YAMINABE the Second Operation

この11年間の数多くの思い出を携え、私は新たな旅へと出発します。それでは皆さん、御達者で。

第八計 暗渡陳倉

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この計略名の由来となった故事「明修桟道、暗渡陳倉」──────天才兵略家・韓信の巧妙な陽動と隠密奇襲作戦。





 ♚ 序

「何っ!?そんな馬鹿な!!何かの間違いではないのかっ!?」



 報告を聞いた章邯【姓は章(しょう)、名は邯(かん)】は、俄かには信じられなかった。
 だがそれも無理はなかった。敵である漢軍が自領内に現れるとしたら、どう考えても漢軍が現在大規模な修復工事をしている最中の、「蜀の桟道(しょくのさんどう)」と呼ばれる通行路を通って来る以外にあり得ない。
 きちんとした道路が整備されていない険阻極まりない地勢で、他に人が通れそうな道もない。
 だからこそ章邯は安心して、注意をその桟道の一点のみに向けていた。
 それがまだ通行路の修復工事を終えてもいない内に、突如どこからか降って湧いたかのように、敵の漢軍が自領の雍(よう)の国内に出現したと言う。正しく寝耳に水の事態であった。



(信じられん・・・・一体どうやってこちらまで来たというのか!?漢軍は妖術でも使いおったか!?)



 だがいつまでも驚き、呆気に取られてばかりもいられない。
 突然の出現の謎こそ解けなかったものの、章邯はならばと気を取り直して、陳倉(ちんそう)【※1】の地で敵軍を迎え撃つ事とした。
 時は紀元前206年、始皇帝【姓は嬴(えい)、氏は秦(しん)、名は政(せい)、称号は始皇帝(しこうてい)】の築いた秦帝国が滅んだ直後の漢楚の覇権争い、漢帝国創建の過程での一齣である。



 この時の漢軍の魔術的な奇襲作戦が由来となって、後世「明修桟道(めいしゅうさんどう)、暗渡陳倉(あんとちんそう)」という成句が生まれた。
 読み下すと、「明らかに桟道を修(しゅう)し、暗(ひそ)かに陳倉に渡る」である。
 これが兵法三十六計の第八番目の計略である「暗渡陳倉」という名の由来となった。
 そしてこの時の漢軍を率いて、大胆かつトリッキーな隠密奇襲作戦を展開させたのは、次々と縦横無尽な機略を発揮し、後世に天才兵略家の名を遺す事となる名将・韓信【姓は韓(かん)、名は信(しん)】である。



 だがそんな英雄も功成り名遂げるまでの半生は、後年の成功と名声とは裏腹に、決して芳しいものではなかった。
 寧ろうだつが上がらず、醜名ばかり遺していたので、人から軽侮され、嫌われていたのであった。





 ♛ 浮浪な日々

 韓信は淮陰(わいいん)【※2】の出身である。
 まだ布衣(ふい)【※3】だった時分の韓信は、貧乏な上に素行が良くなかった為に、吏(り)【※4】に推挙してもらえなかった。
 そして商賈(しょうこ)【※5】で生計を立てるなどの、まともな生業に就く事も出来なかった。
 常に他人の家に上がり込んでは居候をして食べさせてもらい、日々を凌いでいた。



 そんな甲斐性のない有り様だったので、多くの人々が韓信を嫌い、やがては淮陰県に属する郷(ごう)【※6】である南昌(なんしょう)【※7】亭長(ていちょう)【※8】の家に居候する事にした。
 しかし数ヵ月もすると、亭長とその妻も韓信にはほとほと嫌気が差し、疎ましく思うようになった。その挙句、韓信には食事を出さなくなった。
 そんな邪険な対応に韓信はすっかり腹を立て、とうとう亭長の家を出て行った。



 それからは当所もなく放浪し、ある日の事、淮陰の城下にある淮水(わいすい)【※9】の畔で韓信は釣りをしていた。
 すると同じ川で年配の婦人たちが布や綿の晒し仕事をしていた。
 その内の一人が、韓信が腹を空かせているのを見かねて親切に食事を与えた。
 その事に恩義を感じた韓信は婦人に言った。



「我はいつの日か必ず、おばさんに手厚い恩返しをしようじゃないか。」



 だが婦人は怒って言った。



「何を言ってんだい!大の男が己一人の糊口を凌ぐ事すら出来ゃしないで、そんな惨めな暮らしをしていなさる!
 あたしゃただ、そんな王孫(おうそん)【※10】を気の毒に思っただけの事さね!どうして御礼なんかを期待するものかい!?」



 だがそう言われても、韓信はこの恩義を決して忘れる事はなかった。





 ♜ 股夫

 淮陰で屠殺業をしている若者の中に、韓信を侮る者がいた。
 ある日の事、その者が街中の衆人環視の中で韓信を捕まえて言った。



「おい、韓信よ。お前さんは押し出しは立派で、いつも刀剣を帯びちゃいるが、その実内心じゃいつもビクビク怯えているんだろう?」



 更に韓信を侮って言うには、



「韓信よ、もしお前に度胸があるんなら、その剣でこの俺を刺してみろよ。だがその度胸がないんだったら、俺の股の下を潜るんだな。」



と挑発した。そう言われて韓信は、この男をじっと見つめた。



(・・・・・こいつ、叩っ斬ってやろうか!)



 一瞬そう思ったものの、思う所あってすぐさまその考えを引っ込めた。



「ほれ!どうした!?その剣はただの飾り物かよう!?」



 更なる挑発を重ねる男に何も答えず、韓信はじっと怒りを堪えた。
 そして韓信は地面に伏せって、犬のように四つん這いになりながら、この無頼漢の股下を潜り抜けた。
 まさか本当に潜るとは思っていなかったこの荒くれ者を始め、その光景を目撃した人々は呆気に取られた。



「ハハハハハ!!見たか!?こいつ、本当に俺の股を潜りやがったぜ!」



 あまりの事に男は哄笑し、道行く人々は皆、韓信を意気地なし、臆病者だと嘲笑し、軽蔑の眼差しを向けた。
 この一件以来、世人は韓信を「股夫(こふ)」、つまり「(臆病者の)股潜り男」という綽名を付け、馬鹿にして呼ぶようになった。





 ♝ 風雲に乗じる

 やがて秦末に突如勃発した「陳勝・呉広の乱(ちんしょう・ごこうのらん)」を皮切りに、秦帝国打倒を目指して、全国各地で群雄が次々と反乱の火の手を上げた。
 韓信もその風雲に乗じて、群雄の一人で名声もあった項梁【姓は不明、氏は項(こう)、名は梁(りょう)】の麾下に加わった。
 だが項梁は後に秦軍を率いる名将・章邯の策略に嵌って敗れ、無念にも戦死した。



 項梁亡き後は項梁の甥であり、後に漢朝の初代皇帝となる劉邦【姓は劉(りゅう)、名は邦(ほう)、字は季(き)、諡号は漢高祖(かんのこうそ)】の最大の宿敵となる項羽【姓は不明、氏は項(こう)、名は籍(せき)、字は羽(う)、称号は西楚覇王(せいそのはおう)】の麾下に転入した。
 本名の「項籍」よりも通称の「項羽」の方がずっと人口に膾炙しているので、以後は「項羽」で通す。



 項羽は韓信を郎中(ろうちゅう)【※11】に任じた。だが項羽の側近く仕えるようになっても、特に重用される事はなかった。
 韓信は度々項羽に自論の戦略を献じたが、認められず採用される事はなかった。
 嘗てのうだつの上がらない放蕩無頼な暮らしぶりと、何より荒くれ者の挑発に怯えて股の下を潜った臆病者という評判が、項羽の韓信に対する信用や評価を著しく低く見積もらせていたかと思われる。





 ♞ 秦帝国の滅亡

 やがて項羽率いる反乱軍は秦軍を次々撃破して追い詰めて行った。
 項羽麾下の劉邦が誰よりも早く関中(かんちゅう)【※12】入りし、秦の国都・咸陽(かんよう)【※13】を陥落させた。
 そして劉邦は秦の皇族であり、二世皇帝胡亥【姓は嬴(えい)、氏は秦(しん)、名は胡亥(こがい)、称号は二世皇帝(にせいこうてい)】亡き後の秦の君主であった秦王子嬰【姓は嬴(えい)、氏は秦(しん)、名は子嬰(しえい)】の降伏を受け入れた事により、一代の巨星・始皇帝の生涯を懸けて築き上げた秦帝国は、僅かな短い歳月で名実共に滅亡したのであった。



 尚、秦帝国の三代目の嬴子嬰が「三世皇帝」ではなく「秦王」なのは、秦は既に天下を支配する統治者としての実質を失っていたという事で、自ら「皇帝」の称号を取り下げ、格下げして「王」と名乗ったからである。
 そしてこの嬴子嬰という人物は、始皇帝の弟だとも、二世皇帝胡亥の兄(始皇帝の子)だとも、始皇帝の長男・嬴扶蘇【姓は嬴(えい)、氏は秦(しん)、名は扶蘇(ふそ)】の子(始皇帝の孫)だとも言われており、始皇帝から見てどんな血縁関係にあるのかが不明確な人物である。
 それはともかく、項羽は後に、降伏した秦王子嬰を始めとした秦の王族たちや四千人もの官吏を無慈悲に処刑し、咸陽の宮殿を焼き払い、宮殿や始皇帝の陵墓にあった宝物を奪い取って行った。



 劉邦とは対照的なこれら一連の蛮行により、項羽は秦の人民から憎悪され、項羽から離れて行った人心は劉邦へと寄せられて行った。
 こうして韓信は、秦を滅ぼすまでの間、とうとう項羽にその才覚を認められ、用いられる事なく、名声を上げる事は終ぞ叶わなかった。





 ♟ 恣意的な行賞──────「懐王之約」を反古に

 秦を討滅し終えて暫くしてから、項羽は本拠とした彭城(ほうじょう)【※14】で、反乱軍諸侯の功績を定める論功行賞の封建(領地分配)を行った。
 項羽は諸侯に対する封建を、諸侯の客観的な功労に因らず、自身の個人的な好き嫌い、親疎の度合いで決めてしまったので、その恩賞は甚だ不公平なものであった。
 その為多くの諸侯は、項羽の理不尽な処遇に不満を抱き、項羽を恨むようになった。
 これがこの時から然程歳月を待たずに勃発する、「楚漢戦争」の大きな原因ともなる。



 嘗て反秦連合軍の盟主・楚懐王(そのかいおう)【※15】立ち会いの下、「真っ先に関中入りを果たした者に、関中の地を与えるものとする。」という内容の約定である「懐王之約(かいおうのやく)」が発せられた。
 関中地方は秦の国都・咸陽などがあり、春秋戦国時代以来の秦帝国の故地である。
 故に「関中入り」とは、秦の国都・咸陽を陥落させる功績を得る事に他ならない。
 その関中入りを最初に成し遂げたのは劉邦である。
 だからこそ劉邦は予てからの公約通り、関中地方を領地として授かる資格があった。



 だが項羽はそんな「懐王之約」など素直に守る気はなかった。
 公約通りに劉邦に「カンチュウ地方を領土として与えた」と言えばその通りであるが、しかし咸陽の周辺ではなく、更に西方の奥深い、辺境の僻地であった巴蜀(はしょく)【※16】の地へと封じたのであった。
 秦の郡県制の下では漢中郡(かんちゅうぐん)という行政区である。
 読みこそ同じ「カンチュウ」であるが、劉邦は「関中王」ならぬ「漢中王」とさせられたのであった。





 ♔ 「左遷」

 項羽と軍師の范増【姓は范(はん)、名は増(ぞう)】は、劉邦がいつの日か、項羽の覇権を脅かす存在となると秘かに警戒していた。
 だから本音を言えば関中地方のような重要な地を与えたくなかった。



 しかし先日の「鴻門の会(こうもんのかい)」(リンク先工事中)で劉邦とは(少なくとも表向きには)和解済みであり、天下周知の約定(懐王之約)を破れば、項羽は忽ち天下中からの信望を失ってしまう。
 そこで項羽は軍師の范増と密謀し、范増が次の事を献策したのであった。



「巴・蜀の道は通行が甚だ険難であり、嘗ての秦の世に罪科を犯して逃れた者たちが、この蜀の地に住み着いております。
 巴・蜀もまた関中地方の内なれば、故に沛公(はいこう)を漢王と成らせ、巴・蜀・漢中の地に王として立てましょうぞ。」



「沛公」とは劉邦の事である。このように范増は詭弁とも言える強引なこじつけを捻り出し、劉邦を天下取りを諦めざるを得ない僻地へと遠ざけたのであった。



 一説ではこれが「左遷(させん)」という言葉の語源だとする。
 すなわち地図の北の方を上にして見ると、「(向かって)左(西)の方へ遷す」という意味である。
 尤もこれは不確かな話であり、古来より支那では右を尊び、左を卑しんだ事からそう言うようになったとも。
 それはともかく「左遷」とは現代でも、「相手を現在よりも低い地位・官職に降格させる事」「条件の悪い勤務地に、強制的に転勤させる事」等の意味がある。



 この封地である「漢中」の地名から一字取り、以降劉邦の封国は「漢」と呼ばれるようになった。
 それが引いては後の一大帝国・漢の雛型となった。





 ♕ 三秦の設置

 その上更に、項羽は軍師の范増の献策で、「秦人の統治はやはり秦人に任せた方が良い」という口実で、元は秦の将軍たちであったが、項羽に敗れて投降した章邯・董翳【姓は董(とう)、名は翳(えい)】・司馬欣【姓は司馬(しば)、名は欣(きん)】の三将を、劉邦の監視役とした。
 ちなみにこの三将の中でも章邯は、項羽にとっては慕っていた叔父・項梁を討った仇でもある。



 劉邦が封建された巴蜀・漢中の地と隣接する真の関中地方、すなわち旧秦の全領土を三分割して、それぞれを雍(よう)・翟(てき)・塞(さい)の三国として立て、秦人である三将をそれぞれの国に、章邯を雍王に、董翳を翟王に、司馬欣を塞王に封じたのであった。
 この三分割されて出来た三国は「三秦」と呼ばれるようになった。万が一劉邦が東進して来た時にそれを迎撃し、阻止するのがこれら三王に与えられた任務である。
 いわば劉邦を巴蜀という広大な牢獄に閉じ込め、三王がその牢番という訳である。



 そうして内心不満と屈辱を抱えながらも、現今の劉邦には項羽の理不尽な横車を突っ撥ねられるだけの実力もなかったので、泣く泣く分封された自身の封国へと赴いた。





 ♖ 天下の難所「蜀の桟道」──────その険阻なる事比類なき

 漢中・巴蜀への途上には「蜀の桟道(さんどう)」として知られる桟道があり、そこを引き連れた軍勢と共に通行した。



「桟道」とは切り立った崖や山腹の表面に、木材や鉄鋼などで棚状に足場を組んで築いた通行路の事である。
 崖壁(がいへき)に穴を空けて杭や支柱を打ち込み、足場を作る。道幅も狭く、人一人がやっと通れる程度の道幅だったと言う。
 高い位置にある為、通行には危険を伴う。断定は出来ないが、当時の桟道はシンプルに丸太を杭として崖壁の穴に挿し込んでいただけだったのではなかろうか?
 更に現代とは違って、落下防止の為の欄干(手摺り)すら付いていたかどうかも疑わしい。
 何にせよ取り分け蜀の桟道は、危険な難所として天下に名を知られていた。



 我が国の明治期に発表された鳥居忱(とりいまこと)作詞、滝廉太郎(たきれんたろう)作曲の唱歌『箱根八里(はこねはちり)』の二番の歌詞にも、「箱根の山は天下の阻 蜀の桟道数ならず」とある。
 同曲の歌詞の中に、



『一夫関に当たるや 万夫も開くなし(例えここの関(関所)を守る者がたった一人だけでも、(あまりに峻嶮で堅固な地勢のせいで)万人が当たった所で関を攻め落とせはしない)。』



 とあるが、これは支那の唐代の詩人・李白【姓は李(り)、名は白(はく)、字は太白(たいはく)】の詩『蜀道難(しょくどうなん)』から採った一節である。
 詩の題名からも推測が付くかとは思うが、蜀の桟道の険阻さ、困難さを謳い上げている。
 一部ずつ何点か引用してみると以下の通り。



『噫吁戲(ああ)危ふき(あやうき)乎(かな)高い哉(かな)
蜀道の難(かた)きは青天に上るよりも難(かた)し』

──────ああ、危険で高峻であるなあ。蜀道を渡る事の困難さは、青天に上がるよりも難しい。





後続  故事其之壹 ─ 乙

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