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<<<<<P.124〜P.126より抜粋>>>>>
この本義よりして天皇の本質は、三生面より解釈せられる。
第一経典の天皇。「むすび」の作用を果す立場、すなわち宇宙生命のはたらきを、人間的行為化する立場であり、これは神の立場である。他宗教では経典と言っている。つまり経典の役割である。
第二地位の天皇。制度上に規定せられる地位の立場である。
いわゆる憲法上に定められる地位の天皇の面を言うのである。すなわち他国では皇帝・国王・大統領・主席と言っている。
第三人間天皇。人間としての立場である。経典の解釈によって主観主義的対立分離分派を許さぬ立場の天皇の面である。
経典は解釈する人によって分派分裂するが、生ける経典天皇には対立がない。
むすびの作用をする天皇と、地位上の天皇と、人間天皇の三生面が一体となって現れなければ、日本天皇、即ちすめらみことの本質を発揮する事は出来ない。
生そのものとしてのむすびの立場を原則とし、制度上の位と、人間の場を方法として、天皇の在り方を定めている。
これが天皇の本質である。その一つを欠いても天皇たり得ないのが日本の天皇である。
経典の天皇の面は、国体原理として万世一系たり、国家国民の本源基盤であらねばならない。
生きた人間天皇がこれを行う所に、何人(なんぴと)をしても対立させないという事と、それに価する修行精進せねばならず、常に国民同胞に範を垂れなければならないという二つの作用が表れて来る。
まことに人間天皇が、また地位の天皇が、経典(むすび)の天皇が、一切の私心私欲を断って、万民を統べ司るという事は、非常絶無の修行なしには、到底達せられるものではない。
経典の天皇、地位の天皇、人間天皇の三生面を理解し得ない者は、天皇を理解する事が出来ない。
天皇を生の手段として選択する意思は、近代思弁に支配された合理主義・実証主義の立場であって、天皇の本質論とは別箇の立場である。
天皇の本義はむしろ権力的地位上の面よりも、人間的経典の面の方が遥かに重大である。
<<<<<抜粋終了>>>>>
と、天皇という存在の本質を、三つの側面から論じている訳ですが、次からはそれぞれの項目ごとに詳細に語って行きます。
まずは第一の「経典としての天皇」の側面から。
<<<<<P.158〜P.160より抜粋>>>>>
第一経典の天皇は、日本民族の道統・神ながらの道を万邦兆民に伝道宣布して、その実現を図るための使命任務を遂行して、自ら経典となって範を万民に垂れ給う面の天皇である。
民族固有の道統は何によって維持され、実現されるかといえば、祭儀であり、祭儀はまた道統によって支えられ維持されるものである。
民族の道統はかくして国家においては祭儀となり、祭儀を通じて、「伝統・習慣・権威・礼儀・威儀・節義・態度・躾」等国民精神を形成する基本条件を身に修め、心に刻むものである。
民族性即(すなわち)国民性は人間生存の根本規定であり、そしてその民族との区別は、血統と地理的条件とを止揚契機として共同の歴史と伝統を持つ事である。
と同時にその国民が自民族の道統を不動の権威によって表現し、自覚する事によって生ずるものである。
民族性や国民性が歴史的共同性にあるという事は、生活環境と道統に照応する事であるが、ここに我々はその国の生存と道統との関連を見遁がす事が出来ない。
人間は社会的動物であると同時に、創造的動物である。人間は生まれながらにして共同的であると共に個別的存在である。そしてその共同性と個別性を可能ならしめるものは道統である。
民族性ないしは道統は、個々の存在の共通要素の基盤として考えらえる。単なる共通性からは道統は成立しない。自覚の伴わない共同生活は、群衆でしかあり得ないからである。
道統は個々人の存在と行為を超えてこれを統べ、公共体全体の共通基盤即ち超越性でなければならない。この人間の個別性と共同性及び超越性が自覚されて、初めて道統が成立するのである。
道統を離れて民族文化は成り立たない。道統を維持伝承するのが祭儀であり、祭儀の中心に位するのが天皇である。
国民は道統を維持し存続する事によって生存し得、そしてその生存の意義を知るのである。
人間生活は現実的様々の制約や種々の立場の相違によって一様ではないが、しかし国民共同体は必然的に国民精神を統一する道統を維持する事によって達成される。
日本民族は道統への随順によって生き甲斐を感じ、且つ民族精神を統一して来た国民である。
一般に人の道とは具体的にはこの道統への通路をいい、そして倫理道徳とはこの通路の自覚をいうのである。
歴史的民族の生命である道統を無視して人倫道義はなく、また国民精神の統一はあり得ない。
もし何らかの理由で民族精神の統一が阻まれ、分裂するような事があれば、必然的に国家統一が崩れ、対立を生じ混乱が起こり、国民生活は危険にさらされ不安に陥る事になる。これを未然に阻止するのが祭儀である。
祭儀は国民精神統一の重要な行事である。
ソ連や中国が人民広場や天安門広場において行う革命記念日の人民大会は、革命精神の徹底と国民精神統一のための大祭である。少なくともその役割を果たしているものであるといえる。
<<<<<抜粋終了>>>>>
以上のように、この第一の側面こそが、天皇としての最も重要な条件でしょう。次は第二の「地位としての天皇」の側面から。
<<<<<P.160〜P.161より抜粋>>>>>
地位の天皇とは、諸外国の皇帝、帝王、国王、大統領と同じく、憲法で規定せられる制度上の地位の天皇をいう。
明治憲法はその第一条に「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す。」と規定しており、現憲法は第一条に「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基く。」と規定している。
これを法学者等は誰もが例外なく、前者を立憲君主制だと判断し、後者を一部少数の民主的立憲君主制であるという者を除けば、殆どの者が立憲民主制であると解釈した。
法学者や憲法学者としては一定の規範に縛られている以上、そう解釈せざるを得ないのは当然の事であり、特に西洋文化や制度を模倣し、西洋流の近代国家に改めようとする法律家にとって、近世初頭に起こった専制君主制の欠陥を排除した後、国家統治の基礎を憲法に置き、統治権行使の方法を制限すると共に、その運用を司法、行政、立法に分ち、各々独立して国家を統治する立憲君主制を制定したものであると解釈したのは当然の事であった。
また戦後は民主主義時代における天皇の在り方が主権在民である限り、立憲民主制であると解されたのは致し方ない。
がしかし、それは地位の上の事であって、それが日本国天皇の全てを表現するものではない事は、その由来する所の歴史伝統が欧米諸国のそれと全く異なるばかりでなく、その本質が全然違うという事によって知られる。
天皇は元首であるという制度上の存在の他に、祭り主としての天津日嗣の方が遥かに大きな役割を持っているのである。
<<<<<抜粋終了>>>>>
外国の国家元首と同じような、単なる象徴とか立憲君主ではないのです。「祭祀王」としての在り様こそが、その本来の御姿です。
別の言い回しを使えば、「天津日嗣」「皇尊(すめらみこと)」としての在り様です。
最後に第三の「人間としての天皇」の側面を論じます。
<<<<<P.161〜P.162より抜粋>>>>>
人間天皇は霊統と血統を承継ぐ存在で、一面人間経典であると同時に、人間性、身体、生理的面を持って生きる人間的一面の立場である。
この点皇帝も天皇も外面上は同じであるが、内面の霊統を相続する点が全く異なる。
人間的立場の天皇はあくまでも人間的であって、親子あり夫婦あり兄弟姉妹ある点、我々一般国民と変りない。
人間である限り、人間性や人間的、賢愚、優劣、長短、強弱の差異は免れない。それだけに天皇は尋常ならざる修行訓練の必要があるわけである。
同時にまた輔弼の任に当る側近も、それに価する適任者でなければ務まらない。
公的立場の天皇と私的立場の天皇とは全く別箇の存在であるため、普遍的立場の皇帝や国王と混同されるが、その本質は日本独自のもので他に類例がない。
<<<<<抜粋終了>>>>>
「霊統」とは聞き慣れないかと思います。「霊」は「れい」「たま」の他に「ひ」とも読みます。
つまり簡単に言えば霊統とは、「天照大神以来、代々伝えられて来た霊性、霊徳を、受け継ぎ伝えて行く事」となりますか。つまり「霊(ひ)を嗣(つ)ぐ」「霊嗣ぎ(ひつぎ)」、この場合の「霊(ひ)」は「日(ひ)」と同じ意味になります。
だからこそ天皇は「天津日嗣」と呼ばれるのです。
すなわち本来の「皇統」「万世一系」とは、この霊統を永久に継承して行く事を意味します。つまり天照大神以来の天津日嗣としての「霊統」、そしてその霊統を受け継ぐ為の容器である、神武天皇以来の男系男子の「血統」、これら両輪が揃ってこそ、初めて正統性を持った本物の天皇として認められるのです。
また、
「人間的立場の天皇はあくまでも人間的であって、親子あり夫婦あり兄弟姉妹ある点、我々一般国民と変りない。
人間である限り、人間性や人間的、賢愚、優劣、長短、強弱の差異は免れない。それだけに天皇は尋常ならざる修行訓練の必要があるわけである。」
とありますように、天皇の長男や神武天皇の男系男子の血統として生まれれば、後は何も努力しなくても簡単に天皇になれる訳ではありません。
我が国の天皇とは、何も智恵が優れているとか、腕力が強いとか、戦争に強いとか、学問に深く精通しているとか、政治・外交の手腕があるとか、とにかく「〜〜が上手い、達者だ、秀でてる」という理由で高御座(たかみくら)に御座(おわ)されるのではないという事です。
そして儒教的な有徳の聖人の出現を待ち、その聖人を天子として迎え、即位させるという思想は、我が国の天皇の在り様とは全く異質なものです。さて、本記事における最後の抜粋です。
<<<<<P.162より抜粋>>>>>
天皇の形態はこの三生面からなるものであって、その内の一つを欠いても天皇たり得ないし、またどれに偏しても同様天皇たり得ない。この点を理解し得ない者は天皇の本質を見失うに至る。
特に天皇を国民生活の手段として選択する意思は、近代的思弁に含まれる概念で、その立場からは天皇の説明は出来ない。
天皇の価値及び資格を当代における最高人格者乃至有能者、有力者である事に要求する合理主義は、それは天皇ではなくて皇帝であり大統領である。
天皇を統治の形態に捉え、統治主権に規定するものは、必然天皇廃止論や不必要論を成り立てる。
天皇は日本民族独自の存在であって、近代思想の立場からは理解する事も、説明する事も出来ない存在である。日本の道統を理解せずして、天皇を論ずる事自体が無謀である。
<<<<<抜粋終了>>>>>
「天皇の価値及び資格を当代における最高人格者乃至有能者、有力者である事に要求する合理主義は、それは天皇ではなくて皇帝であり大統領である。」
儒教始め諸外国の観念はまさにこれです。そして皮肉な事にそれこそが、長期に亘る政治的な安定ぶりが、我が国に遠く及ばない原因の一つでもあります。
本記事#2はここまで。
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『天皇論〜日本固有の道』
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