YAMINABE the Second Operation

この11年間の数多くの思い出を携え、私は新たな旅へと出発します。それでは皆さん、御達者で。

第一四計 借屍還魂

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承前  故事其之壹 ─ 戊





 秦孝文王は即位から僅か一年で急死したのであった。いや厳密に言えば、一年どころか正式に即位した日から、たったの三日後に急死したのであった。
 死因は不明である。暗殺か、病死か、好色が祟っての衰弱死か、史書には明確に記されていない。
 偶然にしては余りに出来過ぎている気がしないでもないが、歴史全体を見れば、却って嬴政(秦王政、始皇帝)が即位する時期がそれだけ早まったので、何か運命的なものを感じる。




 ♖ 計画の成就──────賈人から宰相へ

 父王の急死により、それに代わっていよいよ秦孝文王の太子の子楚が、今度こそ秦の国君として即位したのであった。これが第30代国君・秦荘襄王(しんのそうじょうおう)である。
 これら一連の慌しい出来事も、祖父の秦昭襄王が死んだ年と同年内の事である。
 こうして子楚は、呂不韋という稀代の傑物の導きを得た事により、祖国から見捨てられたも同然だった惨めな人質、いつ殺されるとも知れない、うだつの上がらない貧乏な境遇の貴公子から、一躍天下最強最大の超大国・秦の君主とまでなったのであった。


 そして秦荘襄王は、生母の夏姫を夏太后(かたいこう)として尊び、義母の華陽后を華陽太后(かようたいこう)として尊んだ。
 秦荘襄王の即位実現の最大の功労者たる呂不韋は、秦荘襄王によって秦王を輔弼する丞相(じょうしょう)【※16】に任命された。
 それに加えて秦荘襄王は、呂不韋を文信侯(ぶんしんこう)に封じて、河南(かなん)【※17】の地・洛陽(らくよう)【※18】の十万戸を領有させた。
 正しく呂不韋は、持ち前の度胸と才覚によって、何の政治的基盤もない一介の豪商の身から、一躍天下最大最強の国・秦で、(王を除いて)頂点たる丞相の地位にまで上り詰めたのであった。
 貧乏で無力であった貴公子の子楚(異人)という「屍」を借りて、「魂を還した」──────自身の栄達を実現した──────のであった。
 世界史上稀に見る程の、見事なまでの立身出世物語である。


 やがて数奇な人生を辿った秦荘襄王も、即位から数えて治世6年目の、紀元前246年に死んだ。その短い治世において、目立った事績と言えば次の二点。
 一点目は治世2年目の紀元前250年の、東周(とうしゅう)を滅亡させた事。これについては【第三計 借刀殺人】の故事の中で語る。
 二点目は治世5年目の紀元前247年の、五ヵ国連合軍に秦軍が函谷関(かんこくかん)【※19】まで追い詰められた事。
 その連合軍の上将軍(総司令官)である信陵君【しんりょうくん:姓は姫(き)、氏は魏(ぎ)、名は無忌(むき)】を、謀略を駆使して失脚させ、政治的に抹殺した事。
 これらの出来事については【第二〇計 混水摸魚】の信陵君の故事(リンク先工事中)で語る。





 ♗ 相邦・呂不韋──────権勢の絶頂期

 それで秦荘襄王の死により、予てより太子に立てられていた嬴政が同年内に即位した。嬴政はこの時まだ数え年13歳の幼さであった。
 そして秦王となった嬴政は、父王(秦荘襄王)の即位の最大の恩人である丞相・呂不韋を、その功績に鑑みて、相邦(しょうほう)【※20】に立て、仲父(ちゅうほ)【※21】の称を許した。
 太后(秦王政の生母)は元々並外れた好色だったのか、嘗ての愛人であった呂不韋と、後宮で密通していた。秦王政はまだ幼かったので、高を括っていた事もあるかと思われる。


 呂不韋は商人としてだけでなく、宰相としても有能であった。
 その辣腕ぶりを政務でも発揮し、先王(秦荘襄王)の治世から変わらず、色々と功績を立てていた。





後続  故事其之壹 ─ 庚

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この始皇帝の父親治世における最大の功績である「信陵君失脚陰謀」及びそれによって連合軍を完膚なきまでに敗北に追いやった実績があまりにも、この王とリンケイジして歴史上評価されていないような気もします。もちろん王そのもののアイディアと言うわけではなく、秦側の名将による策謀だったわけですが、そうであっても通常歴史ではその最高責任者(任命者)に栄誉を帰することが多いわけで(例;欧州遠征のモンゴル軍の評価が参謀のスプタイではなく、お飾り司令官のバトゥに帰されている如く)、陰が薄い王様であった印象が強いですね。

2012/11/3(土) 午前 3:12 [ 彩帆好男 ]

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確かに秦荘襄王は余りに影が薄いですね(^^;)。
「奇貨居くべし」の当事者で、即位前は少しは見せ場もあったのに、即位後には目立つ逸話もないですね(^^;)。
何だか呂不韋の傀儡みたいですが。

けどまあ、その父親の秦孝文王なんて即位からたったの三日で死んじゃったし、これって支那史上のあらゆる君主の中でも、歴代最短記録じゃないでしょうか?それに比べればまだマシかと(^^;)。

どうもこの二王は、秦昭襄王と始皇帝(秦王政)という、逸話の多い君主二人の間に挟まれてるせいか、残念な位に影が薄いですよね。
秦昭襄王と始皇帝(秦王政)は治世が長く、秦孝文王と秦荘襄王は治世が短いから、逸話の多さに差が出たというのもありますけど。


>そうであっても通常歴史ではその最高責任者(任命者)に栄誉を帰することが多いわけで

2012/11/3(土) 午前 11:31 ZODIAC12

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例えば本日は明治節。今じゃ「文化の日」だなんて馬鹿なネーミングに変えられてますが、本日は明治天皇の御生誕日を御祝いする祝日であります。
その明治天皇を例に挙げれば・・・・・

明治維新から崩御されるまでの五十年弱もの治世において、日本は色んな偉大な業績を遺しました。
これらは全てが明治天皇御自身の御考えや、直接的な主導によるものばかりという訳ではなく、寧ろ大部分は臣民が手掛けたものではあります。
それでも歴史上稀有の偉大な帝として歴史に名を遺されました。それと同じ事でしょうね。


ところで、バトゥとスプタイについてはあんまりよく知りません(^^;)。
バトゥはチンギス・ハーンの孫の一人で、チンギス・ハーンの長男ジュチの次男だという事。ロシア遠征軍の司令官だという事ぐらいしか知りません。

スプタイはバトゥの軍師ですか?

2012/11/3(土) 午前 11:34 ZODIAC12

ZODIAC12 さん
>スプタイはバトゥの軍師ですか


シナ式に言えばそれに該当するのかもしれませんが、当時のモンゴル軍制度では特にそのような肩書きは無かったようで、正式なものは単なる将軍程度のもののようでした。


ただスブタイは、バトゥの祖父チンギスハーンの頃よりの名将であり、その軍事的才能を高評価した二代目皇帝オゴディよりバトゥ率いる欧州征伐軍のよきアドバイサーとなるよう随行を命じられたようです。
この人事の大成功は歴史が証明していますが、取りも直さず第二次世界大戦の英雄パットン将軍も彼を尊敬していたと聞き及んでいます。

2012/11/7(水) 午後 4:17 [ 彩帆好男 ]

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それは初耳です!あの戦車戦で有名なパットン将軍が、モンゴル人の事を知ってたなんて!
パットン将軍は映画の主人公にもなりましたね。


そうですか。スブタイは軍事的才覚に秀でていて、チンギス・ハーンの時代から頭角を現していたのですか。
オゴデイの人材配置は適材適所だった事になりますね。

スブタイの流儀は知りませんが、もしかしたら中原の『孫子』『呉子』などの伝統的な兵法書を読んだかも知れませんね。

2012/11/7(水) 午後 7:54 ZODIAC12


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