ここから本文です
島根県東部で戦国史を中心に郷土の歴史散歩をしてます。調査のメモを書き残したり、郷土史をつらつらとおしゃべりしたいと思います。

書庫全体表示

尼子時代史の黎明期、安来の有力国人であった松田氏は、応仁・文明期には国一揆の中心的存在として尼子清貞に抵抗していました。清貞は守護体制への反抗である国人一揆を制圧することができず永続化したとみられ、任じられていた美保関代官職を全うできなかったことの責任をとって守護代を解任されるに至ります。守護代になった清貞の子経久は、能義郡の国人たちと連携することで尼子家の安泰をはかり、文明十六年に守護代を解任されたものの実力で返り咲きました。この背景には松田氏、中井氏と言った能義郡の国人たちが経久に協力していたことがあり、それゆえに、能義郡の国人衆は尼子家の政権下で重要なポストに抜擢されていきます。中井氏は尼子氏の家老として政務に携わっていますし、松田氏は尼子家直参ではない出雲衆でありながら(竹生島奉加帳を参照)尼子氏の政治文書に署名が残り、政権中枢で活動していたことがわかります。
 
松田氏について言えばその重要度は、雲陽軍実記に記述のある「出雲十旗とは、第一に白鹿、第二に三沢、第三に三刀屋、第四に赤穴、第五に牛尾、第六に高瀬、第七に神西、第八に熊野、第九に真木、第十に大西」の筆頭として挙げられていることに示されています。筆頭の白鹿城は、松田左近将監満久が城主だったからです。
 
イメージ 1
白鹿城址(松江市法吉町)。右側の峰が本城で、左の峰が小白鹿城。はじめに小白鹿城が建設され、時代が進むにつれて城域を広げたと考えられている。白鹿城城塞群は周辺の峰峰に設けられた出城を包含した連郭式山城で、その城域は相当に広い。
 
安来が本拠地だった松田氏ですが、文明五年に法吉郷の領有権を認められ、一族がその地に移転したようです。法吉には松田屋敷と呼ばれる居館跡も残ります。白鹿城の築城年代は定かではありませんが、文明五年以降であろうと考えます。もっとも、拠点となる安来には惣領家など一族が残っていたと思われます。尼子の政治に参与していた越前守経通や三郎兵衛尉綱秀は安来領家の松田氏だと思われます。 (そもそも、出雲十旗は禄の順に列記されており、禄高で筆頭にあげられるには法吉郷では不足であるのは明らか。このことから、松田氏は安来にあった元々の所領も確保していたことがわかる)
法吉郷の取得を松田氏が望んだ理由は、ここが古代から開けた土地であっただけでなく(興味を引くことだが、松田屋敷跡の正面は、律令時代に開かれた条里田が広がっている)、中海・宍道湖間の水路を抑える要衝のひとつだったことおよび島根半島の浦々を結ぶ交差点に位置する、経済的に重要な拠点であったことがあります。同時に、白鹿城は月山富田城に食料物資を輸送するルートの要となる所でもありました。
そのような要所を守る城主でしたので、尼子経久も政略をもって関係強化を図ります。嫡子である政久の娘(尼子晴久の姉)を、白鹿城主松田左近将監満久に嫁がせたのです。 
毛利元就が出雲に侵攻した際、月山富田城を攻撃する前に白鹿城の攻略に着手したのは、後顧の憂いを断つためと、月山富田城の糧道を切断するためでもありました。
 
永禄六年、宍道湖北岸の洗合城に進出した毛利軍は白鹿城攻撃を開始します。毛利軍は一万八千、対する白鹿城衆は二千人足らず。勝敗は目に見えていましたが、城主の松田左近将監満久、その弟普門西堂、左近満久の嫡子である兵部丞誠保らは奮戦し、三ヶ月の間城を守りました。軍記物では、矢文合戦や、毛利方が石見銀山の鉱夫を動員して坑道を掘って水の手を切ろうとすると、城からも坑道を掘って地中で迎撃する「もぐら合戦」など、多彩で激しい攻防戦が繰り広げられています。 地中戦というのは軍記の脚色のようにも思えますが、実際に毛利家中の武将の覚え書きに記録があります。また、法吉村誌では、明治十年頃に白鹿山を探訪した旅人が、白鹿山の蘭胴尾崎というところで坑道を見つけ、そこからは水が流れ出ていたという話が載っています(わたしは残念ながら、まだ探し当てていないのです)。史料を見るならば、白鹿城攻防戦での永禄六年九月付吉川元春手負注文で、ある戦闘における吉川軍の将兵に「死傷者52人そのうち5人戦死。負傷者は刀傷1名、矢傷6名、礫傷5名、鉄砲傷33名」が出たことが記録されています。このことから白鹿城側には鉄砲装備が充実しており、果敢に防戦していたことがうかがえます。
とはいえ、防衛の頼みだった月山富田城からの援軍は、永禄六年8月15日の馬潟原の戦闘であっけなく敗退したので、結果的に白鹿城は見殺し状態になり、矢玉も尽き水の手も切られてしまったことでもはや抗戦できず、城は陥落。満久の妻である尼子晴久の姉と普門西堂は自決。一方、左近満久と嫡子兵部丞誠保は城を脱出し、中海のほうを目指して逃走します。中海は松田氏の制海権のうちにありましたし、海路で安来もしくは月山富田城に戻って再起を図るつもりであったのだろうと考えられます。その逃亡ルートから考えると、松田父子と主従が目指したのは現在の新庄町、わたしが以前に探索した海賊城である新庄城山城だった可能性もあります。

 
イメージ 2
松江市福原町にある、松田左近満久の墓です。
逃走中に、細工峠というところで毛利軍の追っ手に追いつかれた松田父子は、満久が命がけで血路を開いて誠保を逃がし、満久と供の者は細工峠で討死しました(左近が討たれた所なので「最期峠」、それが転訛して「細工峠」になったともいう)。
雲陽軍実記によると誠保は島根半島の山脈を越えて隠岐に逃れたと記述されていますが、史料「冨田下城衆書立」(佐々木文書)に名前が出ており、尼子義久が降伏して月山冨田城を明け渡した時点で冨田城にいたことが明らかになります。白鹿城落城後も冨田城にいて抗戦していたのです。この時に兵部丞誠保の子息として万千代、千々世の名前も書かれています。子息が幼名であることから考えても誠保が比較的若年であったことがうかがえます(白鹿城の案内板や地元資料のいくつかに、白鹿城主は「尼子晴久の姉婿松田左近誠保」と書かれているのだが、婚姻するには年齢層が合致しないし、史料などを見ても誠保が「左近将監」を号したことはない)。冨田城開城後に松田誠保が隠岐に退転したのは、松田氏が隠岐の国人たち(隠岐海賊衆)との結びつきがあったからと考えるのは難しくないと思います。
後に、尼子勝久、山中鹿介らが出雲奪還を目指して挙兵し、隠岐に渡ったときに、松田誠保も尼子再興軍に加わり戦いますが、尼子再興軍が出雲からの撤収を余儀なくされると同時に再興軍を離脱。その後は武士を捨てて野に下ったとも、赤穴氏の客分になったとも伝えられます。
 
松田左近将監満久とその息子兵部丞誠保は、松田一族の惣領家ではなかったと思われますが、尼子氏の防壁を担う武将としての役割をつとめ、尼子再興軍でも働きを見せた、勇敢な尼子武士の一員であったといえます。

この記事に

  • 顔アイコン

    白鹿城篭城戦は、尼子衰退期で1番の激戦ではなかったでしょうか。毛利の大軍に対して果敢に抗戦した松田満久の用兵が、如何に優れていたかを証明する様な合戦だったと思います。
    松田誠保は尼子義久の従兄弟に当たります。年齢としては、義久より少し上くらいだと思います…。 削除

    [ 佐佐木一鵺斎 ]

    2013/9/15(日) 午後 10:04

    返信する
  • 顔アイコン

    >>佐佐木一鵺斎様
    白鹿城攻防戦の直前に、毛利家は当主の毛利隆元が急死しており、この戦いは隆元の弔い合戦に位置づけられたので、かなり激しく白鹿城を攻め立てています。それに対して、孤立無援のまま三ヶ月持ちこたえたのは、敗北したとはいえ松田左近と白鹿城衆の力量も評価されるべきだろうと思います。

    [ miyazaco. f, ]

    2013/9/16(月) 午後 8:41

    返信する
  • 顔アイコン

    松田満久と白鹿城兵の奮戦振り、尼子ファンとして胸が熱くなります。
    歴史に「もし」は無意味ですが、白鹿で毛利軍を撃退出来ていたら、流れは変わったと思いますよ。 削除

    [ 佐佐木一鵺斎 ]

    2013/9/16(月) 午後 9:04

    返信する
  • 佐々木さん
    元就存命中は大勝しても流れは変わらないのではないでしょうか!?
    by 石州みかん

    [ 喰わねどつまようじ ]

    2013/9/17(火) 午後 6:36

    返信する
  • 顔アイコン

    >>佐佐木一鵺斎様
    軍記の中で数章に渡って白鹿城攻防戦が記されていることからしても、この戦いの重要度が高かったことがわかります。
    ただ、籠城もいつまでも続けられる戦術ではありませんでしたし、荒隈城に本営を設けて長期遠征を進めていた毛利軍は補給も十分で、善戦したとはいえ勝ち目はほとんどありませんでした。惜しまれるのは、馬潟原で一度撃退された後も三ヶ月持ちこたえているのに、冨田城からの援軍が派遣されなかったことですね。

    [ miyazaco. f, ]

    2013/9/17(火) 午後 7:20

    返信する
  • 顔アイコン

    >>喰わねどつまようじ様
    コメントありがとうございます。
    歴史のifはロマン込みですので突っ込むのも野暮な面があるとは思うのですが、それはさておき。
    確かに、兵力の動員数や長期戦に備えてじっくりと作戦を進めていた毛利軍ですから、たとえ白鹿城攻略が思うように進まなかったとしても有利は動かなかったと思います。が、作戦の失敗によって諸将に、特に国人武将に心理的影響を与える可能性はあるかもしれません。元就は大内義隆の轍は踏まないように入念に策を練っていたわけですが、腹背常ならない国人の支配は調略では縛れないこともあります。
    まあ、歴史にifはないのですけどね。

    [ miyazaco. f, ]

    2013/9/17(火) 午後 7:28

    返信する
  • 顔アイコン

    末次や白潟等、その当たりに毛利軍の兵馬が充満したと言われていますから、落日の尼子軍が正面から当たっても勝ち目は無いでしょう。ただ、綻び次第では戦局が流れる可能性はあったのでは、と思いました。
    まぁ「もし」の世界だから、好き勝手言えるのですがね。 削除

    [ 佐佐木一鵺斎 ]

    2013/9/17(火) 午後 8:12

    返信する

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
  • 名前
  • パスワード
  • ブログ

開くトラックバック(0)

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事