YAMINABE the Second Operation

この11年間の数多くの思い出を携え、私は新たな旅へと出発します。それでは皆さん、御達者で。

第五計 趁火打劫

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承前  故事其之壹 ─ 癸





♞ 「杞憂」──────杞人天憂(杞人、天を憂う)

 それでも杞は夏代の古い礼を継承しているという事で、儒教の祖・孔子がそれを学ぶ為に滞在していた事もあった。
 そんな杞でも、滅びた王朝の末裔とその遺民だという事で、宋と同様に嘲笑や侮蔑の対象になったのではないかと思われる。


 だからこそ「杞憂(きゆう)」「杞人の憂い」「杞人天憂(きじんてんゆう)」という故事成語・四字熟語が生まれた。
 その出典は『列子(れっし)』の【天瑞(てんずい)】篇に収録されている説話である。
 原文が長い為、その概要を要約すると、以下のようになる。


「杞人(杞の国のある男)が、天地が崩れ落ちて、自分の居場所を失ったらどうしようかと、寝食も出来なくなる程に憂えた。
 その事を心配した別の者が、杞人の抱える思い込みを次々窘めて、最後には単なる思い過ごし、取り越し苦労に過ぎない事を杞人に悟らせた。」


 この事から「杞憂」「杞人の憂い」「杞人天憂(杞人天を憂う)」という故事成語・四字熟語が生まれた。
 意味は「無用の心配をする事」「取り越し苦労をする」という意味である。
 このように宋人と同様に、杞人も滑稽な道化じみた愚か者として描かれている。





 ♟ 鮑叔牙──────杞公室の血統

 しかしそんな風に馬鹿にされている杞でも、その血統から一人の大人物を輩出する。


 杞の歴代国君の中の誰の公子(息子)かは不詳だが、杞公室に生まれた本名の定かでない一人の公子が、最東端の大国・斉に大夫として仕える事となった。
 その際に斉から鮑(ほう)という邑を授かり、その杞の公子は封邑名に因んで、鮑氏を称するようになった。姒姓鮑氏である。
 以後は代々鮑氏を名乗り、その氏祖の公子から何世代目かの子孫で、姓は姒(じ)、氏は鮑(ほう)、名は牙(が)、字は叔(しゅく)という者が生まれた。
「鮑叔(ほうしゅく)」「鮑叔牙(ほうしゅくが)」と呼ばれる。「叔」という字から三男の生まれかと思われる。


 鮑叔牙は春秋最初の覇者となる斉桓公【姓は姜(きょう)、氏は呂(りょ)又は斉(せい)、名は小白(しょうはく)、諡号は斉桓公(せいのかんこう)】が即位するより以前から仕え、斉桓公の異母兄・公子糾【姓は姜(きょう)、氏は呂(りょ)又は斉(せい)、名は糾(きゅう)】との後継者争いを制して、斉桓公の即位を実現させた最大の功労者であり、生涯に亘って斉桓公の治世を支えた。
 だが何より特筆すべきは、若い頃からの親友であり、後に支那史上最高峰の名宰相となる管仲【姓は不明、氏は管(かん)、名は夷吾(いご)、字は仲(ちゅう)、諡号は管敬仲(かんけいちゅう)】を推挙した事であろうか。


 管仲は先の後継者争いの内紛時に、公子小白(斉桓公)の兄であり、ライヴァルとなった公子糾に仕えていたので、公子小白に仕えていた鮑叔牙とは図らずも敵対関係となってしまった。
 管仲も自身が仕える主君の為に、公子小白を暗殺しようとして、結果失敗に終わった。


 その為に公子小白・鮑叔牙陣営にすっかり出し抜かれて、君位継承争いに敗れ、斉桓公によって危うく処刑される所となった。
 だが鮑叔牙の説得と推挙によって、斉桓公は聞き入れ、管仲は処刑を許されたばかりか、晴れて斉桓公に仕える事となった。
 それ以後の管仲は、手腕・人格共に傑出した偉大な宰相として、斉桓公を一躍春秋最初の覇者の地位にまで押し上げ、斉の全盛期を築き上げた。


 管仲と鮑叔牙の二人は「親友の模範」「親友とはかくあるべき」という理想像とされるに至る。
 この二人に因んで「管鮑の交わり」という故事成語が生まれた。意味は「御互いに理解・信頼し合った親密な関係」という意味である。
 類似の意味を持つ故事成語・格言に、「水魚の交わり」「金石の交わり」「断金の交わり」「刎頸の交わり」等がある。


 この斉桓公が即位するまでの、管仲・鮑叔牙の二人が絡んだ詳細な話は、【第二一計 金蝉脱殻】の故事(リンク先工事中)で語る。





♔ 商人

 宋とは直接的な関係はないが、宋の前身である商(殷)から派生した事柄について。


「商人」という言葉がある。言うまでもなく商売人、物品の売買を生業とする人間の事である。
 元々は現在のように「あきんど」「商売人」、英語で言う所の「merchant(マーチャント)」「trader(トレーダー)」「shopkeeper(ショップキーパー)」という意味はなかった。
 この「商人」という単語の由来は、商(殷)王朝に由来し、元々は単に「商(殷)の人」「商(殷)の国の民」という意味でしかなかった。


 商(殷)の民は元々経済活動に長けていた民族のようで、そんな経済や商業に長けた商人(殷人)も、周によって国を滅ぼされた事で、亡国の遺民となってしまった。
 滅亡後に新たに宋や衛の領民として生きられるようになった者ばかりではなく、住んでいた土地を追われたりして、天下中あちこちに散らばったりもした。
 商人(殷人)は元々取引売買の術に長けていたので、同胞たちと互いに連絡を取り合い、各地で交易ネットワークを築いていた。
 祖国を失い、商業などで暮らしを立てるようになった点が、ユダヤ人とよく似ている。


 固定的な店舗を持たず、世間を渡り歩いて品物の売買・流通をして暮らしていた。すなわち後世の呼び方で言う「行商」である。
 こういう職業で生計を立てている人々を、世間は「商人(しょうひと)」、すなわち「あれは商の者たちだ」と言ったので、「商人」が後世現在で使われるような意味となった。
 いや、正確に言えば、決まった店舗を持たない行商形態に限ってそう呼んでいたので、固定的な店舗を持って商取引をしている者は「賈人(こじん)」又は単に「賈(こ)」と呼ばれていた。
 両者を併せて「商賈(しょうこ)」と併称されるが、「商(商人)」と「賈(賈人)」は本来別物である。


 だが時代が下るに連れて区別がなくなって行き、決まった店舗を持っている持っていないに関係なく、商売を生業としている者を一括りにして「商賈」と呼ぶようになった。
 英語に訳すと、賈(賈人)は店舗があるので「merchant」「shopkeeper」であり、商(商人)は店舗がなく、あちこちを渡り歩くので「peddler(ペドラー)」である。


 商人を「行商をする人」、時代が下って「商売全般に従事する人間」という意味で呼ぶようになったのは、言うまでもなく商(殷)王朝滅亡以後の話である。
 商(殷)王朝が健在だった頃は単に「商(殷)国の人民」という意味でしかなく、まだ滅亡以前の時代に、商売に従事していた人間を「商人」、行為を「商売」「商業」、売り物を「商品」などと呼ぶのはあり得ない。
 商(殷)滅亡以前に行商をしていた人間がいなかったのか、いたとしたら何と呼んでいたのかはよく判らない。





 ♕ 血で血を洗う君位争い

 さて、これまで本故事の主人公・宋襄公から、話が離れて大分長くなったが、ここからはいよいよ宋襄公より後世の、宋公室の滅びるまでの歴史を語って行く。


 まずは御浚いとして、【復讐成る】の節で既述した事を、再度述べる。
 本故事の主人公・宋襄公亡き後、子の太子王臣が紀元前637年に即位し、第21代国君・宋成公となった。
 宋成公の治世6年目の紀元前632年に、宋も絡んだ一大事件が起きた。
 父・宋襄公が生前に受けた恨みからか、宋成公は楚の傘下から離反して晋の陣営に降った。
 それに怒った楚成王が兵を繰り出して宋を攻めた。宋は直ちに晋へ救援を請う使者を派遣した。


 国君である晋文公は流浪中に、宋の先君である宋襄公から厚遇を受けた誼もあって、救援軍を派遣し、楚と天下の覇権を懸けた頂上決戦を展開する。「城濮の戦い」である。
 この一戦の詳細は【第二八計 上屋抽梯】の故事(リンク先工事中)で語る。
 そして晋軍及び晋文公はこの一戦を制して楚を破り、晋文公は一躍天下を牛耳る覇者となった。それに伴い宋でも、楚への遺恨を晴らせたのであった。


 そして治世18年目の紀元前620年に宋成公は死んだ。
 宋成公には太子(本名は不詳)がいたが、即位出来なかった。何故なら公室の内紛で殺されたからである。
 太子を殺したのは先君・宋成公の弟である公子禦【姓は子(し)、氏は宋(そう)、名は禦(ぎょ)】であった。つまり太子は自身の叔父によって殺されたのである。


 更に公子禦は大司馬を務める公族大夫・公孫固【姓は子(し)、氏は不明、名は固(こ)】をも殺した。
 公孫固は本故事の主人公・宋襄公と祖父を同じくする。どちらも第16代・宋荘公の孫であるので、宋襄公と公孫固は同世代の従兄弟同士の間柄である。
 公孫固は賢大夫だったようで、嘗て流浪の亡命公子だった晋の公子重耳と、その側近たちの資質を見抜き、宋襄公に決して粗略に扱わず礼遇するように進言した。
 他にも公子重耳とその一行に、晋へ帰国出来るよう助言をしたりと便宜を図った。
 そのように功績があったが、不運にも命を落としてしまった。
 尤も『春秋左氏伝』の記述だと、公孫固は公子禦ではなく、次代の宋昭公に殺されたとなっている。どちらが正しいのかは判らない。


 そうして公子禦は即位したが、宋の国人たちが共に結んで攻め込み、同年内に禦を殺したのであった。
 宋煬公(第6代)・宋殤公(第15代)・宋湣公(第17代)・宋子游(第18代)に続く、宋史上五度目の君主弑殺事件である。
 禦は即位したものの在位期間が一年にも満たず、余りに短過ぎる為に諡号がない。故に「宋君禦」とだけ呼ばれる。





 ♖ 王姫主導のクーデター

 そこで宋の国人は先君・宋成公の子の一人である公子杵臼【姓は子(し)、氏は宋(そう)、名は杵臼(しょきゅう)】を立てて同年(紀元前620年)内に即位させた。これが第23代・宋昭公である。
 尚、前述したように、「宋昭公」は後代の第29代国君も同じ諡号であるので、「前昭公」と「後昭公」、あるいは「昭公杵臼」と「昭公特」という風に呼び分けるべきなのかも知れない。


 宋昭公の治世10年目の紀元前611年に、宋昭公は謀反を起こされて、その結果叔父・宋君禦と同様、二代立て続けに弑殺される。
 このクーデター計画の黒幕は、宋昭公の祖母である宋襄公夫人であった。だが祖母と孫とは言っても、恐らくは宋昭公と血の繋がりはなかった節が窺える。
 宋襄公夫人は本名は不詳であるが、周の天子(王)である第18代・周襄王【姓は姫(き)、氏は周(しゅう)、名は鄭(てい)、諡号は周襄王(しゅうのじょうおう)】の姉王女である。
 天下の周王室の出という格の高さから、宋襄公の正室であったかと推測されるが、宋襄公との間に男子が生まれなかったのであろうかと思われる。だから宋襄公の孫である宋昭公の義祖母となろうか。
 宋襄公夫人は実家の周王室の姓から、姫である事は確かであり、周王の姉である事から、「王姫(おうき)」と称された。故に以後は「王姫」と呼ぶ。


 宋昭公は祖母である王姫に対して礼を尽くさず、粗略に扱った為、戴氏(宋戴公の子孫)の一族を頼って、自身の党派に引き入れた。
 宋昭公は無道な君主であったので、宋の民は宋昭公に懐かず、代わって宋昭公の弟である公子鮑革【姓は子(し)、氏は宋(そう)、名は鮑革(ほうかく)又は鮑(ほう)】に人望と名声が集まった。
 公子鮑革は兄とは反対に賢明であり、人に対し謙虚に振る舞った。
 宋が飢饉に陥った時は、自邸に蓄えてあった穀物を供出して、民衆に施した。
 その為に宋の国人の人心は、益々宋昭公から離れて行った。


 また公子鮑革は美男子であった。それで王姫は孫の公子鮑革とは血が繋がってないのを良い事に、密通しようと言い寄ったのだが、公子鮑革はこれを拒否した。
 しかし王姫もまた政治に長けた賢婦人であったので、それを逆恨みする事なく、却って公子鮑革を支援し、国人に恩恵を施したのであった。
 王姫は大夫の華元の進言により、公子鮑革を国君を輔佐する右師(ゆうし)【※70】に任命した。


 こうしていよいよ決行の時が来た。
 宋昭公の治世10年目の紀元前611年の事、宋昭公は孟諸沢(もうしょたく)【※71】まで狩猟に出掛けた。
 その機を捉えて王姫は大夫の衛伯(えいはく)を動かして兵を率いさせた。
 身分の上下問わず宋の国人から憎まれ、信望を失っていた為、国人は宋昭公を助けようとはしなかった。
 こうして宋昭公は殺され、その同年内にいよいよ公子鮑革が即位したのであった。これが第24代国君・宋文公である。
 華元は右師(宰相)に任命された。





 ♗ 宋文公の即位直後の一波乱

 宋文公の即位後、当時の覇者の国である北方の超大国・晋が、この君主弑殺事件を問責する為に、諸侯の軍勢を率いて宋を伐った。
 しかし宋文公の即位を聞き、速やかに兵を退かせたのであった。


 宋文公の治世2年目の紀元前609年の事。先君・宋昭公の子(名は不詳)が、宋文公の母弟(同腹の弟)である須(しゅ)という名の公子を頼り、更に戴・武・穆・荘・桓の五族と語らって謀反を起こした。
 歴代国君である宋戴公(第11代)・宋武公(第12代)・宋穆公(第14代)・宋荘公(第16代)・宋桓公(第19代)たち五君それぞれの子孫たちである。
 宋文公は宋昭公の遺子と公子須を始め、これら五族を悉く殺してこの謀反を鎮圧し、武・穆の一族を国外へ追放した。


 この辺りの事は、『史記』の【宋微子世家】と『春秋左氏伝』では若干記述に食い違いがある。
 上記のは『史記』の【宋微子世家】の記述であるが、『春秋左氏伝』だとまず、謀叛に加担した須が「母弟」とは記されていても、「(宋文公の)母の弟」と解釈されている。
 すなわち宋文公の母方の叔父であり、宋文公の弟ではないと。ならば当然宋公室の公子ではない異姓の人間となる。


 そして上記の宋公室の血統の五族全員が謀反に加担したのではなく、武・穆の二氏族が宋昭公の遺子を唆し、公子須を御輿として担ぎ出して謀反を起こしたとある。
 そして宋文公は宋昭公の子と叔父の須を殺し、更に戴・荘・桓の三氏族に命じて武・穆の二氏族を討伐させたとある。それによって武・穆の二氏族を国外へ追放したと。


 確かに【宋微子世家】だと前述のように、五氏族全てが宋文公に対して謀反を起こしたと記されているのに、乱終息後に国外追放の処分を受けたのが武・穆の二氏族だけであるというのは、さすがに不自然である。
 共に加わったのならば、何故他の三氏族は何も処分を受けていないのか?戴・荘・桓の三氏族は全滅して生き残りがいなかったからなのか?その辺りの説明が全く為されていない。
 故にどちらが正しいのかは判らないが、【宋微子世家】の記述には納得の行かない点がある。





 ♘ 賢君と賢相の治世

 宋文公の治世は紀元前611年から紀元前589年に懸けての23年間と長く続いた。
 その間に名宰相・華元の輔佐を得て善政に励んだ。華元は生没年が不詳であるが、宋文公の死後も、宋共公・宋平公と三代に亘って仕えた。


 宋文公は「文」という最高評価の諡号を贈られている事から、宋の歴代国君の中では一番の名君だという評価だという事になる。それに次ぐ諡号が「武」である。
 と言っても宋文公自身に華々しい逸話は特にないが、それでも即位前の人心を得ていた逸話や、人格高潔な名宰相・華元に執政を委ねていた事から、名君と評しても良いであろう。


 また華元も名宰相や賢相と言っても、剃刀のような鋭さの頭脳とか、詐略に富んだ狡猾な権謀家と言ったタイプではなく、人を信じ、あるべき姿、在り様を追求するといった、理想主義者といったタイプであった。
 そんな華元の功績の中でも特筆すべきは、紀元前580年あるいは紀元前579年に、南北の二大超大国である晋と楚に、和議を結ばせたという大功であろうか。


 実際に宋文公の治世の記録を見ても、悪政・失政の類は見られない。
 聡明な君主と清廉で仁慈に厚い宰相というほぼ理想的なコンビネーションだったので、内乱が多く続いた宋の民にとっては、ようやく休養期間が訪れたと感じられたのかも知れない。
 尤も諸侯と会盟を結んだ事による戦役も度々あったりしたのだが。





 ♙ 商丘包囲戦の顛末

 そんな宋文公の治世で最大の難事が、治世後期に入ってから起きた、南方の超大国・楚との一戦であろう。
 詳細は【第四計 以逸待労】の商丘包囲戦の故事(リンク先工事中)で語るが、天下の覇者となる名君・楚荘王【姓は羋(び)、氏は熊(ゆう)・楚(そ)、名は侶(りょ)、諡号は楚荘王(そのそうおう)】率いる楚軍に攻め込まれて、宋の国都・商丘が包囲された。





後続  故事其之壹 ─ 丑

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ユダヤ人と商(殷)人に類似点があるというのは確かにおっしゃるとおりに思いました。
商売とは流通であり、土地を持たぬ民がせざるをえなかったし、また適していたといえるのでしょうね。
アラブ人しかり、中央アジアの民しかりですが。

2015/5/31(日) 午後 6:05 [ もたんもぞ ]

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ナイス☆感謝します!そして記事の内容に御賛同下さり、ありがとうございます。

昔は農業こそが産業の根幹・主流だったせいか、商業はどうも卑しめられていましたね。
遊牧民社会ならともかく、農民社会だと楽して儲けてるというような偏見を持たれていたのでしょうね。いわば異端なはみ出し者だと思われてたのでしょう。

だからこそ遊牧民が集中して住む、中央アジアとか西アジア(中東)辺りの砂漠世界で盛んになったのかと。
そういう社会ならそういう生業が当たり前な訳ですから。

ただ、やはり偏見を持たれる側にも、何かとモラル的に問題があったのも事実なようで・・・・。
何せ現代と違って昔の商人は強盗や海賊と紙一重だったのですから。
だから当然、利益を得るには相手を騙すのは当然だみたいな思考だったようです。

実際にキャラバン(隊商)とか、武装するのが当たり前で、他のキャラバンの一団を襲って物品を強奪したりしてましたから。
陸だけでなく海でも同様に。商船も当たり前に武装していて、海賊行為をしていたのですから。それは我が国史上でも倭寇という存在がありますしね。

2015/5/31(日) 午後 7:04 ZODIAC12

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これまで弊ブログではシナの古典とは異なる意味で膾炙している日本の漢語を俎上に挙げてきましたが、この杞憂は文字通りの意味で使用されてきましたね。

2015/6/3(水) 午後 1:45 [ 彩帆好男 ]

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ですね。取り越し苦労、これ以外の意味で使われてはいませんね。
他の諺や故事成語なんて、意味が改変されたのが結構ありますからね。「助長」「馬鹿」「呉越同舟」とか。他にも色々・・・

2015/6/3(水) 午後 4:22 ZODIAC12


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