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下座敷には大鴨居があり、上座敷には長押があったよん^^。

画像がボケててごめんなさい。

なげしはいずこ

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これって鴨居?

夫「大鴨居って言うんだぞ」ですって^^。

鴨居と長押(なげし)

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障子の上の広ーい鴨居(溝がある)の上には長押があるはずなのに?無い?
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昔の日本家屋の間取りって個室がないので人寄せは無理かもねえ。夫の理解次第なのよねえ。
ここはいま住んでる家の玄関なんだけど・・・。
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実家の裏山(実家の持山)の急斜面の高さ30mほどを10m間隔に一段目は約3Kgの重さの石の神様、二段目は楠の御神木、三段目は小さな社に重さがそれぞれ約2Kgの男神、女神の石の神さまが祀ってある。ずるずる滑り落ちそうになりながらその斜面を通り抜けると山頂に城跡 、 崩れ落ちた石垣がある。それが山城の上脇城である。先祖は貧しいけど城主だったのである。

『大阪夏の陣』 〜1615の後、薩摩藩主島津家久の助けを借りて師走の三十日にこの地に落ちのびた長宗我部盛親の家臣達は門松の用意もできず実家では代々門松を飾らないしきたりがあり、家督を継いだ兄夫婦は守り続けている。そうそう、お盆の餅粉の団子も間に合わなかったので小麦粉で作るように母が兄嫁に言い伝えているのを幼かった私も聴き覚えている。お正月のお餅は薩摩藩の誰かが用立ててくれたんでしょうか搗くんじゃないよなんて言い伝えはない(笑)矛盾しているョねえ。
以上は歴史研究家松永氏の『「木津志物語』に記載されているのですが、私の見識(笑)はちょこっと違うのです。

{以下sumiko説}
豊臣秀吉は九州征伐(1587、3)の時に島津軍を降伏に追い込んだ。長男信親を戸次川の戦いで失いプライベートでは意気消沈している長宗我部元親へ励ましの気持ちと常日頃の功績への褒美として大隅一国を与えると秀長を通して伝えたが断ったという史実があるのでこのとき我が先祖は何かの都合で住みついたのではないか。
何かの都合は
“茲譴凸欧蠅海鵑破楝發砲いてけぼりを食ったとか(笑)。
⊃討靴なった可愛い娘がいた。
8疑討量仁瓩蚤膓に残り島津家久の動?鮓張るように(いやな役^^)この山里には苗字からわかるが薩摩藩家来と長宗我部藩の家来の家が交互に点在している。


☆この山里の土佐からの落人16人の(兄は難民だという)の姓は

*上脇 *福岡 *有村 *坂本 *堂園 *下園 *栗下 *向江脇 *小川内 *小原 *宮園 *椨木 *東村 *下堂 *内村


山城『上脇城』のある場所は地名も上脇です。
土佐には苗字「上脇」「中脇」「下脇」さんがおられまする。




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