YAMINABE the Second Operation

この11年間の数多くの思い出を携え、私は新たな旅へと出発します。それでは皆さん、御達者で。

第五計 趁火打劫

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「宋襄の仁」──────「泓水の戦い」における宋襄公の行き過ぎた仁慈。





 ♚ 失意の人

(何故なのか・・・・何故斯様(かよう)な事となったのか・・・・)


 時は紀元前637年、春秋時代中期の支那である。
 男は病床に伏していた。虚ろな表情で物思いに耽り、心の中で自問自答を繰り返していた。
 だが何度自問してみても、その答えは見付からなかった。


 男は名宰相・管仲【姓は姫(き)、氏は管(かん)、名は夷吾(いご)、字は仲(ちゅう)、諡号は管敬仲(かんけいちゅう)】の輔弼の下、春秋最初の覇者となった斉桓公【せいのかんこう:姓は姜(きょう)、氏は呂(りょ)又は斉(せい)、名は小白(しょうはく)】亡き後、新しい覇者となって天下中の諸侯を統べる野心に燃え、その実現に半生を懸けた。
 臣下の諫言も顧みずに、ひたすら覇者への階段を駆け上がろうと情熱を注いだ。
 その結果、一時は曲がりなりにも、どうにか覇者の座へ手が届きそうな気配であった。
 そして遂には夢破れ、天下中の嘲笑の種となり、自身の人生の破滅へと至った。


 今、男の死期は迫っていた。この時から間もなく、男は失意の内に死ぬ事となる。


(寡人(かじん)には天命も徳もなかったと言うのか・・・・)


 男は自分自身の事を「寡人」と呼ぶ。この時代にこのような一人称を用いる人種は、天子(周王)や諸侯等の、一国の頂点に立つ君主クラスの人物だけである。
 実際に男は周代の宋という封国を治める諸侯(君主)であった。
 姓は子(し)、氏は宋(そう)、名は茲父(じほ)又は茲甫(じほ)とも。
 宋の第20代国君であり、諡号は宋襄公(そうのじょうこう)である。以後は「宋襄公」と呼ぶ。





 ♛ 「泓水の戦い」

 宋襄公は紀元前651年に即位した。以来紀元前637年に死ぬまで、15年間の治世を重ねた。
 宋襄公が病床に伏している原因である股に負った傷は、死の前年である治世14年目の、紀元前638年に負ったものであった。
 その年(紀元前638年)の冬11月の事。宋襄公は南方の大国・楚と戦った。


 先年に楚によって、宋襄公は天下中に恥を掻かされ、覇者への夢を台無しにされた。宋襄公及び宋人もそんな楚を酷く恨み、雪辱に燃えていた。
 国君である宋襄公自身も、甲冑に身を固めて親征していた。
 そして両軍の軍勢は遂に、泓水(おうすい)【※1】の畔で衝突し、決戦をするに至った。
 後世「宋襄の仁(そうじょうのじん)」という故事成語の由来となった一戦「泓水の戦い(おうすいのたたかい)」である。


 宋軍と楚軍とでは、国力差が隔絶していて、彼我の兵力差が大きかった。日の出の勢いで興隆していた楚とまともに戦っては、宋に勝ち目がなかった。
 宋軍は既に隊列を整え、泓水のすぐ近くに陣を構えて待機していたが、それとは対照的に楚軍は、全軍が河川(泓水)を渡り切ってはおらず、半数以上がまだ渡河の最中であった。
 大司馬(だいしば)【※2】の公子目夷【姓は子(し)、氏は宋(そう)、名は目夷(もくい)、字は子魚(しぎょ)】は、これぞ好機とばかりに進言した。


「敵軍は多勢で我が軍は寡兵(少数)にございます。ならば敵軍がまだ完全に河を渡り切らぬ内に、攻撃を仕掛けましょう。」


 つまりは「火事場(敵が弱みを晒している瞬間)」を見逃さず、「押し込みを働く(容赦なく攻撃を加える)」という趁火打劫策を献策したのである。


 ちなみにこの公子目夷が献策した、「敵兵の半数程が河を渡っている最中に攻撃すべし。」という主張は、れっきとした兵法理論の裏付けがある。
 この時より百何十年後に現れる天才兵法家・孫武【姓は嬀(ぎ)、氏は孫(そん)、名は武(ぶ)、字は長卿(ちょうけい)】の著した兵法書『孫子(そんし)』の中でも語られている。
『孫子』の第九篇【行軍篇(こうぐんへん)】の中には、以下のような一節がある。


『水を絶(わた)れば必ず水に遠ざかり、客(かく)、水を絶りて来たらば、これを水の内に迎うるなく、半ば済(わた)らしめてこれを撃つは利なり。』

【意味:自軍が河を渡る時は、渡り終えたら必ず河から遠ざかる事である。
 敵軍が河を渡って来たならば、敵軍がまだ河の中にいる内に迎え撃ったりはしない。
 敵軍の凡そ半数程が渡り終えてから攻撃する方が効果的である。】


 だからこそ公子目夷の進言は理に適ったものであった。





 ♜ 不可解な命令──────二度に亘って勝機を逃す

 だがそれにも関わらず宋襄公は、


「不可なり(それはならぬ)。」


と言って、即座に却下した。公子目夷は一瞬我が耳を疑った。


(・・・・!!??何を申されるのか!?君公は状況が解っておいでなのか!!??)


 その為公子目夷は歯痒い思いをしながら、ただ楚軍が河を渡っているのを、黙って眺める他なかった。
 そうして攻撃を加えないでいる内に、楚軍は全軍渡河を完了した。
 不可解な命令を出した為に、宋襄公は折角の好機を逃してしまった。


 だがまだ完全に勝機が去った訳ではなかった。
 楚軍は河から全軍とも上陸し終えたものの、まだ陣形を整えるには至っていなかったので、先刻からやきもきしていた公子目夷は、隊列が整わない内に今度こそ攻撃を仕掛けるよう進言した。
 趁火打劫策を用いる二度目の好機である。一度目は逃しても今度こそは・・・・と、公子目夷は思っていた。
 だが宋襄公はまたもや、


「未だ可ならず(まだならぬ)。」


と、膠(にべ)もなく却下した。


(・・・・・一体何を御考えか!!??)


 公子目夷は唖然とするより他なかった。事ここに至っても、余りに現実離れした命令には、ただただ呆れ果てるばかりであった。
 その為に楚軍は戦闘開始からこれまでに、一兵も失う事なく、一滴の血も流す事もないまま、無事に渡河を終え、無事に陣形を整え終えた。





 ♝ 大敗

 河を半数が渡った時と、陣形を整えている最中と、趁火打劫策を用いる機会が二度もあったにも関わらず、無為に過ごして折角の機会を逃してしまった。
 こうして宋軍の勝機は完全に去り、最早勝敗は決したのであった。


 敵の布陣の完了を悠長に待ってから、宋襄公は漸く攻撃命令を下したが、時既に遅し、真正面からまともに戦っては勝負にもならなかった。
 戦況は一方的で、楚軍の圧勝に終わった。
 宋軍は大敗を喫し、門官(もんかん)【※3】は全員戦死し、また宋襄公自身も股を負傷した。


 戦後に宋人は挙って、宋襄公の振る舞いを批難した。それに対し、宋襄公は反論した。





 ♞ 「宋襄の仁」

「君子たる者、一度戦傷を負った者を重ねて傷付ける事はせず、二毛(にもう)【※4】を虜(捕虜)とはせぬものなのだ。
 古の戦というものは、足場の悪い所、狭苦しい所で敵を苦しめたりはせなんだものだ。
 寡人は亡国の末裔ではあるが、隊列を整え終えておらぬ敵に対し、進撃の太鼓を打ち鳴らしたりはせぬ。」


「亡国の末裔」とは、宋襄公及び宋公室が、嘗て周王朝によって滅ぼされた、前代の天子の王朝である殷(商)王朝の末裔であるという意味である。
 周によって滅ぼされた後、殷(商)の王族の生き残りが周王朝より許され、改めて周王朝に仕える諸侯として立てられた。
 そして宋という封国が新しく建国され、その国を治める国君として封じられた。以来子孫代々君位を世襲し、宋襄公にまで至る。
 故に宋公室の「子」という姓は、元は殷(商)王室の姓である。


 話を戻して、それを聞いた公子目夷は、呆れ果てて宋襄公の了見違いを批判した。


「君公は未だに、戦というものが御解りになられておられませぬな。
 強い敵軍が足場の悪い所で隊列を整えないでいたのは、すなわち天が我が宋を助けようとしていたのでございます。
 その機に乗じて進撃の太鼓を打つは、寧ろ妙策というもの。しかしそれですらも必ずや勝てるとは限りませぬ。


 今我が宋と争う強き者等は、皆我等の敵でございます。
 故に例え胡耇(ここう)【※5】と雖も、戦で捕えた敵兵ならば遠慮なく殺すべきでございます。
 況(ま)してや二毛(白髪交じりの老人)などに何の遠慮が要りましょうや?


 全ての将卒に対し、恥ずべき行為を処罰する軍律を定め、戦いにおける駆け引きを教えているは、すなわち敵兵を殺す事を目的としているからでございます。
 故に敵兵が傷を負っても尚死なぬのであらば、更に追い討ちを掛けて殺すべきにございます。
 然るにもしも負傷した者に追い討ちを掛けるのを躊躇うのであらば、初めから傷付けぬ方が益しでございます。
 もしも二毛を捕えるのを躊躇うのであらば、敵に投降した方が益しでございます。


 三軍を率いて戦に臨むは、国の利益の為であり、鐘や太鼓を打ち鳴らすは、その大音声で自軍の士気を鼓舞する為にございます。
 国の利益になるからと戦端を開いたからには、足場の悪い所にいる敵を苦しめても宜しく、鐘や太鼓を打ち鳴らして士気を鼓舞したならば、敵がまだ隊列を整えておらぬ内に攻めても宜しいのでございます。」


 つまりは平常時における倫理と、戦闘時における倫理は別物であり、戦闘時においては平常時の倫理を守る必要はないという事であるが、恐らく宋襄公はこう諌められても、納得しなかったのであろう。
 それに今となっては、既に後の祭りであった。


 宋襄公のこの浮世離れしているとしか思えない思考・価値観は、現代人には到底不可解である。いや、同時代人ですら大部分が否定的であった。
 この宋襄公の振る舞いこそが、「宋襄の仁」という故事成語の由来となって、後世にまで伝えられる。
 意味は「無用の情(を掛ける事)。」「要らぬ温情を掛けたが為に、却って自身が害を蒙り、困窮する羽目に陥る事。」等である。


 宋襄公は正しく無用の思いやりを示した結果、戦に敗れて国力を一気に消耗させ、挙句自身も天下中の物笑いの種となった。





 ♟ 謙譲の美徳

 話は宋襄公が即位する以前にまで遡る。


 紀元前652年の事。宋襄公の父である、第19代国君・宋桓公【そうのかんこう:姓は子(し)、氏は宋(そう)、名は禦説(ぎょえつ)】は病に罹った。
 太子茲父(後の宋襄公)は父・宋桓公に対して、自身を太子の位から廃して、代わって庶兄(側室の生んだ兄)である公子目夷を太子に立てるよう懇願した。


「目夷は臣(しん)【※6】よりも年長で、尚且つ仁者でもあります。どうか臣を廃して、目夷を太子に御立て下されませ。」


 そこで宋桓公は、一旦は公子目夷に太子に立つよう命じた。


「国を譲れるという事、これに勝る仁はございません。臣など到底及びません。
 尚且つ庶子である臣が公位を嗣ぐなど、道理に背きます。」


 こう言って公子目夷は、太子に立つ事を辞退した。





 ♔ 治世の始め

 紀元前651年の春の事。この年を以て、宋襄公の治世元年とする。
 父の宋桓公が死んだ事で、太子茲父は宋の第20代国君に即位した。宋襄公である。


 宋襄公はまだ先君の葬礼を済ませない内に諸侯と会盟をした。
 その為に史書では「宋公」ではなく「宋子」と記される。
 先君の喪中にある場合は、王(天子)は「小童(しょうどう)」と言い、諸侯は「子(し)」と言うのが決まりだからである。


 同年(紀元前651年)夏と秋の事。覇者である斉桓公が夏と秋の二度に亘って、同じ葵丘(ききゅう)【※7】の地で会盟を催したので、宋襄公は会盟(かいめい)に参加した。


 宋襄公は即位後に、異母兄の公子目夷を左師(さし)【※8】に任じて国政に当たらせた。公子目夷は仁者であり、賢人でもあったので、宋の国内はよく治まった。
 それ以降、公子目夷の子孫は魚氏(ぎょし)を称し、代々宋の左師に任じられた。
「魚」という氏は、氏祖である公子目夷の字「子魚」に由来する。





 ♕ 覇者と会盟

 この時代の支那文明圏の国際政治を理解する上で、重要な概念に「会盟」「覇者(覇王)」等がある。
「会盟」とは諸侯の盟主である覇者が、諸侯を呼び集めて、あらゆる盟約を取り交わす行事の事である。
 覇者として認められた人物がいなくとも、普通の諸侯同士だけで取り交わす事もある。


 そして神霊に対して誓約を立てる為の儀式として、犠牲となる牛の耳を切り取り、そこから流れた血を器に盛り、その血を出席している諸侯が皆互いに啜り合う。そうする事で誓いの証とする。
 この際に盟主(覇者)や中心人物が牛の耳を割く役割を果たす事から、「牛耳を執る(ぎゅうじをとる)」「牛耳る(ぎゅうじる)」という故事成語が生まれた。
 意味は「集団の中心となって支配する。」「集団の主導権を握って、思いのままに動かす。」などである。
 故に会盟とは現代世界で言えば、「条約締結」や「条約調印式」に相当するであろうか。


 そして「覇者(覇王)」とは、本来ならば周天子(周王)が行うべき責務であった、中原文明圏外の異民族からの侵攻を軍事力を以て防ぐ安全保障や、諸侯に対する諸々の保護等を、周王室に代わってそれらの役目を履行する者の事である。
 無論当時の礼制に明文化された正規の存在ではなく、自然発生的でイレギュラーな存在である。
 周王朝の威勢が衰えて形骸化していたので、そういった責務を果たせるだけの力は最早周天子には残っておらず、それに代わって諸侯の中で最も強大な実力者が、諸侯間の盟主となって天子の権威を尊び、天子の役割の一部を代行し、自分の盟約下に入った諸侯を保護する任を請け負った。
 諸侯から自分たちの盟主と承認される為には、天下最強の実力(軍事力)を保有しているだけでなく、「尊王攘夷(そんのうじょうい)」の政治標語(スローガン)を掲げて周王室を尊崇し、諸侯を招いて会盟を開いたり、傘下に入った各国を保護したり、滅ぼされた国を復興させたり、異民族の侵攻を撃ち払う事で、初めて天下中の諸侯の第一人者であり、周王の代行者たる覇者の地位を、名実共に得られるのである。


 だが春秋戦国時代550年全期を通じて、覇者として名の挙がった諸侯は何人も出たが、実力だけでなく、傘下の弱小国の保護を真面目にしたり、尊王攘夷を実践したという、名実両面揃った本物の覇者は、斉桓公と晋文公【しんのぶんこう:姓は姫(き)、氏は晋(しん)、名は重耳(ちょうじ)】の二人だけである。
 後は実力だけはあっても、それらの条件を欠いていた。
 本故事の主人公である宋襄公も覇者候補に数え上げられるものの、実力が伴っていなかった上に、後述するように会盟も不調に終わった。





 ♖ 宋襄公の治世5〜7年目

 宋襄公の治世5年目の、紀元前647年の夏の事。
 宋襄公は衛の鹹(かん)【※9】の地で、


●斉桓公

●魯僖公【ろのきこう:姓は姫(き)、氏は魯(ろ)、名は申(しん)】

●陳穆公【ちんのぼくこう:姓は嬀(ぎ)、氏は陳(ちん)、名は款(かん)】

●衛文公【えいのぶんこう:姓は姫(き)、氏は衛(えい)、名は燬(き)】

●鄭文公【ていのぶんこう:姓は姫(き)、氏は鄭(てい)、名は踕(しょう)】

●許僖公【きょのきこう:姓は姜(きょう)、氏は許(きょ)、名は業(ぎょう)】

●曹共公【そうのきょうこう:姓は姫(き)、氏は曹(そう)、名は襄(じょう)】


等の七君と会盟を果たした。


 会盟での議題の内容は、淮夷(わいい)【※10】杞(き)【※11】を苦しめた事についての対策と、周王室で生じた騒動についての対策であった。


 宋襄公の治世7年目の、紀元前645年の春の事。
 楚が徐(じょ)【※12】を伐った。徐が楚から離反して、中原諸侯の側に奔ったからである。


 同年(紀元前645年)の3月の事。
 宋襄公は牡丘(ぼきゅう)【※13】の地で催された会盟に参加した。
 参加した諸侯は、紀元前647年の鹹での会盟に参加した面々と全く同じ顔触れであった。


 会盟の目的は、それよりも先年(紀元前651年)の葵丘の盟いを忘れないようにする事と、この年に楚に攻められた徐を救う事についての対策を協議する為であった。
 そして宋襄公も共に軍を率いて、徐を楚から救った。


 同年(紀元前645年)の冬の事。宋襄公は曹を伐った。





後続  故事其之壹 ─ 乙

「第五計 趁火打劫」書庫の記事一覧

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ブログの停止は、PCの不具合もありますが、なんとなく転載が多くなり、独自の記事をあまり書けなくなって、続けるのが面倒になったというのが、本当のところです。
今更、再開するのもなんとなく面はゆい気もしますし、パスワードもはっきりと思い出さないので、もう放置しようと思っています。


>宋襄公は時代錯誤で、一種の復古主義に拘ってたと言えるでしょう。
しかしそんな宋襄公を「大義に則った立派な振る舞い」と評価する同時代人もいた>

そう聞くと、宋襄公を現代の左翼と同類にしてしまうのはちょっとかわいそうかもしれませんね。とはいえ、微妙な人物ですね。上杉謙信のように敵に塩を送っても、それを受け取る心が敵にあればうまくいくのでしょうけど。

理想も教条主義になってしまっては、現実を変える力はないですね。何を優先するかをわかっていない人間は、だめですね。

2014/6/16(月) 午前 11:49 [ 木蓮 ]

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どうもまたまた遅くなりました。

そうですか・・・PCを新調しても、ブログ再開するつもりはないのですね。それにパスワードも忘れてしまわれたとは・・・・残念ですが、仕方ありませんね。

ところで新しいIDとHNで別ブログを開設されたみたいですが、新しく「木蓮さん」と御呼びすれば宜しいでしょうか?それとも今まで通り「さざんかさん」でも宜しいのでしょうか?


儒教の祖・孔子も宋襄公を称賛していたみたいです。
互いに生きた時代は違いますが、同じ復古主義者でもありましたから、波長が合ったのかも知れません。

そして二人とも、現状を余りに忌避し過ぎた頑なな側面があったのだと思います。
だからこそ柔軟性に欠け、結果的に成功しなかったのだと思います。


こんな内容のないコメントで何ですが・・・・(ーー;)。ところで「宋襄の仁」という故事成語は既に御存知でしたか?

2014/6/19(木) 午後 7:32 ZODIAC12

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ああ、モクレンは、ある人のブログの転載ばかりなので、やはり元のさざんかで、こちらには来ようと思っています。上の記事は転載したままで、うっかりログアウトしてなかったのですが,今後もうっかりそのまま来るかもしれませんが、さざんかで、お願いします。

「宋襄の仁」は今回初めて知った言葉です。
この宋襄公という人も、古代の礼儀や道徳を理想とする心情もわかる気もしますが、、やはり優勢な敵を相手にしているという現実において、勝利の策を持たないままで、勝機を逃すのは、愚かいう気がどうしてもしますね。

ふと連想したのは、明治天皇が、日露戦争開戦に際して、

四方の海 みなはらからと思う世に など波風の起こるらん

と詠まれた逸話ですが、敵に対して平等の思いがちょっと似ているような気もしましたが、これは戦わないですむなら、そうしたいという心であって、いざ戦ったら、ひたすら日本の勝利を祈られていたのですから、似ているようでも、ちがいますね。

2014/6/20(金) 午後 1:41 [ さざんか ]

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どうもかなり遅くなりました。いつも御待たせしてばかりで・・・。


あ、いえ・・・どちらかと言うと、新しいブログのIDで来て下さった方が良いかと思います。その方が本当にさざんかさんだなと安心出来ますから。

いえ、何も非ログイン状態の書き込みだから信用出来ないという意味ではなくて、IDとかブログを御持ちなら、なるたけそちらの方が望ましいというだけです。
それならHNからすぐにそちらのブログへ辿れたりもしますし。

そしてHNの方も新しく「木蓮」と変えられたようですが、例えHNが「木蓮」と表示されていても、私としては今まで通り、「さざんかさん」と呼び続けようと思っています。

ところで新ブログの方がゲストブックを閉じられているみたいですが、何か理由でもおありですか?それですとメッセージを使うしかありませんが。

2014/6/28(土) 午後 0:24 ZODIAC12

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さて、この宋襄公なる君主、個人の性格もあるのでしょうけど、何やら自分の血統を強く意識していたのかなと思えるのですが。
記事でも述べていますように、この時代(周代)より一つ前の時代の王朝であった商(殷)の末裔ですからね。

殷が周によって滅ぼされて天下を奪われ、殷の王族の生き残りがその周の臣下として仕えるようになり、周王朝に諸侯として宋に封じられた訳です。
日本史上に置き換えて言えば、家康が天下を取った後に、豊臣家の血筋の者や、鎌倉幕府の源氏将軍家の末裔、執権北条氏の末裔、足利将軍家の末裔とかが、大名として立てられて、どこかの藩に封じられたようなものです。

尤もこの話は後の方で詳しく語る予定ですが。

2014/6/28(土) 午後 1:02 ZODIAC12

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そして同じく後で語る予定ですが、儒教の祖・孔子もこの宋公室から枝分かれした血統です。
宋襄公の祖先の代で枝分かれした系統ですので、孔子も同じく殷王朝の末裔です。

二人とも前時代の血脈である事から、古い時代の失われつつあった礼制とかを頑ななまでに固守しようという意識が強く働いたのかも知れません。
それでこんな非現実的で滑稽な方策を選択してしまったのかと。


その明治天皇の御製の御歌は初めて知りましたが、何やら違う気がしますね。
宋襄公のそれは、そういった人種とか民族を分け隔てしない、一視同仁な理念というのでもなく、依怙地なまでに古代の礼法に盲目的に従っただけだと思いますから。
明治天皇と違って宋襄公は、単なる硬直した教条主義者だったと思います。


ここの所、ブログをしている時間が取り辛くなっていて、思うように記事更新や返信が書けません。
申し訳ありませんが、他の所のも今少し御待ち下さい。

2014/6/28(土) 午後 1:03 ZODIAC12

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それでは、新しいHNを使わせていただきます。このHNをつかうなら、呼び名はどちらでもいいですよ。木蓮で統一した方がいいかもしれません。

今、この前紹介した明治天皇の御製を見て、違っていることに気づきました。あれほどよく知っているつもりなのに、自分で読んで、あれっと思いました。正しくは、

四方の海みなはらからと思う世に など波風のたちさわぐらん

です。これは昭和天皇が開戦の時の御前会議で、この明治天皇の御製を取り出して読まれたということでも有名です。

確かにその後読み進んでも、宋襄公の人柄は、明治天皇とは完全に違いすぎますね。仰るとおり教条主義ですね。孔子が評価したということで、少しはそうした人格的な部分があるのかと思いましたが、同じ祖先を共有する贔屓目が評価させたのだと思うと、それなりに孔子を
一目置いてみていたイメージがちょっと崩れますね。とはいえ、孔子に関しても最近はネットで色々書いてあるので、かなり崩れつつありましたけど。

記事更新や返信は気になさらず、時間があるときで構いません。私の方も同様ですので、お互い様です。

2014/7/10(木) 午後 4:58 [ 木蓮 ]

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ゲストブックがないことに、初めて気づきました。さっそく出して置きます。

2014/7/10(木) 午後 5:02 [ 木蓮 ]

またも遅くなりました。本当にいつもいつも・・・・・。
そしてここの記事シリーズ、まだ書き掛け途中の未完結状態で申し訳ないです。
ここの所、どうも調子が出ませんね。ブログにも集中出来ません。

それでは分かりました。それでは基本「木蓮さん」と呼ぶ事としましょう。
もしかしたらたまに、気分次第で旧HNの方で呼ぶ事もあるかも知れませんが。

2014/7/17(木) 午後 6:26 ZODIAC12

その明治天皇の御製の御歌とは対照的なメンタリティでしたが、先日も紹介しました『春秋公羊伝』のような、肯定的な評価もあるにはあるんですよね。
宋襄公は如何にも日本の左翼が好みそうな人物ですけど・・・・・。
けど決して軍事そのものを忌避してたワケではないんですけどね。

また独善ぶりが甚だしかったにせよ、少なくとも売国的行為はしなかったワケです。
まあそれは君主ですから当然なんですけどね。

宋襄公は美点が全くなかったかと言うと、決してそうでもなく、次の記事でも書いた通り、後に覇者となる晋文公の器量を見抜いて礼遇したりとか、一応人を見る目はあったみたいです。

2014/7/17(木) 午後 6:26 ZODIAC12

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そうですか、宋襄公は美点もあったのですね。目夷が誠実に仕えているのですから、そういう部分がないとやってられないでしょうね。それに目夷に対しても、庶子の兄弟だからといって変なライバル心など持たずに信頼しているのですから、おそらく悪い人間ではないのでしょうし、だから礼を重んじるなどという気持ちも生じたのかもしれませんね。

2014/7/20(日) 午前 1:24 [ 木蓮 ]

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そうなるでしょうかね。政治家としては評価出来ませんし、欠点も多々あったようですが、根っから悪い人間ではなかったのは間違いないでしょう。

いっそ公子目夷が即位していれば、まだ違ってたかも知れません。
そうすれば宋襄公よりずっと名君になってたかも知れないので、惜しい気がします。

2014/7/20(日) 午後 0:56 ZODIAC12

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ほんとに目夷が即位していれば良かったのにと思いますね。
目夷も、庶子の自分が君主になるよりも、少し愚かでも御しやすい君主をきちんと補佐することで、国を安泰にするほうがいいと思ったのでしょうね。まさか宋襄公がこれほど傲慢になるとは予想外だったのでしょうね。

2014/7/26(土) 午後 2:38 [ 木蓮 ]

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目夷にも予想外だったでしょうね。宋襄公がこんな風に暴走を始めるとは。

支那に限らず、さほど有能でも聡明でもない嗣子が跡目を継いでも、優れた兄弟たちが欠点を補うというのはよくある事ですね。
または君主(当主)が凡庸でも、補佐役の叔父たちが有能だとか。

この宋のケースでは残念な事に、公子目夷は補佐し切れなかったですが。

2014/7/27(日) 午前 10:26 ZODIAC12

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そうですね。意外と公子目夷の言うことを聞きませんよね。
宋襄公は目夷を信頼していると思っていましたが、というか、信頼はしているのでしょうが、やはり心の何処かで、兄弟としてのライバル心があったのかもしれませんね。自分が無能ではないということを見せたい欲求があったのでしょうか?

2014/8/9(土) 午後 0:24 [ 木蓮 ]

あるいはそうかも知れません。また悉く諫言する公子目夷を、内心煩く思って反発していたのも手伝って、より依怙地になっていたのかも知れません。

2014/8/10(日) 午前 11:09 ZODIAC12

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たしかに、そうなんでしょうね。

2014/8/18(月) 午後 0:33 [ 木蓮 ]

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はい。

2014/8/18(月) 午後 5:27 ZODIAC12

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勝機を逸すると言う事は致命的ですね。その逆が信長の桶狭間だったり或いは日露戦争の第一軍だったり、決して兵力が潤沢ではない中で一瞬のすきを逃さないピンポイント攻撃で流れが変わる事がありますね。TBします。

2014/10/8(水) 午前 7:23 千葉日台

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返礼TB+1本分追加、どうもありがとうございました。
こちらからも後で伺いますので、今暫し御待ち下さい。


本当に宋襄公は勝機を逸してしまいました。尤も勝機とか勝算とか、そういう合理的思考の持ち主ではなかったので、記事にもあるように、忠告を受けても何の意味もなかった訳でして・・・・・。

やはり戦争は合理主義に徹すべきですね。でないと勝てる戦争も勝てなくなります。記事の時代の戦争は、まだ孫子が出現する前でして、そういった科学的合理的思考とは程遠い戦争スタイルでした。

2014/10/8(水) 午後 8:26 ZODIAC12

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