[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

思考

思考は思考を観れるとは、思考しているということを思考することができること、客観的に観れるということでもある、これが妄想の基、ご用心。
最初の思考そのものであれば問題ない、思考を観ることができるから、さらに思考が増幅してしまう。

坐禅

坐禅は、最初はこころ、すなわち意識に与えられたもの、呼吸とかを観るんでしょう、日常では多すぎて観れないところを、静かに坐って一つを見る。

そのうちにそれと一体化する、これを空という。

でも一体化しただけではダメで、一体化している状態を知らなければならない、ここが難しい、工夫しようとすると分かれてしまうし・・・。

見性

見性とは自他の区別のない絶対平等を悟ること。

これが言葉では理解できても、もともと言葉を超えたものであるがゆえに、概念理解ではどうにもならない部分があるようです。

それで、どうしたらいいのか。

道元禅師は只管打坐を説かれる、ただ坐れということですが、その「只管、ただ」が難しい。

臨在禅では、公案を使う、絶対的に矛盾した命題を考え抜く、そうすると単なる思考そのものとなる、その思考そのものであるとき、その主体が無かったことに気がつくという構図。

しかし、その主体が無いことに気がつくには、日常生活から離れ、「只管、ただ」に専念して、何かのきっかけが必要なようだ。

思考と公案

言葉を覚えたときから、世界が成立したんでしょうけれども、それ以前に回帰するには、やはり並外れた集中力いるでしょうね、概念でも思考でもダメなんだから。(以前はダメだと思っていましたが、回答のでない思考に集中しきると、思考そのものとなり、主体がないことに気がつく、これが公案の成立過程だそうです)

分別しながら・・・対象を意識することが、即、分別じゃないかな。
命名は過去にしているから、意識を何かに移したら自動的に発動していると思います。
とりあえずは、分別が消えてのっぺらぼうになっても、主客の分別は、世界を見る視点の設定は、潜在的に維持されているようですね。

この潜在的な視点が自我とはべつな主体としての我なんでしょうけれども、この主体としての我がないと説くのが仏教の無我、その方法論は思考、イメージに集中して、主体をつぶしてゆくことにあるようです。

我が出るか出無いか

誰かがこけたとき、あつ危ないと助けようとしたときなどは、我が出ていませんが、どんくさいなと嘲笑するとき我があります。
この二人は違う世界に住んでいるのでしょうね。
どんな時に我が出るのかを観察するのもいいかも。

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事