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2012年5月13日。
初めて宮城県を訪れました。 現地で見たこと聞いたこと話したこと・・ 被災地のその後を何回かに分けて記事にしていきます。 「牡鹿郡女川町(おしかぐんおながわちょう)」 震災までは女川町という地名も知りませんでした。 震災後始めたTwitterで知り合った支援団体「イーガ女川町を支援する会」を通じて、 現地の商工会婦人部代表者さんと繋がりました。 個人支援で自分でできることをして来ました。 宮城県には友人のてるさんもいました。 震災から1週間くらいずっとしんどくて、 あの日私は普通にお菓子食べて笑ってたのに、その瞬間に2万人以上の人が命を失った。 どうにもならない気持ちで何かできることを・・と始めた個人支援でした。 1年2ヶ月経って、やっと女川町に行けました。 そして、支援先の代表者さんとも会えました。 そして、初めて自分の目で被災地を見ました。 絶対今のうちに行かなければいけないと自分自身思っていたのです。 何枚か写真を撮りましたので掲載します。 ※(昨年5月)と記載のあるものはブロ友のたけしさん撮影です。 使用OKをもらえたので抜粋して掲載させて頂いてます。 ※たけしさんの写真と見比べて撮った訳ではないのですが、同じ様な場所を写していました。 現地では、友人のてるさんに案内をして頂きました。 車で峠を登り、さあ下ろうかという場所ですでに海が見えます。 津波前までその位置で海は見えなかったそうです。 漁港の街が全て流されているということです。 港に到着しました。 きれいな海です。 この周りの景色を見なければ爪痕は分かりません。 海に向かって左側。 ビルごとひっくり返って土台が見えています。 1F部分に流されて来た赤い車が引っかかっています。 このビルの1年前です。 (昨年5月) 1年経っても車は引っかかったまま。 海の反対(内陸)側。 (昨年5月) (今年) だいぶ瓦礫が撤去され更地に近い状態です。 ゴロンと倒れたビルはそのままです。 よく見ると山の斜面に「we♡女川」の文字が見えます。 この漁港の街並み。 (昨年5月) 今年。 緑のビル(この緑部分屋上です)以外はほとんど取り壊されてされていました。 去年はマリンパル女川跡がまだ残っていましたが、すでに取り壊されていました。 マリンパルは女川町を活気づけていたおさかなセンターです。 今は内陸の山間に縮小されて移っています。 (昨年5月) マリンパル女川の内部。 (昨年5月) 港から少し北西にある女川町役場。 (昨年5月) 今年。 取り壊しが始まっていて、近くまで行くことはできませんでした。 あの日屋上にいた人は助かったそうです。 少し高台なので4階建てビルくらいの高さと考えても全部浸かってしまうほどの波の高さです。 その後ろ・・女川駅終点。 (昨年5月) 今年。 角度が違いますが、だいたい同じ場所ではないかと思います。 だいぶ瓦礫撤去も行なわれています。 ここが駅だったなんて想像もできない。
さて、上記出のマリンパル女川。 現在は海から離れた山間の中腹で規模を縮小して再開されています。 当日はイベントもあり、かなりの賑わいでした。 鮭のアラ汁(無料)。 濃いめでしたが旨い(^-^) お腹すいてたのもあってペロリといきました。 以前の場所では16店舗で構成されていたそうですが、今は6店舗が出店しているそうです。 ここに出店している1件の乾物屋の女将さんが、 個人支援で繋がった婦人会の代表者さんでしたので会って来ました。 わざわざ広島から来てくれて・・ と、お土産をたくさん頂きました。 私がお土産を買って帰ろうと思っていたのに、逆にもらってしまうなんて・・ 少しでも被災地に協力したいのにこれはいけないわって一瞬思いましたが、 でも違うと感じました。 「同じ目線が必要なんだ」 彼女は遠くから来た私に誠意をくださった。 だから私もいっぱいその誠意を頂きました。 もちろん自分用のお土産も買いました。 彼女はこう言いました。 「津波後の店に行ったら毎日自分が着てたジャンバーが引っかかってた。涙が出た。」 「でも、前を向いて行かないとね・・」 皆がそう言い合って支え合って進んでいるんだと感じました。 ここは女川町の「希望の鐘商店街」です。 次回紹介します。 →(女川町その2) ※今回被災地の写真を提供してくださったたけしさんは、 ご自身が阪神淡路大震災を経験されています。 どうにもならない思いに突き動かされて記録されたんだろうな・・と、 その文章から伝わって来ます。 たけしさんのところには、東日本大震災のかなり詳しい記事がありますのでご紹介します。 「旅行記、鉄道、阪神大震災、軍事など 」 |
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私の会社には発生20分後に震災の仕事が入り、
ただごとではない。。。。新潟の規模より大きい。。。
どう仕事を分散して手配をするか?を考えましたよ。
結果として国土交通省から2枚の感謝状を頂けましたが、
人として当たり前のことを迅速に正確に行っただけです。
今後、有ってはいけませんが、今まで以上のリスク管理をしました。
阪神、イラン、新潟、東日本の4つの震災を対応しましたが、
今、自分の立場で何をすべきか?を考えて行動すべきですね(^^)
2012/5/24(木) 午後 7:38
うわあ、まだまだこんな状況なのかぁ・・・
NEWSは最近、とんと伝えないから、行かなきゃわからんね。
ポチっとな
2012/5/24(木) 午後 8:48 [ - ]
ききしにまさる光景だな
阪神淡路のときもこんなんだった
まだまだできること支援やっていかねば
時間とともに風化させてはいけないと感じた
これからもできることやっていきたい
びりょくでも必ず
2012/5/24(木) 午後 10:12
なんとも言えない気持ちになりました。。。
2012/5/24(木) 午後 11:05 [ ayaran ]
私が最初に仙台に入ったのは
震災後半年だったんで
『本当にコレをどうすればいいんだろう??』
って思いました。
瓦礫が道を塞ぎ
ちょっとしたい日常品の山が木の根元に積み重なっている。。。
これはどう考えても国家レベルの力が無いと
元には戻らないなぁ〜っていうのが実感でした。
ニュースで何度も見た光景なんですけど…
実際見てみると本当に言葉がでないんですよねぇ〜。。
2012/5/25(金) 午前 6:05
記憶を薄らげていってはいけないなと
痛感いたします。
2012/5/25(金) 午後 6:01
maiさん
>人として当たり前のことを迅速に正確に行っただけです。
この言葉にmaiさんの思いが全て凝縮されているようですね。
1年前のmaiさんは必死だったと記憶してます。
私達は同じ日本人として、たとえ離れた場所にいても、
後世に伝えていかねばならぬ役目を皆が負っていると思います。
2012/5/26(土) 午後 4:57
5/24(木) 午後 7:39さん
おっしゃる通りと思います。
1年経って行く意味も少しはあったかな・・
まだこんな状況だなんて、発信されないと知らないですもの。
西にいると聞こえてくるのは原発問題がほとんど。
この国で原発に頼って生活してい以上切って切り離せない問題ですが、
未だビルが転がっている場所に暮らす人々を知らないまま何を語れるでしょうかね・・
2012/5/26(土) 午後 4:59
見太郎先輩
メディアは旬なことしか伝えないのは致し方ないですが、
情報を多方面から収集できる現代、
自分のアンテナ回し続けとかんといけんと思いました。
行って良かったです。
2012/5/26(土) 午後 5:01
ももじろうの旦那
>時間とともに風化させてはいけないと感じた
>これからもできることやっていきたい
>びりょくでも必ず
私もこの思いです。
今や観光地ですよ。この転がったビルの横に仮設トイレが出来て、
みんな写真撮ってる・・(私もいっしょ)
でも、それでも良いと思います。
行って見て知るって大事ですね。
阪神淡路の時は確か2年後くらいに行きましたが爪痕はほとんど無かったように記憶してます。
2012/5/26(土) 午後 5:05
ayaranさん
私もなんとも言えない気持ちでした。
あまりにも更地が多く、今から開拓される前のよう・・
でも、引っかかった車も小型の船もまだ道路に置かれたまま。
ほんまになんとも言えん気持ちです。
2012/5/26(土) 午後 5:07
トミー
1年以上経って、それでもだいぶ片付いたんでしょうね。
1階部分が骨組みになったままの家がまだ取り壊せずにぽつぽつとありました。
まだゴミが積み重なってる場所もありましたよ。
地元の人達が頑張って行く必要もあると思いますが、
高齢化や過疎化問題など、元気を取り戻すには厳しい現実に直面しています。
2012/5/26(土) 午後 5:17
5/25(金) 午後 3:15さん
自分がそこにいたらどうだったのか、とか、
何故自分はそこにいなかったのか、とか、
どうして私が生きてて彼らは死んでいるのか、とか・・
考えて考えて辛く痛い思いを感じますね。
皆繋がっているからだと思います。
仏教的な話になりますが・・私はそう思っているので、出来る限りのことが継続できればいいなと思います。
2012/5/26(土) 午後 5:20
いっちいさん
はい、ほんとにそう思います。
忘れないことは大切ですね。
それに尽きます。
2012/5/26(土) 午後 5:22
阪神大震災の時よりも、みんなが助け合ってると感じるよ。どんな小さい事でもいいから、出来る事をしよう。
2012/5/27(日) 午前 0:29
あの震災の時仕事で軽トラに乗っていて、電線がブルンブルン揺れているのを見て、これはただ事ではないと直感しました。
急いで事務所のテレビを点けたら、そこには信じられないような光景が広がっていました。
自然の恐ろしさに声が出ませんでした。
あれから地震が起きるたびに、ついに来たか! と異常に怯えるようになってしまいました。
避けられない、どうしようもないことかもしれないけど、もう嫌です。
被災地に行く勇気はありません。
情けないコメントで申し訳ない。
2012/5/27(日) 午後 8:59
コンタミっち
そう言われて初めて気付きました。
確かに、阪神淡路は近県ではあったけど、
大親友も居たし、しばらく心配もしてたけど・・
でも自分たちのこととして捉えられなかったかもしれません。
2012/5/28(月) 午後 2:01
隊長
私は離れている分、まだ「ひとごと」なのでしょう。
隊長の感じた恐怖も分からないのです。。。
だからこそ忘れないために何かをせずにはいられないという思いです。
「転がったビルを後世に伝えるためにひとつでも残せないのか?」
「外の人はそう言うけど、被災者からしてみたら早く無くしてしまいたいはず」
てるさんと現地でこんな話をしました。
あの恐怖を味わった人とそうでない人、両方の思い・考え、いろいろ話をする機会が少しでもあるといいなと思います。
2012/5/28(月) 午後 2:06
マリンパル女川は損傷が少なく新しかったので解体するとは思いませんでした。転がったビルはものすごく学術的価値があるそうで保存の可能性があります。
2012/5/29(火) 午前 0:48 [ たけし ]
たけしさん
そのようですね。コンクリートの建物が津波で倒壊した例は世界でもまれと出ていました。
なるほど。実際それぞれがロープで囲われてました。保存への動きがあるんですね。
地面から剥がされるとは相当な威力だったのでしょう。
マリンパルは写真を見る限り損傷があまりないようなので、私もなぜ解体したのだろうと思いました。4月の20日前後に解体されたようです。私が行ったのがちょうど解体されてすぐ後だったのですね。
2012/5/29(火) 午後 8:18