YAMINABE the Second Operation

この11年間の数多くの思い出を携え、私は新たな旅へと出発します。それでは皆さん、御達者で。

第九計 隔岸観火

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若敖氏の滅亡──────晋の趙盾、楚の闘椒の自滅を待つ。





 ♚ 序

 時は紀元前7世紀の春秋時代中期の支那。
 南方の大国・楚で勢力を誇った大夫の氏族である、闘氏一族の破滅劇である。闘氏は若敖氏(じゃくごうし)とも。


 紀元前607年の事である。時の楚は「三年鳴かず飛ばず」の故事と、この年の翌年の紀元前606年に起きた「問鼎(鼎の軽重を問う)」の故事等で、天下に名を轟かす事となる名君の、第23代国君・楚荘王【そのそうおう:姓は羋(び)、氏は熊(ゆう)、名は侶(りょ)】の治世であった。
 この年(紀元前607年)に楚の最大のライヴァルであった晋が、楚の属国となっていた鄭を攻撃した。
 晋の正卿(せいけい)【※1】である趙盾【ちょうとん:姓は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)、名は盾(とん)、諡号は趙宣子(ちょうせんし)】が晋軍を率い、宋(そう)・陳(ちん)・衛(えい)の三国の軍と共に連合して、鄭(てい)の討伐に出て来たのである。
 そこで鄭の宗主国として、楚は軍を派遣して、鄭の救援に向かわせた。楚軍を率いたのは軍事に秀でた闘椒(とうしょう)であった。
 闘椒は字を「子越(しえつ)」又は「伯棼(はくふん)」と言った。「伯棼」は「伯賁(はくふん)」とも。闘椒は言った。


「(楚王が)諸侯を服させようと望みながら、その諸侯(鄭の事)を救う難儀を、どうして厭われようか?」


 そうして闘椒は鄭まで進軍し、軍を鄭国内に布陣させて、晋軍の来襲を待ち受けた。
 その様子を見て取った晋の趙盾は、楚軍とは干戈を交える事なく、本国・晋へ撤退させた。
 その理由は、楚軍を率いる将である闘椒が勇猛で手強いのと、他にもう一つあった。
 趙盾は去り際に一つの予言をした。


「闘椒の一族は、楚の国内において勢力が盛んである。
 暫く経てば、自ずと自滅するであろう。ここは戦わずに、その滅びるのを待とうではないか。」


 そう言い残して、趙盾は軍を撤収させたのであった。
 つまり趙盾は兵力を無駄に損ねる事なく、闘椒及び闘氏一族の自滅と立ち枯れを淡々と待つ、隔岸観火策を採ったのである。


 そしてその趙盾の予言から2年経った、紀元前605年の事、この年に趙盾の予言は的中する事となった。
 闘椒本人が命を落としただけでなく、その一族若敖氏(闘氏)までもが滅び去ったのである。





 ♛ 楚の王族大夫の血統

 この故事に登場する楚の大夫の氏族である若敖氏(じゃくごうし)と蔿氏(いし)は、どちらも楚王室から枝分かれした系統である。
 両氏の共通の祖先を辿ると、第15代国君・若敖【じゃくごう:姓は羋(び)、氏は熊(ゆう)、名は儀(ぎ)】に行き着く。
 若敖の公子(息子)であり、第16代国君・霄敖【しょうごう:姓は羋(び)、氏は熊(ゆう)、名は坎(かん)】の弟である公子伯比【姓は羋(び)、氏は闘(とう)、名は伯比(はくひ)】が、「闘(とう)」という氏を名乗り始め、「闘伯比(とうはくひ)」と呼ばれるようになった。
 こうして公子伯比は闘氏又は若敖氏の氏祖となり、楚における大夫・闘氏(若敖氏)の歴史が始まった。


 蔿氏の方は、これよりも一世代後に誕生した。
 霄敖の公子たちには、第17代国君・蚡冒【ふんぼう:姓は羋(び)、氏は熊(ゆう)、名は眴(じゅん)】と、第18代国君・楚武王【そのぶおう:姓は羋(び)、氏は熊(ゆう)、名は通(とう)】と、公子章【姓は羋(び)、氏は蔿(い)、名は章(しょう)】がいた。
 公子章は蔿(い)という邑に封じられた事から、蔿氏を名乗るようになった。
 こうして公子章は蔿氏の氏祖となり、楚における大夫・蔿氏の歴史が始まった。故に蔿章は闘伯比の甥に当たる。
 だが同じ楚の王族大夫の一門であり、血縁も近いにも関わらず、後世闘・蔿の両氏は、皮肉にも殺し合う事となった。





後続  故事其之壹 ─ 乙

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閉じる コメント(4)

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敵の情報をよく知っていなくては、出来ない予言ですね。
盛んであるという現状から、衰えることを見ぬくには、盛んである表の様子だけ見たのではわからないはずですから、この作戦は、情報と洞察力がいりますね。
支那の歴史において、こういう頭の良い政治家や武将が出てくると、確かに魅力的で、昔の人はまだ小説もなかったでしょうから、夢中になって支那の歴史や兵法を勉強したのでしょうね。

2013/4/27(土) 午後 3:26 [ さざんか ]

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どうも御待たせしました。この記事へ、と言うより、この故事シリーズへの初コメ、どうもありがとうございました。
アップして以来、誰も書き込んでくれた人が一人もいないんですよ(苦笑)。

ええ、趙盾は見識・手腕の優れた賢宰相でした。少々「?」と思えるような箇所もありますが(^^;)。
趙氏当主は代々賢明でしたし、趙盾の子孫は晋から独立して一国の君主となります。そして嘗ての主君であった晋を滅ぼします。
闘椒の自国内での状態をよく摑んでいたのでしょう。だからこそ下せた判断ですね。

昔はまだ現代程歴史を重ねていなかったので、参考にしたり模範にするテキストも、現代と比べると少なかったでしょうから、賢人の言行録なんかは格好の教材となったでしょう。

2013/4/29(月) 午前 10:22 ZODIAC12

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先日のZODIAC12様じゃないですが、
馴染のない名前が多過ぎて内容が脳に浸透しない(_´Д`)アイーン

正卿って宰相の事だったんですね^^
漢字だけ見て日本の公卿みたいなもんかと早とちりしてました^^;

ナイスヽ(*´∀`)ノ★ぽち

2013/7/22(月) 午後 8:23 栞

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ハハハハハ・・・やっぱり予想通りでしたか(^^;)。

いえね、この話って、支那史好きな人間たちの間でさえも、認知度がかなり低そうなマニアックな話なんですよね(苦笑)。
それにこの春秋戦国時代は550年も続いた訳でして、三国時代なんかよりも断然長いし、登場人物だって桁違いに多いしで、私だって100%完全に把握している訳ではありませんから。


宰相の呼び名は国によって違ってたりしました。
他にはここで取り上げている国である楚だと「令尹(れいいん)」だし、他には「上卿(じょうけい)」「丞相(じょうしょう)」とも。
「卿」とは今で言う大臣に当たりますか。

どこかの語句註釈の記事でも書いた覚えがありますけど、諸侯(つまりは各国君主)に仕える大夫(領地持ちの上級貴族)たちの中でも、国政に携わっている大夫を特に「卿」と呼んだのです。
だから卿とは江戸期日本の各藩で言えば「家老」に当たりますか。
そんな卿たちを束ねて統括し、君主を補佐した卿が宰相という訳です。


最後にナイス☆ありがとうございます!

2013/7/23(火) 午後 8:36 ZODIAC12


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