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まだ学生だった頃の話ですが、南溟寺に行った時、親戚のおっちゃんから「渡辺の殿さんの墓見にいこか」と言われお墓を案内されました。当時は渡辺の殿さん?それは誰や?という感じでした。その時の説明では大津を治めていた殿さんと理解しました。しかしその時は、殿さんといえば、お城に住んでいるという印象があったので、どこに城があったんや?という疑問もわきました。泉大津の人間にとっては、すぐ近くに立派な岸和田城があったので殿と名のつく人はああいう立派な天守閣に住んでたという印象が強かったのです。

さて、その渡辺の殿さんですが、最近調べていくうちにだんだんいろいろなことがわかってきました。和泉国の伯太藩の藩主で、最初は大庭寺藩の藩主でした。大庭寺というのは、今の堺市の大庭寺で、その後本拠を伯太に移し伯太藩となりました。伯太藩というのは、陣屋を今の和泉市伯太町にかまえていました。立派なお城はありませんでした。近世の城下町は大阪城を別格とすれば、大阪地域には有力大名がいないこともあって、摂津国の高槻と和泉国の岸和田の2都市だけだったようです。伯太藩の陣屋の周辺は、武士と商工業者の家屋敷があり、純農村とは異なる集落でありましたが、それほどの規模はなかったようです。石高は一万三千五百石で、だんじりの歌でも有名な岸和田藩の五万三千石から比べても小さなものでした。


さて、最初に私が最初に興味を持ったのは、この渡辺の殿さんと岡部の殿さんとの関係でした。同じ和泉国の藩主で仲は良かったのか?交流はあったのか?あれば庶民の祭りの話もしたのか?といろいろなことを考えました。
興味深いことにこの2人の江戸上屋敷は隣どうしにあったようで(同じ和泉国の領主ということで当たり前なのかもしれませんが・・・)江戸に参勤交代した時はいろいろ情報交換もしたのかと想像します。その時に祭りの話もでたのでしょうか?


さらに興味深いことを発見しました。渡辺の殿さんは当然大津の殿さんと思っていたのですが、その領地は、和泉の国では、大鳥郡上神谷村、和泉郡の伯太、下条大津、板原、春木川村だったようです。

大津村は、当時下条大津と宇多大津にわかれていましたが、そのうちの下条大津だけが渡辺の殿さんの領地だったというのが興味深い新事実でした。

では、宇多大津は?という話は次回にしたいと思います。

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