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#231
己独りのみ高潔な人物たらんと志向するは、
狂気の沙汰である。
#232
我々が自身の抱える悲嘆に対し、如何なる名目や
口実を付けてみた処で、その悲嘆の大抵の原因は、
利欲と虚栄心に過ぎない。
#233
悲嘆というものの中には、色々な種類の偽善が
含まれている。
まず挙げる例として、我々は親しい者の死を悲しんで
泣くのだと言いながら、その実己自身の為に泣いている。
自分は折角故人からは好意を向けられていたのに、
そんな相手がいなくなった事で、己の楽しみや喜び、
払われる敬意が減ってしまった事を悲しみ、
泣いているのだ。
このようにして死者は、生者自身の欲得の為に
流されているに過ぎない涙を、手向けとして
贈られる羽目になる。
私はこれを一種の偽善であると言おう。
何故ならこの手の悲嘆というのは、自分で自分を
欺いているのだから。
次に挙げる例は世人を惑わすから、先に挙げた例よりも
更に偽善的で、性質(たち)が悪い。
それは美しい不滅の悲しみという栄光に憧れる
者たちの悲嘆である。
一切を滅ぼし、癒し尽くす時の流れが、この者たちが
嘗て実際に抱いていた悲嘆を全て掻き消してしまった
後でも、この連中は泣いたり、悲しんだり、溜め息を
吐(つ)いたりする事を決して止めようとはしない。
絶えず表情を悲しみに曇らせ、悲しみに打ちひしがれて
いるかのように見える立ち居振る舞いを重ね続け、
その悲嘆は生涯消える事がないと人々に
思い込ませるのである。
こうした鼻に付く虚栄心というのは、往々にして
野心家の女によく見られる。女であるという事で、
最初から栄達や立身出世の道を閉ざされてしまって
いる為に、彼女たちは決して癒されぬ悲嘆を見せ付ける
事によって、世の耳目を集め、名を上げようとする
のである。
更にもう一種の涙がある。
とは言ってもこれは、水源の小さい涙だから、流せば
すぐに水源が枯渇してしまう。
それはすなわち、心根の優しい者だという評判を得る
為に泣く。同情される為に泣く。他人から泣いてもらう
為に泣く。
そして最後には、泣かずにいるのが恥ずかしくて
堪えられないから泣くのである。
#234
皆が同意している見解に、飽くまでも頑なに反対する
人がいる。
それは愚かで道理を解さぬからではなく、傲慢や自尊心
のせいである。
正論の陣営の上位の席次は既に他人によって
埋められており、今更上席には座れない。
かと言って、人より下位の席次に甘んじるのは
我慢ならぬのである。
※ これが誰の目から見ても疑う余地のない正論に、敢えて背を向ける
者たちの、浅ましくケチ臭い本音であろう。だからこそこの手の連中は、
例え間違ってる事が分かっていても、一個の陣営の旗頭となって、
一派を仕切りたがるのである。
#235
友の不幸もそれが我々の友情を示す目的さえ
果たせれば、それだけで我々は友の不幸など
きれいに忘れ去ってしまう。
#236
我々が他者の利益の為に何らかの労を取る時は、
さすがのアムール・プロプル(自己愛)さえも善意に
絆(ほだ)されて、自身の本来の在り様を忘れて
しまっているかに見える。
だが実はこれこそ、最も確実に目的を達成する為に
アムール・プロプルが選択した手段なのである。
すなわち他者に与えるという体裁を装って、
高利貸しをしているのである。
つまり巧妙で狡猾な方法で皆を騙しているのである。
#237
誰であれ悪人になれるだけの力強さを持たぬ者は、
善人だとも称賛される資格はない。
そういったものでない善良さの正体など、
ほとんどが怠惰と無気力であるに過ぎない。
#238
大部分の者に対しては、恩恵を与え過ぎる事に比べたら、
逆に害を及ぼす事の方が危険は少ない。
#239
地位や名誉ある人間から秘密を打ち明けられる事程、
我々の自尊心を喜ばせるものもあるまい。
何故ならそうした打ち明けは、打ち明けてくれた
相手が単なる虚栄心か、あるいはこれ以上胸の内に
止めておくのに堪えられなくなったからに過ぎない、
という事を我々は考えないからである。
どころか我々の徳性の高さを見込まれての事だと
思い込むからである。
※ 荒唐無稽な陰謀論にのめり込む人間がいるのも、自分たちだけが
一般人が知らない凄い秘密を知っていると錯覚するからだろうか。
#240
美貌とは別の感じの良さについて語るならば、
それは我々の知り得ぬ法則に適った調和である
と言えよう。
全体的な顔立ちの整いと、顔立ちや色艶、
そしてその人の趣や雰囲気などの間で取れている
均整の美、とでも言えるであろう。
※ クリスティナ女王評。「これは目に見え、そして感じられるが、言葉では
どうにも表現出来ないジュ・ヌ・セ・クワ(何とも言えないもの)の事である。」
同時代の一読者評。「実に良い定義だ。ジュ・ヌ・セ・クワと同じだ。」
「ジュ・ヌ・セ・クワ」とは審美的基準で論じられない魅力を表す表現として、
当時の文学、芸術などでも広く使われたそう。
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231に関してはYES でありNOといえるのでは。確かに朱に交わればという言葉や付和雷同などという面から関しては孤高の正義を貫くことが立派なことです。
しかしその副作用として 自分の独りよがりという独自の価値観によるところの危険性も多いことでしょう。
2016/7/11(月) 午前 7:03 [ 彩帆好男 ]
ラ・ロシュフコーは何故このような発言をしたのか解らないですが。
ラ・ロシュフコーにとっては孤高の人、高潔の士という人種は、何か偽善的とか、鼻持ちならなさを感じてたのでしょうか?
どうもそこはよく解りませんが・・・・
2016/7/11(月) 午前 10:34