YAMINABE the Second Operation

この11年間の数多くの思い出を携え、私は新たな旅へと出発します。それでは皆さん、御達者で。

第五計 趁火打劫

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承前  故事其之壹 ─ 丑





 この時における六卿それぞれの官職は、右師には皇緩(こうかん)、左師には霊不緩(れいふかん)、大司馬には皇非我(こうひが)、大司寇には楽朱鉏(がくしゅしょ)、司徒には皇懐(こうかい)、司城には楽茷(がくはい)が就いていた。
 この六人とも皆、嘗て宋公室から枝分かれした氏族の内の、皇氏・楽氏・霊氏の出の大夫たちであった。故に三氏族とも本姓は子姓であり、皇氏・楽氏は宋戴公の血統、霊氏は宋文公の血統である。


 この六卿三氏族は互いに協力して政務を執り、宋景公に政務の報告をするには、側近で寵臣の大尹に取り次いでもらっていた。
 だが大尹は常に国君に取り次がず、自分の欲する事のみを君命だと偽って布告したので、宋の国人はこの大尹を憎んでいた。


 詳細な経緯は割愛し、宋景公の死後に大尹は兄弟の内、弟の啓の方を擁立し、強引に即位させた。
 だが大尹は国中から嫌われていたので、結果的に国人からの支持を得られず、とうとう擁立した啓を守りながら、啓と共に南方の楚へ亡命したのであった。
 こうして後継者争いを制し、得はいよいよ即位し、宋昭公となったのであった。


 以上が【宋微子世家】と『春秋左氏伝』での記述である。宋景公と宋昭公の関係、宋昭公の諱(本名)の字、宋昭公の父の名、宋昭公に弟のあるなし、宋昭公の即位までの経緯等々、何故だか大いに記述が異なっている。
 そして本記事では【宋微子世家】の方に重点を置いているので、宋昭公の弟の啓を歴代国君として数えない。


 だがどちらの記述が真相にしろ、宋景公の直系の血統が途絶えて、以降は宋の滅亡まで宋昭公の直系子孫で世襲されて行く事となった。
【王姫主導のクーデター】の節で既に語ったが、この第29代国君の宋昭公は、第23代国君である宋昭公と同じ諡号である。なので「前昭公」と「後昭公」、あるいは「昭公杵臼」と「昭公特」という風に呼び分けるべきなのかも知れない。





 ♔ 宋昭公から剔成君まで

 紀元前469年に即位した宋昭公(昭公特)は、治世66年目の紀元前404年に死んだ。
 同年に宋昭公(昭公特)の子の購由が即位した。これが第30代国君・宋悼公である。
 宋悼公即位の翌年(紀元前403年)こそ、趙・韓・魏の三晋が成立したという一大事件が起こった年である。これを以て前半の春秋時代は終わり、後半の戦国時代へと突入したのであった。


 治世20年目の紀元前385年に宋悼公は死んだ。同年に宋悼公の子の田が即位した。これが第31代国君・宋休公である。


 治世23年目の紀元前363年に宋休公は死んだ。同年に宋休公の子の兵が即位した。これが第32代国君・宋辟公である。


 治世14年目の紀元前350年に宋辟公は死んだ。同年に宋辟公の子の剔成が即位した。これが第33代国君・剔成君である。
 諡号はなく、「剔成」又は「剔成君」とだけ。「宋公剔成」「宋君剔成」と呼んでも良いかと思うが、そのようには呼ばれていない。





 ♕ 君位簒奪と最後の即位──────亡国の始まり

 剔成君の治世22年目の紀元前329年の事。剔成君の弟の公子偃が謀反を起こし、兄である剔成君を襲撃した。
 剔成君は敗れて隣国の斉に亡命した。こうして公子偃は兄から君位を簒奪したのであった。
 これが宋最後の国君となる、第34代国君・宋康王である。【宋微子世家】では単に「偃」「王偃(おうえん)」とだけ。だがここでは「宋康王」と呼ぶ。





 ♖ 最初にして最後の「宋王」

 宋康王の治世10年目の紀元前320年の事。宋康王は宋の歴代国君の中で初めて王号を称するようになった。故に諡号が「宋康王」となっている。


 嘗ては天子にのみ名乗るのが許されたのが「王」という称号であるが、まずは楚が僭称し始め、次いで呉に越といった南方の強国の君主たちが名乗り出すようになった。
 北方の中原諸侯の間では、戦国時代に入ってから斉(田斉)の第3代国君・斉威王【姓は嬀(ぎ)、氏は田(でん)、名は因斉(いんせい)、諡号は斉威王(せいのいおう)】が初めて王号を称するようになってから、他の諸侯(国君)たちもそれに倣って続々と称するようになった。
 これは我が国史上に置き換えて言えば、各地の有力大名たちが「将軍(征夷大将軍)」の称号を勝手に名乗るようになったようなものである。
 最早諸侯は周天子(周王)など完全に眼中になかった。だが暗黙の慣習として、王を名乗れるのはある一定以上の国力を持った列強国の君主だけであり、二等国以下の弱小国の君主は列強国に憚って、従来の「公」のままに止めていた。


 天子でもないのに戦国時代で王号を称えていた諸侯国は、春秋時代からずっと名乗り続けていた楚・越の他には、斉(田斉)・燕・魏・韓・趙・秦、そして異民族によって建国された国である中山国(ちゅうざんこく)の九国であった。
 楚・越と並んで南方の雄国であった呉も王号を称してはいたが、戦国時代が訪れる前に既に、越によって滅ぼされていた。





 ♗  「桀宋」──────暴虐無道の君主

 さて、「宋公」から「宋王」を名乗るようになった宋康王は、国力に見合わぬ外征を次々と行った。
 東の斉に侵攻して五個もの城を奪った。南の楚に侵攻して三百里もの領地を奪った。西の魏とも戦い、魏軍をも破った。これにより斉・楚・魏の三国とは敵対関係となった。


 内政において宋康王は暴政・悪政を重ねたのであった。
 宋康王はなめし革の袋に血を一杯に入れて、これを上の方に懸け、袋を矢で射たのであった。この奇行を宋康王は「天を射る」と言った。
 これは宋公室の祖先である殷王朝の第27代王・武乙(ぶいつ)の故事を真似たものと思われる。
 武乙は最後の殷天子・殷紂王及び、宋の初代・微子啓と第2代・微仲衍等兄弟の曾祖父であり、また宋康王の直系の先祖でもある。
 武乙もこれと全く同じ事をした記録があり、それが為に武乙は「無道な王」と批判されている。この奇行の意味はよく解らないが、天をも畏れぬ所業だという事であろうか。


 この他にも意味がよく解らない奇行で、大地に鞭を打ったりしたというのがある。何にしろ奇妙な性行である。
 だがこれらに止まらず宋康王は、国君としての務めを顧みずに、あらゆる悪徳・乱行に及んだ。
 酒色に溺れ、臣下の美貌の妻を奪い、諫言をする臣下を容赦なく矢で射殺し、民衆を様々に虐げた。それにより宋の国人は、恐怖に怯えて暮らすようになった。


 この為国内のみならず天下中は、そんな宋康王を忌み嫌い、「桀宋(けつそう、けっそう)」という綽名で呼ぶようになった。
「桀」とは支那最古の王朝・夏の最後の天子である夏桀王の事である。暴虐無道の悪王であったので、殷王朝の初代王となる殷湯王によって滅ぼされた。
 それに因んで世人は「宋の暴君」「宋における夏桀王」という意味を込めて、「桀宋」と呼んだ。


 春秋戦国時代550年全体を通じても、ここまで残忍で嗜虐的な、異常性癖のある君主は珍しい。





 ♘ 滅亡の刻──────殷王朝の血脈の終焉

 そこで天下中の諸侯は語らった。


「宋君(宋康王)は先祖である殷紂王と同じく、暴虐を恣(ほしいまま)にしている。これは誅さねばなるまい。」


 そのように口実を設けて事を運ばせて、斉を中心とした宋討伐の連合軍が起こされたのであった。


 宋康王の治世44年目の紀元前286年の出来事であった。そしてこの年こそが宋康王の最後の治世、ひいては宋の歴史の終幕の年となった。
 斉(田斉)の第5代国君・斉湣王【姓は嬀(ぎ)、氏は田(でん)、名は地(ち)、諡号は斉湣王(せいのびんおう)】は楚・魏と共に語らって宋へ侵攻した。
 当時の天下において秦と並ぶ最強国・斉だけでなく、全盛期を過ぎて衰えたとは言え、戦国七雄に名を連ねる魏と楚が組んだ三ヵ国連合軍が相手では、戦国七雄にすら名を連ねていない、弱小な二等国に過ぎない宋単独では全く勝ち目がなかった。
 しかも宋の民は長年の暴政で虐げられた事で、宋康王を酷く恨んでいた。その為に誰も自分たちの王や祖国の為に、命懸けで戦おうとはしなかった。つまり戦い始める前から勝負は既に付いていたのであった。


 いざ侵攻が開始されたが、国と王が民心からすっかり見放されていたので、宋側に戦意は全くなく、誰も守って戦おうとしなかったので、宋は呆気なく連合軍に敗れ去ったのであった。
 敗北した事により宋康王は逃走したが、遂には温(おん)という地で宋康王は殺されたのであった。その後に宋の領土は、攻め滅ぼした斉・楚・魏の三国によって三分された。


 善悪は別として宋康王は治世が44年も続き、滅亡時の君主にしては長過ぎる在位期間である。苛政を布いて国中を苦しめた割に、よくもそれだけ保てたものである。
 それに一時的なものに過ぎなかったとは言え、仮にも自国よりも強大な斉・楚・魏とそれぞれ戦い、局地的ながらも勝利を収め続けた実績を見るに、例え人格異常な暴君だったとしても、あるいは軍事的には有能な君主だったのかも知れない。
 兄の剔成君をクーデターで追放して君位簒奪に成功し、その後君位を最後まで奪還される事もなく、長期政権を保持出来たからには、もしかしたら当初はそれなりに支持されていたのかも知れない。


 その辺りの真相は不詳だが、初代国君・微子啓が諸侯として封じられた年、すなわち宋の建国の年が推定で紀元前1021年だとするならば、その年から数えて34代736年目にして宋は滅びたとなる。
 前時代の王朝の高貴な血筋を引く稀少な国の、余りにも無惨な最期であった。
 この一連の宋康王と宋滅亡の顛末は、本書庫での宋滅亡の故事でも再び語る。





 ♙ 司馬遷の評言

 以下は【宋微子世家】の最後の段落での、著者の司馬遷の論賛、すなわち宋の国に対する評言である。



>>>>>
 太史公(たいしこう)曰(いわ)く、孔子称す、微子は之(これ)を去り、箕子(きし)【※80】は之が奴(ど)と為(な)り、比干(ひかん)【※81】は諌めて死せり。殷に三仁(さんじん)有(あ)り、と。


 春秋(しゅんじゅう)【※82】、宋の乱を譏(そし)る。宣公が太子を廃して弟を立てしより、國以て寧(やす)からざる者十世なり。
 襄公の時、仁義を修め行ひ(おこない)、盟主と為らんと欲す。
 其(そ)の大夫正考父(せいこうほ)之を美とす。故に契(せつ)・湯(とう)・高宗(こうそう)・殷の興りし所以を追道し、商頌(しょうしょう)を作る。


 襄公既に泓(おう)に敗(やぶ)る。而(しか)も君子或(あるい)は以て多と為す。
 中國の禮義(れいぎ)を闕(か)けるを傷(いた)み、之を襃(ほ)むるなり。宋襄の禮譲(れいじょう)有ればなり。
<<<<<



 現代語訳は次の通り。



>>>>>
 太史公(司馬遷)は言う。孔子が称賛して、
「微子啓は国(殷)を捨てて去り行き、箕子は位を捨てて奴僕となり、比干は殷紂王に諫言をして殺された。殷にはこれら三仁(三人の仁者)がいた。」
と言った。


『春秋』の経書では、宋の政治の乱れを誹謗している。
 宋宣公が太子を廃して、自身の弟(宋穆公)に君位を譲ってからというもの、国の安定しなかった事が十世にも及んだ。
 宋襄公の治世において、仁義を修めて諸侯の盟主(覇者)になろうと望んだ。
 大夫の正考父が嘉(よみ)して、契(子姓の始祖、殷王朝・宋公室の遠祖)・殷湯王(殷王朝初代王)・高宗(殷王朝第22代王・武丁)等の治世において、殷が興隆した理由を突き詰めて、(『詩経』の)【商頌】を書き記した。


 宋襄公は「泓水の戦い」において敗れた。しかし世の君子の中には、宋襄公の振る舞いを多とする者もいる。
 それは中国(中原諸国)が往々にして礼儀を欠きがちだったのを傷んで、宋襄公の美徳を称賛したのである。これも宋襄公に礼儀があったればこそである。
<<<<<





 ♚ 終章

 本節を以て、長かった本故事を全て終了とする。


 前節での司馬遷や孔子のように、本故事の主人公である宋襄公の行為を「礼に適っている」「君子である」と称賛する者もいたようであるが、全体的に見ると、宋という国はどうにもどこか歪で偏っているようにも思える。
 前時代からの価値観などを頑ななまでに固守し、嘗ての王朝の血脈であるという高い自尊心が強かったのかも知れず、とにかくも時代の変化に対する柔軟性を欠いた事が祟って、徒に美名や理想を追い求め過ぎた嫌いがなくもない。


 宋襄公の現実を直視しない過度の理想主義、美名を渇望する姿勢が引き起こした、本故事の中心軸である「宋襄の仁」の故事を始め、「守株(守株待兎)」「苗助長(抜苗助長)」「章甫の冠」等の逸話の数々。
 それらが語り継がれた事で、宋人は頑迷で滑稽な愚か者として、天下中からの嘲笑を浴びて来た。


 そもそもの国が乱れる最初の切っ掛けとなったと言われる、宋宣公から宋穆公への兄弟間による君位継承、そして宋穆公から我が子でなく甥(宋宣公の子)への君位継承等、そして「泓水の戦い」での「宋襄の仁」等、世の君子にはこれらを美徳と称賛する者もいた。
 だが一見すると美談として称えられるようなそれらの事柄が、却って裏目に出てばかりいる。公室内の骨肉の争い、君位簒奪や弑逆や内乱が、後世の滅亡に至るまで何度も立て続いた。
 色々と要因はあろうが、宋は遂に国力の増大も叶わず、列強国の仲間入りを果たせなかった。
 現状維持が精一杯で、近隣の列強国の脅威に絶えず晒される弱小国として生き長らえ、とうとう滅亡を迎えた。


 考えてみれば宋襄公の性向や、孔子の興した儒教の思想こそ、正しく仇花(徒花)と言えるものであった。
「仇花(徒花)」とは「咲いても決して結実する事のない花」「表面的には如何にも立派そうに見えても、実質や内容が伴っていない、上辺だけの空虚な物事」という意味である。


 春秋戦国時代とは最早徳を競うのではなく、力や智謀を競う時代であった。
 古代以来の制度や慣習が徐々に崩れて行き、都市型国家から領土型国家へ、倫理道徳規範による徳治主義(礼治主義)からドライな法治主義へ、固定的な身分制社会から実力重視社会へ、君臣間の合議的制度や封建制度から、君主権力を強化させる中央集権体制へと、緩やかながらもあらゆる構造がシフトチェンジして行く流れの中にあった。


 そんな時代の流れの中にあって、宋襄公や孔子、孔子の流れを汲む儒家たちが、どれだけ古の礼節や高邁な大義を掲げ、どれだけ美化して飾り立てようとも、過ぎ去った時代の在り様を復活させられる事は叶わず、却って時勢から外れた独善性の方が目立ってしまった。
 その良い側面のみを抽出して、新しい時代に巧みに適合させるでもなく、ただ剥き出しの尚古主義路線を堅持した宋襄公や、孔子始め儒家たちは、正に春秋戦国時代における仇花というべき存在であった。


 良かれと思って為された行為が、却って悪い結果ばかりを生んで来た宋の歴史を見るに連れ、政治の世界の不条理さ、無情さを思わずにはいられない。
 そして宋襄公の死後、その高邁な理想を継承し、新時代に適合させ、繁栄を実現させられるだけの器量や運に恵まれた国君は、宋の滅び去る時まで遂に一人も現れる事はなかった。





「宋襄の仁」──────「泓水の戦い」における宋襄公の行き過ぎた仁慈。

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ふうう〜〜〜〜!!!やっと完成したああ〜〜〜〜!!!!

この「宋襄の仁」シリーズを書き始めてから、実に一年以上も掛かりました!!
それがようやく完結させられ、肩の荷が下りたような解放感!!!

仕事の他にもプライヴェートでもあれこれとあって、中々に集中して書き上げる暇もなく。本当に手古摺ったなああ〜〜〜〜!!!

2015/6/25(木) 午後 9:31 ZODIAC12

確かに戦国時代はシナの領土拡大の時代でしたね。もとは黄河流域の都市国家程度の存在が、群雄割拠に乗じて弱小の周辺国を侵略性福祉国土を大国にしていったのですから。

50代前半になると、虚心坦懐に歴史を受け入れにくくなってきました。

2015/7/8(水) 午後 3:06 [ 彩帆好男 ]

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この時代の領土拡大は、農業の発達と、それの影響での人口増加が大きな要因だと言われてますね。
他には伝統的なあらゆる価値観が崩壊して行った事とか。例えば封建制度が崩れて行った事とか。

それら様々な要因が絡まって、封建的な都市型国家から、中央集権的な領土型国家へと変貌して行ったと。

2015/7/8(水) 午後 8:21 ZODIAC12


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