪」とするのは、大脳辺縁系が生み出す幻影(大脳辺縁系が有している機能に捉われている)にすぎないというのが禅の立場です、と申しました。
     
ここで、大脳辺縁系が有している機能がまるでヒトの脳の全機能であるかのように、あたかも自分の全人格であるかのように思いこんでしまうという現象を少し見てみましょう。(いずれ別稿の『禅仏教の方向性』で改めて検討されますが)
     
禅語に「竹影堦(階)を掃って塵動ぜず 月潭底を穿って水に痕無し」というのがあります。この語が禅者に好まれるのは、ヒトの心が働いても、痕が残らない、執着しないという状態になることを修行の目的の一つにしているからです。
     
自分の心の働きであっても、自分の思い通りにいかないのは、こだわりや執着(あたかも納豆のネバネバのように容易に断ち切れない)があるためなのです。つまり前稿『脳科学の成果より』でみましたように、「大脳辺縁系が仕掛ける罠」にまんまと嵌ってしまうからなのです。
と申しますのも、ヒトの大脳辺縁系の機能の一つである「陳述的記憶の貯蔵庫」の働きは、地球上の生物進化の過程でより優れたものへと淘汰されてきたことが、大きな影響を与えているからです。

ヒトの記憶容量は他の生物に比して圧倒的に大きく、更に記憶の3過程(取り込み・保持・再生)の中のとりわけ保持という機能が、脳障害や認知症等の特殊な場合を除いて、極めて劣化し難いという特徴があります。
そしてヒトは、生後色々な経験を通して学習したこと(その大部分はイメージや言語的記憶によるものですから、大脳辺縁系の中の「陳述的記憶の貯蔵庫」に蓄えられます。更に喜・怒・哀・楽・不安・恐怖等の情動反応も又イメージや言語的記憶として翻訳され、この場所に蓄えられます)を参考にして次の行動を決定していきます。それによって出来上がっていく行動のパターン化されたものが個性であり、吾我(エゴ)であり、アントニオ・ダマシオのいう自伝的自己というわけです。(「三ッ子の魂 百までも」という諺がこの辺の事情をよく説明しています)
言うなれば、自伝的自己を支えている「陳述的記憶の貯蔵庫」の扉を開くメカニズムが働き出すこと自体が、「貯蔵庫」の特性である「こだわりとか執着」が発生することになり、場合によっては「大脳辺縁系が仕掛ける罠」(前稿『脳科学の成果より』を参照してください)にまんまと嵌ってしまうのです。
ところが、この「大脳辺縁系が仕掛ける罠」から脱出する見事な方法を、禅は提案しています。
     
『般若心経』にある「五蘊皆空」というテーマがそれです。(「五蘊皆空」という話題を取り上げると何頁にも及びますので、この話題についてはいずれ別稿で検討しますから、ここではあっさりと扱っておきます)
     
此のうちの「識蘊」(アラヤ識)を「如何にして空ずることができるか?」ということが最も重要なこととされています。
     
「アラヤ識」は中国では、「含蔵識」とか「心王識」とかと訳されました。この内の「含蔵識」という言葉は、大脳辺縁系の一つの機能である「陳述的記憶の貯蔵庫」を表す用語とすれば、現代にも通じる言葉です。
     
又「心王識」という言葉は、「心の司令塔」とか「主人公」という意味です。この「心王識」はアントニオ・ダマシオのいう「自伝的自己」と同義語と考えることができますので、これも又注目に値する言葉といえましょう。(白隠禅師は『毒語注心経』という書物の中で、アラヤ識のことを「識神」といい、人々はこれを「主人公」と思っているが、禅の立場から見ると、これは本当の「主人公」ではないと述べています)

脳科学が未発達の時代の古人の用語ですが、その先見性におどろかされます。但し今述べましたように、「含蔵識」と「心王識」とでは、現代の脳科学的知見からみますとかなり内容が異なります(「心王識」の方が「含蔵識」より、多くの機能を含んだ広い概念です)ので、「識蘊」(アラヤ識)という言葉が使われたり若しくは使おうとした時、「含蔵識」(「陳述的記憶の貯蔵庫」)という意味なのかそれとも「心王識」(「自伝的自己」)という意味なのかそれともそれら以外の意味なのかを区別する必要があります。
ところで問題は「如何にしてこのアラヤ識を空ずることができるか?」ということです。(ここでは「アラヤ識」を、白隠禅師と同じく「心王識」つまり自伝的自己という広い意味にとっておきます)

「空ずる」という極めて難解な言葉がでてきました。「空」という概念を検討するだけでも相当な時間が必要でしょうが、此処でも簡単にみておきます。
「如何にしてこのアラヤ識を空ずることができるか?」を『脳科学の成果より』風に翻訳しますと、「「陳述的記憶の貯蔵庫」をも含めた大脳辺縁系の機能が、「自分の全人格を表すものではなくて、脳の一つの機能にすぎない」ということを、「行」を通して体得することが出来るか?中核自己の領域の働きを必要に応じて使いこなすことによって、大脳辺縁系の有する弱点を補い、大脳辺縁系が仕掛ける罠から脱出することが出来るか?」ということになります。
そのためには、「大脳辺縁系の機能から離れた処にいて(これによって大脳辺縁系の働きだけが自分の全人格ではないことに気付くことができるのですが)、しかも大脳辺縁系の欠陥を露呈するような情動としての精神状態(怒り、納豆のネバネバのようになかなか断ち切れない悲嘆等)とは対極にある感情としての精神状態(「ゆとり・重荷からの解放感・・・楽しさ」と「優しさと・思いやり・・・悲しみを感じる心」)を、日常的に味わいそして使いこなす技を体得できるか?」ということになってきます。

「空ずる」ことが出来るためには、大脳辺縁系の影響を強く受けている「自伝的自己」=吾我(エゴ)が過度に働いていると気付く(察知する)だけでは不十分なのです。例えば肥満の人が毎日体重を測定し、毎日肥満に気付いたとしてもあまり意味がないように。気付かないよりはましだという意見はありますが、「空ずる」ためにはその対象を明確にし、それを消去する技を体得していなければなりませんし、又そうでないと実際の役には立ちません。
*既述で修行者の「坐禅のレベルが神光居士の坐禅のレベルに達していない」というふうに述べ、全てが修行者側の責任であるかのような印象を与えたかもしれません。しかしこの問題の裏にはこの公案の解答を求める師家(しけ、禅で修行者を指導できる資格のある方、一般には老師と呼ばれる方)の力点の置き方、つまり指導方法の相違という問題が潜んでいるのです。
では指導方法の相違というのは何なのでしょうか。この問題もとても重いので別稿で取り上げられる予定ですが、ここで簡単にいってしまえば、修行者の見解(けんげ)が神光居士の体得した「心不可得」の境涯を十分に体得した上で、なおかつ微妙な宗旨を味わうというレベル(境地)を求めているのか、それとも単に知的レベル(見地・禅学)だけで良しとするか、ということでしょうか。
もし見地・禅学が優先されるようなことがあれば、「公案の透過は有れど、境涯の進展は無し」という事態を招くのではと、危惧致します。

*ところで神光居士の伝記をご承知の方は,きっと疑問に思われるでしょう。「確か神光居士は、達磨大師の目の前で自ら左手を切り落とし、それを差し出して入門の決意を表明されたのだから、隻手のはずではないか。彼は両手による「法界定印」はできないはずだ。とすれば神光居士の体得した「心不可得」と,これまで説明されたように「法界定印」を前提にして得られた物とが同一であるという根拠があるのか?
この問いは長い間私の胸の中にあったものですが、漸くこの問題に触れる時期がきたようです。これに関連することは補遺2で触れますが,結論から申せば隻手の方でも,十合目及びその別峰に近い体験は可能だということです。

しかし、両手の方が十合目及び十合目別峰で得られた物と,神光居士が「心不可得」で得られた物とが同一であるという明確な根拠を提出することはできません。というのも神光居士(後に二祖 慧可大師となられる)の伝記(『景徳傳燈録』等)には、繋意の技法についての記載がないからです。

*私は普段結跏趺坐で坐っています。毎回このマップの一合目から始め(会場の状況によっては、三合目から)十合目及びその別峰まで辿っていくようにしています。別峰に辿りつくまでの時間は、40〜50分程度です。(途中特に五合目 木陰で小休止や、六合目 見晴台で大休止の処で4、50分経つ時もあります。又時間に余裕があれば、少し休憩を置いて「奥ノ院への道」の坐禅を行っています)4、50分位経ちますと、足の疲労感が溜まるのか(若い頃はそうじゃなかったのに!)下半身のどこかに痛みを感じてきます。その場合14頁で述べました「左掌に心を安んずる」技法がとても有効です。皆様も是非試みてください。    

*これまでの処で境地・境涯・見地(禅学)という用語を使用しました。これらの用語については、従来の禅ではきちんとした定義はありませんので、私の定義で説明したいと思います。
境地とは境涯と見地(禅学)とを合わせたものです。問題は境涯と見地(禅学)との違いです。これらの定義も又とても重要ですので、別稿で取り上げられます。
次に「調息山」登頂のためのエピローグ(5)で述べた第二の問題に触れます。
これは、生活が行なわれる「場」に絡む問題です。生活が営まれる場が、「僧伽」(我々一般社会人 勤労者・主婦・学生・年金生活者の場合は「接心会」)での生活なのか、一般社会での生活なのかという問題です。

この問題は、道元禅師の流れをくむ曹洞宗よりも臨済宗における問題といえます。
と申しますのも、伝統的な臨済禅では、「僧伽」の生活と一般社会での生活とを区分けすることは曹洞宗ほど厳密ではありません。修行者の立場からみると、むしろ「僧伽」は自分個人の境地を高めるための「場(自利の場)」として、一般社会は他者(物)のために尽くす「場(利他の場)」として、一体的に捉える傾向にあったからです。第二の問題が重要なのは、「僧伽」と一般社会の相違点と共通点とを十分抑えた上で、「僧伽」の生活で獲得した教義や法理更には禅的考え方・見方をそのまま一般社会の生活に持ち込んで良いのか否か、持ち込むとすればその中身はどのようなものなのか、つまり禅修行の場から一般日常生活の場に戻る時に押さえておかなければならないことはなにか?という問題が存在しているからです。(禅修行が出家者中心に行われていた時代には、この問題は浮上しなかったのですが、明治以降多くの一般社会人が禅修行の道に入っていったことから生じたのです。特に先の大戦のときには、「軍国禅」とか「軍人禅」という言葉がもてはやされたのですから)
     
この問題もとても重要ですので、別稿『禅仏教の方向性』で再度取り上げられますが、二つの生活の場の相違点を簡単に押さえておきましょう。(では共通点はなんでしょうか?これまで進んでこられた皆様ならば、もうお気づきでしょう)
一般社会での生活では、伝統的に仏教の「僧伽」で排除されていた政治行動(軍事行動も含めて)・高度な経済活動・生殖行為及び性的行為等は、日常当たり前の行為です。それに加えて現代社会に共通する諸問題(価値の多様化・文明の衝突と言われる位の価値間の争い、グローバル化に伴ってより拍車のかかった経済格差・虚業マネーによる実業への圧迫、大量生産・大量消費・大量廃棄、軍事予算の厖大化・大量破壊兵器の保有・戦争や紛争を待ち望むグループの存在(武器商人や民間軍事作戦請負会社の存在)・軍産複合体による政治的圧力、等々)の凄まじさは、「僧伽」の生活での周辺で観られる自然界における弱肉強食の景色やこれまでの「僧伽」が遭遇した「世の中の混乱」や「戦乱」の比ではありません。

以上のように、一般社会と「僧伽」との生活にはかなりの相違点がありますので、この点を踏まえたとき、禅仏教はどのように対処するのでしょうか?
特に深刻な問題である「価値の多様化・文明の衝突と言われる位の価値間の争い」について、禅仏教は「争い」の場を増々混迷させるように働くのでしょうか?それとも「争い」の場からの脱出策を提供しようとするのでしょうか?このような問題も含めて次稿で検討します。
一方禅修行の後期(奥ノ院への道、次稿では「祖師禅」あるいは「磨甎の道」のレベルと定義されます)での、「正念不断相続」は少しく様相が異なりますが、この点については次稿等で説明します。

以上述べましたように、1自伝的自己を棚上げするために中核自己の領域に入っていく、2「中核自己に備わっている1つめの宝物」(「断」の機能)の体得、3「中核自己に備わっている他の2つの宝物」の体得、4僧伽(接心会)の生活の中での日課に於いて、中核自己の長所と自伝的自己の長所とのコラボレーションを図る、5僧伽(接心会)の生活の中での「全ての言行云為が、「3つの宝物」のどれか一つによって裏打ちされている」ように実践する、というのが禅修行の前期から中期(「如来禅」あるいは「慎独の道」)のレベル)までの階梯であるという私の提案を、皆様には少しは御理解頂けたかと思います。

しかし私の提案の根本にある「中核自己に備わっている3つの宝物」という考え方は、アントニオ・ダマシオの業績によって初めて浮上してきた問題ですから、禅宗の歴史の中では、極めて新しい問題なのです。
その為にこれまでの禅の歴史において、「断」の機能の体得の後直ちに「他の2つの宝物」の体得のための技法の確立という明確な方向性が、生まれてこなかったというのが実情です。(『十牛の図』を見地(禅学)の進展と見るのではなく、境涯の進展という観点で指導されれば問題は生じなかったと思うのですが)

いずれ発表される「印契(手の形とそれに伴う心のありよう)の探求」、「印契を応用した歩行訓練」、「聴覚の訓練」、「視覚の訓練」そして「発声の訓練」は、本稿による「調息の訓練」の後、僧伽(接心会)の生活の中での日課の工夫に入る前の訓練ということで提案されたものです。(つまり中核自己の長所と自伝的自己の長所とのコラボレーションの前に、もっと中核自己の領域に比重を置いた訓練が必要だということになります)

以上のような視点から見ますと、接心会の生活の中で、初心者もベテランの方も陥りやすい穽があることに気付かされます。
それは、我々が一般日常生活で使用していた「イメージと言語の活動」のスタイルを何等のフィルターも通さず、そのまま用いてしまうということです。

実例を挙げましょう。
接心会に参加した初心者に一般日常のことをあれこれ尋ねる先輩がいます。このことは初心者にとってもご本人にとってもマイナスです。折角坐禅を組み、積み重ねてきた禅定の力(中核自己の領域に入ろうとする努力)を、見事に打ち砕くことになり、元の木阿弥状態になってしまうからです。(私が所属する人間禅房総支部の接心会で、先輩たちが口喧しく「私語をするな!」といった意味がここにあるのです)
親しく声をかけるのが親切で、そうでないと新人が集まらないという人がいますが、「接心」ということの本義を緩めるようでは、本当に道を求めてくる人達が却って遠ざかってしまいかねません。雑談するよりは、私がいずれ提案する「印契(手の形とそれに伴う心のありよう)の探求」、「印契を応用した歩行訓練」、「聴覚の訓練」、「視覚の訓練」そして「発声の訓練」を使って、より細やかな指導を試みてください。指導する側にも指導される側にも、実り多きことと思います。

又実例です。主婦の方が、家事に長けているからと、初心者にも関わらず、作務で典座の補助に付けることを時々見かけます。初心者である主婦の立場からみると、一般日常生活で使用していた「イメージと言語の活動」のスタイルをそのまま持ち込むことに何の違和感もありませんが、このような作務の割り当てが良くはないことは、これまでの説明で十分お解かりになったことでしょう。初心者には草取りを、定力をもっと付けてもらいたい方には便所掃除等がよろしいでしょう。とにかく典座の作務はベテランの方でも難しい物です。(禅道場の良し悪しを決めるのは、典座における言葉の寡多ともいえるくらいなのです)

更にベテランの方でも陥りやすい穽があります。それは、提唱の聴聞の構えのことです。
接心会の日課の中で言語活動の介入が最も多いのは、入室参禅と提唱聴聞の場に於いてです。入室参禅の場は密室の中の話ですからこれは置いておきます。
ベテランの方でも、提唱の進行に伴って講本の頁をめくったり、あるいは老師の話の内容に「自分も同じ宗旨と思っている」といわんばかりに頷いたりする方を見かけることがあります。
これでは学校の講義を聴く態度と変わりがありません。19頁で、「全身心を耳にして拝聴すべき」とか「体性感覚を一種のフィルターとして拝聴する」とか、『論語』の「子貢云く、(中略)夫子の性と天道とを言えるは、得て聞くべからざるなり」と述べたことを思い出してください。(提唱というのは本来は、「師家(老師)が体得したものを、引っ提げ持ち来たって大衆面前にて唱え出す」というものです。講本はあくまでも借り物なのです)
ベテランの方ほど、「全ての言行云為が、「3つの宝物」のどれか一つによって裏打ちされている」ように実践することに努めるべきでしょう。そうでなければ、後輩の善きお手本とはいえないのです。
従来のやり方では、公案工夫がややもすると上滑り(先師磨甎庵劫石老漢が云われた「禅学」)になりがちです。(この一つの例を「調息山」登頂のためのエピローグ(3)の「心不可得」の処で示しました)
「公案の宗旨の当てっこ競争」にどれだけ先んじてようと、一挙手一投足に筋が通ってこなければ、それまでの修行は全て砂上の楼閣と言えるのです。

本当に力量ある修行者ならば、そのようなことは手に取るように見えてしまうのです。(次稿『禅仏教の方向性』の「境涯と見地(禅学)」の処でこの問題を再度とりあげます)

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