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さて、前回の話を続けたいと思います。

大津村が、宇多大津村と下条大津村に分かれたのは正保4年(1647年)といわれています。両村は分かれはしましたが、極めて近い関係だったことはいろいろな関係資料を見ると伺えます。
当時、和泉国の中の領地は誰の領地だったかというのは、相当入り組んでいたようです。その中でも藩の領地と、幕府の直接の領地というのがあったようです。

その中でも“預かり地”と呼ばれるものがありました。
“預かり地”とは、幕府がその直轄領を他の大名に預けて統治を委ねた土地のことです。

前回、下条大津村は伯太藩の領地でしたが、宇多大津村は?というところで終わりましたが、宇多大津村はこの幕府の預かり地でした。では誰が預っていたかというと、

岸和田藩岡部美濃守(岡部の殿さん)の預り地でした。他には助松村も同様だったようです。ちなみに隣の忠岡村は淀藩稲葉美濃守領だったようです。これだけ見ても誰の領地かというところは、相当入り組んでいたということがよくわかります。

祭りは、庶民のものですから岡部の殿さんが関わっていた領地の人が相互に交流があったとは単純にはいい難いですが、何らかの関わりがあったとするなら岸和田北町の人が、宇多大津村からだんじりを買った(借りた?)という話も納得できます。
北町の菊右衛門橋から大津川の橋までの距離は紀州街道一本で約4KMです。歩いて1時間というところでしょうか。当時の人は、宇多大津村から北町まで非常に喜んでだんじりを曳いて帰った姿が想像できます。

さてその当時の宇多大津村ですが、『江戸期には和泉木綿の集散地として大きく発展し、綿織物も盛んであった。天保14年(1843)の分かれた宇多大津村の資料では、家数272軒のうち綿織物関係の職業が約7割を占め、農業従事者は1.5割にすぎない。綿織物業を営む家では、家族5人と賃織日雇15人、12台の織機で運営とあり、どの織屋も賃織日雇を雇用しており、綿織物業を中心とした農村都市であった。』と当時の発展した村であった様子が伺いしれます。

さて歴史の話は、次回へ続けたいと思います。

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よく調べておられ感心しました。江戸時代は,統治が複雑であり,二重構造を持っていたようなところもあります。我が和気町も半分が天領,半分が淀領であったようです。天領部分は幕末では,一橋家の持ち物でした。今は,断絶している,府中河合家が事務をしていたこともあり,井之口に小野家という代官所もありました。時代とともに,統治形態も様々なようです。木綿は,和泉一帯の地場産業で,町内にも木綿屋という屋号の家があったり,太ものといういい方をしていました。泉大津の毛織物業もこの伝統を引いているのでしょうね・・。

2006/12/3(日) 午後 6:58 wing


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