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高野山その2

世界文化遺産 高野山

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前回に続きまして、11月15日(火)に行ってきました、高野山の続編です。
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奥の院へ続くこの道。雰囲気がなんともいえません。
 
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そして奥の院手前にある休憩所。
この彫物は、あの木下舜次郎さんの作のようです。
(板原村さんのブログに書かれています。http://blogs.yahoo.co.jp/gkrgd678/51670381.html
 
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▲実は、この休憩所で“お坊さん”のありがたい講話を聞かせてくれます。
いいお話でした。「長い間墓参りしてないし、参らなあかん!とほんまに思いました。」
 
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▲思わず目をひいた『泉州 熊取 根来家』の文字。
家に帰って調べてみると・・・

鉄砲の根来衆で有名な根来家始祖盛重は和泉国熊取谷(熊取町)中左近家出身で根来寺の僧であった。秀吉の根来寺焼き討ち後家康の家臣となる。数々の戦功をたて、大和・近江・関東に領地(知行所)を拝領し3450石の大旗本となる
(CASTLE TRAVELERのホームページより  http://a011w.broada.jp/oshironiikou/index.htm

泉州熊取谷の豪士霜氏から分かれたもので、霜盛重は年少にして紀州根来寺に入り、成人後は有髪の僧となった。秀吉の根来寺焼打ちの際も衆徒の先に立って抵抗をやめなかった。のち徳川家康に仕えて成瀬正一のもとで、世にいう「根来組同心」となった。
(徳川旗本八万旗の家紋 ホームページより http://www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/hm_index.html
なんだそうです。『根来衆』ってよくききますよね。
 
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▲続いては、皆さんおなじみの岡部の殿さんのお墓です。
前述の板原村さんのブログでも紹介されています。
 
文禄三年(1587年)太閤検地が行われ村切りとなり「岸和田村」が誕生した。文禄四年三万石に加増され小出氏は天守閣を作り始め、慶長二年(1597年)豊臣秀吉が死去した年に竣工し、翌年には出来あがったといわれています。
元和五年(1691年)松平康重入城以降、紀州街道が整備され、浜石垣によって町曲輪が囲い込まれています。
寛永十七年(1640年)摂津の国、高槻より移付した岡部宣勝入城後、岡部公十三代は松平氏の後を受けて城内の整備が完成されています。岡部公の先祖は藤原氏で代々駿河の国岡部郷に住だので、その郷の名を呼んだとのことです。初代宣勝公は、徳川家康の義妹を母にもつ徳川ゆかりの深いお家柄で、岸和田城主になってから約三十年間に城郭を補強し、海防に備えて石塞を築き、津田川沿いに長い堤防を構築するなど城を堅固にする一方藩政に全力を尽くしました。藩籍奉還の明治ニ年(1869年)迄、約二百三十年間岡部公十三代はすばらしい城主で有りました。
岡部氏ニ代目城主行隆公は全国で二番目の早さで藩両を導入しました。
そして岸和田城主になれない弟のために六万石あった岸和田藩の三千石(現在阪南市あたり)と二千石(現在岬町)を分け与えた程身内を重んじる人だったようです。
岡部氏三代目城主長泰公は我岸和田の祭りをお作りになったひとです。
 
こちらのサイトより引用させてもらいました。
 
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▲続いては石田三成のお墓です。
史実では、あまりよく描かれない三成さんですが・・・・・
私は、学生時代に“司馬遼太郎さんの 関ヶ原” を読んで三成さんには、悪い印象はありません。
 
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▲ちょっと奥で見にくいですが、奥にある墓標が“伊達政宗”のお墓です。
 
NHK大河ドラマ(昭和62年放送の「独眼流政宗」の印象がこれまた強いです。
ちなみにこの時、渡辺謙さん(政宗)の父を演じたのが、北大路欣也さん。
 
「江」では家康を演じております。・・・・・・話がちょっとそれまして
 
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▲続いて、武田信玄・勝頼 のお墓です。
こちらも、大河ドラマにも登場されてます。
 
武田 信玄 / 武田 晴信(たけだ しんげん / たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名。大正期に従三位を贈られる。
甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期には国内統一が達成され、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて甲斐武田家の領国を拡大した。晩年、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃で病没した。
江戸時代から近現代にかけて『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』[2])に描かれる伝説的な人物像が世間に広く浸透し、「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎または、龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれ、無敵と呼ばれた騎馬軍団を率い、また上杉謙信の良き好敵手としての人物像が形成される。
 
wikipedia  より
ということで、今回はこれで終了いたします。
 
 
 

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