YAMINABE the Second Operation

この11年間の数多くの思い出を携え、私は新たな旅へと出発します。それでは皆さん、御達者で。

第三〇計 反客為主

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承前  故事其之貮 ─ 甲





「我の聞く所によれば、国家が立ち行くのは、本家が大きく、分家が小さくあってこそ、国家は堅固でいられる。


 故に天子は子弟を諸侯として封ずるに当たり、天子の国よりも小さい国を建てて諸侯に封ずる。諸侯は子弟を卿や大夫として立てる。
 卿は側室(そくしつ)【※14】を立て、大夫は貳宗(じそう)【※15】を立てる。
 士は隸子弟(れいしてい)【※16】を立てる。
 そして農・工・商等の庶人もそれぞれ分親(ぶんしん)【※17】を立てる。


 このようにして上は天子から下は庶人に至るまで、本家と分家とでは大小の差を設けるのだ。そうであってこそ、民はその上に服事(ふくじ)し、下は上を覬覦(きゆ)【※18】する事もない。
 晋は甸侯(でんこう)【※19】に過ぎぬ国である。でありながら、あたかも天子が諸侯を国に封ずるが如く、公子成師を曲沃のような大邑の主としてしまった。
 本家は既に弱体化しており、晋(宗家)は長くは保てぬであろう。」


 師服のこの予言も、先の予言と同様に現実のものとなる。
 公子成師は宗家以上に、民心をも得ていたのであるから尚更であった。


 これ以降は便宜上、国都の翼に拠点を置く晋公室宗家を「翼宗家」、公子成師が立てた曲沃の系統を「曲沃分家」とそれぞれ呼ぶ事にする。そして公子成師を「桓叔成師(かんしゅくせいし)」と呼ぶ事にする。
 桓叔成師が曲沃の大邑に封じられた、紀元前745年という年を以て、晋を二分する内乱の時代は始まったのであった。





 ♙ 夢、無残に散る──────後世に託す

 晋昭侯の治世7年目の紀元前739年が、晋昭侯の最後の治世の年となった。
 晋に仕える大夫・藩父(はんぽ)が、桓叔成師を翼へ迎え入れ、国君に即位させようと謀り、主君である晋昭侯を弑殺したのであった。
 桓叔成師はこの時64歳であった。長年の隠忍自重の日々がやっと報われて、遂に君位と国を手に入れられる日が訪れたと、桓叔成師は大層喜んだ。


 期待に胸を弾ませ、藩父の計画に呼応して、桓叔成師は軍を率いて国都入りしようと、いざ進軍を開始した。
 だが惜しい事にまだ時宜を得ていなかった。事を決するにはまだまだ時期が余りに早過ぎたのであった。
 晋の国人たちは軍を率いて、桓叔成師率いる曲沃の軍に攻め掛かり、国都入りを拒否したのであった。
 戦いの結果、桓叔成師は敗れ去り、国都入りは叶わず、曲沃へ撤退する結果に終わった。
 そうして翼宗家をどうにか守り抜いた晋の国人たちは、先君・晋昭侯の子である平(へい)を推戴し、翌紀元前738年に即位させた。これが第13代国君・晋孝侯(しんのこうこう)である。先君を弑殺した大夫の藩父は誅殺された。


 こうして桓叔成師は生涯を掛けた大望を、無惨にも打ち砕かれたのであった。


(天よ!!何故だ!!我が名は成師であろう!!この名の通り、我は大業を成すのではなかったのか!?)


 もし桓叔成師がもっと年若ければ、あるいは多少違った反応を見せた可能性もある。だが当時の基準で64という歳は、余りに歳を取り過ぎていたと言わざるを得ない。
 そこまでの高齢で大事業計画の頓挫は、気力が尽き、心が折れて、再起不能になったとしても不思議ではない。自身の代では時宜を得られず、生涯の大事業計画は脆くも潰え去った。
 そうして最早天命も去り、自身の代での悲願達成が叶わなくなった事を悟った桓叔成師は、すっかり気力を失い、天を恨み、失意に沈みながら余生を送った。
 そして自身の果たせなかった野望、すなわち翼宗家を滅ぼし、国を得る事の成就を、息子(鱓)と孫(称)に託した。


 晋孝侯の治世8年目の紀元前731年の事。桓叔成師は失意の内に、とうとうこの世を去った。71歳であった。





 ♚ 晋孝侯の弑殺

 曲沃分家の初代当主である桓叔成師が死に、嫡男の鱓(ぜん)が曲沃分家の第2代当主の座を継承した。
 諡号が「荘伯(そうはく)」なので「荘伯鱓(そうはくぜん)」と呼ばれる。故に以後は「荘伯鱓」と呼ぶ。


 晋孝侯の治世15年目の紀元前724年の事。詳細な経緯は記されていないが、荘伯鱓は国都・翼で国君・晋孝侯を弑殺したのであった。
 それで晋の国人たちは荘伯鱓を攻めたのであった。荘伯鱓は難を逃れる為に、本拠地の曲沃へ帰還した。
 殺された先君・晋孝侯に代わって、国人たちはその子の郄(げき)を推戴して、翌紀元前723年に即位させた。これがが第14代国君・晋鄂侯(しんのがくこう)である。





 ♛ 荘伯鱓の執念

 ちなみにこの晋鄂侯は、『春秋左氏伝』だと晋孝侯の弟だとある。どちらが正しいのかは不詳であるが、便宜上ここでは『史記』の記述に従い、弟ではなく子とする。
 それはともかく、まだまだ準備不足だったのか、荘伯鱓は君位に即き損ねたのであった。
 だがこれで諦めた訳でないのは言うまでもない。そして晋鄂侯の治世も長くはなかった。治世6年目の紀元前718年に晋鄂侯は死んだ。


 晋鄂侯の死を好機と捉えた荘伯鱓は、直ちに軍を招集して、国都・翼まで進軍したのであった。遂に先代からの悲願が達成される時が来たのだと、期待に胸を膨らませながら。
 だがそこで、時の天子(周王)たる第14代・周桓王【姓は姫(き)、名は林(りん)、諡号は周桓王(しゅうのかんおう)】からの横槍が入った。
 周桓王は虢公(虢の君主)に命じて、曲沃を伐たせたのであった。荘伯鱓はその虢公の率いる救援軍に敗れて、曲沃へ退却せざるを得なくなった。
 そうして進攻を断念させられ、荘伯鱓は仕方なく曲沃の防備に専念せざるを得なくなった。父・桓叔成師の時と同様、国都入りは挫かれてしまった。
 国人たちは、先君・晋鄂侯の子である光(こう)を推戴して、その翌紀元前717年に即位させた。これがが第15代国君・晋哀侯(しんのあいこう)である。


 即位の翌年、すなわち晋哀侯の治世2年目の紀元前716年に、曲沃分家の第2代当主・荘伯鱓は、とうとう亡き父の夢を果たせぬまま、無念を抱きながらこの世を去った。父・桓叔成師と違って生年が不詳の為、享年も不詳である。
 以上の荘伯鱓の生前の事績に関する記述は、主に『史記』に依拠している。
 このように『史記』や『春秋左氏伝』だと記述の量が少なく、具体性に乏しいが、『国語(こくご)』の中の【晋語(しんご)】や、『竹書紀年(ちくしょきねん)』の【桓王(かんおう)】の項には、より詳しく穿った荘伯鱓に関した記録がある。


 それらの記録を読むに、荘伯鱓は何度も執念深く翼宗家との抗争を繰り返したものの、何度も周王朝の妨害に遭って、国君の座に着けなかったとなる。
 周王朝は荘伯鱓に協力したかと思ったら、後で掌を返したような裏切りを重ねたとある。
 周桓王が荘伯鱓に肩入れした事で、晋鄂侯を国外へ亡命させる事に成功したが、その後に何故か、晋鄂侯の子(弟?)の晋哀侯を擁立して即位させ、荘伯鱓の事業を妨害したりした。


 味方だと思っていた周王に裏切られたと思い怒った荘伯鱓は、晋哀侯をも追放してしまった。
 だがこの事に対して周桓王は虢公に荘伯鱓の討伐を命じた為に、荘伯鱓はとうとう曲沃へ退却せねばならなくなった。それにより父の遺志を実現する事は遂に叶わなくなったと。


 どちらが史実にしても先代・桓叔成師同様、自身の代でも悲願は成就出来ない事を嘆きながら、荘伯鱓もまた失意の内にこの世を去った。そして後の事は、息子の称に託したのであった。





 ♜ 国君を捕える

 さていよいよ称の代である。
 祖父・桓叔成師、父・荘伯鱓の大望と無念を引き継ぎながら、曲沃分家の第3代当主の座を受け継いだのであった。その時の称の年齢は不詳である。


 紀元前709年の事である。『史記』には「晋哀侯の八年」とあるが、即位年が紀元前717年だとすると、紀元前710年になるが、ここでは一応紀元前709年とする。
 この年に晋哀侯は国都・翼の南方に位置する小邑である陘庭(けいてい)に攻め込んだ。そこで翌紀元前708年(晋哀侯の治世9年目)に、陘庭の人々は称と語らい、曲沃の軍を手引きして翼宗家の軍を攻撃させた。
 曲沃軍は汾水(ふんすい)【※20】の畔で翼軍を討ち破ったのみならず、国君である晋哀侯を捕虜として捉えるという、一石二鳥の大戦果を獲得したのであった。


『春秋左氏伝』でのこの箇所における記述は、次の通りである。
 紀元前709年に称は翼を攻めようと、陘庭まで進軍させて宿営した。
 称の乗る兵車には、韓万【姓は姫(き)、氏は韓(かん)、名は万(まん)】と梁弘(りょうこう)が陪乗した。韓万が御者を務め、梁弘が戈を取って車右(しゃゆう)【※21】を務めた。
 韓万は称の祖父の曲沃初代・桓叔成師の末子(荘伯鱓の弟)である。すなわち称にとっては叔父(父の弟)に当たる。


 曲沃軍は翼軍を汾水の畔で撃破し、敗走する晋哀侯を追撃した。
 晋哀侯の乗る兵車を牽く驂(さん)【※22】が林の木に引っ掛かって動けなくなってしまった。そこを逃さず夜に晋哀侯の身柄を捕えたのであった。
 以上が『春秋左氏伝』での顛末である。





 ♝ 韓氏の起源

 余談だが称の御者を務めた韓万こそは、後世の晋の六卿(りくけい)【※23】の一角を担う卿大夫の氏族・韓氏の氏祖であり、更に後世の戦国七雄の一角・韓王室の祖先でもある。


 後世に天下統一を果たし、春秋戦国時代を終わらせる事となる始皇帝【姓は嬴(えい)、氏は秦(しん)、名は政(せい)、称号は始皇帝(しこうてい)】の政治思想・信条のバックボーンとなった『韓非子』の著者・韓非【姓は姫(き)、氏は韓(かん)、名は非(ぴ)、通称は韓非子(かんぴし)】。
 春秋戦国時代後の秦末漢初に生き、高祖劉邦【姓は劉(りゅう)、名は邦(ほう)、字は季(き)、諡号は漢高祖(かんのこうそ)】の天下統一事業を軍師として輔佐した張良【姓は姫(き)、氏は張(ちょう)、名は良(りょう)、字は子房(しぼう)、諡号は留文成侯(りゅうのぶんせいこう)】。
 これら史上高名な偉人たちは、韓万の直系の末裔でもある。


 このように韓氏は元は晋公室から枝分かれした氏族ではあるが、後世力が晋の宗家を凌いだ結果、名目上は晋に仕える卿大夫でも、事実上は独立国の君主同然となっていた。
 この年(紀元前709年)から306年後の紀元前403年に、韓氏は同じ晋に仕える卿大夫の同僚でもあった趙氏(ちょうし)・魏氏(ぎし)等と共に、諸侯(国君)の臣下の卿大夫の地位から、三氏揃って正式に諸侯に昇格した。
 新諸侯国である韓・魏・趙の誕生、いわゆる「三晋の成立」である。


 これを以って名実共に自身の宗家である晋公室と対等になる。とは言っても実力の方は、それ以前からとっくに逆転していたが。
 この三晋誕生の事件こそが、それまでの春秋時代が終わり、新しく戦国時代へと突入した事を表していた。


 そしてそこから更に二十数年後、紀元前376(378?)年に、同じ境遇の趙・魏と語らって、韓は自身のルーツである晋を、趙・魏と共に三国で攻め滅ぼした。
 晋領を全て三国で分け合って併呑し、既に滅んでいたも同然の晋の息の根を完全に止めるに至る。





 ♞ 欒成の死

 話を戻して、更に『国語』の【晋語】には、次のような逸話も収録されている。


 晋哀侯の身柄を捕えた時、晋哀侯を輔佐していた大夫の欒成【姓は姫(き)、氏は欒(らん)、名は成(せい)、諡号は欒共叔(らんきょうしゅく)】までも捕えた。
 欒成は嘗て称の祖父・桓叔成師の代に曲沃の宰相を務め、まだ幼かった称の傅となって教導してくれた欒賓の息子であった。そういう縁もあって、二人は古くからの知己であった。
 そんな間柄の欒成を死なせるには忍びなかったので、称は囚われの身の欒成に説得を試みた。


「決して無駄死にをしてはならぬぞ。吾(われ)は子(し)【※24】を晋の上卿(じょうけい)【※25】に任じ、国政を執らせたいと思っておるのだ。」


 だが欒成は反論した。


「もしも臣(しん)【※26】が私利を以って人の道を捨て去るならば(すなわち上卿の地位に就くならば)、その後、臣はどうやって民を教え導くのでありましょうや?
 更に君侯(称)に仕えて二心を抱くならば、君侯は臣を如何様に用いられるのでありましょうや?」


 欒成は曲沃に降って新しく仕える事を潔しとせずに拒んだ。その後は称も説得を諦めて、欒成の身柄を釈放したものと思われる。
 そうして欒成は曲沃の敵として戦って戦死した。欒成の死を称は大いに悲しんだのであった。





 ♟ 二君を弑す

 話を戻して、晋哀侯を捕えた後、翼ではまだ国君が死んでいないにも関わらず、翌紀元前708年に晋哀侯の子の小子(しょうし)を推戴して即位させた。これが第16代国君・小子侯(しょうしこう)である。
「小子」とは本名ではない。本名は不詳である。本名は伝わっておらず、まだ年端もいかない幼い年齢で即位した為にそう呼ばれている。
 幼過ぎる年齢で死んだ為か、諡号はない。便宜上「小子侯」と呼ばれるだけである。


 それはともあれ、そうなってしまっては最早晋哀侯は用済みであり、人質として温存しておく意義は失われた。
 そこで称は叔父の韓万に命じて、利用価値の全くなくなった晋哀侯を殺させたのであった。
 こうして曲沃分家は益々力が強くなったが、翼宗家はそれを押し止める事が出来なくなっていた。


 小子侯の治世4年目の紀元前705年(704年?)に、称は小子侯を謀略を用いて誘き出し、弑殺する事に成功したのであった。
 これで桓叔成師の兄・晋文侯以後の歴代国君たちで、殺されて天寿を全う出来なかった国君は、晋昭侯、晋孝侯、晋哀侯、小子侯の四君に上った。
 と言うよりは、晋文侯以後で殺されずに天寿を全う出来たのは、晋鄂侯唯一人のみである。


 幼君を殺してやっと翼宗家を乗っ取れると期待していたが、先代の荘伯鱓の時と同様に、またもや周桓王の妨害が入った。
 周桓王は同姓の諸侯たる虢公に命じて、称を攻めさせた。その為折角あと一歩という所で、称は本拠の曲沃へ引き揚げざるを得なくなった。
 そして小子侯亡き後の翌年(紀元前704年)に、翼は二代前の国君・晋哀侯の弟である公子(本名不明)を推戴し、即位させた。
 すなわち小子侯の叔父(父の弟)である。これが第17代国君・晋湣侯(しんのびんこう)である。この晋湣侯を以って、翼宗家の系統では最後の国君となる。





 ♔ 翼宗家最後の君主

 晋湣侯の治世は28年と比較的長く続いた。
 その間の晋湣侯自身に関する記録も特にないので、何か際立った事をするでもなく、一日でも長く翼宗家が大過なく過ごせるようにと、ただひたすら受け身的な姿勢だったのかも知れない。
 しかしどんなに波風立たないよう努めた所で、時勢と天運には逆らえないのであった。
 曲沃分家の方でも称は辛抱強く機会を待ち続けていた。


 晋湣侯の治世2年目の紀元前703年の秋の事。虢公(かくこう)・芮伯(ぜいはく)・梁伯(りょうはく)・荀侯(じゅんこう)・賈伯(かはく)の五諸侯が共に語らい、連合軍を組んで曲沃を攻めた。


 虢公とは先述の通り、諸侯国・虢の国君で、姓は姫(き)、氏は虢(かく)、名は林父(りんぽ)だとある。
 当時虢は「南虢(なんかく)」「北虢(ほくかく)」の南北二国に分かれていたが、その内のどちらの虢かは不詳である。
 南北どちらの虢も周王朝初代・周武王の叔父(父の弟)である虢仲【姓は姫(き)、氏は虢(かく)、名は不明、字は仲(ちゅう)】を国祖とするので、周王室や晋とは同姓の姫姓の国である。


 そして他の芮・梁・荀・賈の四諸侯は、梁が嬴姓(えいせい)なのを除いて、皆同じく姫姓であった。
 国名の後の「侯」「伯」は、周王室から賜った五等級の爵位の内の、第二位の「侯爵」、第三位の「伯爵」である事を示す。周代は国(諸侯)ごとに爵位の等級や序列が定められていた。





後続  故事其之貮 ─ 丙(完結編)

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昨日、上海出身のある婦人と談話する機会があったのですが、この俊秀時代に関する歴史の知識は私のほうが多かったので相手も驚いていました。彼女は春愁戦国時代の各国の名前もすべてはしらなかったので。
現下のシナの教育をまたも垣間見ました(以前も似た報告を差し上げたと思いますが、今回もまた別人ですので)。

2015/11/29(日) 午前 7:42 [ 彩帆好男 ]

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はい、先日も同じような御話を伺いましたね。

そうですか、上海のような大都会の出で、しかも春秋戦国時代(三国志と比べれば人気も知名度もマイナーな時代)の事も多少は知っているというのでしたら、その女性は恐らくそれなりの学歴や教養の持ち主なのでしょうね。

しかしそんなある一定の素養のある支那人ですら、日本人である私やサイパンさんにも及ばないという事は、どうやら支那はよほど愚民化政策をやらかしたと見えますね。
その女性(先日の御話の女性も含めて)の愕然とした光景が思い浮かびます。

少なくとも日本なら、一応は歴史の授業で近現代までの全時代、一通り万遍なく教えますよね。おかしなイデオロギーを刷り込んでる事は別としても。

2015/11/30(月) 午前 9:14 ZODIAC12


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