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レーダーなどが進んだ近代兵器を使った戦争の実際では様相も違うでしょうけども、 外交戦略など本音を隠して陽動、押したりすかしたり、いろいろあるのでしょう。
2012/12/24(月) 午前 11:55
仰る通り、外交なんかでもよく応用されますね。 本来の目的をひた隠しにして、まるで見当外れな方向に相手の耳目を集めさせる。 そうして不意を衝く・・・・世界史上にこうした事例は沢山あるでしょうね。 今度政権に返り咲いたばかりの安倍自民党、果たしてこういった高度な戦術を発揮出来るかどうか・・・・
2012/12/24(月) 午後 2:00
韓信は劉邦にとって奇貨そのものだったようですね。劉邦自身は戦争がからきしだめでしたから。 韓信は確かに戦争においては劉邦を上回っていました天才でしたが、経綸の才では劉邦に一日の長があったのでしょう。
2012/12/24(月) 午後 10:58 [ 彩帆好男 ]
韓信は最初は項羽陣営にいたのに、項羽は自尊心が強過ぎて、他者の能力や才覚を認めない所がありました。 そういった度量の狭さと余りのワンマンぶりが祟って、折角の優秀な人材たちを十分に使いこなせませんでした。 劉邦は御指摘のように、ほとんど能力らしい能力がなかった為に(笑)、配下や他者の才覚に頼らざるを得なかったので、それが却って配下の人材群を十二分に活用する事に繋がり、最終的な勝利を得られたかと思います。 そして・・・・政治的才覚においては、劉邦と韓信では、韓信は到底及ばなかったでしょう。 別に劉邦自身が政治的天才だった訳ではないのですが、韓信の政治に関するレヴェルが論外だったからです。 我が国史上の源義経なんかと同じで、軍事的天才は得てして政治的センスが致命的に欠落しているので、その為に悲劇的な最期を遂げるというパターンが多いですね。 勿論政治・軍事両面のセンスに優れた人物も、世界史上いる事はいますが。
2012/12/26(水) 午前 9:41
そういえば源義経が軍事能力にのみ抜きん出ている反面、兄の頼朝が軍事能力はさほど証明されるような実績も無く(せいぜい奥州遠征程度?)、むしろ経綸の才が長けていましたね。 こうした名コンビは幕末の西郷・大久保と酷似していますね(最終的に政治能力のあるほうに敗北してしまうところも)。
2012/12/30(日) 午後 2:57 [ 彩帆好男 ]
そう!それです!政治的天才と軍事的天才が争った場合、最終的にはいつも前者が勝っています。劉邦と韓信、頼朝と義経、西郷と大久保の事例の他にも。 例え相手が政治的天才と言う程の器でないにしても、政略に長けた相手と争った時は、軍事的天才は得てして末路が不運ですね。 古代ローマ時代で言えばハンニバル、スキピオ、ポンペイウス、アントニウス。 春秋戦国時代の支那で言えば白起、廉頗、楽毅。秦漢以降だと岳飛、袁崇煥。 我が国だと楠木正成がその良い例でしょうか。
2012/12/30(日) 午後 5:25
そうそう、陽動をいかに上手く、それっぽく見せるのが成功の鍵ですね。 理想は、敵も完全な馬鹿じゃ駄目。 引っかかる程度の小知恵があり、かつ自信家なら尚Best。 自己の予測に自信あるから、自重や用心といった意見に耳を貸さずに勇んでくれる( ̄+ー ̄)
2013/6/25(火) 午後 3:40
劉邦は、無能有能の枠には入らない大器でしょう。 部下の才能に嫉妬しない主君は希少です。 大抵は覇道半ばで、疑心暗鬼になり自ら有能な臣を潰してしまいます。 相手を呑むキャパの大きさは、なかなか真似できません。
2013/6/25(火) 午後 3:52
戦国で似たタイプなら、やはり信長、秀吉、家康。 信長は晩年近いと不要な家臣を排除しはじめてる。 秀吉も晩年になると、アレだし。 最期までバランス感覚を失わなかったのは家康ってイメージですが、 実は晩年近いと力を持ち過ぎた、代官を切り捨ててますね。 ナイス
2013/6/25(火) 午後 4:02
こちらにもナイス☆ありがとうございました。(^^)b >理想は、敵も完全な馬鹿じゃ駄目。引っかかる程度の小知恵があり、かつ自信家なら尚Best。自己の予測に自信あるから、自重や用心といった意見に耳を貸さずに勇んでくれる( ̄+ー ̄) これとは別の韓信が主人公のエピソードに、そういう話がありますよ(^^)。 これは後に【第一五計 調虎離山】の書庫で紹介するつもりですが、「井陘の戦い(せいけいのたたかい)」の故事においてです。 まだその話を書いていないのですが、先取りして話します。 韓信は劉邦麾下の将軍として、項羽陣営の趙王の軍を相手に、井陘の地で戦いました。 趙王配下の陳余(ちんよ)という将が打って出て来ました。 まず本戦開始前に、陳余の部下の李左車(りさしゃ)という将軍が、韓信軍が本戦の舞台となる場所に辿り着く前の、狭い行軍路の所で前後を挟み撃ちにすれば勝てると進言しました。 実は韓信も内心それを恐れていたので、その策は当たりだったのですが、それにも関わらず、陳余は却下しました。
2013/6/26(水) 午前 10:50
その理由というのが、韓信軍はせいぜい3万程度で、自分たちは公称だと20万だか30万だかで、兵力差が圧倒的だったからです。 つまり「あんな少数相手に小細工やらかしたら、それこそ笑い者だ」と、つまらない面子に拘っていたのと、兵力差に物言わせて楽に勝てるから、策など不要だと思っていたのでしょう。 李左車の策通りにしていれば良かったのですが・・・・・(^^;)。 それで韓信は助かり、無事に通過出来ました。 そして韓信は川を背にして布陣しました。それを見た陳余は韓信を嘲笑いました。 何故ならそれは、兵法上のタブーだったからで、そんな布陣をすれば軍が敗れるからです。 それで陳余は韓信を兵法の初歩さえ知らない愚か者と侮って、打って出て来ました。 しかし韓信軍は逃げ道がない為に逆に死に物狂いの力を発揮し、大軍である敵の猛攻にも耐え切りました。 また韓信は別働隊に命じて、留守部隊が少ない敵軍の陣営に奇襲を仕掛けて、そこを奪取しました。
2013/6/26(水) 午前 10:51
それを知った陳余軍はすっかり浮き足立ち、挟み撃ちにされる恐怖から混乱し、逃亡者が続出して、瞬く間に陳余軍は崩壊して行きました。 こうして韓信は圧倒的な兵力差の敵軍を破った訳です。 この「井陘の戦い」の故事が「背水の陣(を布く)」という故事成語の由来となった訳ですが。 また折角の献策をしながら、それが無駄になった李左車は、戦後に韓信からその後の策を尋ねられましたが、戦いに敗れた事を恥じて、「敗軍の将、兵を語らず。」と言って、最初は辞退しました。 しかし尚も促されたので、結局は語り、その通りにして韓信は成功しました。 だから栞さんの言われる「引っかかる程度の小知恵があり」、「かつ自信家」で、「自己の予測に自信あるから、自重や用心といった意見に耳を貸さずに勇んでくれる」タイプでしたね、陳余は。
2013/6/26(水) 午前 10:53
>部下の才能に嫉妬しない主君は希少です。大抵は覇道半ばで、疑心暗鬼になり自ら有能な臣を潰してしまいます。 劉邦は覇道半ばではなく、天下を獲って皇帝になった後、疑心暗鬼に陥りましたが(^^;)。 まあそんな狭量な君主は天下を獲れませんね。 功臣の粛清に関しては、先日栞さんも御顔出してくれた↓↓のコメント欄でも語りましたが。 火牛の計≪卯≫ http://blogs.yahoo.co.jp/zodiac3721/10990123.html?type=folderlist >最期までバランス感覚を失わなかったのは家康ってイメージですが、実は晩年近いと力を持ち過ぎた、代官を切り捨ててますね。 これは誰の事でしょうか?いましたっけ?
2013/6/26(水) 午前 10:54
ちょっと長時間のPCが辛いので簡単に紹介したURL貼ります http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=990 ここに出ている代官が家康が粛清した人。 不正があったから・・・とされてますが、徳川体制における官僚たちの主導権争いに敗れたとも言えます。 特に大久保長安は大きな権限を持ちつつ、積極的に人脈作りに励んでたので余計に家康から警戒されたのでしょう。
2013/6/27(木) 午前 1:34
ありがとうございます。早速覗いて来ました。 大賀弥四郎と大久保長安の事だったのですか。てっきりその二人以外の事だと思ってましたが。 だってその二人は罪を犯して、法的に処罰されたのだと思ってたので、権力闘争とは無関係だから対象外だと・・・・。 けれど大賀弥四郎の方はともかくとして、大久保長安はクロかシロかハッキリしてなくて、未だ判定はグレーのままなんですねえ。 もしシロだったら、処刑された息子や、処罰された縁戚たちが気の毒ですが(^^;A)。まあ当人の死後だったのがせめてもの救いでしょうか。
2013/6/27(木) 午前 10:04
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レーダーなどが進んだ近代兵器を使った戦争の実際では様相も違うでしょうけども、
外交戦略など本音を隠して陽動、押したりすかしたり、いろいろあるのでしょう。
2012/12/24(月) 午前 11:55
仰る通り、外交なんかでもよく応用されますね。
本来の目的をひた隠しにして、まるで見当外れな方向に相手の耳目を集めさせる。
そうして不意を衝く・・・・世界史上にこうした事例は沢山あるでしょうね。
今度政権に返り咲いたばかりの安倍自民党、果たしてこういった高度な戦術を発揮出来るかどうか・・・・
2012/12/24(月) 午後 2:00
韓信は劉邦にとって奇貨そのものだったようですね。劉邦自身は戦争がからきしだめでしたから。
韓信は確かに戦争においては劉邦を上回っていました天才でしたが、経綸の才では劉邦に一日の長があったのでしょう。
2012/12/24(月) 午後 10:58 [ 彩帆好男 ]
韓信は最初は項羽陣営にいたのに、項羽は自尊心が強過ぎて、他者の能力や才覚を認めない所がありました。
そういった度量の狭さと余りのワンマンぶりが祟って、折角の優秀な人材たちを十分に使いこなせませんでした。
劉邦は御指摘のように、ほとんど能力らしい能力がなかった為に(笑)、配下や他者の才覚に頼らざるを得なかったので、それが却って配下の人材群を十二分に活用する事に繋がり、最終的な勝利を得られたかと思います。
そして・・・・政治的才覚においては、劉邦と韓信では、韓信は到底及ばなかったでしょう。
別に劉邦自身が政治的天才だった訳ではないのですが、韓信の政治に関するレヴェルが論外だったからです。
我が国史上の源義経なんかと同じで、軍事的天才は得てして政治的センスが致命的に欠落しているので、その為に悲劇的な最期を遂げるというパターンが多いですね。
勿論政治・軍事両面のセンスに優れた人物も、世界史上いる事はいますが。
2012/12/26(水) 午前 9:41
そういえば源義経が軍事能力にのみ抜きん出ている反面、兄の頼朝が軍事能力はさほど証明されるような実績も無く(せいぜい奥州遠征程度?)、むしろ経綸の才が長けていましたね。
こうした名コンビは幕末の西郷・大久保と酷似していますね(最終的に政治能力のあるほうに敗北してしまうところも)。
2012/12/30(日) 午後 2:57 [ 彩帆好男 ]
そう!それです!政治的天才と軍事的天才が争った場合、最終的にはいつも前者が勝っています。劉邦と韓信、頼朝と義経、西郷と大久保の事例の他にも。
例え相手が政治的天才と言う程の器でないにしても、政略に長けた相手と争った時は、軍事的天才は得てして末路が不運ですね。
古代ローマ時代で言えばハンニバル、スキピオ、ポンペイウス、アントニウス。
春秋戦国時代の支那で言えば白起、廉頗、楽毅。秦漢以降だと岳飛、袁崇煥。
我が国だと楠木正成がその良い例でしょうか。
2012/12/30(日) 午後 5:25
そうそう、陽動をいかに上手く、それっぽく見せるのが成功の鍵ですね。
理想は、敵も完全な馬鹿じゃ駄目。
引っかかる程度の小知恵があり、かつ自信家なら尚Best。
自己の予測に自信あるから、自重や用心といった意見に耳を貸さずに勇んでくれる( ̄+ー ̄)
2013/6/25(火) 午後 3:40
劉邦は、無能有能の枠には入らない大器でしょう。
部下の才能に嫉妬しない主君は希少です。
大抵は覇道半ばで、疑心暗鬼になり自ら有能な臣を潰してしまいます。
相手を呑むキャパの大きさは、なかなか真似できません。
2013/6/25(火) 午後 3:52
戦国で似たタイプなら、やはり信長、秀吉、家康。
信長は晩年近いと不要な家臣を排除しはじめてる。
秀吉も晩年になると、アレだし。
最期までバランス感覚を失わなかったのは家康ってイメージですが、
実は晩年近いと力を持ち過ぎた、代官を切り捨ててますね。
ナイス
2013/6/25(火) 午後 4:02
こちらにもナイス☆ありがとうございました。(^^)b
>理想は、敵も完全な馬鹿じゃ駄目。引っかかる程度の小知恵があり、かつ自信家なら尚Best。自己の予測に自信あるから、自重や用心といった意見に耳を貸さずに勇んでくれる( ̄+ー ̄)
これとは別の韓信が主人公のエピソードに、そういう話がありますよ(^^)。
これは後に【第一五計 調虎離山】の書庫で紹介するつもりですが、「井陘の戦い(せいけいのたたかい)」の故事においてです。
まだその話を書いていないのですが、先取りして話します。
韓信は劉邦麾下の将軍として、項羽陣営の趙王の軍を相手に、井陘の地で戦いました。
趙王配下の陳余(ちんよ)という将が打って出て来ました。
まず本戦開始前に、陳余の部下の李左車(りさしゃ)という将軍が、韓信軍が本戦の舞台となる場所に辿り着く前の、狭い行軍路の所で前後を挟み撃ちにすれば勝てると進言しました。
実は韓信も内心それを恐れていたので、その策は当たりだったのですが、それにも関わらず、陳余は却下しました。
2013/6/26(水) 午前 10:50
その理由というのが、韓信軍はせいぜい3万程度で、自分たちは公称だと20万だか30万だかで、兵力差が圧倒的だったからです。
つまり「あんな少数相手に小細工やらかしたら、それこそ笑い者だ」と、つまらない面子に拘っていたのと、兵力差に物言わせて楽に勝てるから、策など不要だと思っていたのでしょう。
李左車の策通りにしていれば良かったのですが・・・・・(^^;)。
それで韓信は助かり、無事に通過出来ました。
そして韓信は川を背にして布陣しました。それを見た陳余は韓信を嘲笑いました。
何故ならそれは、兵法上のタブーだったからで、そんな布陣をすれば軍が敗れるからです。
それで陳余は韓信を兵法の初歩さえ知らない愚か者と侮って、打って出て来ました。
しかし韓信軍は逃げ道がない為に逆に死に物狂いの力を発揮し、大軍である敵の猛攻にも耐え切りました。
また韓信は別働隊に命じて、留守部隊が少ない敵軍の陣営に奇襲を仕掛けて、そこを奪取しました。
2013/6/26(水) 午前 10:51
それを知った陳余軍はすっかり浮き足立ち、挟み撃ちにされる恐怖から混乱し、逃亡者が続出して、瞬く間に陳余軍は崩壊して行きました。
こうして韓信は圧倒的な兵力差の敵軍を破った訳です。
この「井陘の戦い」の故事が「背水の陣(を布く)」という故事成語の由来となった訳ですが。
また折角の献策をしながら、それが無駄になった李左車は、戦後に韓信からその後の策を尋ねられましたが、戦いに敗れた事を恥じて、「敗軍の将、兵を語らず。」と言って、最初は辞退しました。
しかし尚も促されたので、結局は語り、その通りにして韓信は成功しました。
だから栞さんの言われる「引っかかる程度の小知恵があり」、「かつ自信家」で、「自己の予測に自信あるから、自重や用心といった意見に耳を貸さずに勇んでくれる」タイプでしたね、陳余は。
2013/6/26(水) 午前 10:53
>部下の才能に嫉妬しない主君は希少です。大抵は覇道半ばで、疑心暗鬼になり自ら有能な臣を潰してしまいます。
劉邦は覇道半ばではなく、天下を獲って皇帝になった後、疑心暗鬼に陥りましたが(^^;)。
まあそんな狭量な君主は天下を獲れませんね。
功臣の粛清に関しては、先日栞さんも御顔出してくれた↓↓のコメント欄でも語りましたが。
火牛の計≪卯≫
http://blogs.yahoo.co.jp/zodiac3721/10990123.html?type=folderlist
>最期までバランス感覚を失わなかったのは家康ってイメージですが、実は晩年近いと力を持ち過ぎた、代官を切り捨ててますね。
これは誰の事でしょうか?いましたっけ?
2013/6/26(水) 午前 10:54
ちょっと長時間のPCが辛いので簡単に紹介したURL貼ります
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=990
ここに出ている代官が家康が粛清した人。
不正があったから・・・とされてますが、徳川体制における官僚たちの主導権争いに敗れたとも言えます。
特に大久保長安は大きな権限を持ちつつ、積極的に人脈作りに励んでたので余計に家康から警戒されたのでしょう。
2013/6/27(木) 午前 1:34
ありがとうございます。早速覗いて来ました。
大賀弥四郎と大久保長安の事だったのですか。てっきりその二人以外の事だと思ってましたが。
だってその二人は罪を犯して、法的に処罰されたのだと思ってたので、権力闘争とは無関係だから対象外だと・・・・。
けれど大賀弥四郎の方はともかくとして、大久保長安はクロかシロかハッキリしてなくて、未だ判定はグレーのままなんですねえ。
もしシロだったら、処刑された息子や、処罰された縁戚たちが気の毒ですが(^^;A)。まあ当人の死後だったのがせめてもの救いでしょうか。
2013/6/27(木) 午前 10:04