YAMINABE the Second Operation

この11年間の数多くの思い出を携え、私は新たな旅へと出発します。それでは皆さん、御達者で。

第二六計 指桑罵槐

[ リスト ]

「孫子勒姫兵(孫子、姫兵を勒す)」──────「兵聖」孫武の練兵法。呉王闔閭の二寵姫を斬る。





 ♚ 兵法書『孫子』──────故国での模様

 元は春秋戦国時代の支那で生まれた『孫子(そんし)』という兵法書がある。「兵聖」とまで讃えられた、世界最高峰の偉大な兵法家である孫子の一大傑作である。
 恐らくは世界中で最も有名な兵法(軍事学)のテキストであり、世界史上最初の科学的・合理主義的考察に基づいて編み出された戦争のテキストであろう。
 本国の支那のみならず、我が国も含めた諸外国でも、数多くの英雄たちに読まれて来た。


 後世の三国時代の主役的存在として有名な曹操【姓は曹(そう)、名は操(そう)、字は孟徳(もうとく)、諡号は魏武帝(ぎのぶてい)】がこの『孫子』に秀逸な註釈を付けた事で知られる。
 この曹操が附註し、再編纂したヴァージョンが『魏武註孫子(ぎぶちゅうそんし)』と呼ばれ、後世現在にまで『孫子』の一般的なイメージとして浸透している、全十三篇から成るスタンダードな内容となっている。


 そして曹操と同時代を生きた高名な権謀家である諸葛亮【姓は諸葛(しょかつ)、名は亮(りょう)、字は孔明(こうめい)、諡号は忠武侯(ちゅうぶこう)】と司馬懿【姓は司馬(しば)、名は懿(い)、字は仲達(ちゅうたつ)、諡号は晋宣帝(しんのせんてい)】の二人もよく学び、実地に応用していた。


 近代20世紀になると、毛沢東(もうたくとう)が『孫子』をよく研究し、自らの戦略戦術に積極的に活用した。
 支那事変(しなじへん)の最中、どうすればライヴァルの蒋介石(しょうかいせき)率いる国民党に勝利し、日本軍にも負けず、一般大衆の支持を得られるかを考察するのに、『孫子』や歴史書からそれらのヒントを見出した。





 ♛ 兵法書『孫子』──────我が国での模様

 我が国に『孫子』を初めて伝えたのは、吉備真備(きびのまきび)だと伝えられる。
 奈良時代の天平宝字8(764)年に勃発した「藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん)」(「恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)」とも)に際して、真備は兵法を学んだ事を見込まれて、反乱討伐軍の総司令官に任命された。
 そしてその期待に応え、真備は『孫子』の兵法を駆使して見事に乱を鎮圧した。


 平安時代後期の永保3(1083)年から寛治元(1087)年に懸けて続いた「後三年の役(ごさんねんのえき)」における、八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとのよしいえ)もそうである。
 義家が行軍中に、通常は整然と列を為して飛ぶ雁の群れが、列を為さず乱れて飛んでいたのを見て、敵の伏兵の存在を察知し、先手を打って伏兵を殲滅した。いわゆる「雁行の乱れ(がんこうのみだれ)」の故事である。
 これは『孫子』の第九篇『行軍篇(こうぐんへん)』の中にある記述の、


『鳥立つは、伏(ふく)なり。』

【意味:鳥の群れが飛び立つのは、伏兵が潜んでいる証拠である。】


に基づいた判断である。


 更に時代は下って戦国時代。
 甲斐国(かいのくに)の戦国大名・武田信玄(たけだしんげん)が自軍の旗印のフレーズにした事でも有名な「風林火山(ふうりんかざん)」の四文字。
 これも『孫子』の第七篇『軍争篇(ぐんそうへん)』の中にある一節である。


『故(ゆえ)にその疾(はや)きこと風の如く、その徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如く、知り難(がた)きこと陰(いん)の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し。
 郷(きょう)を掠(かす)むるには衆を分かち、地を廓(ひろ)むるには利を分かち、権を懸けて動く。迂直の計を先知(せんち)する者は勝つ。
 これ軍争の法なり。』

【意味:故に作戦行動においては、風が吹いたように迅速に移動したかと思えば、林のようにしんと静まり返る。
 火が燃え盛るように襲撃したかと思えば、山のように微動だにしない。
 暗闇の中に身を潜ませたように、自軍の実情を敵に察知されないよう隠したかと思えば、雷のように突如轟き渡る。
 兵を分けて集落を襲撃させて奪い、各拠点に守備部隊を置きながら占領地の拡大を図り、彼我の情勢を秤に掛け、適切な判断を下して行動する。
 敵に先んじて「迂直の計(うちょくのけい)」──────迂(遠回り)を却って直(近道)と為し、弱点を却って強味へと転化させる発想の計略──────を用いるならば必ず勝つ。
 これぞ軍争における原理である。】


 信玄はこの一節の「風林火山」の箇所を抜き取り、原文そのままに旗印に採用した。
 この四文字(及びそれらに付随する文章)を、武田軍の陣中における心構え、戦術思想とした。





 その他にも我が国史上の名の知れた多くの英雄偉人たちにも読まれた。





 ♜ 兵法書『孫子』──────欧米での模様

 ヨーロッパに最初に『孫子』が伝わったのは、18世紀の清代の支那で布教活動をしていた、イエズス会所属のフランス人宣教師ジョセフ・マリー・アミオ(銭徳明)が、不完全ながらもフランス語に翻訳して以来である。
 1772年にパリで邦訳版が出版され、その影響で後世フランス皇帝にまでなるナポレオン・ボナパルト(大ナポレオン)が、『孫子』を愛読して、戦略戦術に活用したとも伝えられるが確証はない。


 またよく知られる逸話が、最後のドイツ帝国皇帝及び最後のプロイセン王国国王となったウィルヘルム2世に関するものである。
 第一次世界大戦における敗北の影響で「ドイツ革命」が勃発し、ウィルヘルム2世は退位に追い込まれ、オランダへ亡命する羽目となった。
 そんなウィルヘルム2世が晩年に、亡命先のオランダで『孫子』を手に取り読み、次のようにその時の心情を吐露したと言われる。


「もし20年前にこの本を読んでいたとしたら、あのような(第一次世界大戦での)敗北を味わわずに済んだであろうに。この本と出会うのが余りにも遅過ぎた。」


と嘆息しながら後悔の言を呟いたという。


 他に知られるのは、『戦略論(せんりゃくろん)』を著した20世紀イギリスの軍事思想家バジル・ヘンリー・リデルハートが『孫子』を、「古今東西の軍事学の書物の中で最も優れている。」と称賛した事である。


 近年だと1991年の湾岸戦争や、2003年のイラク戦争でも、アメリカ軍の作戦計画に『孫子』が参考にされたという。





 このように世界中で読み継がれ、世界各国の軍事学校のテキストとしても採用されている『孫子』。そんな書物の著者・孫子とはどういう人物だったのか?





 ♝ 著者・孫子(孫武)の人物像・出自

『孫子』の著者である孫子は、その生涯や事績に今一つ確証が弱いが、これから伝えられて来た通りに語る。





 孫子は姓は嬀(ぎ)、氏は孫(そん)、名は武(ぶ)、字は長卿(ちょうけい)という。
 生没年は不詳だが、史書の記録によれば、春秋時代後期の紀元前6世紀から紀元前5世紀に懸けて生きた。
 孫武は斉に仕える大夫・田氏一族から枝分かれした家系であると言う。
 【第三〇計 反客為主】の田氏一族の簒奪の故事(リンク先工事中)でも語るが、斉の大夫・田氏は嘗て政争から身を避けようと、紀元前670年に斉へ亡命して来た陳の公子完【姓は嬀(ぎ)、氏は陳(ちん)又は田(でん)、名は完(かん)、諡号は田敬仲(でんけいちゅう)】を氏祖とする。
 その亡命して来た年(紀元前670年)から284年後の紀元前386年に、氏祖・田完から数えて10世代目の子孫で、田氏第11代当主である田和【姓は嬀(ぎ)、氏は陳(ちん)又は田(でん)、名は和(か)、諡号は斉太公(せいのたいこう)】の代で、斉の君位と国の簒奪を完了させる。
 斉(姜斉)最後の国君となる第32代・斉康公【せいのこうこう:姓は姜(きょう)、氏は呂(りょ)又は斉(せい)、名は貸(たい)】を田和は実力で廃位して、代わって自身が一介の卿大夫の身から、新しく斉を統治する諸侯(国君)となったのであった。


 だがそれはずっと先の話であって、氏祖・田完(陳完)から数えて第5代当主の田無宇【姓は嬀(ぎ)、氏は陳(ちん)又は田(でん)、名は無宇(むう)、諡号は田桓子(でんかんし)】の子に、田書【姓は嬀(ぎ)、氏は陳(ちん)又は田(でん)、名は書(しょ)】という人物がいた。
「田完から五世の子孫」ともあるのであるいは、田完の玄孫である田無宇とは、田書は兄弟か同世代の従兄弟といった可能性もある。それはともかく、この田書が孫武の祖父である。
 紀元前523年に斉が莒という国を攻めた時に、従軍していた田書は功績を立てた。その功績により田書は、斉の国君より新しく「孫(そん)」という氏を賜った。
 以後は田氏の支流ではありながらも、田書の系統は代々孫氏を称するようになった。田書改め孫書である。
 孫書の嫡男は孫憑【姓は嬀(ぎ)、氏は孫(そん)、名は憑(ひょう)】と言い、すなわち孫武の父である。そして孫憑は孫武を生んだ。


 孫武は若い頃より兵書に親しみ、太古の伊尹(いいん)、太公望【姓は姜(きょう)、氏は呂(りょ)、名は望(ぼう)、諡号は斉太公(せいのたいこう)】、管仲【姓は不明、氏は管(かん)、名は夷吾(いご)、諡号は管敬仲(かんけいちゅう)】等の先人の用兵や計略を研究したという。
 本書庫の故事でも取り上げた司馬穰苴も、孫武と同じ田氏の支流の出であり、同じ兵法家でもある。
 そして二人は同時代を生きたようであり、通史・正史には記されてはいないものの、世代的には司馬穰苴の方が上だと思われるので、孫武は司馬穰苴から兵法を学び、その薫陶を受けた可能性が高い。





 ♞ 運命の地・呉にて

 やがて田氏一族内で内紛が起こり、孫武はそれを避ける為に斉を離れ、楚や越と共に当時南方で強盛を誇っていた呉に移り住んでいた。
 時の呉は第24代国君・呉王闔閭【姓は姫(き)、氏は呉(ご)、名は光(こう)改め闔閭(こうりょ)】の治世であった。


 【第二二計 関門捉賊】の呉王僚暗殺の故事(リンク先工事中)でも語ったように、呉王闔閭は腹心の側近・伍子胥【姓は不明、氏は伍(ご)、名は員(うん)、字は子胥(ししょ)】の献策に従い、従兄弟であった先代の呉王である僚【姓は姫(き)、氏は呉(ご)、名は僚(りょう)】を口実を設けて宴席に誘い出し、専諸(せんしょ)という勇士を刺客に据えて謀殺したのであった。
 そして従兄弟の僚を弑殺し、呉王に即位した闔閭は、即位実現の最大の功労者であった伍子胥を宰相に任命した。
 これら一連の事件は紀元前515年の出来事である。そして闔閭の治世は紀元前496年に死ぬまで20年間(数え)と長く続く。


 孫武は呉の宰相となった伍子胥の知遇を得た事で、その後に伍子胥によって推挙される切っ掛けとなった。
 それまでの間、孫武は呉の国都・姑蘇(こそ)【※1】の郊外の山中に隠棲しながら、兵法書『孫子』の原型となる十三篇の兵法理論の著述に没頭していた。
 そして孫武が書き上げた書物『孫子』を、伍子胥が呉王闔閭に献上し、七度にも亘って呉王闔閭に孫武を登用するよう説得したのであった。
 そしてとうとう伍子胥は闔閭を説き伏せ、孫武を宮廷まで召し出してその人物と才覚の程を試しに見てみようという運びとなった。





 ♟ 後宮婦人を兵士に

 呉王闔閭の即位と同年内に、孫武は王との謁見が実現し宮廷へ赴いた。
 そして呉王闔閭は孫武に奇妙な申し出をした。


寡人(かじん)【※2】子(し)【※3】の著した十三篇もの兵法の書を全て読んだ。
 そこで此度は実地に子に兵を勒(ろく)させたいと思っておるが、如何かな?」


「勒する」とは「整える」「統御する」という意味である。すなわち兵の統率の手腕の程を見てみたいという事である。
 それに対し、孫武は即答した。


「可なり(宜しいでしょう)。」


 そこで呉王闔閭は、孫武に対して予想外な条件を申し出た。


「それに付いてだが・・・・練兵には我が後宮の女たちを兵士として試みてもらいたと思うが、如何かな?」


 当時の常識では、後宮の婦人たちというのは、濫りに外へ出る事は許されていなかったので、そんな婦人たちを公衆の面前に晒すのは、異例な事であった。
 だがそれ以前に、女では本質的に兵事に向かないのは明らかである。
 呉王闔閭の意図は、孫武に無理難題を吹っ掛けて、孫武の力量を試してみようとしただけではあるまい。
 恐らくは後宮婦人には我儘な者も多かったようで、そんな女たちを呉王闔閭も持て余して、辟易させられていた所もあったのであろう。いわば一種の「躾」も秘かに意図していたかと思われる。


 孫武はこれまた即答した。


「可なり。」





 ♔ 戯れ気分

 そうして呉王闔閭の後宮の美女たちを駆り出して、練兵場まで集合させた。その数は百八十人にも上った。
 孫武はその婦人たちを二隊に分けて、特に呉王闔閭の寵愛が深い二人の寵姫を、それぞれの隊の隊長に任命した。
 そして百八十人の婦人全員に戟を持たせ、呉王闔閭以下、文武百官の見守る中で、いよいよ孫武は練兵を開始した。


 だが後宮婦人たちから成る即席兵士たちは、これが真剣な軍事教練である事が全く解っていなかった。呉王闔閭の趣向を凝らした新手の遊び程度にしか思っていなかったのである。
 だからこそいざ始まる段になっても、婦人団には緊張感が欠片もなく、好き勝手に喋り合ってたり、笑っていたりするばかりであった。
 そんな勘違いがこれより間もなくして、惨劇の光景を現出させる事となる。


 まず孫武は軍令を布告した。孫武は皆に尋ねた。


「そなた等は己の胸と、左右の手と、背中が分かるか?」

「はい、勿論ですとも。」

「ならば我が太鼓で“前”という合図をすれば胸を見よ。“左”という合図をすれば左手を見よ。
“右”という合図をすれば右手を見よ。“後ろ”という合図をすれば背中を見よ。」

「諾(承知致しました)。」


 合図の種類とそれに対応する動作の打合せが一先ず済んでから、孫武は軍令に従わない者を処刑する為の刑具である鈇鉞(ふえつ)【※4】を用意した。
 その上で念には念を入れて、五回程も同じ事を繰り返した。諄(くど)い位に念押ししてから、孫武はいよいよ本番を開始した。


 即席の婦人兵士全員に対して、太鼓を打ち鳴らして“右”と合図を出した。
 だが両隊長以下、婦人兵士たちは相変わらず大いに笑い出し、誰も真面目にやらなかった。
 そこで孫武は言った。


「軍令や合図の打合せが不徹底だったりするのは、将(司令官)たる者(すなわち孫武自身)の罪である。」


 そう言って孫武は再び、五回程も繰り返し繰り返し、諄い位に入念に説明をした。
 そしてそれが済むと、孫武は練兵を再開し、合図の太鼓を打ち鳴らした。
 だがそれ程にまで念を入れて打ち合わせたにも関わらず、両隊長以下、婦人兵士たちは大声で笑い出し、全く従わない有り様であった。
 そこで孫武は言った。


「軍令や合図の打合せが不徹底だったりするのは、将たる者の罪である。
 しかしそれら全てがきちんと行き渡らせられたにも関わらず、兵が軍令に従わぬのは、吏士(りし)【※5】たる者の罪である。」


 すなわち隊長である二人の寵姫の責任という事である。





後続  故事其之壹 ─ 乙(完結編)

「第二六計 指桑罵槐」書庫の記事一覧

閉じる コメント(9)

顔アイコン

>1991年の湾岸戦争や、2003年のイラク戦争でも作戦計画に『孫子』が参考にされたという。

どのように参考にされたのでしょう。古代人の遺跡のような文献が現代に役に立つとは考えられにくいので、その具体的事例をお教え下さい。

2014/5/8(木) 午前 6:06 [ 彩帆好男 ]

顔アイコン

実際、アメリカのシンクタンクである米戦略問題研究所の上級アドバイザーであるエドワード・ルトワック氏は、「中国人は今でも古典(孫子の兵法等)に書かれた戦略の智恵が優れていると頑なに信じ込んでいるため、主権国家から成り立つ現在の国際社会に適応できない」と懸念を示しています。

彼はこのように説明します。「中国は、戦国時代の名残り、すなわち同一文化的な規範を異文化間の紛争に適用してしまう。その第1の表れが、国際関係においても無制限にプラクマティズム(実際主義、実利主義を使ってもよい」と考えている点だ。」と。

2014/5/8(木) 午前 9:02 [ 彩帆好男 ]

顔アイコン

詳細な事まではよく知らないですが、☟が何か参考になるかも。

http://takessii.com/?p=1957

☝は湾岸戦争時におけるシュワルツコフの行き方が、孫子の理論に適っていたというのですが。

そのエドワード・ルトワックという人の主張も「なるほど、言われてみればその通りかも知れない」と思えますが、そのルトワック氏の論とは違った視点です。

2014/5/8(木) 午後 8:55 ZODIAC12

ご紹介いただいたブログを拝見しました。

要するにシュワルツコフ将軍自身の見解ではなく、この日本人ブロガーの独りよがりの見解だけなのですね。

なぜ独りよがりかといえば、孫子のたった二つの文言を我田引水的に牽強付会しているという内容でしたので。

ただ「兵は詭道なり」という点だけではこじつけとしかいいようがないです。

なぜなら奇抜な戦闘は歴史上世界各地の名将がこれまで行ったものであり、彼らすべてが孫子を読んでいる訳ではないゆえに。

もう一つの引用である「上下欲云々」も、このブロガーの曲解です。アメリカの力が当時強すぎたため、中小のアラブ諸国は米国主導の方針には従わざるを得なかったのが実態です。

力で押さえつけることはアメリカの真骨頂です。朝鮮戦争もベトナム戦争も多国籍軍でしたが、アメリカの力が抜きん出て強かったため他国はアメリカの指揮下には従順でした。

これは力学関係というだけで、孫子のいう「欲望云々」の合従策には当てはまりません。

2014/5/10(土) 午前 4:32 [ 彩帆好男 ]

顔アイコン

ウィキペディアには、

>>近年では、イラク戦争での米軍の"Shock and awe"(衝撃と畏怖)作戦が『孫子』『戦争論』を参考にしたといわれている。<<

とあります。

湾岸戦争でもアメリカ軍は『孫子』を参考にして作戦計画を立てたと言われてます。
その時のアメリカ軍の将軍だか参謀の机に、『孫子』があったという逸話もあるみたいですから。
だからそれは作り話ではなく、事実だと思っていいのではないでしょうか?

上で紹介したブロガーの見解は、作戦行動が『孫子』を念頭に置いていたか、そうでないかはともかくとして、結果的に『孫子』の理論に適った軍事行動を取っていたと言いたかったのではないでしょうか?

2014/5/10(土) 午前 9:56 ZODIAC12

顔アイコン

女性が戦に向かないと言うのはある意味当たっていますね。やはり向き不向きはあります。今の職業でも明らかです。少なくとも管理職には男性の方が向いています。確かに個々を見ると無能な男性よりも有能な女性はいますが、概していうと・・・です。

ただ、女性の社会進出でやたらめったら女性登用と言うのはどうなのでしょうね。

安倍ちゃんはどうも孫子は理解していなさそうです。
竹中君に遊ばれている感じです。

傑作&TBします。

2014/6/5(木) 午後 0:32 千葉日台

顔アイコン

ナイス☆&返礼TB、ありがとうございます。


千葉日台さんもそう思われますか。私はフェミニズムというのが嫌いですので、何でもかんでも女を過度に持ち上げる風潮は嫌いです。
こう言うと馬鹿は決まって、「女性蔑視だ!」だの、「女に対して劣等感持ってるんだろ?」とか、くだらない言い掛かりを付けて来ますが。


>今の職業でも明らかです。少なくとも管理職には男性の方が向いています。

千葉日台さんの会社でもそういう状況ですか。
私も以前の職場では、まあ業種的にどちらかと言えば女性の方が向いてそうな業界じゃないかと思えますが、それでも人使いとか、指導能力とか、どうも女だと纏まらないというか・・・・。
どの方面に対しても良い顔しようとする八方美人か、無駄に刺々しくてキツいかの、両極端になりがちでしたね。

「厳しい」と一口に言っても、男の厳しさと女の厳しさって、どうも質が違うように感じたりします。

2014/6/5(木) 午後 6:49 ZODIAC12

顔アイコン

男のは陽性で、女のは陰性と言いますか・・・・個人的な偏見かも知れませんが、どうも全体的に見て、女の上役や先輩は必要もないのに、ヒステリックで無駄に尖ってる印象ですね。


>確かに個々を見ると無能な男性よりも有能な女性はいますが、概していうと・・・です。

これまた女性蔑視だとか言われそうですが・・・・色々な男女比較論系のサイトとかを覗くと、こんな事がよく言われてますね。

女は全体的に平均ラインに集中してて、どうしようもない底辺のカスとかがほとんどいない。
けどハズレが滅多にない反面、突出して優れたのがいない。

それとは対照的に男は幅が大き過ぎると。
女よりもずっと劣るド底辺のクズも多いけど、それの対極には、女が逆立ちしたって足元にも及ばない程の、圧倒的に凄いクラスの人間が沢山いると。

つまりスペックと言うか、伸び代が男は大きく、女は小さいという話ですが。


記事内容から話が大分逸れてしまいましたが、孫武はこれらの後宮婦人たちに、見せしめの手法で規律を叩き込みます。

2014/6/5(木) 午後 6:53 ZODIAC12

顔アイコン

現代ではここまでやれとは言わないものの、男だろうと女だろうと、信賞必罰を貫徹させろと言いたいですね。
女性優遇と男性差別が罷り通っている現況は、腹立たしい限りです。


安倍総理の女性観はどうもよく判りませんが、女性の社会進出をこれ以上煽るような政策を打ち出そうとしてるのは、方向がズレてるだろうと思います。
竹中平蔵なんて新自由主義者とか何主義者とか名乗ろうと、結局は無自覚な左翼ですよ。
考えてる事に国益に適うような代物がなさそうですし。

2014/6/5(木) 午後 6:53 ZODIAC12

開く トラックバック(1)


.
ZODIAC12
ZODIAC12
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

ブログバナー

過去の記事一覧

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
友だち(1)
  • yatugatake
友だち一覧
検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事