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夏の小旅行

天下分目の関ヶ原へ

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先日、少し遠出をし、合戦の地で有名な、関ヶ原まで行って来ました。
 
関ケ原町(せきがはらちょう)は、岐阜県不破郡の町。「関ヶ原の戦い」で有名。自治体名称としての正式な表記は「関ヶ原」ではなく「関ケ原」であるとされている。

岐阜県の西端に位置し、伊吹山の南東麓に位置する。南北を山岳に囲まれている交通の要衝であり、古代には三関の一つ不破関があった。中山道沿線ではあるが、現在では名神高速道路、東海道新幹線、東海道本線が通っている。
日本海側気候で若狭湾からの季節風により、雪が降りやすく、豪雪地帯となっている。
 
ウィキペディアより
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まず立ち寄りましたのは、関ヶ原「ウォーランド」。
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史上最大の合戦、関ケ原合戦を史実に基づいて再現したものが『関ケ原ウォーランド』です。
関ケ原合戦は今から約410余年前の慶長5年9月15日早朝、日の本を二分し西軍と東軍がその命運を懸けて戦った一大決戦。
ここ関ケ原ウォーランドでは約30,000㎡の敷地内に実物大の武将像を配し、旗指物・陣幕などを再現しております。

また2階の合戦資料館では実際に合戦で使われたといわれる貴重かつ稀少な甲冑なども展示!
数多の漢たちがそれぞれの正義を掲げぶつかり合った関ヶ原合戦をあなたも体感しませんか?
 
 
関ヶ原ウォーランド ホームページより
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敷地は約30,000m²あり、屋外には関ヶ原の戦いを、200体以上の戦国武将のコンクリート像で再現している。これは、東軍、西軍の陣地を史実に基づいて再現したものであり、旗、陣幕も当時のものを再現したものという。コンクリート像は、徳川家康、石田三成、大谷吉継、小早川秀秋、湯浅五助などの武将もあるが、多くは足軽、鉄砲隊などである[1]。これらのコンクリート像は浅野祥雲が製作したものであり、リアルでありながらユーモラスな像である.
ウィキペディアより
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家康が信玄にこてんぱんにやられた1573年・三方ヶ原の戦い。 歴史通の方は聞いたことがあるかと思いますが、一説に家康は三方ヶ原での大敗を糧とし、自分と三成を当時の 信玄と自分に置き換えて1600年・関ケ原の合戦で再現したといわれています。
負けた相手を潔く認め、己の中にその強さを取り入れるというのは一見屈辱的なこと。しかし家康はプライドのためにチャンスを捨てることはせず、信玄を手本とし、ついには天下を掌握しました。
亡霊として舞い戻ってきた信玄は、ウォーランドの中心で「もう争いはやめい!ノーモア関ケ原合戦じゃ!」と唱え家康だけでなく全軍に踏襲を促すことで、太平の世の訪れを願っているのです
 
関ヶ原 ウォーランド ホームページより
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▲さまざまな武将が再現されています。
 
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▲そして西軍の大将 石田三成
 
私も学生時代に読んだ、司馬遼太郎さんの「関ヶ原」で、三成には非常に興味を持ちました。
 
羽柴秀吉は、近江国での鷹狩りの中途、茶を求め寺に立ち寄る。そこで出会った石田三成の才覚を見出し、秀吉は貰い受け臣下とした。長じた三成は、年長で当代の名士島左近を召し抱える。三成は朝鮮出兵で複雑な渡海運輸を見事に成功させるなど、秀吉の期待に応えた働きを行う。だが三成は、へいくゎい者(横柄者)として、秀吉古参の武将たちからは嫌われていた。左近は人の反感を買う要因がこれほど揃っている男も珍しいと苦笑するが、この性格が様々な禍根となってゆく。
秀吉は、息子の秀頼を五大老に任せ伏見城で病死する、三成が最も頼りになっていた家康に次ぐ五大老前田利家も、翌年に後を追うようにして病死してしまう。家康は、大坂城西の丸に移り住み、あたかも城主と成ってゆく。利家没後の前田家に謀反の疑いをかける(晴らすため、利家夫人芳春院が人質として江戸へ在住した)など、名実ともに天下を采配する存在へと近づいていく。
これらに対し三成の他に、五大老上杉景勝と、その家老で三成の同志直江兼続が反発した。景勝は城の修築や浪人の募集など、戦備を整え始める。家康は謀反の疑いありと使者を送るが、帰ってきたのは兼続からの挑戦状(直江状)だった。慶長5年6月、家康は上杉征伐のために大坂城を出発した。
 
ウィキペディアより
はるか、412年前に思いをはせた一日。
 
機会があれば、続編もお届けしたいと思います。(きっとします

牛滝山紅葉その3

今からやとなつかしい感じも・・・・

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11月23日の牛滝山もみじ祭りの日の様子、第3弾。
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▲おなじみの牛さんです。
泉州岸和田に牛滝山と呼ばれる役行者ゆかりの山岳宗教の道場があります。
この牛滝山には48の滝があると言われ、比叡山の恵亮和尚が第三の滝で修行していたとき、
大威徳明王が青牛に乗って現れ、
感激した恵亮が彫った大威徳明王像が大威徳寺の今の本尊と言われています。
 牛滝山は古くは牛との関わりが深く、春と秋に牛祭り行われていて、
泉南地方や泉北、和歌山市などから農家が牛を連れて大威徳寺へ参り、
元気に働いてくれるようにお守りをもらって帰ったという。
かつては着飾った牛でいっぱいだったと言われています
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▲本当は、もう少し遠距離から正面の写真を撮りたかったのですが、後片付け(もみじ祭り)の軽自動車が来ていて撮れませんでした。
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▲もみじまつりの看板です。もう少し早く到着していれば・・・・・
 
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▲第3弾ということで、コメントもあまりないのですが。
やはり気になりました「カーネーション」の看板です。
「さいでんからゆうてらし」なんていうフレーズも違う宣伝にありましたね。
まち歩きキャンペーンやったかな?
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以上、牛滝山の紅葉でした。
 
おつきあい、いただきありがとうございます。


 

牛滝山紅葉

今年もきましたもみじ祭り

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11月23日(祝)今年も牛滝山 大威徳寺 の紅葉を見てきました。
 
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この日は毎年恒例のもみじ祭りが行われます。
 
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この日は、あいにくの小雨。到着時刻も13時前。出店は早々と片付けの準備をやっていました。
 
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雨にも負けずけっこうシャッターを押し捲りました。
 
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一応その中のお気に入りの写真を公開しています。
 
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有名な多宝塔です。
 
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牛滝山大威徳寺は、比叡山の大乗坊恵亮が修行中、大威徳明王が滝の中から青い色の牛のような石の上に乗って現れたことから山号の牛滝山が生じたと伝承する
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岸和田市にある『牛滝山』は、古くから京都の高雄と肩を並べる紅葉の名所として知られている。この山を山号とする大威徳寺周辺では、さまざまな秋の色彩が訪れた人の目を楽しませてくれる。
また、大威徳寺境内一帯は府の名勝にも指定されており、重要文化財に指定されている多宝塔の朱色と調和し、秋の情緒をいっそう感じることができる。
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塔の内部は、来迎柱、来迎壁があり仏壇を置く。また、内部の壁板に、永正十年(1513)の墨書がある
多宝塔は、本堂の背面に建っており、非常に珍しい配置となっている
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▲今年も綺麗に紅くなってくれてました
 
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▲赤や黄色のかえでやつたも〜
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▲ここはやはり赤(見事な)がポイントでしょうか?
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▼そして最後はここも岸和田ということで
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話はそれますが・・・個人的にはNHK朝ドラ「カーネーション」にもすっかりはまってる今日この頃です。
 
次回に続けたいと思います。

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高野山その2

世界文化遺産 高野山

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前回に続きまして、11月15日(火)に行ってきました、高野山の続編です。
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奥の院へ続くこの道。雰囲気がなんともいえません。
 
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そして奥の院手前にある休憩所。
この彫物は、あの木下舜次郎さんの作のようです。
(板原村さんのブログに書かれています。http://blogs.yahoo.co.jp/gkrgd678/51670381.html
 
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▲実は、この休憩所で“お坊さん”のありがたい講話を聞かせてくれます。
いいお話でした。「長い間墓参りしてないし、参らなあかん!とほんまに思いました。」
 
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▲思わず目をひいた『泉州 熊取 根来家』の文字。
家に帰って調べてみると・・・

鉄砲の根来衆で有名な根来家始祖盛重は和泉国熊取谷(熊取町)中左近家出身で根来寺の僧であった。秀吉の根来寺焼き討ち後家康の家臣となる。数々の戦功をたて、大和・近江・関東に領地(知行所)を拝領し3450石の大旗本となる
(CASTLE TRAVELERのホームページより  http://a011w.broada.jp/oshironiikou/index.htm

泉州熊取谷の豪士霜氏から分かれたもので、霜盛重は年少にして紀州根来寺に入り、成人後は有髪の僧となった。秀吉の根来寺焼打ちの際も衆徒の先に立って抵抗をやめなかった。のち徳川家康に仕えて成瀬正一のもとで、世にいう「根来組同心」となった。
(徳川旗本八万旗の家紋 ホームページより http://www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/hm_index.html
なんだそうです。『根来衆』ってよくききますよね。
 
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▲続いては、皆さんおなじみの岡部の殿さんのお墓です。
前述の板原村さんのブログでも紹介されています。
 
文禄三年(1587年)太閤検地が行われ村切りとなり「岸和田村」が誕生した。文禄四年三万石に加増され小出氏は天守閣を作り始め、慶長二年(1597年)豊臣秀吉が死去した年に竣工し、翌年には出来あがったといわれています。
元和五年(1691年)松平康重入城以降、紀州街道が整備され、浜石垣によって町曲輪が囲い込まれています。
寛永十七年(1640年)摂津の国、高槻より移付した岡部宣勝入城後、岡部公十三代は松平氏の後を受けて城内の整備が完成されています。岡部公の先祖は藤原氏で代々駿河の国岡部郷に住だので、その郷の名を呼んだとのことです。初代宣勝公は、徳川家康の義妹を母にもつ徳川ゆかりの深いお家柄で、岸和田城主になってから約三十年間に城郭を補強し、海防に備えて石塞を築き、津田川沿いに長い堤防を構築するなど城を堅固にする一方藩政に全力を尽くしました。藩籍奉還の明治ニ年(1869年)迄、約二百三十年間岡部公十三代はすばらしい城主で有りました。
岡部氏ニ代目城主行隆公は全国で二番目の早さで藩両を導入しました。
そして岸和田城主になれない弟のために六万石あった岸和田藩の三千石(現在阪南市あたり)と二千石(現在岬町)を分け与えた程身内を重んじる人だったようです。
岡部氏三代目城主長泰公は我岸和田の祭りをお作りになったひとです。
 
こちらのサイトより引用させてもらいました。
 
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▲続いては石田三成のお墓です。
史実では、あまりよく描かれない三成さんですが・・・・・
私は、学生時代に“司馬遼太郎さんの 関ヶ原” を読んで三成さんには、悪い印象はありません。
 
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▲ちょっと奥で見にくいですが、奥にある墓標が“伊達政宗”のお墓です。
 
NHK大河ドラマ(昭和62年放送の「独眼流政宗」の印象がこれまた強いです。
ちなみにこの時、渡辺謙さん(政宗)の父を演じたのが、北大路欣也さん。
 
「江」では家康を演じております。・・・・・・話がちょっとそれまして
 
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▲続いて、武田信玄・勝頼 のお墓です。
こちらも、大河ドラマにも登場されてます。
 
武田 信玄 / 武田 晴信(たけだ しんげん / たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名。大正期に従三位を贈られる。
甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期には国内統一が達成され、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて甲斐武田家の領国を拡大した。晩年、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃で病没した。
江戸時代から近現代にかけて『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』[2])に描かれる伝説的な人物像が世間に広く浸透し、「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎または、龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれ、無敵と呼ばれた騎馬軍団を率い、また上杉謙信の良き好敵手としての人物像が形成される。
 
wikipedia  より
ということで、今回はこれで終了いたします。
 
 
 

高野山

まさに聖山 高野山

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本日は、珍しい平日の休暇を利用して、高野山まで行ってきました。
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考えてみますと、近く感じる高野山も、20年以上行っていなかったように思います。
 
この年になってみてあらためて高野山のよさを満喫しました。
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奥の院に続くまさに聖地。ここには、数々の武将たちのお墓もあります。
合掌です。
 
上の写真は豊臣家の墓所。
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そして豊臣家墓所の説明です。
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まさに厳粛な場所という感じがします。
合掌です。
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続いて織田信長公の墓所です。
本当に厳粛な感じがしました。
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▲そしてこの奥がまさに聖地の中の聖地。奥の院です。
ここからは写真撮影も禁止。脱帽です。
奥の院
弘法大師の御廟と灯籠堂がある(世界遺産)。参道には、皇室、公家、大名などの墓が多数並び、その総数は正確には把握できないものの、20万基以上はあると言われている。戦国大名の6割以上の墓所がある。奥の院の入り口は一の橋と中の橋の2箇所があるが、正式には一の橋から参拝する。一の橋から御廟までは約2kmの道のりとなっている。その途上には「みろく石」などの七不思議と呼ばれる場所がある。
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▲本当は紅葉の写真も、目的のひとつでしたが、ここでは少し遅かったかも・・・・
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▲紅葉も・・・
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せっかくの聖地。次回に続けたいと思います。
 
まさに般若心経の世界です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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