酒井=徹の 電網日誌

社会の あらゆる 領域における 平和・人権・民主主義の 拡大を!

――公の機関が「大安・仏滅」を明らさまに記す――

■大分県、「不適切」と認め 回収へ
 
大分県は 25日(はつか あまり いつか)の 日に、
県や 6つの 市町村にて つくる
「国東半島宇佐地域世界農業遺産推進協議会」が
発行した、
来たる 平成28年の 暦(カレンダー)に、
「大安」や 「仏滅」など、
迷信に 綱(つな)がる 「六曜(ろくよう)」を
記してしまっていたとして、
回収を 進めることを 明らかにした。
『読売新聞』や
『朝日新聞』の 電子版が
26日(はつか あまり むいか)の 日に
これを 伝えた。
 
それらによると、
大分県は、
人権教育に 関する 市町村向けなどの 資料において、
差別を 助長する 迷信や 因習として 、
自ら その 1つに 六曜を 挙げていた。
その、
「差別を 助長する 迷信や 因習の 一つ」であると
自ら 自覚していたところの 六曜を、
自分たちが 発行する 暦に
堂堂と 載せていたというのは、
全くもって
言っている 事と やっている 事が 真っ逆さまで、
言行不一致も 甚だしいと 言わざるをえない。
これでは 自ら
「差別を 助長する」意図が あったのではないかと
疑われても 仕方が無いのではないだろうか。
 
確かに 、
世の中には 今(いま)だに、
「大安」とか 「仏滅」などといった
日柄に係(かか)わる 迷信に
とらわれ続けている人人も 少なくない。
けれども、
そうした 日柄・年柄の 迷信の たぐいを
真っ向から 否定し、
そういったものに とらわれてはいけないと
考える 人も
決して 少なくはないのである。
わたしをはじめとする
唯物論者を 挙げるまでも無く、
宗教者の 中にも、
浄土真宗
神道系の 金光教といった、
こうした 迷信を 真っ向から 否定する 宗教も
間違い無く 日本には 存在する。
浄土真宗を開いた 見真大師・親鸞(しんらん)は、
浄土真宗の 教えを 詩のかたちで やさしく 説いた
「和讃」という 長歌(ながうた)の中で、

かなしきかなや 道俗(どうぞく)の
良時(りょうじ) 吉日(きちにち)えらばしめ〔注1〕
天神地祇(てんじんぢぎ)を あがめつつ
卜占祭祀(ぼくぜいさいし) つとめとす

(あーあ、悲しいことですなあ。
 仏の道の 行ない人であるはずの 法師も、
 法師ではない 白衣〔しろきぬ〕の 人も、
 「時の 良し悪し」だの
 「日柄の 良し悪し」だのといったものを 
 お選びになって、
 天つ神だの 国つ神だのといったものを
 崇めつつ、
 占いだの 祭りだの
 お祓(はら)いだのといったものに
 つとめてらっしゃるなどということは。
 〔親鸞『正像末和讃』 第101首、
  「愚禿悲歎述懐和讃
  (ぐとく ひたん じっかい わさん) 第8首〕。
 〔注1〕ここでいう 「えらばしめ」の 「しめ」は、
 「やらせる」という
 使役の 旨を 表す 助動詞・「しむ」の
 連用形ではなく、
 「お〜になる」という
 尊敬の 旨を 表す 助動詞・ 「しむ」の
 連用形である。)
 
と歌い、
「『時の 良し悪し』だの
『日柄の 良し悪し』だのといったものを……
選」ぶことは 「かなし」いことだと
ハッキリと 否定しているのである。
  
又(また)
教派神道・金光教の 教祖である
赤沢=文治も、
「如何(いか)なる所、
 如何なる時、
 如何なる方(ほう)も、
 人間に宜(よ)きは
 吉所(よきところ)、
 吉日(よきひ)、
 吉方(よきほう)なり。
 日柄方位等は、
 神が氏子を
 苦しめる事ではない」(『金光大神御理解集』)と、
人人の「生活を暗くおしつつむ
有害な俗信に
正面からたたかいを挑んだ」(村上重良『新宗教 その行動と思想』第108面〔ページ〕)。

(金光教の 教祖・赤沢=文治は、
 明治維新後、
 新政府によって
 太陽暦に 基づいた 新暦が 導入された際、
 「大安」・「仏滅」・「さんりんぼう」といった、
 迷信に 綱〔つな〕がる 記載が
 公的な 暦から 一掃されたことを 見て
 涙を 流して 喜び、
 神に 感謝したという)。
浄土真宗は 日本において 最も 大きく、
地域に 根を張って 存在している 既成
仏教教団である。
国会に 2ケタの 議席を 占める
日本共産党も、
弁証法的唯物論に 基づく 世界観を 保持している。
そうした人人の 存在を 全く 無視して、
県や 市町村といった 公的機関が
何らの 科学的根拠も 無い 迷信を
助長しかねない 暦を
安易に 発行するということは、
あたかも
「大安」だの 「仏滅」だのといった 迷信に、
県や 市町村が
お墨付きを 与えたかのごとき
誤った見方を 広めかねない。
そもそも、
「大安」や 「仏滅」といった 「六曜」 及び
その 解釈は、
中国から 伝わった
陰陽道という 俗習的な 宗教に
由来するものであり、
民衆の 間に 広まったのは
江戸時代に 入ってからのことである。
「六曜」は決して、
日本固有の 文化でも 何でも 無いのである。
ある 特定の 宗教に 肩入れしては いけないはずの 
県や 市町村といった 公共団体が 作る 暦が
特定の 宗教観に 基づくものであること 自体が
そもそも おかしな 事である。
(例えば、
 どんなに
カトリック教徒が 多い 国であっても、
 宗教について 価値中立的であるべき
 国や 地方公共団体が 発行する 暦に、
 「今日は 聖人○○の 日」などと
 堂堂と 書かれていれば、
 確かに
 カトリック教徒にとっては
 便利には 違いなかろうが、
 そうした信仰を 共有しない人人は、
 自らの 存在そのものを
 国や 地方公共団体といった 公の 機関に
 切り捨てられたと 感じるだろう。
 公の暦に、
 特定の 宗教的迷信に 基づく 記述を 入れた事 自体、
 想像力があまりに 鈍感であると
 言わざるをえない)。

公共団体自らが、
特定の 迷信に 肩入れするかのような 暦を
発行するのは まことに 言語道断である。
大分県による 暦の 回収は
まさに しかるべき
あたりまえのことだ。しかり。


この記事に

――曲の 流れは 是(これ) 「序破急」!?――

イメージ 1
 
「じゅもんをあげるよ」という 歌は 是(これ)、
『ことばのパズル もじぴったん』という  
電脳遊戯(コンピューターゲーム)の

歌の言葉(=歌詞)は
電脳遊戯開発者(=ゲームクリエーター)の

後藤=裕之(ごとう=ひろゆき)さんによって、
そして 節(ふし:=曲)は
作曲家の 神前=暁(こうさき=さとる)さんによって

作り出された 歌である。
その のち、
THE IDOLM@STER
(『アイドルマスター』:=『偶像大師』)という
電脳遊戯(コンピューターゲーム)において 出て来る
高槻(たかつき)=やよいという 登場人物が
この 歌を 歌うことに よって
広く 世の中に 知られることに なった
 
【ニコニコ動画】
 
【歌詞】
 
音楽の節(ふし:=旋律)も
極めて 素晴らしいけれども、
歌の言葉、
つまり 歌詞もすこぶる 素晴らしい。
歌の言葉、
つまり 歌詞のところは
すべて 平仮名(ひらがな)にて 書かれており、

少し見ただけだと  あたかも さながら、
子供が お遊びで 作った たぐいの
取るに足りない 歌にすぎないと

捉えられてしまうことも 有るかもしれない。

けれども この歌に おいては、
いにしえから 諸越(もろこし)・中国において
唐歌(からうた)、
つまり 漢詩を作る 場合などに 用いられてきた、
「起承転結」や 「対句」などといった技が
美事(みごと)に 使いこなされているのである。
 
「起承転結」とは、
1つ目の句において
ある 物事について 書き起こしてから(起)、
2つ目の 句においては 1つ目の 句の 流れを
そのまま 素直に 承(う)ける かたちで
更(さら)に 言端(ことば)を加えて 述べるのだが(承)、
3つ目の 句においては目を 他のものに 移したり、
それまでとは 流れの異なる 事を 言ったりして
 全体の 流れを ガラリと 切り変え(転)、
そして その末に 4つ目の 句において 
すべてを まとめて 結び 締めくくるという(結)、
長歌(ながうた)、
つまり 詩における
言端(ことば)の 組み立て方を 言う。
 
この技が うまく用いられている  
よく 知られた わが 日の本の国・日本の 長歌(ながうた)、
つまり 詩としては、
「日本のマザーグース」とも 呼ばれる
大正時代の 歌人(うたびと)・金子みすずの
「わたしと小鳥と鈴と」が 有る。
 
わたしが両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)を速くは走れない。
 
わたしがからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴はわたしのように
たくさんな歌は知らないよ。
 
鈴と、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。 
 
(金子みすゞ『さみしい王女/新装版 金子みすゞ全集・145面[ページ]、表記は現在のものに酒井が修正)
 
1つ目の 下(くだ)りの4行においては、
1行目で、
「わたしが両手をひろげても、」と 書き起こし(起)、
2行目においては
その 流れを そのまま 素直に 承(う)けるかたちで、
「お空はちっとも飛べないが、」と、
1行目の 主語である「わたし」について
更(さら)に 述べる(承)。
但(ただ)し、
その 終わりに 「が」という、
逆接を 表す接続助詞を 置くことによって、
次に 来る 句においては
それまでの 流からは 外れる 事柄を
述べるであろうということを
あらかじめ 告げ知らせた 後、
果たして 3行目においては、
「飛べる小鳥はわたしのように、」と、
目を 「わたし」から 「小鳥」に 移して
 全体の 流れを 一転して 切り替え(転)、
そして その末に 4行目において、
「地面(じべた)を速くは走れない。」と、
全体を まとめて 結ぶのである(結)。
 
2つ目の 下りの4行においても、
1行目で、
「わたしがからだをゆすっても、」と 書き起こし(起)、
2行目においては その流れを
そのまま 素直に承ける かたちで、
「きれいな音は出ないけど、」と、
1行目の 主語である「わたし」について
更(さら)に 述べる(承)。
但(ただ)し、
その 終わりに 「けど」という、
逆接を 表す接続助詞を 置くことによって、
次に 来る 句においては、
それまでの 流れからは 外れた 事柄を
述べるであろうということを
あらかじめ 告げ知らせた 後、
果たして 3行目においては、
「あの鳴る鈴はわたしのように」と、
目を 「わたし」から 「鈴」に 移して
うた 全体の 流れを 一転して 切り替え(転)、
そして その 末に 4行目において、
「たくさんな歌は知らないよ。」と、
全体を まとめて 結ぶのだ(結)。
3つ目の 下(くだ)りは 2行だけれども、
仮に 若(も)し これを 4つに 分けるとすれば
則(すなわ)ち、
「鈴と、小鳥と、」という 部分と
「それからわたし、」という 部分、
及び
「みんなちがって、」という 部分と
「みんないい。」という 部分とに
分けられるであろう。
1つ目の 句において
「鈴と、小鳥と、」と 書き起こし(起)、
2つ目の 句においては
その 流れを そのまま 素直に 承(う)ける かたちで
「それからわたし、」と
更(さら)に そこに 付け加え(承)、
そして、
3つ目の 句においては
物事を 並べるのを ついに やめ、
上の 2つの 句とは 違い、
「みんなちがって、」と
その 評価に 踏み込むことによって
詩想を 転じ(転)、
4つ目の 句において、
「みんないい。」と 全体を 結ぶことになる(結)。
そして、
1つ目の 下りと 2つ目の 下りとは
美事(みごと)な 「対句」と なっている。
「対句」とは、
言端(ことば)の 文法的な 組み立て方が よく 似ていて、
 互いに 係(かか)わりの 有る 言端ことばを 用いた 文句を
互いの 文脈の 中において 重ねて 用いるという、
これ又(また)
長歌(ながうた)、
つまり 詩における 技である。
1行目は 共に、
「わたしが〜を〜(し)ても、」というかたちであり、
2行目も
「〜は〜が(・けど)」、
3行目も
「〜はわたしのように」で、
4行目は
「〜を(・は)〜ない」という かたちに
なっている。
そして、
『じゅもんをあげるよ』の 場合にも、
この 「起承転結」と 「対句」との 2つの 技が
美事(みごと)に 用いられているのである。
まず 初めの、
「いじ・いじ ひとりぼっち
 あれ・これ なやむけれど
 しゃに・むに がんばるきみは
 ぴか・ぴか ひかってる」
である。
それぞれの 行の 頭のところに すべて、
「いじ・いじ」・「あれ・これ」・
「しゃに・むに」・「ぴか・ぴか」という
2音節の 擬態語が 用いられており、
対句と なっているのが 別(わか)るだろう。
そして、
1行目で
「いじ・いじ ひとりぼっち」と
後ろ向きに 歌の言葉を 書き起こした 後(起)、
2行目においては その 後ろ向きな 流れを
そのまま 素直に 承(う)ける かたちで、
「あれ・これ なやむけれど」と、
更さらに 後ろ向きな 言端(ことば)を
付け加える(承)。
但(ただ)し、
その 終わりに 「けれど」という、
逆接を 表す 接続助詞を 置くことによって、
次に 来る 句においては
それまでの (後ろ向きな)流れからは
外(はず)れた 事柄を
述べるであろうということを
あらかじめ 告げ知らせておいた 後、
果たして 3行目においては、
「しゃに・むに がんばるきみは」と、
一転して 前向きな 言端ことばに 切り替わり(転)、
おしまいに 4行目にて、
「ぴか・ぴか ひかってる」と
全体を 明るく 結んで 締めくくる(結)。
同じ 事は けだし、
4つ目の 下(くだ)りである、
「とぼ・とぼ かえったみちも
 めそ・めそ ないたみちも
 いっぽ・いっぽ ふみだすきみは
 きら・きら ひかってる」というところについても
言えるだろう。
1行目 及び 2行目 及び 4行目の頭には、
「とぼ・とぼ」「めそ・めそ」・「きら・きら」と、
それぞれ 2音節の 擬態語が
繰り返し 使われており、
美事(みごと)な 対句と なっている。
3行目の 頭にだけ、
「いっぽ・いっぽ」と、
3音節の 名言端なことば、
つまり 名詞が
繰り返し 使われているのは きっと、
この 3行目は 「転」の句であるため、
変化を 持たせたかったからに 違い無い。
1行目と 2行目は 終わりのところも、
「〜(し)たみちも」と、
同じ 言端(ことば)を 使って
脚韻(きゃくいん)を 踏んでおり、
これ又(また) 対句と なっている。
そして 何より、
1行目で、
「とぼ・とぼ かえったみちも」と
後ろ向きに 歌詞を 書き起こした後(起)、
2行目では その 後ろ向きな 流れを
そのまま 素直に 承(う)ける かたちで、
「めそ・めそ ないたみちも」と、
更さらに 後ろ向きな 言端(ことば)を
付け加える(承)。
けれども 3行目に 入ると、
「いっぽ・いっぽ ふみだすきみは」と、
一転して
前向きな 言端(ことば)に 切り替わり(転)、
おしまいに 4行目にて、
「きら・きら ひかってる」と 全体を まとめて 結び、
締めくくるのだ(結)。
他には 3つ目の 下(くだ)りについても、
「はしれ すすめ ゆうきだして」(起)
「やっちゃった でもね くじけないで」(承)
「わっはっは そうさ えがおみせてよ」(転)
「なみだ なんて ばいばばいさ」(結)
と、
「起承転結」と 見ることが 出来る。
なぜかと いうと、
1行目と 2行目とが、
「はしれ すすめ ゆうきだして」
 やっちゃった でもね くじけないで」と、
曲がりなりにも 日本語として
素直に 言端ことばが 流れている 中において
(言い換えると、
 2行目は 1行目を うまく 承〔う〕けているのに 比べ)、
3行目は、、
いきなり 「わっはっは」という 擬音語で 始まり、
日本語が ここで ブツリと 切れて、
詩の 流れが ガラリと 切り替わっているからである。
(詩において
 こうした 言葉の ブツ切りによる 切り替えが
 うまくいっていることを
 その 詩に 「キレが 有る」と 言う。
 〔「キレ」の例:「キレ」の ところを 「/」にて 示す。
  松尾=芭蕉「古池や/蛙かは(わ)ず飛び込む水の音」
  正岡=子規「柿くへえば金が鳴るなり/法隆寺」〕)。
けれども 4行目は 、
「えがおみせてよ
 なみだ なんて ばいばばいさ」と、
3行目の 終わりから
これ又(また) 滑らかに 言葉が 続き、
全体を まとめて 結んでいる。
思うに
6つ目の 下(くだ)りも、
「すべって ころんで べそかいても」(起)
「なんちゃって ほらね りょうてでぴーす」(承)
「あっはっは そうさ げんきみせてよ」(転)
「まえを むいて ごーごごーさ」(結)

見うるであろう
(1行目と 2行目とは
 「すべって ころんで べそかいても
  なんちゃって ほらね りょうてでぴーす」と
 日本語が 素直に 続いているけれども、
 3行目は、
 いきなり 「あっはっは」という 擬音語で 始まり、
 日本語が ここで ブツリと 切れて、
 言葉の 流れが 一転している。
 けれども 4行目は、
 「そうさ げんきみせてよ
  まえを むいて ごーごごーさ」と、
  3行目の 終わりのところから
 これ又(また) 滑らかに 言葉が 続いていて、
 全体を まとめて 結んでいる)。
又(また)、
終わりに 在る 9つ目の 下(くだ)りも
「ゆくぞ やるぞ うでをふって」(起)
「やったった ほらね ゆめはかなうさ」(承)
「らっぱっぱ ららら うたをうたおう」(転)
「きみの ふぁいと しんじてる」(結)
と 、
「起承転結」であると 言えなくもない。
こうして 述べてきた 通り、
『じゅもんをあげるよ』の 歌の 言葉、
つまり 歌詞においては
「起承転結」の 形式が
巧みに 取り入れられている。
そして、
節(ふし)、
つまり 旋律の 側に 目を 向けると、
こちらの 側では 「序破急」という、
わが国において
音楽や 踊りなどで よく 用いられてきた 形式が
用いられているのが 別(わか)るはずだ。
「序」とは、
その 作品の 始まりとなる、
真っすぐで かつ 素直な 姿の 言意(いい)である。
続く 「破」とは、
「序」の 真っ直ぐで 素直な 在りさまを 柔らげ、
色色(いろいろ)を尽くして 別(わか)りやすく 、
細やかに みせる 姿の 言意(いい)である。
そして おしまいの 部分に あたる 「急」とは、
激しく 畳み掛けるように 歌い、踊り、
もって、
見る者・聴く者の 目や 耳を 驚かせて 圧倒し、
作品を 終える 姿の 言意(いい)である。
この歌の 「1番」で 言うと
1つ目の 下(くだ)り
(いじ・いじ〜ひかってる)が 、
真っすぐで かつ 素直な 調べの 「序」であり、
いきなり しっとりと 細やかな 調べに 変わる
2つ目の 下(くだ)り
(ぼくの すきなことば〜さみしくないさ)が
「破」であり、
そして、
言葉の 速さが いきなり 早くなり、
激しく 畳み掛けるように 歌われる
3つ目の 下(くだ)り
(はしれ すすめ〜ばいばばいさ)が
「急」である。
この 3つの 下(くだ)りは、
楽曲的には すべて 8小節で、
長さは 全く 同じである。
よって、
その 同じ 8小節の うちに
どれだけの 言端(ことば)が
詰め込まれているかを 調べるならば 則(すなわ)ち、
3つ目の 「急」の 下(くだ)りには
いかに 多くの 言端(ことば)が 詰め込まれ、
言い換えると、
「急」いで、
言葉を 畳み掛けるように
激しく 歌わなければならないかが
よく 別(わか)る。
この歌は すべて 平仮名にて 書かれているので
声の 拍数(音節数)が 数えやすいが、
「序」である
1つ目の 下(くだ)り
(いじ・いじ〜ひかってる)の
声の 拍数(音節数)は 40個(よそぢ)だ。
「破」である
2つ目の 下(くだ)り
(ぼくの すきなことば〜さみしくないさ)の
声の 拍数(音節数)は
42個(よそぢ あまり ふたつ)である。
そして、
「急」である
3つ目の 下(くだ)り
(はしれ すすめ〜ばいばばいさ)には、
「序」や 「破」と 同じ 8小節の うちに、
実に
53個(いそぢ あまり みっつ)もの
声の 拍数(音節)が 詰め込まれているのだ
(「しゃ」・「じゅ」・「ちゃ」は 1音として 計算)。
そうなると まさにしかるべき 当たり前の こととして、
ここの ところを 歌うときの 言葉の 速さは
どうしても 速くならざるをえない。
そして この 歌の 1番だけではなく、
2番も また、
「序破急」の かたちに 組み立てられている。
真っすぐで かつ 素直な 調べが 奏でられる、
「とぼ・とぼ かえったみちも〜
 きら・きら ひかってる」のところが 「序」であり、
しっとりと 細やかな 調べに 変わる
「きみの すきなことば さがしにいこう〜
 てとて それ ぴったんこ さあしゅっぱつだ」
のところが「破」であって、
そして、
言葉の 速さが いきなり 早くなり、
激しく 畳み掛けるように 歌われる
「すべって ころんで べそかいても〜
 まえを むいて ごーごごーさ」のところが
「急」なのである。
こうして 見てきた 通り、
この 『じゅもんをあげるよ』という歌は、
歌の 言葉(=歌詞)を 作るにあたっては
「起承転結」、
節(
ふし=曲)を 作るにあたっては
「序破急」という、
東洋において 昔から 長く 伝えられてきた
伝統的な 巧みの 技が
まことに 美事(みごと)に
用いられているのである。しかり。
 

この記事に

――『つらいぜ!ボクちゃん』と構造や挿話が共通――

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わたしが 最も 愛する 漫画は、
水沢めぐみさんの 『姫ちゃんのリボン』だ。
平成2(1990)年から およそ4年の間、
少女漫画雑誌・『りぼん』において
連載された 作品であり、
テレビ東京にて 1年(ひととせ)の 間、
週1回・30分の 枠で
アニメ化されたことも ある。
以前は 
集英社の
りぼんマスコットコミックスにて
刊行されてきたけれども、
今では、
集英社文庫(コミックス版)としても 刊行されている、
わが 日の本の国・日本の 少女漫画史に 残る
大傑作の 一つである。
物語や 登場人物の 魅力・
伏線の 張り方・テンポの 軽快さ・
感動の 深さ……。
その どれもが まことに よく 作り込まれており、
わたしに とって、
「これこそが 少女漫画の 理想形!」というものなのだ。

そして、
実は この 『姫ちゃんのリボン』は、
過去に 発表された ある 作品と よく 似ている。
それは、
昭和49(1974)年から およそ 2年の間、
小学館の 『週刊少女コミック』において 連載された、
高橋亮子さんの
『つらいぜ!ボクちゃん』という 作品だ。
 
 
 
今まで 誰も この事を
きちんと 指摘しては こなかった。
少なくとも、
わたしの 知る限り、
この事を 文章の形で きちんと 検証した 人は
一人として いない。
しかし、
物語の 基本的な 構造から 細かい 挿話、
果ては 単行本の 編集の 仕方に いたるまで、
『姫ちゃんのリボン』と
『つらいぜ!ボクちゃん』との 間には
あまりにも 似ているところが 多すぎる。

『三銃士』などで 有名な
フランスの 作家・アレクサンドル=デュマは、
盗作の 疑いで 裁判に かけられたとき、
こう 言ったという。
「確かに盗作はした。
 だが、俺の書いたものの方が面白い」。
『姫ちゃんのリボン』は 確かに、
先行作品である 『つらいぜ!ボクちゃん』に
あまりにも よく 似た作品ではある。
だが、
それを 認めた上で なお、
『姫ちゃんのリボン』には
『つらいぜ!ボクちゃん』とは 異なる、
優れた 創作性が 有る。

そもそも、
創作という 行ないにおいて、
何か
「無から 有を 生み出す」ことが
出来るかのごとく 考えるのは、
近代が 生み出した 幻にすぎない。
小説家も 漫画家も、
既に 在る 作品群から
さまざまなものを 借用し、
物理的・社会的環境に
さまざまな 形で 規定されながら
作品を 作っているのである。
わたしは 『姫ちゃんのリボン』を 愛すればこそ、
この 作品が 『つらいぜ!ボクちゃん』から
どういった 持ち前を 受け継ぎ、
それを いかに 新たな 作品へと
発展・昇華させたのかを
きちんと 指摘したいと 思う。
又(また)、
逆説的な 話であるが、
『姫ちゃんのリボン』の
真事(まこと)の 「個性」や 「独創性」というものは、
「元ネタ」である 『つらいぜ!ボクちゃん』との
比較・検討を 行なう 中で、
初めて 明らかになるものなのだと
わたしは 信じているのである。

ほぼ 同一の物語の構造
まずは、
物語の 構造の 側から 見てゆきたい。
少女漫画の 最も 重んじるべき 要素ともいうべき
「恋愛」という 観点から 見比べた 場合、
『姫ちゃんのリボン』と『つらいぜ!ボクちゃん』とは
ほぼ 同じ 物語構造を 持っていることが
別(わか)るはずだ。
 
1.主人公の 女の子が
  当初 好意を 持っていた 年上の 男性は、
  主人公の 姉と 結ばれる。
 
2.失恋した 主人公は、
  自分に 好意を 持っている 年下の 男の子に
  次第に ひかれてゆく。
 
3.そこに、
  外国から 転入してきた
  キザな 少年が 現れ、
  主人公・年下男・キザ少年の 間に
  三角関係が 生まれる。
 
4.更(さら)に、
  年下男の 幼馴染の 少女が ここに 現れ、
  主人公・年下男・幼馴染少女の 間に
  三角関係が 生まれる。
 
5.最終的には 主人公は 年下男と 結ばれる。 
 
登場人物の名前や性格、
舞台 あるいは 具体的な 挿話などの
「物語の 肉付け」を 取り除き、
「物語の 骨組み」だけを 取り出したとき、
二つの お話は 全く 「同じ」に なるのである。
血並(ちな)みに、
この 抽象的な 「登場人物」は、
それぞれの 物語では、
次に 挙げた 名前を 与えられて 出て来る。

・主人公の女の子
 『姫ちゃんのリボン』:「姫ちゃん」こと野々原姫子
 『つらいぜ!ボクちゃん』:「ボクちゃん」こと田島望
 
・年上の男性
 『姫ちゃんのリボン』:「支倉先輩」
 『つらいぜ!ボクちゃん』:「辻先生」
 
・主人公の姉
 『姫ちゃんのリボン』:「愛子お姉ちゃん」
 『つらいぜ!ボクちゃん』:「水絵ねえさん」
 
・主人公に好意を持つ年下の男の子
 『姫ちゃんのリボン』:「大地」こと小林大地
 『つらいぜ!ボクちゃん』:「渡くん」こと小野寺渡
 
・外国から転入してきたキザな少年
 『姫ちゃんのリボン』:有坂静(セイ=アレイ)
 『つらいぜ!ボクちゃん』:矢沢卓也
 
・年下男の幼馴染の少女
 『姫ちゃんのリボン』:聖結花
 『つらいぜ!ボクちゃん』:原かおり
 
言うまでも無く、
これは かなり 乱暴な まとめ方では ある。
例えば 上の表においては、
小林大地と小野寺渡とを、
「主人公に好意を持つ年下の男の子」として
一まとめにした。
けれども、
『つらいぜ!ボクちゃん』の 田島望と 小野寺渡とでは
本当に 一学年 歳が 離れているのに 引き比べ、
『姫ちゃんのリボン』においては
二人は 同じ 学年であり、
誕生日が たったの 4日 離れているだけにすぎない。
(けれども どういう訳〔わけ〕か
 『姫ちゃんのリボン』においては、
 大地が 姫子より 「4日 年下」であることが
 幾たびも 強調されているところに 注目してほしい)。
血並(ちな)みに、
『姫ちゃんのリボン』の 読者の 中には、
姫子の 側が 先に 大地を 好きになったのだと
思い込んでいる人が かなり 多い。
けれども、
その 認識は 間違っている。
『姫ちゃんのリボン』においても、
『つらいぜ!ボクちゃん』と 同じく、
姫子が 大地を 意識するようになるよりも 先に、
大地が 姫子を 好きになっている。
大地が 姫子を 好きになったのは、
実は 物語の 序盤なのである。
失恋が 確定した 姫子が、
学校の 屋上へと いたる
「おばけが 出る 階段」のところで
泣き疲れて 眠っていた時、
大地が その 寝顔を 覗き込んだ その 瞬間に、
彼は 姫子に ひかれたのである(単行本1巻115ページ)。
『姫ちゃんのリボン』の 作り手である
水沢めぐみさんは、
かけがえの無い この 場面を、
読み手に そうとは 悟らせなくするために、
あえて 何気なく 描くことによって、
これを 際立たせたりすること無く、
物語の 中に 埋没させてしまっている。
そして そのあとに、
姫子が 大地のことを 好きになったということの側は
はっきりと 強く 強調して 描くのだ。
こうすることによって 読み手は、
姫子の 思いが 本当に 大地に 届くのか 否(いな)かを、
どきどきしながら 物語を 見守らざるをえなくなる。
『姫ちゃんのリボン』は、
『つらいぜ!ボクちゃん』の、
「男の子の 側が 先に 主人公を 好きになる」
という 後先(あとさき)の ついでを
忠実に 踏まえて 踏襲しながらも、
それでいて、
その 後先の ついでが
あたかも 逆さまであったかのごとく 錯覚させるという
「叙述トリック」を 使いこなすことによって、
『つらいぜ!ボクちゃん』とは 全く 異なる 印象を
うまく 読み手に 与えることに 成功している。



■共通する挿話(エピソード)が続出

物語に 出て来る 人物の 名前や性格、
舞台・具体的な 挿話(エピソード)などの
「物語の 肉付け」を 取り除き、
「物語の 骨組み」だけを 残したとき、
『姫ちゃんのリボン』と 『つらいぜ!ボクちゃん』とが
同じ 造りをしていることは
既に 上で 指摘した。
けれども 実は、
そのとき 取り除いた 『物語の 肉付け』においても、
二つの 作品の 間には
よく 似た ところが 多いのだ。
 
まず、
「登場人物の性格」であるが、
上において 挙げた
それぞれ 相当する 人物同士の 性格は
似ているものが 多いのである。
中でも、
野々原姫子と 田島望、
「支倉先輩」と 「辻先生」、
「愛子お姉ちゃん」と 「水絵ねえさん」、
有坂静(セイ=アレイ)と 矢沢卓也は、
ほぼ 同じ 性格であると 言っていい。
元気で明るく、
「男の子みたい」〔注1〕な
野々原姫子と 田島望、
知的で 落ち着いた 趣の
「支倉先輩」と「辻先生」、
「お料理 上手だし
 家事全般
 こなすし
 女らしくて
 美人」な 「女の鑑」〔注2〕である、
「愛子お姉ちゃん」と 「水絵姉さん」、
「プレイボーイ」で 実は お調子者の、
有坂静(セイ=アレイ)と 矢沢卓也……。
これらは ほとんど 同一人物と言っていい程(ほど)だ。
(「野々原姫子と 田島望」は、
 気合を 入れるために 用いる 「決めポーズ」を
 共に 相(あい)持つところも 同じである。
 「姫ちゃん」は 「いけいけゴーゴージャンプ!」、
 「ボクちゃん」は 歌舞伎まがいの
 「ポーズ!」という 「決めポーズ」を
 持っているのだ。
 又(また)、
 入っている クラブが
 共に 演劇部であるところもまた、
 同じである。
 「姫ちゃん」が ポコ太、
 「ボクちゃん」が 忠治という
 「お付きの 動物」を 連れているところも
 よく 似ている)。
 
けれども、
よく 似ているのは 性格だけでは ない。
物語の中における
彼らの 具体的な ふるまい そのものが、
あまりにも よく 似ているのである。
 
まずは 物語の 始まり方である。
『姫ちゃんのリボン』においては、
主人公である 「姫ちゃん」が、
野球を やっていて 着ていた 服を 汚してしまい、
体操服に 着替えて 家に 帰るところから
物語が 始まる。
家に 帰ると 「愛子おねえちゃん」が 居て、
「あらあら
 まー
 
 今度は なに
 やらかしたの?」と、
その姿を 見て
「姫ちゃん」に 尋(たず)ねるのである(単行本1巻7〜15ページ)。
一方『つらいぜ!ボクちゃん』においても、
主人公である 「ボクちゃん」が
学校にて 制服を 汚してしまい、
体操服に 着替えて 家に 帰るところから
物語が 始まる。
家に 帰ると 「水絵姉さん」が 居て、
「まあー
 まあー
 まあ…
 
 男の子と
 ケンカ!?
 まーっ
 おそろし」と 言うのである(単行本1巻13〜24ページ)。
物語の 始まり方から して、
この 2つの 漫画は あまりにも よく 似ている。
血並(ちな)みに、
服を 汚してから 家に 帰るまでの
数ページの 間に しっかりと、
「年上の男性」(「支倉先輩」・「辻先生」) 及び
「年下の男の子」(小林大地・小野寺渡)の 2つが
共に 出て来るところも 見逃せない。
 
『姫ちゃんのリボン』には、
文化祭の 5日前に、
演劇部にて 主役を 務める 少年が ケガをしてしまい、
文化祭に 出られなくなってしまうという お話がある。
その 少年は、
脚立から 落ちてきた 別の 部員を 助けようとして、
自分が 怪我を 負ってしまったのだ(単行本1巻95〜97ページ)。
『つらいぜ!ボクちゃん』においても 同じく、
文化祭の 3日前に、
演劇部にて 主役を 務める 少年が 怪我をしてしまい、
文化祭に 出られなくなってしまうという お話がある。
怪我の 訳(わけ)は
『姫ちゃんのリボン』と 全く 同じく、
脚立から 落ちてきた 別の 部員を 助けようとして、
自分が 怪我をしたというものだ(単行本1巻167〜165ページ)。
血並みに、
『姫ちゃんのリボン』にて
この時 行なわれる 予定であった 演劇の 演目は
『夕鶴』であるけれども、
『つらいぜ!ボクちゃん』においても
「ボクちゃん」たちの 演劇部は、
別の 機会に 『夕鶴』を 演じている。
この時、
主役を 演じた 「ボクちゃん」は、
劇の 途中で
過労のために 倒れてしまうことになる(単行本5巻116〜125ページ)。
『姫ちゃんのリボン』においても、
「姫ちゃん」たちの 演劇部が
『ピーターパン』を 演じた時、
劇の 直前になって 主役を やる 予定の 聖結花が
倒れてしまう。
(但〔ただ〕し、
 『つらいぜ!ボクちゃん』の場合とは 違い、
 聖結花が 「姫ちゃん」に 主役を 譲るための
 狂言だったという オチがつく)。
「姫ちゃん」は 聖結花に代わって
ピーターパンの 代役を 務めることになる(単行本6巻174〜182ページ)。
更に 『つらいぜ!ボクちゃん』には、
これと 全く 同じく、
「ボクちゃん」が 他人の 代役で
ピーターパンの 役を 務めるという 場面もある(6巻18〜50ページ)。
いくら 「姫ちゃん」も 「ボクちゃん」も
共に 演劇部に 入っているからといって、
『夕鶴』・『ピーターパン』と、
物語の 中で 演じられる 演劇の 演目までが
偶然 同じということは やはり 考えにくいだろう。
 
『姫ちゃんのリボン』においては、
学校の 女子に 人気のある 小林大地が
姫子と 共に 行動することが 増えるに したがい、
姫子が 「大地君ファンクラブ」に
にらまれるようになる(単行本1巻130〜131ページ)。
『つらいぜ!ボクちゃん』においても 同じく、
小野寺渡が 田島望と 仲良くなるに したがって、
田島望が 「渡君の親衛隊」に
にらまれるようになる(単行本1巻96ページ)。
 
『姫ちゃんのリボン』には、
「姫ちゃん」が 学校の フェンスを よじ登り、
その 拍子に リボンが 破れてしまうという
挿話(エピソード)がある(単行本1巻118〜119ページ)。
同じく 『つらいぜ!ボクちゃん』においては、
「ボクちゃん」が 学校の へいを よじ登り、
その 拍子に スカートが 破れてしまうという
挿話(エピソード)がある(単行本4巻7〜9ページ)。
 
『姫ちゃんのリボン』には、
「姫ちゃん」が
「お付きの ぬいぐるみ」である ポコ太を
風呂に 連れて入り、
母親が
「あの子は…
 またぬいぐるみと
 風呂に入ってるのか
 
 中一にも
 なって…」と、
愚痴を こぼしている 場面がある(単行本2巻20ページ)。
一方 『つらいぜ!ボクちゃん』においても、
「ボクちゃん」が
「お付きの 動物」である 忠治を 風呂に 連れて入り、
母親が
「おふろに
 忠治は
 入れるなって
 あれほど
 いっといた
 だろっ!
 
 ネコの
 毛だらけで
 はいれないじゃ
 ないのっ!」と、
怒っている 場面が 有る(単行本1巻75〜77ページ)。
 
『姫ちゃんのリボン』においては、
「姫ちゃん」が間抜けな 誘拐犯に
人質にされるという事件が 起こる(単行本2巻67〜76ページ)。
『つらいぜ!ボクちゃん』においても、
「ボクちゃん」が間抜けな 銀行強盗に
人質にされるという事件が 起こる(単行本3巻20〜60ページ)。

『姫ちゃんのリボン』には、
「姫ちゃん」が授業中に 考え事をしている時に、
メガネをかけた 女教師に 当てられ、
トンチンカンな返事をして
女教師を怒らせるという 挿話(エピソード)がある(単行本3巻85〜86ページ)。
『つらいぜ!ボクちゃん』にも同じく、
「ボクちゃん」が考え事を していた時に、
メガネをかけた 女教師に 当てられ、
トンチンカンな返事をして
女教師を怒らせるという挿話(エピソード)がある(単行本1巻108ページ)。
 
『姫ちゃんのリボン』には、
「姫ちゃん」がある男の子と 女の子とを
くっつけたいと思って
要らぬおせっかいを 焼く 場面が 有る。
男の子が映画を 見に行くことを 知って
女の子を呼び出し、
彼の隣の 席に 女の子を 連れて 座ったあと、
「ちょっと/トイレ」に「行ってくる」といって
会場を出てしまう。
二人を二人きりにしようとしたわけだ。
当事者の断りも無く、
「姫ちゃん」の独断にて 行なわれた この 作戦は、
まさにそうなるべくして 当事者の 怒りを 買い、
「姫ちゃん」は自己嫌悪に 襲われる(単行本7巻77〜90ページ)。
『つらいぜ!ボクちゃん』にも
よく似た 場面が 在る。
「ボクちゃん」はある 男の子と 女の子とを
ピアノコンサートに誘い出し、
「ちょっと……用があ」る、
「すぐ…もどる」と言って会場を 出てしまう。
二人を二人きりにしようと したのだけれど、
当事者の断りも 無いまま 行なわれた この 作戦は、
まさにそうなるべくして 当事者の 怒りを 買い、
「ボクちゃん」は自己嫌悪に 襲われるのだ(単行本1巻121〜138ページ)。

『姫ちゃんのリボン』において、
外国からの転校生・有坂静は、
「姫ちゃん」と同じ クラブに 入りたくて
演劇部に入部する(単行本3巻105ページ)。
そのあと彼は、
テニス部にも掛け持ちで入部する(8巻147ページ)。
『つらいぜ!ボクちゃん』においても、
外国からの転校生・矢沢卓也は
「ボクちゃん」と 同じ クラブに 入りたくて
演劇部に 入部する(単行本4巻23〜26ページ)。
そのあと彼は、
テニス部にも掛け持ちで 入部する(単行本4巻39〜40ページ)。
これらの事を 考え合わせるならば、
この2つの 物語は 「骨組み」の 次元だけではなく、
「肉付け」の次元でも
大いによく 似ているという事が
別(わか)るはずである。
水沢めぐみさんは、
有坂静の兼部する 運動部を
「テニス部」ではなく、
たとえば「バスケットボール部」に 変えることも また
なしえたはずだ。
しかし、
それをする事無く、
『つらいぜ!ボクちゃん』の設定の 通りに
あえて「テニス部」に 入れている。

わたしの敬う
歌人(うたびと)の枡野浩一さんによると、
「『パロディというのは元ネタに気付いてほしい場合、
  盗作というのは元ネタに気づいてほしくない場合』
 という定義がある」そうだ(枡野浩一『日本ゴロン』149ページ)。
この場合、
水沢めぐみさんは明らかに、
『元ネタに気付いてほしがっている』と
言わざるをえない。

『姫ちゃんのリボン』と
『つらいぜ!ボクちゃん』とを読み比るならば、
『姫ちゃんのリボン』が
『つらいぜ!ボクちゃん』からの
大量の借用を 行なっていることは
明らかである。
どうしてそれを 誰一人、
今まできちんと 指摘しようとはしなかったのか。
『姫ちゃんのリボン』が
『つらいぜ!ボクちゃん』からの
大量の借用を 行なっている 事実から
目を そらそうとするのは、
その事を 後ろめたいことと 思い込み、
心の中で『姫ちゃんのリボン』を
実は落としめていることの 裏返しではないだろうか。
わたしには、
そう思われて ならない。
繰り返そう。
作者・水沢めぐみさんは、
『姫ちゃんのリボン』の元ネタの 存在に
「気付いてほしがっている」のである。


■単行本の 編集の 仕方まで そっくり


水沢めぐみさんが
『姫ちゃんのリボン』の元ネタの 存在に
気付いてほしがっていたと述べる より所として、
わたしは更に、
「単行本の編集」を挙げたいと 思う。
『姫ちゃんのリボン』と
『つらいぜ!ボクちゃん』とは、
単行本の編集の 仕方まで
実はそっくりなのである。
 
『姫ちゃんのリボン』の単行本には、
雑誌に載せられていた 漫画だけではなく、
単行本の終わりに
「姫ちゃん通信」というコーナーが 付いている。
そこには、
主人公である「姫ちゃん」の
日日(ひび)の思いを
綴(つづ)ったような内容の
文章や絵が 載せられている。
『つらいぜ!ボクちゃん』の単行本にも 巻末に、
「ボクちゃんだより」というコーナーがある。
「姫ちゃん通信」と
ほぼ同じ 意味合いを 持った コーナーだ。
水沢さんが若(も)し
元ネタに気付いてほしくないのであれば、
何もこうした コーナーを
単行本の巻末に わざわざ 設ける 必要は 無いはずだ。
そもそも、
『つらいぜ!ボクちゃん』から
影響を受けたということは、
全くもって恥ずかしいことでも 何でもない。
この『つらいぜ!ボクちゃん』の作者である
高橋亮子さんは、
その後の多くの 少女漫画家に
大きな影響を 与えている。
高橋亮子さんの作品の 一つに
『風色日記』というものが有るけれども、
これがテレビ東京において アニメ化された
やぶうち優さんの名作・『水色時代』に
大きな影響を 与えたということは
あまりにもよく 知られていることである。
『姫ちゃんのリボン』は
確かに『つらいぜ!ボクちゃん』から
多くの借用を 行なっている。
そして、
その事を 踏まえた 上で、
初めて見えてくる
『姫ちゃんのリボン』の素晴らしさも 有るのである。
(例えば、
 上でわたしが 指摘した、
 『姫ちゃんのリボン』の
 優れた「叙述トリック」のように)。
〔注1〕
「男の子みたい」という言葉は、
『姫ちゃんのリボン』においても
『つらいぜ!ボクちゃん』においても
主人公を指して たびたび 使われている。
ただしおもしろいことに、
昭和49(1974)年に 描かれた
『つらいぜ!ボクちゃん』においては、
「少年のような」という言葉が
時として女の子に 対する 『誉め言葉として』
使われることも有るのに 引き比べ(単行本6巻123ページなど)、
平成2(1990)年に 描かれた
『姫ちゃんのリボン』においては
「男の子のよう」という言葉は 一貫して、
良くない文脈においてしか 使われることは 無い。
『姫ちゃんのリボン』においては、
「姫ちゃん」を誉める際には、
「姫ちゃん」は
「本当は/とっても女の子らしい/子なんだ」(単行本1巻55ページ)
といった修辞(レトリック)が 使われるのだ。
わたしには、
(「姫ちゃん」のことを
 本当の意味では 理解していなかったとされる )
 有坂静が言った、
「女らしいって/ことだけが
 魅力的ってことじゃ/ないんだから
 
 明るさや/元気の良さや
 
 まわりの人を/楽しい気持ちに/させてくれる
 そんな雰囲気
 
 すべてが/君の魅力であり
 長所なんだ
 
 自信を持って/いいと思うよ」(2巻147ページ〜148ページ)
という言葉の 方が
よほど納得出来るのだけれども、
どうやらこれは
『姫ちゃんのリボン』という作品の 中においては
「不正解」の「姫ちゃん評」とされるらしい。
作品の中ではあくまで、
「姫ちゃんは本当は 女らしい」というのが
「正解」であるらしいのだ。
「女の子らしさ」を拡大解釈することによって、
「姫ちゃん」のような女の子まで
無理やり「女の子らしさ」の 領域に
囲い込もうとするこうした 言い方には、
わたしにはどうも 納得しかねるものが 残る。
「本当は」などと言い出したら 恐らく、
どんな人間だって
男らしくも女らしくも あるだろう。
(「100パーセント 女らしいだけの 人間」や
 「100パーセント 男らしいだけの人間」など、
 いるはずがないのだから)。
それほどまでして女の子は
「女の子らし」くなくてはいけないものなのだろうか。
女の子は、
その子がどれほど 素晴らしくとも、
「女の子らし」くなければ
誉めるに値しないのだろうか。
〔注2〕
『姫ちゃんのリボン』単行本1巻18ページを
参照のこと。


(『鈴木邦男をぶっ飛ばせ!』「酒井徹の今週の裏主張」No.92より加筆転載)

この記事に

――つり合いの 取れない 問い方では 民意 計れぬ――


わが 日の本の国・日本の 公共放送局である
日本放送協会(NHK)は、
秋も 深まり 寒さに 向かう
11月の21日(はつかあまりひとひ)の日から
3日をかけて、
夫と 妻との 氏(うじ)が 異なったままでも
夫婦(めおと)に なりうるという
夫婦別姓選択制度について、
世の 人人(ひとびと)が
どう 考えているのかを 調べる
世論調査を 行なった↓。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151207/k10010332071000.html
 
けれども、
この 世論調査において 日本放送協会は、
どちらも 共に 成り立ちうる
2つの 考えを 挙げておきながら、
問われた 人に、
その どちらか 1つだけを 選べと 強いる、
愚怪(おか)しな 尋(たず)ね方を していたのである。
よって、
この 世論調査に よって 導き出された 答えは、
世の中の 人人の 考えを
正しく 映し出したものには なっていない 恐れが ある。

そもそも この 世論調査は、
わが 日の本の国の 最高裁判所が 来週に、
妻は 必ず 夫と 同じ氏(うじ=名字)を
名乗らなければならないとしている
今の 民法における 国の 決まりが
果たして 正しいのか 否(いな)かについての 裁きを
言い渡すことを 受けて
行なわれたものである。
よって、
今 まさに 人人に 問うべき 事柄は、
今の 国の 決まりのまま、
これからも 「夫と 妻とは 必ず 同じ 氏(うじ)を
名乗らなければならない」と し 続けるるのか、
それとも これからは、
「夫と 妻とが それぞれ 親から 受け継いだ
 氏(うじ)の ままにて 夫婦(めおと)となっても
 かまわない」と するのかということで
あるはずである。
にも 係(かか)わらず 日本放送協会は ただ、
「夫婦は同じ名字を名乗るべきだ」と
「同じ名字か別の名字か選べるようにするべきだ」との
2つの 選択肢だけを 示したうえで、
その どちらかを 選べと、
問われた 人たちに 迫ったのである。
そして、
「夫婦は同じ名字を名乗るべきだ」の 側
を 選んだ 人が
5割(50パーセント)、
「同じ名字か別の名字か選べるように
 するべきだ」の 側を 選んだ 人が
4割6分(46パーセント)であったと
電視(テレビジョン:=テレビ)放送や
電脳互連網絡(インターネット)に よって
広く 人人(ひとびと)に 告げ知らせたのである。
 
あとに 挙げられた、
「同じ名字か別の名字か選べるように
 するべきだ」の 側は 是(これ)、
国の 決まりの 善し悪しについての 考え方である。
けれども、
先に 挙げられた、
「夫婦は同じ名字を名乗るべきだ」の側は、
国の 決まりの 善し悪しについてだけではなく、
その人 その人の 結婚や 家族についての
個人的な 見方とも 捉えられうる。
つまり、
「(個人的には) 夫婦は 同じ 名字を 名乗るべきだと
 思うけれども、
 (法律的には) 同じ 名字か 別の 名字か
 選べるように するべきだ」という 立場も
大いに ありうるはずなのに、
そうしたことは 全くもって 
考えに 入れられていない
偏った 問い掛け方に
なってしまっているのである。
 
そもそも、
「べき」という言端(ことば)は 是(これ)、
「する 方が よろしい (よろしく 〜するべき)」 及び、
「するのが 適切である (まさに 〜するべき)」 及び、
「必ず
 しなければ成らない (すべからく 〜するべき)」の
3つの 旨(むね=意味)を 指し示す 言端(ことば)である。
よって、
「夫婦は同じ名字を名乗るべきだ」と
答えた 人の 中には、
「夫婦は 同じ 苗字を 名乗る方が よい。
 (けれども 別の 名字を 名乗る 夫婦が あっても
  かまわない)」という人や、
「夫婦は 同じ 苗字を 名乗るのが 適当である。
 (けれども 別の 名字を 名乗る 夫婦が あっても
  仕方がない)」という人も
いた はずなのである。
にもかかわらず、
日本放送協会の調べ方では、
そうした 人人(ひとびと)をも 含めて
統(す)べて
「夫婦は同じ名字を名乗るべきだ」派に
まとめて 入れられてしまいかねない。
そしてそれを、
「同じ名字か別の名字か選べるようにするべきだ」派と
互いに 比べ合うかの 形で 並べてしまうと、
「夫婦は同じ名字を名乗るべきだ」と答えた
5割の人びとが 統(す)べて、
あたかも さながら 夫婦別姓選択制度に
反対しているかのごとく 思われてしまう。
日本放送協会においては どうか、
これからの 世論調査においては
片側の 選択肢が
もう 片側の 選択肢の 考えを 持つ人の 一部をも
含みうるといった かたちの、
片側に 偏った 答えが 出やすくなる
つり合いの 取れない世論調査は
これを ゆめゆめ 行なわなくしてほしいと
強く 願うものである。
2つの 選択肢の うちの 
どちらかを 選ばせようとするときには どうか、
その 2つの 選択肢が
必ず キッパリと 分かたれる かたちの 問い方をして、
世論を 正しく 計ってほしいと
望んでやまない。しかり。

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