YAMINABE the Second Operation

この11年間の数多くの思い出を携え、私は新たな旅へと出発します。それでは皆さん、御達者で。

第三計 借刀殺人

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承前  故事其之壹 ─ 乙





 その他にも出鱈目極まりない政治を繰り返した。周に仕える諸侯の一人で、虢(かく)という国の君主である虢石父(かくせきほ)という、阿諛追従に長けた佞臣を重用したりもした。
 虢石父は本姓は姫で、周の王族でもあるが、利に貪欲で、度々民衆を苦しめた為、天下中の恨みを買った。
 このような度重なる悪政により、遂には天下中の諸侯や民衆の人心が離れて行った。
 そういった機運に乗じて、周王朝に仕える諸侯の一人である申侯【しんこう:本名不明】が謀反を起こした。
 申侯は申(しん)という国の君主であり、申公室の姓は姜(きょう)であったと言う。
 周創建の元勲の一人である太公望【たいこうぼう:姓は姜(きょう)、氏は呂(りょ)、名は望(ぼう)】及び彼の子孫である斉公室と同姓だとある。
 そして申侯は、周幽王によって先に廃された申后の父親であり、廃太子宜臼の祖父である。娘と孫を理不尽にも正后と太子の位から廃された恨みにより、申侯は西方の蛮族である犬戎と手を結んで反乱を起こした。
 申侯と犬戎の軍は周王のいる国都・鎬京(こうけい)を襲撃して、慌てた周幽王は急いで烽火を上げた。
 だが先述の通り褒姒の気を惹く為に、烽火を戯れに使い過ぎた事が祟って、すっかり信用を失っていた。
 烽火の煙が見えても、諸侯は「またか」と呆れて、誰も信用せずに無視した。その為に諸侯からの救援軍は全く駆けつけて来ず、周幽王は王宮から逃げ出す他なくなっていた。
 そして追撃され、その結果周幽王は犬戎によって、佞臣の虢石父もろとも殺されてしまった。まるでイソップ寓話の『狼少年』の支那版とでも言えそうな故事である。
 これにより、初代・周武王以来続いた周王朝は、一旦は滅びた。これは紀元前771年に起こった事件である。





 ♞ 東周の成立と春秋戦国時代の幕開け

 そこで申侯始め諸侯は、前太子の宜臼を即位させた。これが第13代にして東周初代の周平王である。
 しかし周の国都・鎬京は、この度の争乱によって破壊されてしまい、やむなく東方の雒邑(らくゆう)【又は洛邑(らくゆう)】へと遷都した。
 鎬京は後世「長安(ちょうあん)」と呼ばれるようになり、雒邑(洛邑)は後世「洛陽(らくよう)」と呼ばれるようになる。
 前者は現在の陝西省(せんせいしょう)の省都・西安【せいあん:シーアン】であり、後者は現在の河南省洛陽市である。周代以降の歴代王朝は全体的に見て、長安を正都、洛陽を副都としていた。
 ともあれこれにより、周武王以来の周王朝は、一旦は滅亡した。
 そして遷都した事により、西方の鎬京を国都としていた時代──────初代・周武王から第12代・周幽王まで──────を「西周(西周王朝、西周時代)」と呼び、東方の雒邑(洛邑)に遷都して以後、秦に滅ぼされるまで──────第13代・周平王から最後の第37代・周赧王まで───────の間を、「東周(東周王朝、東周時代)」と呼び分けるようになった。
 後世の歴代王朝の西漢(前漢)・東漢(後漢)、西晋・東晋、北宋・南宋と言った呼称、呼び分けも、同様に国都の地理的位置に由来する。
 そして西周の滅亡及び東周の成立は、以降550年の長きに亘る乱世、春秋戦国時代の幕開けでもあった。
 諸侯の力が周王を完全に圧倒するようになり、周天子は絶えず諸侯の顔色を窺い、諸侯に怯えるしか出来なくなっていた。
 最早天子とは名ばかりの、実質は一介の弱小諸侯、二等国家に成り下がっていて、その権威を諸侯に都合良く政治利用されるだけの、単なる御輿に成り果てていた。





 ♟ 歴代周天子の系譜

 さて、話が大分横道に逸れたが、故事本編の中に登場した「東周」「西周」の二国は、以上論じた時代区分としてのものとは全く別物である。
 これ等は大元を辿れば、第28代(東周第16代)・周貞定王【しゅうのていていおう:本名は姫介(きかい)】から枝分かれした血統の分家である。
 周の歴代天子を、以下の通りに列挙してみる。





後続  故事其之壹 ─ 丁

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閉じる コメント(36)

明帝国は皇帝の権力が強力になり過ぎた結果、名君の時は飛躍的に良く、暗君の時はとことん落ち込む両極端になりました。
しかも明王朝は名君の治世が短く、暗君の治世に限って何十年も長く続くという不幸なオマケ付きと来ました。

支那は法治国家になるのも困難ですが、それ以上に上下揃って道徳観念が低過ぎる事が問題でしょう。
高尚な精神文化が、特に国家レヴェルで発揮される事がありません。いわゆる「法の支配」が欠如していますね。
『韓非子』は優れた政治マニュアルではありますが、「法の支配」という概念がありませんから。

2012/8/26(日) 午後 2:40 ZODIAC12

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なるほど、シナ人というのは、結局全体のためとかいう意識が薄い民族なんでしょうね。皇帝にしても、自分とか、一族という中でしか考えなくて、たとえいい人間でもある意味、自分中心主義なんでしょうね。
誰が言ったか忘れましたが、支那は漢民族以外の異邦人の支配のときにもっともよく栄えるとか言っていたのも、漢民族自身の欠点が抑えられるせいかも知れませんね。どこまでが漢民族というべきかはわかりませんが。

2012/8/31(金) 午後 6:36 [ さざんか ]

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確かにそれは事実ですね。特にモンゴル人の元や、満洲人の清に征服されてた時は、凄く繁栄してたかと。
まあ被支配階級に落ち込んでいたので、それなりに不満はあったでしょうが。

けど元帝国も清帝国も、時が経つに連れて、色々とグダグダにはなって来たのですが、それでもそれなりに実績はありますね。
それらの時代の事を漢人が評価した記述は、要注意かも知れません。
何せ征服・支配された恨みで、腹癒せに実像以上に悪く書くのが相場ですから(笑)。


漢民族の範囲・・・・・これは曖昧ですね。
私なりに言えば、始皇帝の天下統一までは、中原に住んでて、中原文明に従って暮らしていた人々の事だと思いますし、始皇帝の秦帝国以降は、長城の内側に住み、伝統的な中原の文明・文化・風俗・価値観を遵守して暮らしていた人々の事でしょうね。
そうでない人間は異民族と見做されたのではないでしょうか?

2012/9/2(日) 午前 8:53 ZODIAC12

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諸侯に都合良く政治利用されるだけの、単なる御輿に成り果てていた。

室町幕府みたい〜と思ったら、コメントの会話の中でしてた^^

お二人の会話が濃いので、ひたすら拝聴してます^^;

2012/10/14(日) 午後 8:24 栞

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お!栞さんも同じように思いましたか!光栄ですね!

それで上のさざんかさんとの遣り取り、どこか解からない箇所はあるでしょうか?

2012/10/15(月) 午後 1:05 ZODIAC12

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再読するので時間下さい。

2012/10/15(月) 午後 2:37 栞

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すいません〜すっかり失念してました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

で、読んでて感じたんですが、
室町幕府より、むしろ江戸時代の天皇家に似てますね^^

秦が世襲制をとってなかったとは知らなかったです。
国の体制は、初代の性格が大きく投影されると思います。

家臣の専横や権力集中を避けるのには、
非世襲が、手っ取り早いです。

2012/10/28(日) 午後 7:40 栞

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漢民族の範囲・・・ものすごく大ざっぱなくくりだと、儒教を奉じてる国。

もともと多民族国家であるシナで、
同族意識を芽生えさせるには、共通基盤としての文化・習俗が必須になります。

90%以上が単一民族である日本では、さほど神経質にならずにすみます。

2012/10/28(日) 午後 7:44 栞

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とはいえ日本は国土として東西に長いので、
味噌一つとっても東国と西国じゃ好みが違う。

儒教に変わる共通基盤としての習俗が、
日本では古くは和歌・時代が下ると茶道や能舞台になります。

戦国時代は血みどろなイメージですが、
日本では完全な勝利ってあまり好まれなかったんです。

野戦決戦で大将首ゲットが少ないのは、そのためなんです。
織田信長の桶狭間が有名なのは、経過がドラマチックなのもさることながら、
そもそも大将首が討たれること自体が珍しいからなんです。

日本人は根っこに同族意識があります。
先祖は遡れば源平藤橘のいずれかを名乗り、
さらに大元が万世一系の帝です。
田舎になればなるほど、敵味方どっちにも親戚・縁故関係者がいます。
だから戦になると、必ず助命嘆願が出る^^;
敵を殲滅するって強硬手段がとれない。
そのあたり、日本の戦国時代が100年続いた理由だろうし、
それだけ長期間に同族同士で争っても滅びなかった理由でもあると思う。

シナとは決定的に違う点であり、
日本には儒教の礼を完全導入する必要ない点でもあります。

2012/10/28(日) 午後 7:58 栞

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明王朝は専制国家だったんだ。

てかシナは統一されると全て専制国家だと思ってたので、
郡県制の頃があったのは意外でした。

明王朝も殆ど知らない〜
日本だと水戸黄門の頃に成立して、
「尊皇攘夷」のネタ元くらいの知識しかなかったです^^

以上、思いつくまま書いたので、前後脈絡ないですがご容赦を^^

2012/10/28(日) 午後 8:05 栞

>室町幕府より、むしろ江戸時代の天皇家に似てますね^^

そう感じましたか?周王朝が江戸期の皇室に似てると言うと、具体的にどういうニュアンスで言われているのかがよく分かりませんが。


>漢民族の範囲・・・ものすごく大ざっぱなくくりだと、儒教を奉じてる国。

>もともと多民族国家であるシナで、同族意識を芽生えさせるには、共通基盤としての文化・習俗が必須になります。

お!私と同意見ですね。始皇帝の統一以前は儒教が確固とした地位を得ておらず、敬遠されていたので、中原の伝統的な礼法こそが共通基盤でしたね。
尤もこれは支配階級のものであって、庶人や奴隷とかはあんまり関わりのないものでしたが、それでも庶人なりに祭祀や儀式はやっていました。
中原の外に住む異民族とは違うという、明確な意識は庶人でもあったようです。


>とはいえ日本は国土として東西に長いので、味噌一つとっても東国と西国じゃ好みが違う。

この箇所は重要ではないのですが、敢えて余談として。

2012/10/29(月) 午後 3:10 ZODIAC12

支那大陸にも、土地や地方によって特徴が違う事を表す表現があります。
「南船北馬(なんせんほくば)」「南拳北腿(なんけんほくたい)」「東槍西棍(とうそうせいこん)」等々。これらの意味、解かるでしょうか?

他には華北は小麦を使った料理が多く、華南は米を使った料理が多いとも聞きます。
それに関して詳細は忘れましたが、清朝時代に華北出身者ばかりの兵団が、華南まで遠征に行った時に、慣れない物を食ったせいか、気候のせいか、食中りや病気になったそうです。

華北人だから日頃から小麦粉の食事を食ってた処、急に米とかその他の食い慣れない食材を食うようになったせいか、体を壊したとか。


>90%以上が単一民族である日本では、さほど神経質にならずにすみます。

>儒教に変わる共通基盤としての習俗が、日本では古くは和歌・時代が下ると茶道や能舞台になります。

「和歌の前の平等」ですね。戦国時代といえど、いわゆる國體の支配下にあった訳ですが。
神代の昔から推戴して来た一系の皇統と、大和言葉(やまとことのは)こそが全日本人に共通の基盤でしたから。

2012/10/29(月) 午後 3:11 ZODIAC12

>戦国時代は血みどろなイメージですが、日本では完全な勝利ってあまり好まれなかったんです。野戦決戦で大将首ゲットが少ないのは、そのためなんです。

>織田信長の桶狭間が有名なのは、経過がドラマチックなのもさることながら、そもそも大将首が討たれること自体が珍しいからなんです。

これは初耳でした。そういう精神的な背景があったとは盲点でした。
支那だったら敵対する一族を根絶やしにするまでやりますがね(^^;)。


>日本人は根っこに同族意識があります。先祖は遡れば源平藤橘のいずれかを名乗り、さらに大元が万世一系の帝です。

>だから戦になると、必ず助命嘆願が出る^^;敵を殲滅するって強硬手段がとれない。

だとするなら源平の世の源氏や、足利義教や、信長等のやり方は例外的な事だったんですね。

太古の昔から怨霊を恐れていたというのもあるのでしょう。
死者の霊魂は子孫によって祀られてないとならず、祀る子孫が絶えると怨霊と化して災厄をもたらすと信仰されてましたから。

2012/10/29(月) 午後 3:13 ZODIAC12

だから決定的にまで根絶やしには出来なかったのでしょうね。
戦国時代にもなると、そういう畏れはほとんどなくなってたみたいですが。


>そのあたり、日本の戦国時代が100年続いた理由だろうし、それだけ長期間に同族同士で争っても滅びなかった理由でもあると思う。

戦国時代は早くには終結しませんでしたが、そういう苛烈な殲滅を避けた事で、現代に至るまで日本には名門の血筋が多く残りました。


>シナとは決定的に違う点であり、日本には儒教の礼を完全導入する必要ない点でもあります。

だと思います。良くも悪くも支那の真似をしない方がいいでしょう。
我が国の國體には合いませんから。あくまでも日本の実情に合うように慎重に扱うべきですね。

儒教の重要な徳目のでもある「孝」ですが、孔子の頃と比べて行き過ぎた点も目立つようになり、日本の精神的風土とは合わない点もあります。


>秦が世襲制をとってなかったとは知らなかったです。

>てかシナは統一されると全て専制国家だと思ってたので、郡県制の頃があったのは意外でした。

>明王朝は専制国家だったんだ。

2012/10/29(月) 午後 3:15 ZODIAC12

でも郡県制という体制は御存知だったのですね。
基本的に支那は始皇帝以降は、いつの時代でも専制国家ですよ。平和な時代でも乱世でもね。
ただ時代によって濃淡の差や、強弱・緩急の差があるだけで、皇帝専制体制には何ら変わりないです。

それと秦は郡県制が徹底したのですが、それが行き過ぎたという側面もなくもなかったみたいで、陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)の反乱から始まり、劉邦が項羽を倒して漢帝国を成立させるまでの過渡期である時代に、秦の皇族は誰も秦帝国を滅亡の危機から救いませんでした。

助けなかったと言うより、助けようにも助けられなかったと言った方がいいでしょう。
始皇帝は郡県制を徹底させたので、皇族や臣下から誰一人諸侯に封じなかったからです。
これも前時代の王朝だった周に学んだからです。

周王朝が封建制を採用して、一族や功臣を各地を治める諸侯に封じて独立国を次々作って行った事が原因で、時代が下るに連れて臣下である諸侯の力が天子(周王)をも上回り、天子が諸侯に圧迫されるようになったからです。
封建制にはそういう短所もあります。

2012/10/29(月) 午後 3:16 ZODIAC12

だからそうならないようにと、誰一人世襲の身分である諸侯に封じようとはしなかったのです。
けれどそれも手伝い(決してそれが全てではなく)、秦は天下統一後僅か15年で滅んでしまいました。

そこで秦滅亡後に天下を獲った、劉邦の漢帝国は秦に学んで、郡県制も必要ではあるが、それだけに偏っていては、秦みたいにいざという時に皇族がものの役に立たずマズイと考え、嘗ての周代の封建制と秦の郡県制の混合政体、いわば折衷案を採りました。

「郡国制(ぐんこくせい)」です。
この場合の郡は複数の県の集まった、県よりも上位の行政区画で、世襲ではなく中央から派遣された官僚が統治するのは秦と同じです。
もう一方の国は諸侯国の事で、皇族の劉氏一族の男子が諸侯王に封じられて統治します。こちらは世襲です。
そして郡(中央直轄)と国(半独立国)は横並び対等の関係でした。

だから前漢帝国は江戸時代の日本と似ています。郡が天領で国が藩です。
けれど諸侯王たちは軍隊を持っていたので、乱世も収まり平和が続くと、次第に力を着けて来て、皇帝や中央朝廷に不遜で反抗的な態度すら見せるようになって来ました。

2012/10/29(月) 午後 3:18 ZODIAC12

同じ劉氏一族だなんて事はほとんど役に立たなかったです。
前漢王朝は嘗ての周王朝と同じ悩みを抱えるようになりました。
そうして「呉楚七国の乱(ごそしちこくのらん)」という諸侯王たちの謀反が起きて、これを鎮圧した後、諸侯王から各国内の政権・軍権を取り上げました。

各諸侯国は中央から派遣した官僚である宰相が実権を掌握し、諸侯王は何の実質的な力も持たない飾りに棚上げされました。
つまり秦代の郡県制と事実上変わりなくなったのです。
皇族である諸侯王を推戴しているか(国)、そうでないか(郡)の違いしかなくなりました。

この事は後世の三国時代の魏(曹魏)と、魏(曹魏)を簒奪した司馬氏の晋(西晋)王朝でも繰り返されました。
曹操の築いた魏は皇族の曹氏一族を諸侯王に封じてはいても、力を弱め過ぎたので、司馬氏一族のクーデターや簒奪を阻止する事は出来ずに滅びました。
そうして出来上がり、天下統一して三国時代を終わらせた晋(西晋)は、曹魏の失敗を踏まえて、帝室の藩屏として機能させられるようにと、一族の諸侯王たちに軍事力を持たせました。

2012/10/29(月) 午後 3:20 ZODIAC12

しかしそれが元で「八王の乱(はちおうのらん)」と呼ばれる、その名の通り八人の司馬氏の諸侯王たちの内紛劇を起こしました。
そうして弱体化し、短い統治期間で天下政権の座が転落し、一旦は異民族に攻め滅ぼされてしまいました。
その後華南の現在の南京の地に逃れ、亡命政権を建てました。
これが東晋王朝です。

以上のように力がどこか一極に集中し過ぎたりするのも、分散し過ぎたりするのも良くないのです。


>国の体制は、初代の性格が大きく投影されると思います。

そうですね。同じ支那の皇帝専制体制でも、宋・元・明・清なんかは結構特色が濃いと思います。
これらは王朝創始者である初代皇帝のパーソナリティの影響が大きいですね。

例えば宋代は新法党(改革派)と旧法党(守旧派)との党派間対立に言論の自由が認められ、歴代王朝の中で最も士大夫階級が優遇されていました。
歴代支那王朝の中で、最も士大夫が言論の自由を享受出来た時代でした。
ただその反面、軍隊が弱体化し、兵士の質も悪く、歴代王朝の中でも最も劣悪だったりもしました。

2012/10/29(月) 午後 3:23 ZODIAC12

これらは初代・宋太祖(そうのたいそ)こと趙匡胤(ちょうきょういん)の性格や思想や価値観によるものです。

前代の唐王朝が安禄山(あんろくざん)や史思明(ししめい)と言った、節度使(せつどし)と言う地方軍閥によって滅びた事から、地方に駐屯する軍隊の力を弱め、群臣から軍隊と軍事権を取り上げたのです。
そして地方勢力が中央に反抗など出来ないよう、ひたすら地方が力を着ける事を代々警戒して来たのです。

しかし時代が変わるに連れて、それが仇となり、宋滅亡の大きな要因となりました。
まず敵国と国境を接する地に駐屯している地方軍が、弱過ぎてものの役に立たなかったからです。

元代はクビライ以前のチンギス・ハーンの時代から国際色豊かで、外国人や異民族が政権の主流を占めるのが当たり前だったので、チンギス・ハーンの孫のクビライも自然とそれを踏襲しました。

元代は儒教が中央政界では見向きもされず、伝統的な教養や学問を身に付けた漢人の士大夫たちは、政界から追放されてました。

良いにつけ悪いにつけ元代は、長い支那史上でも特異で異質です。だからこそ国際的に繁栄したとも言えますか。

2012/10/29(月) 午後 3:25 ZODIAC12

クビライの頃にマルコ・ポーロが国都の大都(現在の北京)を訪れましたし。
長い支那史上の中でも、良い意味でも悪い意味でも、最も支那らしくない時代でした。

しかし皇室内部が骨肉の争いが余りに激し過ぎて、高々百何十年程度で王朝が滅んでしまいました。
実質初代のクビライの死で滅んだも同然でした。


>明王朝も殆ど知らない〜日本だと水戸黄門の頃に成立して、「尊皇攘夷」のネタ元くらいの知識しかなかったです^^

???これは意味がよく解かりませんが・・・・明王朝が誕生したのは、水戸黄門に時代よりも古いですよ。
明朝成立は日本で言うと、室町幕府が成立して間もない頃ですから。

光圀が明の遺臣の朱舜水(しゅしゅんすい)と面会した頃には、明はもう滅亡してましたから。


>家臣の専横や権力集中を避けるのには、非世襲が、手っ取り早いです。

まあそれもある側面においては正しいのですが、上でも言いましたように、世襲の身分が全くないというのも、それはそれで困る事になるのです。
権力の均衡とか、力の配分のバランスの問題ですね。

2012/10/29(月) 午後 3:26 ZODIAC12


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