YAMINABE the Second Operation

この11年間の数多くの思い出を携え、私は新たな旅へと出発します。それでは皆さん、御達者で。

第五計 趁火打劫

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承前  故事其之壹 ─ 子





 事の発端は紀元前595年に、楚の使者となった申舟【姓又は氏は申(しん)、名は無畏(むい)、字は舟(しゅう)】が、宋の領内を無断で通過した事であった。
 その非礼に怒った宋文公や華元が、楚との一戦になるのを覚悟の上で、直ちに楚の使者を捉え誅殺したのであった。実は申舟のこの無断通過は、楚荘王が嗾けたものだった。


 先年に「邲の戦い(ひつのたたかい)」(リンク先工事中)で最大の宿敵・晋を破り、覇者としての実質を具えていた楚は、それまで晋に従属していた近隣の諸国を、悉く自国の傘下に収めて行き、残るはいよいよ宋一国のみとなっていた。
 宋を降して従属させる事を達成すれば、楚の覇業は完成し、楚荘王は晴れて春秋の覇者となれる。


 宋との開戦の口実を設ける為に、やれば宋に必ず殺されると知りながら、楚荘王は敢えて申舟に対し、宋に何の挨拶もしないまま、領内を通行するよう命じたのであった。
 それに申舟は先君・宋昭公の治世において、とある一件から宋人の恨みを買っていた事もあって、開戦の切っ掛けを作る為の、実も蓋もない言い方をすれば人身御供として正に打って付けであった。
 案の定申舟は殺され、楚の覇業の総仕上げとしての、宋との一戦が同年始まったのであった。国君である楚荘王自ら従軍した親征の軍であった。
 結論から先に言えば、戦いは翌紀元前594年に終結し、楚の勝利で終わった。宋がとうとう音を上げて楚に降伏したからである。


 楚の大軍に国都・商丘を包囲されて、援軍もなく補給も断たれながらも、宋人は気を奮い立たせてしぶとく抵抗していた。
 一向に陥落させられなかったので、楚荘王は一旦は諦めて撤退しようとしていた所、臣下の申叔時(しんしゅくじ)の献策を容れ、楚軍兵士たちに商丘の郊外に家を建てさせ、田畑の耕作をさせて食糧の自給自足をさせる事を宋側に見せ付けた。
 宋が完全に音を上げて降伏するまで、徹底して持久戦に持ち込むという意思表示をしたのである。


 それによりとうとう右師(宰相)の華元は最早これまでと見切りを付け、夜中秘かに邑(商丘)の外側に抜け出して、敵将の子反【姓は羋(び)、氏は不明、名は側(そく)、字は子反(しはん)】の幕舎に忍び込み、会見をした。
 華元は「最早自分たちは食糧尽き果て、人の屍肉を喰らって飢えを凌いでいる有り様だから、これ以上戦える状態ではない。」という事情を正直に打ち明けて和睦を請うた。
 楚荘王はそれを聞き入れ、宋の降伏を許し、兵を撤退させた。
 華元の代わりに公子囲亀【姓は子(し)、氏は宋(そう)、名は囲亀(いき)】を楚への人質として差し出した。
 こうして戦いは終わり、宋を降した事により、楚荘王は斉桓公・晋文公に続く、春秋第三の覇者としての地位を確立したのであった。


 嘗て宋文公の祖父・宋襄公と、楚荘王の祖父・楚成王が、本故事の中心軸となる話である「泓水の戦い」を繰り広げた。
 祖父の世代でも宋は楚に敗れ、孫の世代でもこうして宋は楚に再び屈服させられたのであった。


 そうして多難を乗り切り、治世23年目の紀元前589年に宋文公は死んだ。
 華元は前例を破り、宋文公の葬儀を殊の外手厚く執り行った。
 その一事で世の君子は華元を「そのように葬儀を豪奢にするのは、君主を驕らせる事となり、臣下としての道を尽くしていない。」という趣旨で批難した。
 華元が何故そのような常識から外れた行為をしたのかが謎であるが、宋文公を個人的に余程慕い、好感を抱いていたのは間違いないかと思う。





 ♚ 宋共公から宋元公まで

 宋文公の死後は、同年に子の太子瑕が即位した。これが第25代・宋共公である。
 宋共公もまた父同様、華元の輔弼を受けた。治世14年目の紀元前576年に宋共公は死んだ。


 華元は宋共公の少子(しょうし)【※72】の成を擁立し、公子成が同年に即位した。これが第26代・宋平公である。
 宋平公の治世も祖父(宋文公)・父(宋共公)と同様に、華元が宰相として執政した。


 そして『春秋左氏伝』でも【宋微子世家】でも、この宋平公の治世の記録の中で、魚石という名が登場している。
 魚石という人物は、本故事の主人公・宋襄公の庶兄であり、宰相として宋襄公を輔佐した公子目夷の孫である。故に姓は子(し)、氏は魚(ぎょ)、名は石(せき)である。
 公子目夷の子の公孫友【姓は子(し)、氏は魚(ぎょ)、名は友(ゆう)】が魚石の父である。
 祖父である公子目夷の字の「子魚(しぎょ)」に因んで、魚氏を称するようになった。同時期に魚府(ぎょふ)という人物の名も出て来るが、同族なのかどうかは不詳である。


 治世45年目の紀元前532年に宋平公は死んだ。華元の没年は不詳だが、宋平公の治世の最中に死んだのは間違いなかろう。


 宋平公の死後は、子の太子佐が同年に即位した。これが第27代・宋元公である。治世16年目の紀元前517年に宋元公は死んだ。





 ♛ 宋景公の治世

 宋元公の死後は、子の太子頭曼が同年に即位した。これが第28代・宋景公である。
『史記』の【宋微子世家】における宋景公の記述では、宋文公以降だと最後の宋康王と並んで、記述の量が最も多目に割かれている。


 宋景公の治世26年目の紀元前492年に、儒教の祖・孔子とその弟子たちの一団が宋のを訪れた。宋公室の末裔たる孔子にしてみれば、祖先の故国へ里帰りを果たした事となる。
 宋の司馬である向タイ【姓は子(し)、氏は向(しょう)又は桓(かん)、名はタイ(鬼+隹)】が何故か孔子を憎み、殺そうとしたので、難を避ける為に孔子は卑賤な恰好をして他国へと去った。
 ちなみにこの向タイは、『史記』の【宋微子世家】では「桓タイ(かんたい)」と記されている。
 どうやら向氏一族は前出の公子目夷の子孫である魚氏一族と同様、本故事の主人公・宋襄公の父である宋桓公から枝分かれした氏族のようである。


 治世31年目の紀元前487年の事、宋景公は曹を滅ぼした。
【周文王の十子】の節でも紹介したが、曹は周文王の六男(周武王の同母弟)である曹叔振鐸を国祖とし、周王朝創建と同時に建国された由緒正しい名門の諸侯国の一つである。
 だが周王室とは同姓の諸侯国とは言え、終始国力の弱い小国だったので、特に目立った事績もない。


 それでも初代国君・曹叔振鐸以来、530年前後も長く存続して来たが、第26代国君・曹伯陽【姓は姫(き)、氏は曹(そう)、名は陽(よう)】の治世を最後として滅亡する。
 諡号はなく「曹伯陽(そうはくよう)」とだけ呼ばれる。





 ♜ 曹の末期

 前節で触れた姫姓の諸侯国・曹の滅亡の顛末であるが、予言や予知夢といった怪奇な逸話が絡んでいる。
 だがその前に、宋との因縁と、最後の代となる曹伯陽が即位するまでの経過について触れておく。


 宋は天下中では決して列強国とは呼べない二等国であったが、曹は宋よりも更に国力の劣る弱小国であった。
 宋曹両国の因縁らしきものは、宋景公の治世3年目の紀元前515年に、曹の第22代国君・曹悼公【姓は姫(き)、氏は曹(そう)、名は午(ご)、諡号は曹悼公(そうのとうこう)】が宋の朝廷を訪れた。
 理由は明記されていないが、宋は曹悼公を捕えて拘束した。曹悼公は曹への帰国が叶わず、年内に宋で死んだ。死後にようやく曹へ帰されて葬られた。


 曹悼公が囚われの身となった後、本国では直ちに曹悼公の弟である公子野や【姓は姫(き)、氏は曹(そう)、名は野(や)】を即位させた。これが第23代国君・曹声公(そうのせいこう)である。
 治世6年目の紀元前510年に、曹声公は公子通【姓は姫(き)、氏は曹(そう)、名は通(とう)】に弑殺され、代わって公子通が即位した。これが第24代国君・曹隠公(そうのいんこう)である。
 曹隠公は曹悼公・曹声公兄弟の父である第21代国君・曹平公【姓は姫(き)、氏は曹(そう)、名は須(しゅ)、諡号は曹平公(そうのへいこう)】の弟である。叔父が甥を殺して君位を奪ったのであった。


 治世5年目の紀元前506年に、曹隠公は公子露【姓は姫(き)、氏は曹(そう)、名は露(ろ)】に弑殺され、代わって公子露が即位した。これが第25代国君・曹靖公(そうのせいこう)である。
 曹靖公は曹隠公の甥、すなわち曹悼公・曹声公等の弟である。今度は前回とは逆に、甥が叔父を殺したのであった。
 曹靖公のクーデターの動機は私利私欲の為か、兄である曹声公を殺された怨恨があったからか、自分こそが正統な継承者でり、傍系である叔父(曹隠公)ではないという信念があったからなのか、その真意は判然としない。


 治世5年目の紀元前502年に、曹靖公は死んだ。同年に曹靖公の太子の陽が即位した。曹最後の君主となる第26代国君・曹伯陽である。





 ♝ 曹の最期──────亡国の予知夢

 曹伯陽の治世6年目の紀元前497年に、曹の国内に住むある者が、次のような不思議な夢を見たという。


 国土の神を祀る社の中に、何人もの君子たちが寄り集まり、曹を滅ぼそうとする謀議を始めた。
 そこへ曹の初代国君である曹叔振鐸が現れて、君子たちに願い出た。
 曹叔振鐸はどうか公孫彊(こうそんきょう)という者が現れるまで、曹を滅ぼすのは待ってもらいたいと申し出た。
 君子たちはその願いを聞き入れた。以上が夢の顛末である。


 この予知夢を曹人は、国中から公孫彊という人物を探し出したが、とうとうそんな人間は見付からなかった。そこで曹人は己の子に警告した。


「良いか。我が死して後、もしも公孫彊という者が政を執るようになったと聞いたならば、そなたは必ず曹より去るのだ。曹が滅びる禍に見舞われぬようにするのだぞ。」


 そうしてこの奇妙な夢は的中する事となる。


 曹伯陽は田弋(でんよく)【※73】を好んだ。そして治世7年目の紀元前496年の事、遂に運命の岐路が訪れた。
 その年に曹に住む野人で、公孫彊という者がいて、曹伯陽と同じく田弋を好んでいて、白雁を仕留めてこれを曹伯陽に献上したのであった。
 そして公孫彊は曹伯陽に田弋についてあれこれと説いた。それで曹伯陽は更に、政治に関しても公孫彊に尋ねた所、その見解が大いに気に入り、すっかり公孫彊を寵愛するようになった。
 そこで曹伯陽は公孫彊を司城(しじょう)【※74】という官職に任命して政務を執らせた。
 先に予知夢を見た者の息子はその報せを聞いて、父の遺言に従い、国外へ去って行った。


 治世15年目の紀元前488年の事、公孫彊は覇者となる道を曹伯陽に説き、その気になった曹伯陽は盟主である晋に背き、宋へ侵攻を開始した。
 宋景公は迎撃の軍を起こし、晋が曹を救援する事もなかったので、その結果曹軍を返り討ちにした。


 そして翌紀元前487年の事、遂に曹に滅亡の刻が訪れたのであった。
 宋景公は曹に勝利して、いよいよ撤退しようとした。撤退の最中に曹人が宋軍に向かって罵ったので、宋軍は聞き捨てならないと思い、行軍を止めた。
 宋景公はそれを聞いて大層怒り、撤退を中止して全軍を曹へ引き返させた。そうして徹底的に攻めて、遂に曹を滅ぼしたのであった。


 宋軍は曹伯陽と公孫彊の君臣二人を捕えて帰国し、その後に二人を処刑したのであった。曹の領土は全て宋によって併呑された。
 こうして周王朝創建以来の名門の血統を誇る、周王室と同姓の諸侯国・曹は、26代約530年続いた宗廟の祭祀を絶った(滅亡した)のであった。
 次代の戦国時代ならばいざ知らず、この春秋時代では、このように一国が丸ごと滅ぼされた挙句、君主が殺されるという例はまだ少なかった。





 ♞ 宋景公──────あるいは宋最後の名君か?

 いつの年の話かは不詳だが、宋景公にはこのような逸話がある。


 熒惑(けいわく)【※75】の星が心宿(しんしゅく)【※76】の座に宿った。
 天空の心宿の座は地上だと宋の分野に対応しているので、宋国内にて不吉な出来事が起こる前兆であった。宋景公はこれを憂えた。
 司星(しせい)【※77】の子韋(しい)が進言した。


「この星がもたらす禍を、宰相に移せば宜しいかと。」


 宋景公はそれに反対した。


「宰相は寡人にとっての股肱(ここう)【※78】である。ならぬ。」


 子韋は更に言った。


「ならば民に移せば宜しいかと。」


 宋景公は再び反対した。


「君主は民に頼らねばならぬ。故にそれもならぬ。」


 子韋は三度(みたび)言った。


「ならば歳(年)に移せば宜しいかと。」


 宋景公も三度反対した。


「禍を歳に移せば、凶年となり民が苦しむ。それでは寡人は、誰の為の君主なのか分からなくなるではないか。」


 そこで子韋は言った。


「天は高くとも、低きにいる人の誠心を聴くものでございます。
 君公は今、人に君主たるの言を三つも仰られました。熒惑もきっと動き、位置を変えるでありましょう。」


 果たして天文を観測してみると、熒惑は三度も移動したという。


 以上の逸話は、宋景公は君主としての徳を具えていたという事になろうか。
 宋景公の父である先代・宋元公に関しては、信義がなく、諸公子や諸大夫を欺いて殺したので、華氏と向氏が謀反を起こしたと記されてある。故に父とは人柄が違っていたという事か。


 上記の遣り取りを見る限り、そして曹を滅ぼす運命的な巡り合せだった事も併せると、何やら名君だったのではないかと思えて来る。
 治世の事績を見ても、特に悪政らしき事柄も見当たらないので、一応は名君とする。そうなるとこの宋景公は宋における最後の名君だったとなろうか。





 ♟ 宋景公の死後に

 さて、宋景公からは在位期間や即位の年、死んだ年に関して、【宋微子世家】はどうやら記述が誤っているようなので、それらに関しては他の史書の記録から採用する。
 治世49年目の紀元前469年、宋景公は死んだ。
 その後は宋景公の実子ではなく、宋景公の弟の孫に当たる人物が跡を継いで即位し、第29代国君・宋昭公となったのだが、この経緯については【宋微子世家】と『春秋左氏伝』では大きく異なっている。


 まずは【宋微子世家】の記述から。
 宋景公には本名定かでない太子(すなわち実子)がいたが、宋公室の一族である特(とく)という人物がクーデターを起こしてこの太子を殺し、代わって君位に即いた。これが宋昭公である。


 この宋昭公(特)は、第27代国君・宋元公の曾孫である。
 宋元公の公子の一人(すなわち宋景公の弟)である公子褍秦【姓は子(し)、氏は宋(そう)、名は褍秦(たんしん)】を祖父とする。
 そして公子褍秦の子(宋景公の甥)の公孫糾【姓は子(し)、名は糾(きゅう)】を父とする。
 詳細な事情は明記されていないが、ともかくも宋景公が宋昭公の父である公孫糾を殺したので、宋昭公はこれを恨み、このような挙に出たのであった。


 そして『春秋左氏伝』の【哀公二十六年】の記述から。
 宋景公には実子がいなかった。それで父・宋元公の孫である公孫周【姓は子(し)、名は周(しゅう)、字は子高(しこう)】の二人の息子である得(とく)と啓(けい)の兄弟を引き取って養育していた。
 兄の得は【宋微子世家】では「特」となっているが、こちらでは「得」である。


 だが宋景公はどちらとも太子には立てていなかった。紀元前469年の冬、十月に宋景公は死んだ。
 死後に宋景公の寵臣で、権勢を笠に着て私利私欲を貪っていた大尹(たいいん)【※79】と、六卿(りくけい)との間で、権力闘争が絡んだ後継者争いが勃発した。
「六卿」とは周代の官制における、各国での六つの最高位の官職であり、現代で言えば国務大臣に当たる。国ごとに若干それぞれの呼称が異なる。
 宋における六卿には、「右師(ゆうし)」「左師(さし)」「大司馬(だいしば)」「大司寇(だいしこう)」「司徒(しと)」「司城(しじょう)」がある。





後続  故事其之壹 ─ 寅(完結編)

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