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島根県東部で戦国史を中心に郷土の歴史散歩をしてます。調査のメモを書き残したり、郷土史をつらつらとおしゃべりしたいと思います。
先日4月29日(昭和の日)、奥出雲町馬木公民館からのお誘いで、夕景城址探訪の出かけてまいりました。馬木公民館では、地域学習として一年おきに矢筈山と仏山の登山が行われており、今年は矢筈山に登って、地区に残る史跡を学ぶというイベントとなったわけです。
わたしは今回、史跡ガイドだけでなく道案内も務めることになりました。とはいえ、二年前に登った道もうろ覚えな上に、これまで通過していた伐採された斜面に杉の若木が生長していたこともあって、様子が変わってましたので、なかなか先導も手こずりました。

今回は約30名の参加者と一緒に登りました。地区の方々のみならず、遠く東京から来られた参加者がおられました。また、地区の小学生が4名参加しました。地元の子供たちに、地元に残る立派な史跡を知ってもらうというのがわたしのかねてからの願いだったので、子供たちの参加はとりわけうれしく思いました。

集合場所である吾妻山第一駐車場にて、出発前に安養寺の田中上人から馬來氏についての概要説明があり、それから出発となりました。出発前に雨がぱらついたのですが、すぐに雨はやんで晴れてきまして、恰好の登山日和となりました。

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一時間半の登山で、標高936mの矢筈山山頂に到着(思ったよりも早い到達でした)。昼食の後、城址の説明となりました。上の一枚は、今回説明に用いた夕景城の鳥瞰見取り図です。
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夕景城址最大の見所である大土塁。ちょうどいい場所に参加した小学生の男の子が立っていたので、土塁の大きさが際立ちます。
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土塁の内側や曲輪の際部分には石積みが見られます。この加工は、山の地質がもろいことやそのもろい山肌を削って加工したことから、土が崩れないようにするために押さえとして作られたと説明しました。
山城に籠もるためにもっとも気にかけるべきこととして水源の確保、そのために井戸やため池が設けられた所。また、尾根から迂回する位置に設けられた虎口と枡形虎口の遺構などを説明。これらの特色から、夕景城は戦国時代後期に当たる1570年頃に完成されたこと、また多くの特色が、毛利氏による改修が行われた城砦の特徴であることを説明しました。
実際に歩いて探訪して、城址が意外と大きな規模であることを実感された方も少なくありませんでした。一千メートル近い高所に、しっかりと普請がなされた、完成度の高い山城跡というのはそれだけでも特筆すべきものであり、わたしが「奥出雲の天空城」と呼んで広めたいと思っている歴史遺産であるのです。

主要部である西の峰主郭群を探訪した後、鞍部を渡って東の峰曲輪群を探訪しました。こちらは主郭群と打って変わって規模が小さく、小規模な曲輪とまわりに設けられた腰曲輪を特色とする形態です。主郭部となる最高所の曲輪も、参加者全員で立つことができないほど小さなものでした。
こちら側は、急峻な地形をそのまま利用し、加工は最小限であることから、時代としては南北朝期から戦国前期という古い時代の築城技術で作られていて、はじめに建てられたのはこちらと考えられることを説明しました。
夕景城址はその史跡範囲の中で、比較的古い時代の城砦と新しい時代の城砦の違いを観察できる史跡でもあるのです。

今回は説明に忙しくて、新しい写真を撮ることがなかなかできなかったのです。

探訪してみて思ったこととして、城址の中は腐葉土の堆積がさらに進んでいたり、サワフタギなどの低木にまんべんなく覆われているなどして、ますます探訪が難しくなっていると感じました。四年前の矢筈山登山から利用している南斜面直登コースは、案内看板が一部設けられたとはいえ、造林がさらに成長するとかえって通過が難しくなるのではと危惧しています。また、このコースは相当に急なコースなので、一般客にはあまりお勧めできません。
史跡の保存や活用、わたしの念願である、矢筈山を地元小学生が遠足で登る山に、という目標を達成するには、登山遊歩道の整備が急務であると思いました。そのためには、登城路がどこかを突き止めねばと思うのですが、これが当面の課題でしょうか。

とはいえ、登山を終えて、皆さん無事に帰ることができました。概ね楽しい時間を過ごせたようで、また、奥出雲の天空城について知っていただけて、今回の探訪ツアーもひとまず成功に終わってよかったと思います。

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日々の多忙につき、歴史調査も史跡探訪もままならず、このブログも更新頻度がきわめて希なほどになってしまいましたが、読者の皆様はお元気でしょうか。

さて、奥出雲町馬木公民館からお話があり、今年も公民館主催の行事で矢筈山登山が行われます。
馬木公民館では地域学習として、矢筈山登山と仏山登山を一年おきに開催されていますが、今年は夕景城址のある矢筈山に登る順番だと言うことです。
四年前、二年前と同様、城址ガイドとしてわたしも参加いたします。

それでは、計画の概要をお知らせいたします。

日付 4月29日(土曜日・昭和の日)
集合場所・時間 奥出雲町大馬木 吾妻山第二駐車場 9時30分集合
タイムテーブル
9:30 集合。夕景城址概要説明。
10:00 登山開始
12:00 山頂到着予定。昼食。
    夕景城址の探訪と説明。
13:30 下山開始
15:30 解散

集合場所の吾妻山第二駐車場は、県道25号線を山地に向かってひたすら進めば到着しますが、場所のわからない方のために、9時に馬木公民館に集合して移動することも計画されています。

季候もよくなり、登山に適した季節になりましたし、一週間予報を見ますと天候に恵まれそうです。新緑の季節、奥出雲の天空城を訪れるこの計画にどうぞ参加されてはいかがでしょうか。

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久しぶりに週休となり、天気もよかったので月山冨田城を久しぶりに探訪しようかと思っていたのですが、
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現在、整備工事の真っ最中です。
山頂城郭群周辺の伐採作業は昨年には行われていましたが、現在は七曲がりの登城路周辺の伐採と山道整備(階段整備)の工事がなされているようです。工期は今年十一月末までの予定。よって探訪ができなかったわけですが、整備された月山冨田城の姿を楽しみにしたいところです。

それで予定を変更し、一度訪れて印象深かったところを再度探訪することにしました。奥出雲町上阿井に所在する「たたら角炉伝承館」です。
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角炉は、1893年(明治26)に官営広島鉄山の技師黒田正暉によって開発された、従来のたたら製鉄と西洋式の高炉製鉄を折衷した、銑鉄製造の溶鉱炉です。三日三晩で操業を止めるたたら製鉄よりも長く連続操業でき(三ヶ月程度)、高炉よりも低温で製鉄することで、不純物の少ない高品質の銑鉄が生産できるものです。最初に作られた角炉は、北九州に造られた官営八幡製鉄所が安定操業するようになった1904年(明治37)に廃業しましたが、明治から大正にかけて島根県東部山間地に黒田式角炉が多く建設され、操業されました。洋鋼の流入によって和鋼の生産、流通に大きな打撃を受けた出雲地方の製鉄業者は、当時の新技術を積極的に取り入れて再起を試みたのです。
上阿井にあるこの角炉は、出雲の鉄師のひとつ櫻井家によって操業されていた槙原角炉を復元、保存したものです。島根県の角炉で生産されていた銑鉄は軍艦に搭載する艦砲の砲身に使用されるなど、高品質が求められるものの素材に使われましたが、第一次世界大戦が終結すると需要がなくなり、ほとんどが廃業しました。槙原角炉は一時廃炉となったものの、1935年(昭和10)に再建され、1945年(昭和20)まで操業されました。その後廃炉となりましたが、資料写真によると、伝承館として復元されるまで煉瓦造りの高炉は形をとどめています。なので、ここに残る角炉は復元というより、現存というほうがただしいのでしょう。

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伝承館内部は保存された角炉と資料、そして当時の作業を模した人形によって、どのように操業されていたかが説明されています。地上階部分では、一方から砂鉄と石灰、反対側からは木炭が投入されていく様子が示されています。これを15分ごとに行っていたということです。作業は24時間連続、12時間交替です。
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地下部(炉床部)では、生産された銑鉄を取りだし、砂型に流し込んで製品化していく様子が。反対側の口からは鉱滓を排出していきます。
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たたら製鉄といえば、近世の高殿たたらで用いられた足踏み式のふいごが有名ですが、近代たたらや角炉では、水車を用いた送風設備が使用されています。槙原角炉で使用された水車と送風設備はなかなか大きなものでした。

たたら角炉伝承館は奥出雲町上阿井、鉄師櫻井家の資料館である可部屋集成館の近くに所在します。入場観覧は無料ですし、出雲の鉄に関心のある方はぜひ訪問してみることをお勧めします。

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萩城下 馬來家旧宅

なかなか遠出ができない日々ですが、久しぶりに休みが取れたので、少し遠方に足を伸ばしてきました。山口県萩市です。多くの方々がご承知の通り、長州藩毛利家三七万石の城下町で、吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作などを産んだ維新胎動の地です。

今回探訪した目的は、萩城とその城下町を見聞するためでした。萩城は日本海に面した陸繋島である指月山と、阿武川河口の三角州という、天然の水堀という地形を生かした場所に築かれ、三角州に城下町が広げられています。その三角州にも内堀(橋本川から菊ヶ浜にかけて)と外堀が開削され、内堀の内部は二ノ丸、内堀と外堀の間は三ノ丸として構成されています。
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  北の惣門
堀内と呼ばれる三ノ丸は、北の惣門、中の惣門、平安古門の三つの城門をもち、外郭には土塁もあります。堀内は上級武士の屋敷が建ち並んだ地区であり、石垣、土塀、隅櫓や長屋門が設けられて、有事の際にはそれぞれが小城砦として機能する仕組みになっていました。

その堀内にあるひとつの物件が、萩を訪れた大きな目的でした。
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「馬來杢旧宅地」です。堀内の三年坂筋という場所にあります。
出雲国仁多郡馬木郷の国人領主で、出雲十旗のひとつに数えられた馬來一族の末裔が暮らした武家屋敷跡です。
馬來氏は出雲十旗のひとつとして尼子氏に従っていましたが、毛利元就の出雲進出を機に毛利氏に帰属します。天正十七年(1589)に通達された惣国座替で、馬來元貞は先祖伝来の土地を離れて広島へ、関ヶ原以降に萩へ移ります。元貞からは元行、元昌、元次、元征の四人が生まれ、分家しました。この馬來家旧宅は、元貞次男元昌の家族が代々住んでいました。馬來元昌は萩藩大組士に列し、361石の扶持を与えられていました。
看板では「馬來杢旧宅地」となっていますが、馬來杢は前原一誠の起こした萩の乱に前原党のひとりとして参加し、二番隊隊長を務めたことで名が残っています。

萩の城下町は、山陰本線が建設された時も、城下町を迂回するように線路が敷設されたこともあり、江戸時代の町並みがほぼそのまま保存されています。現代でも江戸時代の絵図を見て歩けるといわれるほどです。さらに、この萩城下町は、「世界遺産 明治日本の産業革命遺産」に含められています。
堀内には口羽家の門、益田家物見櫓、周布家長屋門、問田益田家旧宅土塀などが文化財として現存していますが、馬來杢旧宅も同じ文化財としての案内板が設置されています。渡り塀、長屋、門、井戸、礎石が現存しており、藩士邸宅の全体的な姿を残している物件です。今後整備も計画されているとのことで、歴史文化財として活用されることに期待したいです。

奥出雲の天空城を拠点にした馬來一族のその後の姿を語るものが、長州の萩に今も残るということは、歴史ロマンを追う者として心をくすぐられます。


(馬來杢旧宅地などの情報については馬來氏末裔の馬來信武様からいただいたものに拠ります。この場を借りて御礼申し上げます)

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城址探訪 蔀山城

私事ながら、昨年九月に転職し、以来多忙を極めていまして、郷土史調査を行う時間を取れないでいました。そのため、このブログも一年足らずの間休業状態となってしまいました。長らくお待たせいたしまして申し訳なく思います。

やっと得た休日を使いまして、今日は探訪しようと長らく思っていた、北備後の城館遺跡を三ヶ所、巡ってまいりました。
中国筋、とりわけ中国山地の辺りは、山陽側の大内氏と山陰側の尼子氏という二大勢力の狭間にあり、両者の勢力争いの繰り広げられる現場となってきました。その地域に割拠し、両者の争いに関わってきた国衆たちについて理解を深めようと思い立ったのです。

まず訪れたのは、広島県庄原市高野町の蔀山城です。


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毛無山尾根筋先端に位置する、標高775mの蔀山の山頂部を中心に築かれた山城です。正和五年(1316)、地毘荘地頭として来住した山内三郎兵衛尉通資が築城したのが始まりとされます。通資は元享年間に本拠地を甲山城に移し、弟の五郎通俊に城を譲ります。通俊は多賀山氏を名乗り、以来多賀山氏代々の居城となります。

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県指定史跡である蔀山城址は公園となっており、主郭である山頂部は東屋が建っています。麓からの遊歩道があるので、比較的探訪しやすい城跡です。
山頂部は東西に延びる形になっており、北側は岩盤の露出する断崖となっています。南側も急斜面ですが、こちらには尾根筋があり、麓に向かって小郭が連なっています。
山頂の主郭は長さ、幅とも15m程度の曲輪で、灌木が茂っていたこともあり、広くは感じませんでした。
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主郭から東に向かう尾根筋は、二の段、三の段が構成されています。長さ30m、幅15m程度ですが、山城の曲輪としてはそこそこの広さとなっています。
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二の段の南側に水の手があり、井戸の跡が残っていました。跡というより、今も湧き出している泉です。飲めるかどうかは試しませんでした。
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登城路は城域の北西側からの尾根筋を通るのですが、そこには堀切が切ってあり、道を遮断しています。堀切を渡ると急斜面がはじまるので、なかなかとりつき難い構成になっています。

蔀山城は多賀山氏代々の本拠地となっただけあって、全体的に普請が丁寧で、遺構も明瞭に残っていました。興味を引いたのはその構成で、出雲地方に残る典型的な山城の形、つまり自然地形を利用して人工的な加工をあまり行わない形状であることが観察されました。南北朝から戦国前期の山城の形が残っている遺構だと言えるでしょう。

天文四年(1535)、毛利元就は蔀山城の多賀山通継を攻め、包囲してこれを降伏させています。元就の戦いを描いた軍記『安西軍策』では、この時厳重な包囲で兵糧攻めをしたものの蔀山城衆は持ちこたえており、元就は、もしかしたら秘密の糧道があるのではと考えて綿密に探ったところ、蔀山城では寄せ手の死角になる崖下に綱を渡し、大きな瓢を使って、いわばロープウェイの要領で兵糧を補給しているのを発見。元就は桂元澄に綱を矢で射るよう命じ、元澄は一矢でこれを射切ります。程なく蔀山城は降伏したという記述があります。

遊歩道が設置され、県指定遺跡ともなっている蔀山城址ですが、遊歩道は倒木で遮断されているところが数多くあり、整備される必要があると感じました。また、東屋も設けられているのですから、主郭部分の樹木を梳いてやれば、高野町の高原地帯の眺望を楽しめるであろうにとも感じました。

続いて探訪した城址の記事は、明日以降にまた掲載する予定です。

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